逆位置のコーヒー
井ノ下功
第1話 したたかな運び手
確かに、予兆はあった。それは認めよう。
招かれざる客を予告する南西の流れ星。
思いがけぬ事態を警告するライム鳥の声。
少し気になったから、訪問者についてカードをめくった。正位置の『押し売り』、正位置の『二十六通りの死因』、正位置の『幼い信仰心』――つまり、訪問者は問答無用で何かを押し付けてくる子どもで、強い想いを秘めているらしい。そこまでは分かっていたのだ。
だが、
「……まさか弟子入り志願とは……」
確かに“思いがけぬ事態”である。
玄関先で深々と頭を下げた少年を前に、僕は溜め息をついた。
「お願いします!」
「悪いけど弟子とかそういうのは――」
「そこを何とか!」
「本当に要らない――」
「助けると思って!」
「いや――」
「ありがとうございます!」
「話を聞いて?」
なるほど問答無用だ。嫌になる。
少年、と言うべきか、青年と言うべきか。おそらく十五歳くらいの男の子だが、彼は満面の笑みを浮かべて僕を見上げた。断られるとは欠片も考えていなさそうな、強気で無垢な顔。
しかし、その青い瞳はわずかに揺れていた。
また溜め息が出てしまう。
「……とりあえず、入りなよ」
少年の顔がさらに輝きを増した。やめてくれ眩しいから。四十をとうに過ぎたおじさんの目にはちょっと厳しいものがある。僕は目を細めながら、踵を返して彼を招き入れた。
天窓の真下のテーブルには、朝めくったカードがそのままになっている。改めて見ると、正位置の『二十六通りの死因』は“子ども”であると同時に “成長を望む者”と解釈するべきだったようだ。『幼い信仰心』が示した“想い”は弟子入りのことだろうけれど、このカードは同時に隠し事や妄信を暗示していることが多い。つまり、ことはもう少し複雑かもしれなかった。
「そこ座って」
「はい」
少年は辺りをきょろきょろしながら、ほとんど本で埋められているソファにそっと座った。少年程度の重みでは、高く積み上げられた本は微動だにしなかった。
それを傍目に、僕はデスクの上の本の山を崩した。埃がもうもうと立ち上る。
「お茶……あ、あったあった。これまだ飲めるのか? ……うん、まぁいけるだろ。ええと、ティーカップは……」
掘り出した茶葉の缶をテーブルの上に置いて、次は本棚へ向かう。途中で床に積んでいた紙の山を蹴倒した。手紙に書類にと、なにやら色々なものが散らばって、また埃が舞う。
「お、失くしたカード、こんなところにあったのか」
数日前、いや数年前だったかな。それぐらいから見えなくなっていた『完遂』のカードだ。別になくても困らないから放っておいたんだが、あって困るものでもない。
テーブルの上に戻しておこうと振り返ると、少年が缶の中を覗いていた。
「どうしたの?」
「あ、いえ……」
少年はそそくさと缶を戻した。少し怖がっているような態度だった。
僕は自分が悪い笑みを浮かべるのを自覚した。
「嫌になったなら帰っていいよ」
「いえ! 平気です! 大丈夫です! カビてはいませんでしたので!」
「そう」
これで帰ってくれたら楽だったのに。三度目の溜め息はさすがに飲み込んで、僕はティーカップ捜索に戻った。さて、どうやって追い返そうか。
ようやくお茶が入った時には、部屋中に埃が舞い踊っていた。天窓から入ってくる日差しに照らされて、キラキラと輝く粉雪のように見えなくもない。雪に比べたら随分と汚いけれど。少年が精一杯遠慮した咳をする。久々に窓でも開けようかと思ったのだが、鍵が錆び付いていて動かなかったから諦めた。
紅茶は思っていたよりは不味くなかったらしい。申し訳程度に口を付けた少年が、わずかに表情を緩めたくらいには。まぁ二口目にいかないところからお察しだけれど。
「それで?」
「はい! 俺はドゥイリオと申します。予言者と名高いジークムント・アルブレヒト・ギレス様の弟子となり、立派な魔導師となるべく参りました! 本日からどうぞよろしくお願いいたします! まずはお掃除から始めさせていただきます! ではさっそく――」
「待て待て待て、勝手に話を進めるな、座れ!」
少年は渋々といった風情で座り直した。だいぶそそっかしい少年だ。
「まだ僕は君を弟子にするとは一言も言ってない」
「……」
「だいたい君どこから来た? 家は? 家族は? まさか家出じゃないだろうね」
「死にました」
ちょっと石ころを投げてみました、というような、無造作で感情の無い言葉だった。
「死んだって、どうして」
「十年前の内紛に巻き込まれて、殺されました」
少年は膝の上で固く組み合わせた指をじっと見つめていた。顔に落ちた影が、その黒髪のせいなのか過去のせいなのか分からなかった。
「その、孤児院が経営難で……最年長だった俺が、外へ出ることになったのです」
