第8話 封印(1)
どこかから声が聞こえた気がした。
数えきれないほど多くの人々が苦しんでいるような、もがいているような。
ロファーエル村の中からではない。もっとずっと別のどこかから。その声はとてつもなく遠いようで、真横にあるような気もした。
額に何かが当たった。じんわりと痛みが広がり思考がそこに集中する。水面から顔を出すように、カウルは目を覚ました。
「うっ……」
小石が洞窟の天井からぱらぱらと落ちている。先ほど感じた痛みはそれが原因のようだった。
背中が冷たくて痛い。カウルはゆっくりと体を起こした。
暗い岩穴の中。円形の足場。ここが祭壇であることを思い出す。
俺は……祈祷師に眠らされてそれで――。
三つの金色の瞳が脳裏に蘇る。影のような体に渦巻くあの雷のような白い帯。それはカウルの肩に噛みつき、食い殺そうとしてきた。
――何で俺は生きているんだ?
あの赤い空も、黒い太陽も、雨も、泥沼も、今は姿も形も見えない。この祭壇に入ったままの自分の恰好を見て、カウルは先ほどまでに体験した出来事が夢だったのではないかと思った。
半透明になり体に沈み込んでいく刻呪。そしてそれはカウルがひび割れた空間の外に手を伸ばした瞬間、飛び出していった。
半信半疑のまま自分の胸を触る。特に傷跡などは何もなく、いつもと変わらない体がそこにあった。
生きている。やっぱり俺は、生きている。
儀式は失敗したのだろうか。わからなかったが、自分の命が無事であることだけは確かだ。不謹慎だとは思いつつも、カウルは喜びを抑えることができなかった。
洞窟の入り口から見える外の景色は、既に日が沈み真っ暗に染まっている。あれからもう何時間も経ってしまったようだ。一緒に入ってきたはずの祈祷師の姿も見えない。どうやら自分は眠ったまま放置されていたらしい。何がどうなっているのかさっぱりわからなかった。
カウルはゆっくりと立ち上がり、ふらふらとした足取りで洞窟の入口を目指した。生贄が勝手に外に出でよいのか僅かに悩んだが、このままここにいてもいつ人がやってくるか分かったものではない。とにかく外に出て状況を知りたかった。
穴から顔を出し空気を吸い込む。何だか数週間ぶりに風を感じたような気がした。
カウルは眼下を見渡した。祭壇は村でもっとも高い岩場にあるため、村のどこからでもその一端を目にすることができる。そしてそれは同時に、祭壇からも村を一望できることを意味していた。
外の光景を見てカウルはすぐに違和感に気が付いた。明らかに妙な光景が目に入ったのだ。
夜だと思っていた空に太陽が出ていた。遠くの荒野の上には青空すら広がっている。どういうわけか、このロファーエル村の空だけがまるで塗りつぶされたかのように漆黒に染まっていた。
「何だこれ? どうなってるんだ?」
明らかに異様な光景。何かとてつもない事態が起きていることは明白だった。
どことなくあの夢で見た真っ赤な空を連想させられる。不安な気持ちを抑えることができずカウルは走り出した。
祭壇前の階段を駆け降り一気に坂を下る。すぐに倒れているゴートを見つけた。
「ゴート。おい、しっかりしろ」
肩を掴み激しく揺らす。ゴートは薄っすらと目を開けカウルの顔を見た。
「カウル? あれ俺こんなところで何してるんだ」
一瞬訳が分からなそうに呆けていたが、すぐに意識を失う直前の記憶を思い出したのか、はっと目を見開いた。
「――カウル、逃げないと……儀式が」
「落ち着け。大丈夫だから。儀式は、失敗したみたいだ」
「失敗? 何言ってんだ? って言うか、何でいきなり夜になってるんだ?」
空を見上げて驚愕するゴート。カウルは掻い摘んで状況を説明した。
「儀式の途中で何かが起きたみたいなんだ。外の様子もおかしいし、皆がどうなっているのか見に行かないと」
「何かって何だよ。何で儀式が失敗したんだ」
