006 過去と現在と私(前編)

その日、私は〝夢〟を見ていました。

〝夢〟とは何なのでしょうか。

一般的には眠りに落ちているときに見る光景。それが夢なのでしょう。

しかし、現在いまの私はボクシングジムの会長。

いつかは自分のこの手で王者チャンピオンを生み出したいという〝夢〟を見ています。

過去があって現在いまがある。

私自身、かつては日本の王者としてベルトを巻き、その頂点たる世界の王者とも互角に戦った男。

世界の王者。

世界で最も競技者の多いボクシングという格闘技において、数多あまたの戦いを勝ち抜き、その頂点に立った男。

リングに上がった私の前に、その男は文字通り立ちはだかりました。

体格は私より一回り小さいその男は、私の目には山のように私を見下ろしているように見えました。

試合の中で一秒一秒、刻々と時間は過ぎてゆく。

まともに打ち合っては勝てない。

足を使い、相手に打たせ、終始、試合の主導権をこちらが握って、判定で勝つ。

それが〝私〟の立てた戦略でした。

1R、2R、3R。

試合は全12R。

私は足を使い、王者のパンチを避わし、主導権を握ります。

王者はじりじりと私を追い詰めるべく、前へ前へとにじりよります。

試合の緊張感はリングに立ったものでなければわかりません。

それが頂点を決める決定戦タイトルマッチであればなおさらです。

立っているだけで全身から汗が噴出し、喉は緊張でカラカラになります。

4R目。

王者は私をとらえるべく、カウンター狙いの戦略に切り替えたことがわかりました。

王者は右構えオーソドックス。対する私は左構えサウスポー

ジャブとワンツー主体の基本に忠実な王者。

フットワークと変幻自在のコンビネーションで攻める変則スタイルの私。

私には王者のパンチは見えていました。

王者にもそれがわかっていたのでしょう。

空を切る王者の拳。

対して、私の拳は徐々に王者の顔に当たる機会が増えてきました。

ラウンド終盤、攻勢に出た私に対し、王者は遂に後退を始めました。

ロープ際に追い詰め、ゴングがなったとき、王者の顔には冷たい汗が流れていました。

私は、勝利を確信しました。

相手との実力の度合いというのは手を合わせた瞬間にわかります。

自分より強いのか弱いのか。

勝てるのか、負けるのか。

私が王者と手を合わせたとき、これまで感じたことのない重圧を覚えたのは事実です。

しかし、それと同時に勝てない相手ではない。と感じたのも間違いようのない事実なのです。

私は確信しました。


5R目、私は攻勢に出ました。

確かにこの王者は強い。しかし、勝てない相手ではない。

これまでやってきたように、フットワークを使い主導権を渡さぬよう、慎重に慎重に。

王者のパンチは見えています。

私は足を使い、ジャブをつき、自身のリズムを保ちつつ、ワンツーで王者を攻め立てます。

前に出ていた王者は私の攻勢に対し、守勢に回り始めます。

私が打ち、王者が守り、王者の拳は空を切る。

続いて攻める私に王者は後退。

私はさらに王者に対して攻勢に出ます。


チャンスはここしかない!


気がつくと、私はリングに横たわり、その全身にスポットライトを浴びていました。

レフェリーのカウントは聞こえません。

観客の歓声も聞こえません。

しかし、リングを通じて伝わる振動がそれを〝私〟に教えてくれます。

私は立ち上がり、ファイティングポーズをとります。

それは意識ではなく本能なのでしょう。

立ち上がった私に、王者は向かってきます。

私にはパンチが見えていました。


まともに打ち合っては勝てない。

足を使い、相手に打たせ、終始、試合の主導権をこちらが握って、判定で勝つ。

それが〝私〟の立てた戦略でした。


私はその戦略通りに戦い、勝利を確たるものにするべく、前に出ました。

ダウンを奪われたあともその戦略通りに戦い、冷静に試合を進め、後半は完全に主導権を私が握りました。

試合はジャッジ三者ともに僅差での判定負け。

5Rにダウンを奪われなければ、間違いなくベルトを手にしていたのは私。

それが試合の結果でした。


私には完全に王者のパンチは見えていました。

パンチが見えていれば、そのパンチはボクサーにとって致命傷になることはありえません。

だから、私は4R終了時に確信できました。

……見えなかったのはただ一発。

5R目に攻勢に出た瞬間にもらった、あの一発だけでした。



006 過去と現在と私(前編)



