第15話 目覚め(2)
漆黒の闇に満ちた森の中。月明かりだけが世界の境界を形作っていた。
飛び出た木の根や岩。でこぼこに傾斜した土の地面。少女は何度も転びそうになりながらも、ただひたすらに進み続けた。
少女の周囲には黒紫のもやのようなものが浮かんでいた。それはぐるぐると宙を旋回し、離れずにいつまでも少女に纏わりついていた。
「何なのこれ……?」
少女は黒いもやへ手を伸ばしたが、それを掴むことは決してできなかった。少女の手に包まれた途端、もやは幽霊のように少女の手を通り抜け離れてしまうのだ。
しばらく奮闘した後、少女はもやを捕まえることを諦めた。何故だかわからないが、体が酷く疲れていた。今にも倒れそうなほど気分が悪かった。口からは激しく空気の出入りが繰り返され、足は鉛を引きずるように重たい。
何故自分はこれほどまでに疲弊しているのだろうか。少女は必死に経緯を思い出そうとしたが、いくら考えても原因はわからなかった。それどころか、とある重大な事実に今さらながら気が付く。
「私は……誰?」
どこに向かっているのか、ここがどこなのかも全くわからない。何故自分は歩き続けているのだろうか。
辛い体を引きずりながら必死に考えていると、後頭部に鋭い痛みが走った。片手で頭を押さえ目をつぶる。脳が過去を思い出すことを拒否していた。意識を歩みに集中させると、痛みの波がゆっくりと引いていった。
顔の横から垂れた髪が月の光を反射し輝く。そこで初めて少女は自分の髪が深い赤色をしていることに気が付いた。黒に近い濃い赤色。まるで血のような色だった。
「うっ」
盛り上がった木の根に足が引っかかった。
そのまま受け身を取ることもできず前に倒れる。頬と胸に痛みが走り、土と砂の混じり合った香りが鼻孔をついた。
青白い光に照らされた地面が視界の半分を満たし、冷たく少女の身体を抱きしめる。
――立たなきゃ。
少女は両手を地面についた。しかしいくら力を込めても体は持ち上がらない。どうやら限界がきたらしい。
少女を取り巻いていたもやがわずかに膨れ、地に伏した少女の身体を囲む。何となく、少女はこのもやが自分の体力を奪っているのではないかと考えた。少女が弱る度にそのもやは大きくなっていったから。
月の光が黒いもやにかき消されていく。少女は自分の頬に冷たいものが流れていることに気が付いた。
何故だろう。何故自分はこんなに悲しんでいるのだろうか。何が悲しいのだろう。
何もわからない。何も思い出せない。何も見えない。
ただ暗く深い闇だけが視界を満たしていく。
――誰か……。
見えない何かに向かって手を伸ばすも、それを掴める者は存在しない。
深い悲しみに覆われながら、少女はひっそりと目を閉じた。
誰かの声が聞こえた。
自分の名前を呼ぶ声だ。
暖かい陽射しの中、親しみを込めるように、愛情を注ぐように。
姿は見えない。だけど確かに聞こえる。
何度も、何度も、――ネメアと、そう呼びかけてくる。
誰かの姿が見えた。
辛そうに悲しむ姿。何かを決意したように拳を握りしめている。
少女は彼に呼びかけた。でも彼は振り返らない。答えない。ただ真っすぐに前を見つめている。彼が何かを叫んだ。誰かに向かって何かを叫んだ。
彼の足元には暗い泥が広がっていた。それはまるですがりつくように彼の足を取り込んでいた。
彼の姿が遠ざかっていく。一歩一歩遠くへ。
少女はもう一度彼の名前を呼んだ。ここで彼を止めなければどうなるかわかっていたから。何が起きるか知っていたから。
彼の足が止まる。
黒い雨が涙のように彼の身体に流れ落ちている。
少女は彼が思い留まったのだと喜んだ。彼が考えを改めてくれたのだと。
けれどそれは少女の願望に過ぎなかった。
彼が何かを口ずさみ、上を向く。
その瞬間、――世界は真っ赤な空に覆われた。
強い頭痛を感じ、目が覚める。
窓から差し込む陽光が少女の身体を照らしていた。
何か酷く恐ろしい夢を見た気がするが、よく思い出せない。とても大切なことだった気がするのに。
横たわったまま首を横に傾ける。見えるのは少女が寝ているベッドと小さな机が一つだけ。そこは随分と質素な部屋だった。
――確か森を歩いていて……誰かが助けてくれたの?