「俺にもわからないよ。でも何かが起きたことは確かなんだ。あっちを見てみろよ」
カウルは南方に見える荒野とそこに降り注ぐ陽光をゴートに見せた。真上に広がっている漆黒と荒野の上に輝く太陽を見比べたゴートは、さらに混乱したように表情を歪ませる。
「父さんと母さんが心配だ。モネも起こして早く村へ行こう」
「あ、ああ」
ゴートは馬鹿みたいに口を開けたまま小さく頷いた。
三人で村の見送り場所まで戻ると、まっさきに視界に飛び込んできたのは、血達磨になり踊り狂う村人たちの姿だった。
「痛い痛い痛いぃ! 助けてぇええ!」
全身のあちらこちらから血を流しながら必死に動き回る中年女性。
「腕が、俺の腕がぁ……何でだよぉ!」
肘から先の無い腕を掲げて泣きじゃくる若者。そしてその足元には同じく血だらけになってこと切れた人間が何人も倒れていた。
「何だよこれ。何なんだよ……!」
まるで地獄絵図だ。そのあまりに凄惨な光景にゴートも思わず立ち尽くしてしまっていた。
目の前の大通りだけではなく事態は村全体で起きているようだ。あちらこちらから悲鳴が上がり、血を吹き出して苦しんでいる人々の姿が見える。
耐えられなくなったのだろう。横に立っていたモネが一気に胃の中のものを地面に吐いた。
「儀式が失敗したせいなのか? それでこんなことになってるのか」
体を震わせ愕然とするゴート。
「刻呪の災いだよ。前にお母さんから聞いた話とそっくりだもん」
口元を抑えながらモネが青白い顔で言った。
これが刻呪の災いだとすれば、原因は儀式の失敗によるものだとしか考えられない。自分が生贄になれなかったからこの呪いが起きた。この惨状を生み出した。
モネの吐いた吐しゃ物の臭いが鼻につく。カウルは貰い吐きしそうになったが、何とか耐えた。
「……父さんと母さんを探さないと」
辛うじてそれだけを口に出した。
「お母さん……」
再び吐きそうな表情でモネが呟く。この惨状を見れば、自分たちの両親が無事でいるとは考えづらかった。彼女の青白い表情がさらに絶望へと染まっていく。
「おい、あれ村長じゃねえか」
ゴートの声に釣られてそちらを見る。血まみれで苦しむ人たちの反対側。道を挟んだ家の前に茫然と立ち尽くす村長の姿があった。
「村長!」
駆け寄るゴートの声を聴いた村長は、力の無い目をこちらに向けた。
「何があったんだ。何でみんな血だらけになってんだよ」
「私にもわからない。いきなり大きな鳴き声が聞こえたかと思ったら、突然皆血を吹き出し始めたんだ。……きっとあれのせいだ。あの化け物が……」
「化け物?」とモネが聞いた。
「空が暗くなる直前に、祭壇の岩場の上に一瞬だけ何かが姿を見せたんだ。ああ――あの恐ろしい姿。金色の瞳。今でも体が震える」
金色の瞳。やはり刻呪なのか。
村長の話を聞いたカウルはぎゅっと自分の拳を握りしめた。
「村長。父さんと母さんはどこに居るんですか。別の場所にいるって言ってましたよね。どこですか」
「んん? カウルか? 何故ここにいる」
「いいから教えて下さい」
放心しているせいで生贄の儀式が失敗したことに思い足らなかったのだろう。村長は素直に応じてくれた。
「見張り役たちの駐屯所だ。サーリアとカエルムはあそこに待機させている」
その言葉を聞くなりにカウルはばっと体の向きを変えた。すぐに駆け出そうとしたのだが、それをモネが呼び止める。
「待ってカウル。私もお母さんたちのとこに行くよ」
自分の両親が心配なのはみな同じだ。カウルは彼女の気持ちを理解し、
「わかった。また後で会おう。もし何かあったら俺の家に来てくれ。父さんたちを見つけたら戻るから」
「うん。カウルも気を付けて」
モネは暗い顔のまま、神に祈る様に両手を胸の前で交差させた。
ゴートはカウルと目が合うと小さく頷いた。彼も一旦ここで別れるつもりのようだ。
