005 減量とダイエットと私
朝。
気持ちの良い朝。
やさしい温もりを帯びた春の陽射しが、バイクを走らせる〝私〟を照らします。
音。
気持ちの良い音。
行きかう車のエンジン音と風を切る音が、バイクを走らせる〝私〟を
風。
気持ちの良い風。
国道を走る〝私〟は今、自身をまとう風をマフラーにして、我がジムへと向かっています。
「会長ーっ!」
声に顔を向けると歩道を走る、ビキニパンツ一丁の男が目に入ります。
私は目を背けました。
しかし、目の前には走行停止を告げる赤信号。
私はやむやむ走行を停止します。
「おはようございます、会長!」
ビキニパンツの男は私の横の歩道に立ち止まり、軽快に足踏みを繰り返します。
「お、おう。おはよう」
私は関係者だと悟られぬよう、極力他人の振りをしつつ、挨拶を返します。
お前はいつもその格好なのか……。
薄々わかってはいましたが、まさかの現実に私は打ちのめされます。
そんな私に追い討ちをかけるように、披露される多種多様のマッスルポーズ。
頼む、早く青に代わってくれ……。
赤から青に代わる数十秒。
何の変哲も無い数十秒が今の私には、裁判長から判決が告げられる瞬間を待つ被告人のように長く感じられました。
さきほどまで吹き抜ける風の息吹のようだったバイクのエンジン音が、今はさながら判決の瞬間を一秒一秒刻んでいるかのようです。
待望の信号は赤から青へ。
私は風になります。
さながら冬から春の訪れを告げる突風のように。
「会長ーっ! 待ってくださいよー!」
私は背中から聞こえる声がどんどん遠くなるのを感じながら、風となって国道を走り抜けていきました。
005 減量とダイエットと私
ビルの駐輪場に私は愛車を止め、2階にあるジムへ向かうため、階段へと歩みを向けます。
「ひどいじゃないですか、会長。置いていくなんて」
私を出迎えたのはマッスルポーズ。
「たまには、一緒に、通勤しようと思って、声をかけたのに」
句点を区切りに各種のマッスルポーズを披露しています。
いや、今のお前と一緒に歩きたい人間はそうはいないと思うぞ……。
「お前はまさかいつもその格好なのか」
聞きたくないことではありますが、聞かないわけにはいかない質問を私はします。
「それよりも早くジムを開けて下さいよ。さっき入ろうとしたら鍵が閉まっちゃってて」
マッスルポーズとともに私の質問は流されました。
まあいいでしょう。
ぶっちゃけ返答も聞きたくなかったし。
「オーケー。じゃあ一緒にあがろうか」
なんでバイクの私より先にジムに到着しているのかは不問にします。
私達は二人で階段を上って、ジムのドアに到着。
確かに電気は消えています。
……ははぁ、遅刻。寝坊だな。珍しいこともあるもんだ。
まあたまにはそういうこともある。
こちらもジムの
海よりも深く、空よりも広い心。
それが〝私〟です。
私のジムの鍵を開け、ドアを開いて中に立ち入ります。
締め切っていたジムの中から、昨夜の練習の熱気が残っていたのか、湿り気を帯びた空気が流れ込みます。
これはいけない。
私はすぐさま新鮮な空気を取り入れるべく、中に立ち入ります。
電気も点けず、上履も履かず。
先ほどまでの私は風。
そして、今も私は風。
颯爽と人生を駆け抜ける、私は風。
歩みを速め、ジムの裏口の扉を開けるべく、私は今一度風になります。
靴下で歩く私は今、忍者のように足音も立てずに進みます。
そう、私は風なのです。
歩みを進め、リング横を抜け、体重を量る計量器(はかり)の前を通り、その先にある裏口の扉を開くのです。
誰にとっても風通しのよいジム。
それが私の目指す理想のジムなのです。
リング横を抜けた私は計量器の前へ。
するとそこには上半身は何もつけず、腰元部分を包む下着姿の女性が突然立ち上がって、その姿を現しました。
お互いの視線が交差します。
「……」
「……」
驚いた〝彼女〟は両腕で胸元を隠します。
この時の私の頭には〝なぜ?〟という単語が無数に飛び交い、思考を支配していました。
「「ぎゃあああああああ!!!」」
それは互いに互いを現実へと引き戻す、覚醒への
「なんでお前はそんな格好なんだ!」
「そっちこそ何、こそこそ入ってきてんのよ! 鍵かけてたじゃない!」
「姐さん、おはようございます」
ペコリと頭を下げて、割って入るのはマッスルポーズ。
お前はいちいちポーズをとらなきゃ話ができんのか。
まあ、今はその天然がありがたいんだが。
「あ、おはよう。今日、早いわね」
「はい。たまには朝一で練習するのもいいかなって。春ですし」
「そうね、さ、早く着替えてらっしゃい」
「はい!」
スタスタと何事もなく、更衣室へ向かう。
ふと立ちどまり、シャドー用の鏡の前に立ち、ポーズを決める。
そして、満足そうに更衣室に入っていった。
「おい」
スッと首筋に冷たい感触が走る。
全身から血の気が引きます。
突きつけられているものはおそらく刃物。
ギラリと残忍な光を放っています。
私はゆっくりと両手を挙げます。
額から頬にかけ、冷たい汗がゆっくりと流れ落ちます。
「なあ」
「なに」
「俺、別に悪いことはうひっ」
こいつ、刃を立てやがった!?
