第2話 生贄(2)
日が沈みかけ空が漆黒に塗りつぶされていく。
母が家の中の蝋燭を灯すと同時に玄関の扉が開いた。骸拾いに出ていた父が帰ってきたのだ。
父は荷物を玄関の横に置くと、背に担いでいた猪を満足げに掲げて見せた。
「どうだ。サーリア、カウル。今夜はごちそうだぞ」
「まあ、大きな猪。よく仕留められたね」
夕食の用意をしていた母が、お玉を持ったまま嬉しそうな声を出した。長い黒髪に調味料が付着していたが、気が付いていないようだ。
父はそのまま猪を床に寝かすと、疲れたように自らの肩を揉んだ。
「死門避けのために土の中で仮死状態になってたんだ。偶然骸拾いの最中に発見してさ。運が良かったよ」
「大丈夫? 禍獣化してないよね」
「確認したって。正真正銘の猪だ。ちょっと外で解体してくるよ」
「いいけど、今から?」
「早めに内臓を抜かないと、肉が悪くなるからな。まあすぐに終わらせるよ」
父は頭に巻いた布を締め直すと、さっそうと猪を抱え直し、外に出て行った。
母はそんな父の後姿を眺めると、カウルのほうに向きなおった。
「カウル。お父さんを手伝ってあげて。一人じゃ大変だと思うから」
「わかった」
カウルは農具の手入れをしている途中だったのが、仕方がなく立ち上がった。解体は重労働だ。一人で行えば深夜までかかってしまう。
がたつく木の扉を開けて外に出る。日が沈みつつあるせいで家の周囲はほとんど闇に囲まれていた。
「おうカウル。ちょっと押さえててくれ」
既に仕留めた場所で血抜きは済ませていたらしい。
カウルは猪の横に屈みこむと、言われた通り足を抑えた。一瞬猪が動いた気がしたが、肉の重さで重心がずれただけのようだ。
父はその間に小型の刃物を取り出すと、猪の腹部に躊躇なく差し込んだ。あっと言う間に皮が切られ、血と油の臭いが溢れ出てくる。あまりに強烈な生臭さに思わずしかめ面をしてしまった。
「そんな顔するなよ。こいつのおかげで俺たちは生きながらえることができるんだ。犠牲になってくれたことに感謝して礼を尽くさないと」
三神教の教義の一つ。全ての生命、物体に感謝をだ。食べ物を食べ物としか思わずにいると、それが生物であることを忘れどこまでも残酷になれる。かつて貴族の間で流行っていた暴飲暴食文化を反省するために生まれた言葉だった。
内臓を取り出していく父を見つめながら、カウルは疑問に思ったことを口にした。
「猪にとっては殺される恐怖だけで、そんな気持ちなんてないと思うけど」
「またお前はそんなひねくれたことを言って。そう思う気持ちが大事なんだよ。食う側の心構えさ。心構え」
そんなのはただの自己満足に過ぎないんじゃないか。死んでしまった猪には感謝を受け取ることも何も出来ないのに。
カウルの頭にはそんな言葉が浮かんだが、これ以上何かを言えば怒られそうだったため、黙ることにした。
木の棒に括り付けられ、逆さまに吊るされる猪。父はそれを持ち上げると、納屋の方へと歩き出した。
「川に隣接してる村でよかったな。こうして肉を十分に冷やすことができる」
猪を下ろした樽の中に、別の樽から水を注いでいく父を見て、カウルは不思議に思った。
「何で水を入れるの?」
「こうすると皮が剥ぎやすくなるんだよ。それにくっついてる虫とかも取れるしな。あと何といっても生臭さが無くなる」
腹を裂かれ吊るされている猪を見てカウルは可哀そうな気持ちになったが、その気持ちも勝手な感情だと思い直した。
生き物は何かの犠牲なしには生きることができない。何でそんな存在として三神様が生き物を作ったのかはわからないけれど、そういう決まりなのだ。本当に可哀そうだと思うのなら、猪なんて最初から狩らないで飢え死にすればいい。それができない以上、何を言っても言い訳でしかない。
「よし戻ろう。一晩水に付けとけば肉も十分に柔らかくなる。明日は久しぶりにご馳走が食えるぞカウル」
満足げに笑う父。一か月近い間死門のせいで蓄えた干物しか口にすることができていなかった。その言葉を聞いてカウルはぱっと顔を明るくした。
「久しぶりのお肉だね」
「ああそうだな。母さんに腕を振るってもらおう」
手を残りの水で洗った父は、手ぬぐいでそれを拭くと、蝋燭の火を消し、納屋の扉を閉めた。視界の端に吊るされた猪が見えたが、カウルはご馳走のことで頭がいっぱいで、猪について考えることはもう止めていた。
金属と陶器のぶつかる音が小さく鳴る。
肉はまだだが、取り出した内臓なら食べることはできる。母が炒めた猪の内臓は、久しぶりに感じる美味な食事だった。
「カウル、猪ばかり食べないでちゃんと野菜も取らないと」
「野菜ならこの一か月で食べ飽きたよ。いいでしょ。たまには」
新鮮な肉が食べれる機会など、めったにあるものでは無い。カウルは母の言葉を流しつつ、再度口に焼かれた猪の肝臓を運んだ。