記憶に残る唯一の光景は、あの月夜の森だ。黒紫のもやに囲まれて力尽きようとしていたはずだが、今はもうもやの姿など影形も見えない。
少女は窓の外に目を向けた。少しだけ雑草が生えた空間を挟んで、鮮やかな緑色の木々が風に揺らされている。
差し込む風が優しく頬を撫で、少女は何だか穏やかな気持ちになった。
そのまま葉のさざめきや風の音に耳をすませていると、どこからか人の声のようなものが聞こえた。緩急をつけて繰り返される美しい音色。歌だ。誰かが歌を歌っている。
少女は重い体を起こし、白いベッドから足を下ろした。
歌は外から聞こえている。きっと自分を助けてくれた人間だろう。お礼を言わなければと思った。
少しふらつくが、歩けないほどではない。少女は壁に手を突きながらも部屋を出た。居間に入ると、大きな長机を中心として大小様々な複数の人形が置かれていた。黒い服装に赤い瞳。何故かほぼ全ての人形に妙な模様が描かれていた。
しばらく見ていると、少女は人形たちが自分を見つめ返ししているような錯覚を抱いた。まったく動いていないにも関わらず、視線のようなものを感じる。
何だか少し不気味だ。どれも造形は素晴らしく美しいのだが、妙な重苦しさがある。
少女は逃げるように人形かから視線を離し、外への扉を開いた。
室内とは打って変わって暖かい陽射しが肌に降り注ぐ。眩しさに目を凝らしながら歌の出所を探すと、庭の中心に大きな日傘が見えた。その下で黒いドレスを着た女性が椅子に腰かけている。
きっとあの人が自分を助けてくれたに違いない。少女は恐る恐る彼女へ近づいた。
日傘の下から覗く女性の素顔はとても美しかった。
黒く長い髪に、釣り上がった横長の瞳。一体何歳なのだろう。二十代にも見えるし、四十代の大人の雰囲気も持ち合わせている。不思議な女性だった。
足音が聞こえたのか、先ほどから聞こえてた歌が止まる。女性はこちらを見返すことなく声を発した。
「起きたのかい? よく寝ていたじゃないか」
それは耳から心臓を貫くような艶美な声だった。女性に見とれていた少女ははっとし、急いで返事をした。
「あの、ありがとうございます。あなたが、助けてくれたんですか」
すると女性は不可解そうにこちらを見返した。
「……たまたま倒れていたあんたを見つけただけさ。別に大した労力は使ってない」
長い足をゆっくりと組み替える。動きに合わせてドレスのすそが揺れた。
「あんたはどうしてあそこで倒れていたんだい?」
「その、私にもわからないんです。気がついたら森の中を歩いていて……それ以前の記憶が無いんです」
「記憶が無い?」
女性は驚いたように目を見張った。
そのまましばらく何かを考えるようにあごを手に乗せた後、
「なるほど。あんたを見つけた時、妙な呪いが全身を取り巻いていた。害があるものだったので除去したが、あれが原因かもしれないね」
「呪い?」
「ああ。覚えがないかい? 黒い煙みたいなやつだよ」
言われて初めて少女は思い出した。そいえば、あの黒紫のもやが無くなっている。
「あなたがあれを取ってくれたんですか。どうやって……?」
「簡単さ。あたしは呪術師だからね。あの程度の呪いならどうにでもできる」
呪術師。世界を巡回する九大災禍からあぶれた呪いの流れを術式によって方向付け、何らかの物理的作用へと変換する術者。記憶はないはずなのに、ぱっとその知識は頭に浮かんだ。
「あんた名前は? それも思い出せないかい?」
「名前? 私の名前……」
そういえば、夢の中で何度も呼ばれていた気がする。確か……――。
少女は浮かんだ言葉を声に出した。
「ネメア、です」
「ふうん。ネメアね。名前は思い出せるのか。どうやら限定的に記憶を奪う呪いのようだね。どんな呪術師が施したのかはしらないが、それなりに腕のある者のようだ」
あまり興味無さそうに女性は木の机からカップを取った。お茶だろうか。それを優雅に口へ運ぶ。
「あの深い森の中だ。邪魔なら殺せばいいはず。記憶を奪ったと言うことはきっとあんたと縁のある人間がやったんだろうね。思い出されたら困る事実を消すために。……あんたもしかしてどこかの王族の隠し子とかじゃないだろうね」