目覚めた〝私〟の視界には見慣れたジムの天井。

着ていたシャツから伝わる汗が、私の身体を冷たく冷やします。


「ぶえっくしょい!」


ううう、寒い。風邪ひきそうだ。


「ちょっとぉ、やめてくれるぅ? この時勢にさ」


「仕方ないだろ、さむいもんはさむい。って何でお前、そんなカッコなんだ」


口元にマスク、目元にゴーグル。


「相変わらずオトボケが過ぎることで」


いったい何を言ってるんでしょうか。

それはともかく、私はシャツを脱いでタオルで身体を拭くべく立ち上がります。


「ちょっと! やめてよね!」


私の全身に真っ白い粉が吹きかけられました。

一通り吹きかけられたあと、私の口元から呼吸とともに白い粉が宙を舞いました。


「マスクもしない! ゴーグルもしない! 挙句の果てに汗びっしょりのまま歩き回ろうとする! ほんと信じられない!」


私の顔にタオルが投げつけられました。

いい加減、私も慣れてきたので、頂戴したタオルで顔と身体を拭きます。


「意味がわからんぞ。説明してくれ」


「窓の外を見なさいよ。それでわからないの」


ぼりぼりと頭を掻きながら、苛立ちを隠さない言動をぶつけてきます。

窓を見ると外が赤く染まっていました。


「夕方の空…の色じゃないな」


「もう世界は変わってしまったのよ、おじさん。人類は皆、檻の中の小鳥。もう陽のあたる場所で生きていけなくなってしまったのよ」


唐突に何を言い出すんだ、こいつは。

まあ、いつもの悪ふざけでしょう。

私は粛々と立ち上がり、着替えを取りに事務室に向かいます。

って、俺はどこで寝てたんだ。

ジムの床か?床なのか?


「動かないでって言ってるでしょう! 聞こえないの!」


私の足元に銃弾が突き刺さりました。

がたがたと震えながら拳銃を構えている姿に、私は思わず両手を挙げます。

明らかに目が殺気立ってます。


「お…おちつけよ、な?」


いつもと違う様子。これはもしかしていつもの悪ふざけではないのでしょうか。

思わず私も声が震えてしまいます。


「消毒剤、きちんとふき取ってよ! ウイルスを巻き散らかしたいの!?」


ウイルス? 何のことやら。

確かに風邪ひきそうなぐらい寝汗をかいてたが、風邪ごときにそこまで荒ぶることもあるまいに。


「おじさん……、あなた、おかしいよ。どうかしてる」


泣きそうな顔でそんなこというと、マジっぽくて悲しくなるからやめてほしいんだが。


「政府から宣言が発令され、国民が外出できなくなって一年が経ちました」


拳銃をテレビに向けて引き金を引くとテレビが映りました。

……リモコン? さっきそこから銃弾撃ってなかった?


「国民の皆さん、外出の際には外気に蔓延しているウイルスから身を守るため、全身防護型機動兵器、MSマスキングスーツに搭乗、操縦をお願い致します」


テレビのキャスターが何かしゃべってる。

ウイルスはまあいいとして、全身防護うんちゃらってなんだ。

あまりの話の展開に上がってた両手も下がります。


「おじさん。もう私達、過去には戻れないのよ」


テレビは消され、再び銃口を向けられます。

とりあえず両手は上げときましょう。

なんか泣いてるし。器用に片目からだけ涙を流してるし。

と、コツンと床に何かが落ちました。

……目薬?


「目を覚ましてよ! おじさんッッ!!!」


「はいッッ!?」


つられて思わず声が甲高くなってしまいました。

ブーツのかかとで目薬のビンを蹴飛ばしているのは見逃しましょう。

というかそのブーツって思いっきり土足だよね?


準備スタンバイOK。いつでも起動リング・インできます」


どこかから聞こえてくるマイク音声。声の主は聞きなれた声。

拳銃を窓に向けて、引き金を引くと窓の外の赤く染められた外の光景からパッと薄暗い小さな部屋の光景に変化しました。

全身をライダースーツのような格好をして、スパーリングに使うヘッドギアをつけて座っています。

両手は何かボクシンググローブに突っ込んでいるようですが、何かどこか不自然なおかしな光景です。

そもそも何もかもおかしいのは承知のうえですが、それでもなおおかしいことは伝えておきたいのです。


「いいわね。起動リング・インしたら必ず前に出なさい。何も考えずにね」


「……はい」


良く見るとヘッドギアの頬当て部分から、小型マイクが伸びています。


「発進せよ、電子制御暴力生体機動兵器バイオレンス・オーガニズム・エキスパンション・エレクトリカル・コントロール・ロボティクス BOXERボクサー!」


出撃セコンド・アウト


機械音声とともに隣の窓もモニターになって、英単語が表示されていきます。


Biolence

Organism

eXpansion

Electronic-control

Robotics


それぞれ大文字で表示されているアルファベットが移動して大きく連結表示されます。


B O X E R


……確かバイオレンスって頭文字がVだったような?