正直いつ何が起こるかわからないこの状況で二人と離れるのは心苦しかった。最悪の場合これが最後の別れになりかねないからだ。だが自分の家族を優先して彼らの思いをないがしろにすることも、カウルにはできなかった。
「三神の加護を」
柄にもなく三神への祈りの言葉を述べる。別に熱心な三神教の信者というわけではないけれど、今だけはその力が必要だった。
視界の先に二階建ての灯台のような建物が見えた。村の見張り役たちの駐屯所だ。
血まみれになってもがいている人々の間をすり抜け、カウルはその扉を力いっぱい引っ張った。外のほうが暗いおかげで中の様子がくっきりと見えた。
惨状に恐れをなして逃げ込んだのか、駐屯所の中には予想よりも多くの人間がいた。服に血を付けた者、座り込み小刻みに体を震わせている者。魂が抜け出たかのように一点を見つめて動かない者。
彼らの中にカウルは慣れ親しんだ姿を発見した。お互いを抱き合うように壁際に立っている二人の男女。間違いない。カエルムとサーリア。カウルの両親だ。
「父さん! 母さん!」
良かった生きていた。カウルは声を上げ彼らに駆け寄った。
「なっ、カウル!?」
驚愕と安堵が入り混じったような表情で声を上げる父。
もう二度と会えないと思っていた。もう二度と声を聴けないと思っていた。カウルは勝手に目頭が熱くなるのを感じた。
「ああカウル……! 良かった」
今にも泣き出しそうな表情で母がカウルを抱きしめた。
いつもなら照れくささからそっけない態度をとってしまうカウルだったが、この時だけは素直に彼女に身を任せた。
「無事でよかった。本当によかった」
母はカウルの肋骨が歪みそうなほどに腕に力を込めた。
「本当にカウルなのか」
生贄として死んだはずの息子が目の前にいるのだ。父は充血した目で声を震わせた。
「何でここに居るんだ? 儀式はどうなった?」
「よくわからないんだ。気が付いたら祈祷師様が消えていて、空が暗くなっていて」
カウルの言葉を聞いた父は、ふと何か思い至ったのか、カウルの頭を服の袖で隠そうとした。
「あっちで話そう。ここは人が多い」
生贄に選ばれた息子が生きて戻ってきたのだ。彼はすぐに儀式が失敗したことを悟ったようだった。
母とカウルの手を引く父。だが一歩遅かった。
「おいどうなってんだ。何で生贄のガキが生きてるんだ」
向いの壁際でぼうっとこちらを見ていた小太りの男が、不意に我に返ったかのようにカウルを指さして叫んだ。その声に釣られて他の人々もカウルを振り返る。
父の顔に瞬時に緊張の色が走った。
「そいつ生贄のガキだろ。どうしてここに居るんだよ」
男は壁から背を離し、カウルたちに詰め寄った。
「人違いだろ。生贄はもう祭壇へ向かったはずだ」
すぐに父がカウルをかばった。
「この狭い村で人違いもくそもあるかよ。お前、骸拾いのカエルムだな。知ってるぞ。お前の子が今回の生贄だったはずだ」
ぎゅっとカウルを掴む母の力が強くなる。良くない状況だ。もしこの血の呪いがカウルのせいだと言われれば、再び祭壇に戻され殺されてしまうかもしれない。カウルはぞっとし、身震いした。
「そうだ。その子、生贄のカウルじゃないか。俺、発表の日に見たぞ。間違いない」
別の村人たちも、動揺と懸念の籠った瞳を向けてくる。
父はカウルたちを後ろ手にし、
「儀式は失敗したんだ。あの叫びを聞いただろ。何かが起きたんだ。何かが」
「何かって何だよ。そいつが生贄から逃げたせいなんじゃねえのか」
「違う。儀式は行われたんだ。大勢が祭壇へ行くカウルを見ていたはずだ。この事態はカウルのせいじゃない」
「じゃあ何でこんなことになってるんだよ。外の血の呪い、あれって話に聞く刻呪の影響にそっくりじゃねえか」
小太りの男は父の言葉に耳を貸す気はまったくないようだった。彼の声に賛同するように、部屋に居た他の人々も集まってくる。
このままではまずい。みな混乱して攻撃的になってしまっている。カウルは事情を説明しようと前に出ようとしたが、母がそれを押しとどめた。