「まさか。そんな事は、ないと思いますけど」
少女――ネメアは自信なさげにそう言った。
「まああたしには関係の無いことだ。元気になったのなら、好きにすればいい。街に行きたいのなら場所は教えてあげるよ」
街。それを聞いてネメアは一つの質問が頭に浮かんだ。
「ここはどこなんですか。私本当に何も覚えていなくて」
「黒陽の国アザレアの東端さ。って言っても、わからないか」
アザレア。確か呪術を国家的に研究していて、世界中の呪術師が集まる国。
一般常識や地理的な知識はすんなりと思い出せるらしい。ネメアは自分の居場所が分かったことに、意味もなく少しだけ安堵した。
気が緩んだせいで足がふらつき倒れそうになる。何とか力を籠め踏みとどまった。
「はぁ。その様子じゃ外に追い出してもすぐに禍獣や盗賊の餌になっちまいそうだね。あんたそれなりに綺麗な顔してるし。せっかく助けたのに散歩ついでに森に出て、あんたの死体を発見するのは目覚めが悪いね。……まあ体力が回復するまではここで養生してもいいさ。あたしに迷惑をかけない限りはね」
女性は残念なものでも見るような視線をネメアへ投げた。心配しているというよりは、自分の労力が無駄に終わるのが嫌なだけのようだ。
確かにこの体調では、禍獣のはびこる森の中を移動することはできない。それに街に行ったところで、働く手段も行くあても無い。自分の正体を探るためには、最初に目覚めたあの森を調べる必要がある。ならば、森に近いここで過ごすのはそう悪いことではないかもしれない。
ネメアは女性を眺めた。少し掴みどころのない人物だったが、命を助けてくれたということは悪人ではないはずだ。まだ自分のことは何もわかっていない。もしかしたら犯罪を犯して手配されていた可能性もありえる。街へ行くのはもう少し状況を整理できてからの方がいいだろう。少なくともここにいる限りは命の危険もないのだから。
頭の中でざっと計算を行い、ネメアは女性の提案に甘えることにした。
「ありがとうございます。じゃあお言葉に甘えて、体力が回復するまではここに居させて下さい。なるべくご迷惑はかけないようにしますから」
「そうかい。なら、さっさと部屋に戻ってくれ。あたしはこれでも忙しいんだ。呪術の実験を続けたいからね」
聞きなれない言葉だとは思ったが、あの歌は何らかの呪言を口ずさんでいたらしい。女性に睨まれ、ネメアはすぐに小屋へ戻ろうとした。
「……何だい。まだ何かあるのかい?」
途中で振り返ったネメアを見て煩わしそうな表情を浮かべる女性。
「あの、あなたの名前は?」
お世話になるのなら、名前くらいは知っていてもいいだろう。ネメアの質問に対し、呪術師の女性はぶっきらぼうに答えた。
「マヌリス。一度しか言わないよ」
黒よりも暗い空の下。数人の聖騎士が見回りを続けていた。
立ち並ぶ家々には一切の明かりも灯らず、道を歩く者は彼ら以外に一人も存在しない。
少し前までは二百人余りの村人が生活していたはずのこの村は、今は廃墟と言っても過言ではないほど寂しい場所になってしまっていた。
「よし。異常はないな。天幕に戻るぞ。今日の報告をしなければ」
年配の聖騎士が呼びかける。その言葉を聞いた他の仲間たちは神妙な顔で頷いた。
聖騎士たちの姿が大通りから遠ざかりると、辺りには静けさが戻った。
暗い空に覆われた灰色の村。もはや生きて動き回る者は存在でず、植物すらも生えなくなってしまった呪われた土地。
風に揺らされた枯れ葉がふわりと舞う。
そこに黒い亀裂のようなものが走った。
それはまるで空間を割くように範囲を増やしていった。
ひび割れに挟まれた空間が割れた陶器のように砕け落ち霧散する。同時に一人の少年がどこからともなく倒れ込んだ。
黒く短い髪に二つの黒い眼。整ってはいるが、少しだけ痩せた疲れた表情。
消えていく黒い亀裂を見上げつつ、少年――カウルは混乱した眼差しで周囲を見渡した。
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