母は呆れた目を浮かべつつも、それ以上の注意はしなかった。久しぶりのご地走なのは母も同じだったからだ。
「……それで、カエルム。骸拾いの方の収穫はどうだったの?」
フォークを動かしつつ、母が父に聞いた。
「ああ。大収穫さ。今回は死門が長くこの近辺に停滞してた分、動物や禍獣の死体が無数にあったんだ。町で売れば、しばらくはみな食っていけると思う」
「そう。よかった」
母はお茶に手を伸ばした。
「護衛の退魔士の当てはもうついたの? 前回の人たちは死門が近づく前に居なくなっちゃったんでしょ」
「まだ死門が過ぎ去った直後だから、そんなに心配しなくて大丈夫だよ。明日村長が近場の町に使いを出すそうだ。そこで適当な退魔士を雇うつもりらしい」
「吹っ掛けられなきゃいいけどね。最近は村に常駐してくれる退魔士も少ないから、みんな大金をせびってくるんだもの」
煩わしそうに母はため息をついた。
呪いに対処する技能者は大きく分けて二種類存在する。物理的に呪いを打ち払う退魔士と、三神教の神言を用いて呪いを払う祈祷師だ。
彼らはいわゆる呪い専門の傭兵のようなもので、ロファーエル村のような小さな集落は、定期的に町へ出向き、村から外出する際の護衛を雇うことが多かった。
「しようがないさ。彼らにも生活がある。命がけで守ってくれるんだ。それで安全な荷運びが叶うならいいじゃないか。死んだら全てお終いなんだし」
「それはもちろんわかってるけど」
母はどこか不満そうに目を父から逸らした。
「まあ、サーリアの気持ちもわかるがな。最近は高い金を要求するわりには実力の低い者が多い。本来なら聖騎士に依頼を出したいところだが、ここはルドぺギアから一番遠い国だからなぁ」
三神教会に所属している正式な退魔士は聖騎士、祈祷師は神官と呼ばれ実力もけた違いだが、大きな災禍が発生した場合のみ現地に派遣されるため、こんな辺鄙の田舎では目にすることなどめったにない。そもそも聖騎士が所属する三神教会は白花の国ルドぺギアに総本山を置いており、カウルたちが生活している灰夜の国グレムリアとは、まさに大陸の正反対に位置する場所だった。
カウルはレバーを口に運んだあと、音を立ててナイフを皿に置いた。それを見た母はしかめっ面を浮かべる。
「カウル。何度も言ってるでしょ。マナーには気を付けてって。あと数日でもう十四歳なのよ。骸拾いにだって出れる年齢なのに」
「わかってるよ。ちょっと気が抜けてただけだよ」
一体こんな田舎町でマナーを気にすることにどんな意味があるというのだろうか。小うるさい母に嫌気がさしたものの、反抗すればより怒りを買うだけのため、カウルは不貞腐れたようにそう返した。
父はそんなカウルを眺めながら、思い出したように首を動かした。
「……そういえば、今日村長に言われたよ。清像の儀式について」
いつもとは違う真面目な表情。何だかどこか悲しそうですらある。カウルは気になったが、何か言う前に母がそれに答えた。
「日付が決まったの?」
「ああ。来週頭に今回の生贄を選ぶそうだ」
「そう……」
急に暗い表情を浮かべる母。カウルは何だか不安な気持ちになった。
「生贄って、村の北にある、あの祠の話?」
「そうだ。……知っての通り、あそこは大昔に強力な呪いが封じられた跡地だ。あそこに強力な呪いがあるおかげで禍獣たちが寄り付かずこの村は生活することができている。
その呪いの封印を維持するためには、十年ごとに生贄を捧げ続ける必要がある。今年は前回の祭事からちょうど十年目の年なんだよ」
確かに以前村の祈祷師から話を聞いたことはある。一回だけの説明で時期についてはすっかり忘れていたが、今年がその年なのか。
「生贄は毎回祈祷師様の神託で十四歳以上の大人から選ばれる。お前も今年からは選定の対象だ。誰が選ばれてもいいように、覚悟だけはしておきなさい」
カウルは愕然とした。
――そういえばそうだった。俺も生贄に選ばれるかもしれないのか。
物心ついてからは一度も儀式が行われることはなかったせいで危機感がなかったが、ここはそういう村なのだ。
気を紛らわすために再度レバーを口に運んだが、先ほどまであんなにもおいしかったはずの肉の味が今はまったくしなかった。
「……もうこの話はやめましょう。今すべき話ではなかったね」
カウルの顔を見た母は、申し訳なさそうにそう言って、話題を変えた。父も何事も無かったかのように母の話に合わせる。
だがカウルは頭の中に浮かんだ恐怖を捨て去ることはできなかった。
生贄――。本人の意思とは無関係に、他者を生かすためだけに殺される存在。
脳裏に、あの吊るされた猪の姿が浮かんだ。
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