「さあいくのよ! 電子制御脳波生体機ブレーン・オーガニズム・エキスパンション・エレクトリカル・コントロール・ロボティクス! BOXERボクサー!」


さっきと同じ流れでBrain Organism eXpansion Electronic-control Robotics が表示され、BOXERと表示されました。

ジムの窓モニターはビルの駐車場を映し出し、駐車場が左右に割れて、そこから両手にグローブを嵌めた銀色に黒の差し色のロボットがせり上がってきました。

しかし、今回はいつにもましてワケがわからないな。

正直、地の文で解説する身になってほしい。


「……どうしたの。前に出なさい。なぜ前に出ないの!」


「できないよ、前に出るなんて! なぐられて痛い思いをするのは僕なんだ! ずるいよ! いやなこと、つらいことは全部、僕におしつけて! 自分は安全なところでコーヒー飲みながらケーキを食べてさ!」


「それは違うわ! 私はケーキを食べてるけど、飲んでるのはコーヒーじゃなくて緑茶よ! これでも健康には気を使ってるの! 最近また少し太ってきたからカロリーには気をつけてるのよ!」


手元のテーブルには確かに緑茶の入った湯のみとケーキがあります。

食べかけの抹茶ケーキと手付かずのチョコケーキ、チーズケーキ。

3つも食ってたら緑茶飲んでも意味ないと思うんだが。


「緑茶はゼロカロリー! だから一緒に食べたケーキもカロリーオフ。抹茶ケーキから食べてるから、むしろマイナスまであるわ」


いや、唐突にこっちを向いて、そんなこと俺に言われてもだな。


「わかりなさいよ! かわいそうじゃない! 彼はあなたにほめられたくてがんばってるのよ!」


え、まじで? それは割と間違った認識だと思うんだが。


「やめてよ、僕は誰かのために、BOXERコレに乗ってるわけじゃない」


「あんなことまで言わせて! すっかりグレちゃってるじゃない!」


「そんなこと俺が知るか」


「やりたくもないトレーナー業を彼におしつけたのはアンタでしょうが!」


……う。


「私、知ってるわよ。久しぶりに身体を動かしたいからって戻ってきた彼を半ば無理やりプロの練習相手に駆り出して、そのままなし崩しにトレーナーライセンスを取らせた。ライセンスがあれば試合を見るのがタダになるとかいう誘い文句でね」


……ううう。


「そもそもおじさんは人望なさすぎなのよ。ソトヅラはいいけど、内側はぜんぜんダメ。聞けばトレーナーには過去に何人も逃げられてるっていうじゃない」


……あああああ、嫌な過去を掘り返そうとするんじゃない。


「そいつは違うんだよ、おじょーさん」


今までとは違う野太い男の声。

忘れられても忘れられない、その野蛮で下劣な声には聞き覚えがあります。

窓から外を見上げると、上空にロボットがマント?を広げてくるくると飛び回っています。


「そんな……BOXERシリーズ、完成していたの?」


まずは一機。赤に青い差し色の達磨のような体型のロボット。

激しい振動とともに着地をし、マントにように見えていたガウンを投げ捨てました。

ガウンを投げ捨てた衝撃がジムの中にも伝わってきます。

ああ、この他人の意を介する気がまるで感じられない振る舞いは全く変わってないな。最もこいつが変わるわけもないんだが。


「元気でやってんすか、会長。人を追い出して、さぞかしこのど素人トレーナーと強い選手をつくってるんでしょうねぇ」


続いて二機。青に赤い差し色の長身のロボット。

こちらは着地寸前に逆噴射を行い、ガウンは肩にかけます。


「お久しぶりです。元気にしてました、会長?」


三機目、黄色のロボット。

体型からは筋肉の隆起が見て取れるボディ。そして腰の部分には黒いビキニパンツ。


「自分、面白そうなので、遊びに来ました」


……お前もそっち側なのか。

動作の確認とばかりにマッスルポーズをとっています。

そして、最後の一機。

金色に白の差し色のボディ。

頭部はやたらと鋭利な隆起が見受けられます。

私は声を聞かずとも、それに乗っているのが誰なのか、はっきりとわかりました。


「久しぶりだな。まさかお前が戻ってきているとは思わなかった。……いや、戻ってくるとは思わなかった。あの時、逃げ出したお前が」


〝彼〟にもわかっていたのでしょう。

今まで、この小説の中で見せたことのない真剣な表情です。


「この人達がみんな、このジムにいたトレーナーの人達?」


「そうだ」


「そっかあ、あの子もそうだったんだ」


対峙している機体の中で一機、延々とマッスルポーズをとり続けています。


「違うわ。そこは話の流れで察してくれよ!」


「でもあの金髪ツンツン頭は誰?」


「……トレーナーだよ。〝彼〟の現役時代のな」


雷鳴が轟き、暗雲が空を覆い、それまで赤く染めていた外気を暗く染め直していきます。

振り出した雨は私達のいるジム、そして目の前で対峙する機体達を叩き、強まる風は窓を震わせます。

過去と現在の対峙。

それはこれから訪れる、嵐の始まりでした。


つづく

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