「カエルム……」
怯え切った表情で父を見上げる。
父は駐屯所の裏出口をいちべつした。
「俺が合図したら逃げるぞ。今は誰も話を聞いてくれない。とにかく村の外に出るんだ」
父は歯を噛みしめ、
「駐屯所の裏には遠征用の馬が数匹繋がれている。まだ息があるやつが居れば逃げ切れる。いいか、行くぞ」
「おい何こそこそ話してんだよ」
さらに一歩近づく小太りの男。そこで父は横に置かれていた椅子を掴み、素早く男に向かって投げた。
「今だ!」
椅子は男の頭に直撃し、悲鳴が上がる。母とカウルはすぐに裏口をめざして走ろうとしたのだが、あと一歩というところで、別の村人が目の前を塞いだ。
「どこに行く気だ。逃がさねえぞ。この裏切者」
思わず舌打ちする父。その男は見張り役の一人であり、父よりも大きな体格をしていた。いくら三人がかりだろうと、あの男を突き飛ばして逃げ切るのは至難の技だ。
「捕まえろ。生贄の逃亡者だ!」
先ほどの小太りの男が頭を抑えながら叫び、目の前の大男がカウルに掴みかかろうとする。それを見た母がとっさに男の手を掴んだが、男は気にせず母の手を振り払った。
突き飛ばされ尻もちをつく母。カウルは襟首を男に掴まれ体が宙に浮く格好となった。
「おい放せこの野郎」
すかさず男の顔面を殴り飛ばす父。それを見た村人たちはいっせいに父に覆いかぶさろうとしたが、寸前のところで動きを止めた。父に恐れをなしたからではない。目の前の光景に驚いたからだ。
「何だ、こりゃあ……」
大男が呟きカウルの身体が地面に落ちる。見上げると大男の腕から大量の血が噴き出しているところだった。
「血が、俺の腕から血が……――」
そこは先ほど母が掴んだ箇所だった。突き飛ばした際に爪が引っかかったのか、うっすらと赤い筋のようなものが浮かんでいたのだが、その傷が見うる見るうちに広がり始めていた。
最初は水滴。そして桶をひっくり返したかのように、大量の血が流れ落ち始める。
「うわぁあっ!?」
後方からも悲鳴。振り返ると、あの中年男の顔が真っ赤に染まっていた。父が投げた椅子で傷ついた箇所から、おびただしい量の血が流れ落ちていく。彼の傷口は最初は大したものでは無かったはずなのに、今ではまるで剣で切られたかのように大きく裂け顔の半分を覆ってしまっていた。
「何をしたぁ? 何をしたんだぁっ!?」
半狂乱になって叫ぶ小太りの男。その間にも傷はますます広がっていき、吹き出る血も凄まじい量へと増えていく。
何で突然。さっきまで平然としていたのに。
ここまでの道中で血を吹き出す人間と平然としている人間が居ることは見ていた。だが呪いの影響を受けていない人間が血を吹き出すのを見るのは初めてだ。
絶叫を上げ倒れ込む小太りの男。それと同時に背後に立っていた男の腕が外れ地面に転がった。大男の頬は大きくはれ上がり、ハンマーで殴られたかのように赤黒く裂けていた。先ほど父が殴り飛ばした場所だった。
血だらけで倒れていた人々。何の影響も受けず茫然としていた人々。その違いは一体なんなのかと思っていたが、まさか――。
「傷が悪化している。傷ついたら駄目なんだ……」
「カウル大丈夫か」
カウルの肩を掴み慌てて起こす父。カウルは震えながら彼を見上げた。
「父さん。傷を受けちゃ駄目だ。これは傷の呪いだ。怪我をしたら死んでしまう」
「傷? 何を言っている。怪我をしたのか」
その時、カウルは右の手に違和感を抱いた。ガラスの破片が手の甲に刺さっていた。大男が母を突き飛ばしたときに机から堕ちたグラスが割れていたのだ。
「カウル、手から血が」
心配そうにこちらを見つめる母。
傷を受ければ刻呪の災いによってそれが広がり死ぬ。
――ああ、まずい。
カウルは愕然とした目で己の手を見下ろした。
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