8 お弁当

 賢治はそれから一週間ほどで大学に復帰してきた。入院中の検査でも骨折以外問題はないとのことだった。ただ腕と足なので松葉杖も使えずしばらくは車椅子になるようだ。

 しかしそれも春江が甲斐甲斐しく世話を焼いているので問題ないだろう。


 そしてそんな二人を見たら交際の発表をするまでもなく一目瞭然だとその日はサークル仲間で退院祝いと交際祝いの飲み会が行われた。


「お前あれだけ、久美ちゃん久美ちゃん言っときながら、どういうことだ」


 サークルの先輩が酔っ払って賢治に絡んでいる。久美といく名前に僕は思わずピクリと反応してしまった。


「先輩、それ言わないでくださいよ」


 賢治は慌てたように春江を見るが、春江はいつものようにただニコニコその状況を楽しんでいるようだった。

 やんややんやと盛り上がる中、僕の心は静かだった。

 そして、


「僕今日はもう帰ります、お金は今度払うから、賢治立て替えといて」


 言うが早いか、僕はそういうと店を後にした。


 あの日から久美の顔が頭から離れない。会ったところでかける言葉も、できることもなにもない。

 それでも今彼女に会わなければいけないと心がそう叫んでいた。


 執事喫茶は営業時間が終わったようで、入り口にはクローズのプレートが下げられていた。

 それでも、まだ人の気配がある。僕は、裏口にまわると呼び鈴を押した。

 中から、綺麗な顔をした人が現れる。


「あ、あの、僕飯田久美さんの大学の知り合いなんですけど、彼女いますか?」


 一瞬不審そうに見られたが、しばらくすると、「あぁ、あの時のお坊ちゃまか」と呟いた。


「いいのですか可愛いお嬢様を差し置いて、うちの執事なんかを追いかけて」


 冗談なのかどうなのかわからない口調で、そんなことを言う。


「はい、どうしても会って話したいことがあるんです」


 何かを考えるように、僕の顔をじっと見つめる。それから


「いまなら弁当屋でバイトしてると思うよ」


 と、教えてくれた。


「弁当屋?」

「うん、この時間ならまだやってるはずだ」


 さずがに家の住所までは教えてもらえなかったが、それで十分だった。


 大急ぎで教えてもらった、弁当屋に向かう。

 店の明かりの向こうに、お弁当を買いに来ている主婦と楽し気に会話をしている久美の姿が見えた。


 会いたいという気持ちだけでここまで来てしまったが。ふと足を止めた。


「なにやってんだ僕は?」


 これじゃあ、本当にストーカーじゃないか。


 そう言われる未来が、まざまざと思い浮かぶ。


「なにしてんの、あんた本当にストーカーね」


 僕が躊躇してる間に、久美の方が僕を見つけてしまった。


 店の看板を片付けに出てきたようだった。看板に寄り掛かるようにして、僕をねめつけている。


「えっ、あっ」


 今回はまさにその通りなので、言い返せない。


 戸惑う僕に何を思ったのか、久美がクスリと笑った。そして、ちょっと待ってってといってまた店の中に消えた。


「これ」


 店から出てきた久美はビニール袋に入ったお弁当を一つ差し出した。


「いや、僕は別にお弁当を買いに来たわけじゃ」

「サケ弁しか残ってなかったけど、いいよね、おいしいよ」


 しかし強引に押し付けられる。


「あ、あぁ、いくら?」

「いいよ、売れ残りだから」

「そんなわけにはいかないよ」

「じゃあ私のおごり、こないだのお詫びもかねて」


 お詫び?


 いいかけた僕に


「だから、そんな顔しないでよ」


 久美は少し切なげに笑った。そしてそのまま店に帰ろうとする久美に、僕は我知らず叫んでいた。


「一緒に帰ろう」


 驚いたように久美は振り返る。また怒鳴られるかと思ったが、予想に反し、久美は「いいよ、じゃあ少し待ってて」といって早足に店の中に消えていった。


「バナナ以外も食べるんだ」


 自転車を押しながら僕はそう言った。


「当たり前よ、バナナだけじゃ身がもたないじゃない」


 彼女の自転車の籠には、店の弁当が二つ入っていた。


「あなたの分はお金払っといたから、これは私の特権。今日は二つもお弁当残っててラッキーだったわ」


 久美は笑った。


「こないだはごめんね、あなたに怒ることじゃないのに」


 久美が言った。


「あの、……リンゴ美味しかった」


 そんなことを言いに来たわけじゃないのに、僕は唇を噛みしめた。


 ──新しい治療法が見つかるかもしれない

 ──日本ではまだ無理だけど、外国なら

 ──僕も一緒に探すよ


 沢山の言葉がよぎりでもなに一つ言葉にすることなく消えていった。


 下唇を噛みしめながら俯き加減に自転車を押す僕に、彼女は小さく微笑みかけた。

 ただ静かに──

 僕は初めて彼女が本当に綺麗だと思った。

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