要は口減らし。なるほど道理で荷物が少ないわけだ。ずっとすがるような目付きをしていることにも説明がついた。
僕は紅茶を一息に呷って、席を立った。ティーポットにお湯を足しながら考える。さて、どうしてくれようか。
現在のことを考えたはずなのに、過去のことが脳裏に浮かんだ。それは忘れもしない、忌まわしき記憶――十年前の内紛のことだった。僕が判断を誤ったせいで、死者が倍増した、あの内紛。彼が孤児なのはつまり、僕の犯した罪の被害者ということだ。
……どうやら『幼い信仰心』の解釈を改めなくてはいけないらしい。
すなわちそれは“容赦なき断罪者”である。
この時点で、無下に追い返すという選択肢は失われた。
今度の溜め息は飲み込みきれなかった。ああ、本当に、嫌になる。
少年はお代わりを断らなかったが、ティーカップの中身はまだたくさん残っていた。だから自分の分だけ注いで、ポットを少年の近くに置く。
「で、どうして僕のところに? 住み込みで働けるところなんかいくらでもあるだろう」
「院長先生に言われたのです。俺には魔法の才能があるから、その腕を磨いた方が良い、と。ですが俺にはお金はもちろん、知識もありませんから、とても学校へは行けませんし……」
「なるほど。独り身の隠居魔導師なら押し切れると踏んだわけだね」
「そういうわけでは……」
我ながら意地悪な言い方に、少年は顔を歪めた。
僕は手慰みにカードを交ぜながら、少しだけ彼に意識を傾ける。
(魔力は確かにあるな。しかもけっこうちゃんとしてる)
魔力を持っている人特有の湿り気を肌に感じた。これが一流の魔導師となると雨が人型をしているように感じるし、複数揃えば溺れるような気分になる。少年の年齢で湿度を感じるほどであれば、なるほど確かに“才能がある”と言っていいだろう。
知り合いの魔導師の顔がいくつか浮かんだ。彼らに任せた方が間違いない、と思ったけれど、同時に彼らの多忙さを思い出してすぐにその案は消えた。現役の魔導隊に入っている彼らは、僕のような暇人ではないのだ。となるとやはり、僕が少しだけ基礎知識を教えて、学費のない国営学校に入れるのが一番堅実なんだろう。
「魔導師、そんなになりたい?」
「はい」
「なってどうするの」
少年は思わぬことを聞かれたように瞳を揺らした。小さな頭の中でぐるぐると言葉が巡っているのが手に取るように分かる。――僕の師匠はすごくせっかちな人で、少しでも悩む素振りを見せると「早く言え早く言え!」と催促されたのを思い出した。苦い気持ちになる。僕はあれが一番嫌いだった。だから黙って待つ。
しばらくしてから、少年は絞り出すように言った。
「――人を、守るために、力を使えるような……そんな人間になりたいです」
ピシリ、と僕の中で何かが軋むような音がした。捨てたはずの真っ白い箱。最も無垢で幼い部分。それが割れて、記憶が出てこようとする。人のために、誰かを守るために。そんなことを言って魔導師になって、その結果が、十年前のあの慟哭――
「お願いします!」
切羽詰まった少年の声ではたと我に返った。少年は膝に付くほど深々と頭を下げていた。
「掃除でも洗濯でも本当になんでも、なんでもします。寝る場所なんて物置でも外でもどこでもいいです。だからどうか、俺をここに置いてください……!」
「……顔を上げて」
少年はおずおずと顔を上げた。青い瞳は少し潤んでいて、宝石のようにゆらゆらと光っていた。泣き出すのをこらえるように、薄い唇は真一文字に引き結ばれている。
僕は唇を噛んだ。胸がつかえて苦しい。吐瀉物のような汚らしい記憶が生々しく臭い立つ。僕の弱い部分が、彼を追い返せとがなり立てる。けれど、彼に手を差し出すことが贖罪になるような気がした――贖罪など、できるわけもないのに。
意識的に息を吸って、声を出す。
「僕が教えられることは基礎の基礎だけだ。一年後、国の学校に入るように。いいね」
「では、それじゃあっ!」
「一年だけだよ。よろしく、ドゥイリオ」
僕が差し出した手を、満面の笑みを浮かべたドゥイリオがしっかりと握った。
「はい! ありがとうございます! では、まずはお掃除からさせていただきます!」
「……ああ、うん、好きにしてくれ」
どうしてもこの散らかり切った部屋が気に入らないらしい。なかなかしたたかな少年である。使いたいものがすぐ手に取れて楽なんだけどな……。
喜々として掃除を始めたドゥイリオの背中を横目に、僕はテーブルに目を落とした。
さっき拾った『完遂』を何の気なしに手に取る。黒い犬が描かれたカード。これは運び手の象徴だ。正位置ならば良いこと、逆位置ならば悪いこと。これはどちら向きに落ちていたのだろう?
カードの中で、体をぶるぶるっと震わせた黒犬が、僕に向かって舌を出した。
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