9 医者とは

 それから僕はたまに久美のいる弁当屋に通うようになった。

 賢治の付き添いで病院にいって日は、久美の母親にも会いに行った。そして賢治の傷が完治してからも、久美の母親に会いに行く日々は続いた。

 久美もそれを、嫌がってはいないようだった。


 そんなある日、久美が言った。


「今度、外国の病院に移ろうと思うの」


 それは最近ニュースでもやっていた、難病に対しては最先端設備のある、あの病院のことだろう。


「でも……」


 最先端の設備ではあるが、難病の治療ができるわけではない。ただ今の日本の延命よりかは、少し良い設備だということだった。


「お母さんは何て?」


 彼女はそれには答えずにただ静かに笑った。


 久美はバイトがあると先に帰ったが、僕は時間があるからと、まだ残っているリンゴを皮を剥いていた。


「裕介さん」

「なんです」


 手を止め顔をあげる。


「────」


 ドキリとするほど、真っ直ぐでひたむきな眼差しがそこにはあった。


「本当は、もうよくなることはないんですよね」


 初めて会った時よりゆっくりとした口調でそう切り出した。


「…………」

「あの子がそうしたいっていうから、外国の病院に移ることを承諾しましたが……結局はあの子の負担を、苦労をかける時間を長くするだけなんじゃないかって……」


 口元を抑える。その声はかすかに震えたいた。


「それでも、久美さんは……、それに少しでも長生きしたら新しい治療法だって……医学はどんどん進んでいるんですよ」


 そう言いながらも、たぶん母親が生きているうちに新しい新薬ができる保証などなかった。たとえできたとして、それをすぐに使えるわけもない。


「お願いです。もし私が寝たきりになったりしたら……生命維持装置で生かされるような状態になったら……」


 久美と同じ芯の強そうな真っすぐな瞳が僕を捉えた。


「その時は、どうか治療の続行は辞めてください」

「!」

「まだ知り合って間もないあなたにこんなことを頼むのは大変申し訳ないのですが、きっとあの子は私がどんな状態になっても、生きている限りそれをしてくれないでしょう。でも私は人として生き、人として死にたいんです。こんなこといったら、頑張っているあの子に申し訳ないのだけれど」


 枕の下から一枚の封書を取り出すと、僕に手渡す。


 尊厳死──患者が自分の生命の終焉をもたらすように医師に要請する文書


 僕が震えながらその封筒を受け取る。


 どんな形であれ生きていてもらいたい彼女。

 人として生命を全うしたいという母親。


 医者になると言うことは、そうした究極の選択の場面に何度も遭遇するということだ。


 しゃくりあげる僕を、久美の母親は「本当にごめんなさい」といいながら強く抱きしてたのだった。

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