思わず変な声が出てしまいます。
「おはようござーまーす」
おお、救世主。
……救世主?
余計に話がややこしくなる気しかしませんが、この状態には私は耐えられません。
早く……、早く来てくれ……!
「どーしたんすかー、電気消したままで。……あれ? いない。さてはまた銀行とか郵便と称してサボりだな。ほんと、ジムにいる時間より外で
くそ……、人が声出せないのをいいことに好き勝手言いやがって。
誓って宣言しますが、私は決してサボるために外出などはしません。
しかし、人の子なのでたまたま休憩時間が外出時間に重なることがままあるのです。
これは仕方がありません。
なぜなら人は二時間に一度は小休憩を入れなければ、作業効率が落ちてしまうのですから。
「ひぅっ」
背中にチクリとする感触。
「あ、いた。なにやってんすか、会長。そんなところで」
私は懸命に左目のまぶたを
「?」
頬に指をあてて、首を傾げます。
こいつ、絶対わかっててやってないか?
しかも男の俺の目から見ても、ちょっとかわいいのがムカつく。
彼の視線が私の足元から顔まで動きます。
わかったと言わんばかりに、手のひらを拳でぽんと叩きます。
そうだそうだ、頼むよ、ほんとに。
彼はニヤリと笑って、口元を手で隠しながら、もう片方の手で仰ぎます。
明らかに勘違いしているしぐさに私は懸命に首を横に振ります。
それを受けて、彼は腰から足にかけての部分に両手を差し入れる、いわゆる
そして、ふとももから膝にかけて、両手を振り、何かを示すような動作。
私はハッと気付きます。
彼女は男性の私より小柄。
上半身は隠せても、確かに彼女の腰から下は私の足の間から見えているかもしれません。
彼は、失礼します!と言わんばかりにピシっと敬礼をし、背中を向けて歩き出しました。
と、その瞬間、私の背後から爆発音が響き、彼の体が宙を舞い、そのまま全身を床に叩きつけました。
すさまじい耳鳴りをなんとかこらえつつも、後ろを向くと彼を狙撃した拳銃に持ち替えていました。
もちろん胸元は空いている左腕で隠したままです。
「なに遊んでるんですか、自分も混ぜてくださいよ」
更衣室から靴だけ履き替えて出てきて、マッスルポーズ。
「ほんと、いつまで遊んでいるつもりなのかしらね」
銃口から立ち上る硝煙をフッと一息。
床に広がる血だまり。
……掃除するの、俺なんだがなぁ。
私は掃除機で血だまりを吸い取っていきます。
麺類をすするような音とともに、赤い血が吸い取り口からホースを通じ、フィルターへと吸い込まれていきます。
吸い取った後の床には血痕もなくきれいなものです。
妙にねばついているし、本当に吸い取っているのが血なのか?という疑問が頭をもたげますが、はたしてどうなんでしょうか。
皆さんはどう思われますか?
そうこうしていると、彼のシャツが吸い取り口に引っかかりました。
私は掃除機のスイッチを強にしてみます。
「あっ、間違えちゃったぁ。掃除機を止めるつもりが強くしちゃったぞぉ」
私は口元に笑みを浮かべます。
たまにはこうした
私はそのままホースの持ち手を持ち上げて、彼の体の上に掃除機をかけます。
シャツが引っかかったままの吸い取り口からは、詰まりを告げる異音が響きます。
「大変だぁ。掃除機が止まらないぞぉ。このままだと体ごと吸い取っちゃうー」
さあ、どうせタヌキ寝入りをしているだけなんだろう。
早く起き上がってしまうがいい。
私は床に倒れ伏している彼の体に掃除機をかけ続けます。
するとどうでしょう。
彼の体がみるみる掃除機に吸い込まれていくではありませんか。
そして、きれいさっぱり吸い取った後の床には何も残っていません。
ただホースからは彼を吸い上げた感触がはっきり感じられ、今も私の手にはその感触がしっかりと残っています。
「あら、きれいになったじゃない」
着替え終わったのか、短パンTシャツバンダナのラフな格好です。
私は思わず掃除機を後ろ手に隠します。
最近、よくある中身が透けて見える掃除機じゃないのが、不幸中の幸いでしょうか。
いや、私は別にやましいことは何もないんですが。
ラウンド終了のブザーが鳴り響きます。
「さすが会長。いつもジムをきれいにしているだけはありますね。さすがです」
リングの上でインターバル中でもマッスルポーズは欠かせないようです。
私の頬を冷たい汗が流れます。
「おじさん、スイッチ入りっぱなし」
「お、おう。そうだな。そうだった。もうこんなにキレイならいいよな」
私は震える手でスイッチを切ってコードを巻き取り、自分でもわかるぐらいしどろもどろな動きで、掃除機を片付けます。
掃除機をしまうロッカーを閉める手にも力が入り、閉める音が大きく響きます。
決して中から開かないように、しっかりと、力強く。
「おじさん、すごい汗」
「まあな、労働の汗だ。尊いだろ?」
「……そうね」
はて、何かを言いたそうに顔を横に向けている。
もじもじと首にかけているタオルをつかんでいます。
「なんだ、お前も体を動かしたいのか」
「べべっ、別にそんなことないわよ! ただあたしだって仮にもジムの一員だし? 少しぐらいはできないと恥ずかしいじゃない!」
ははーん。
私は顎に手をあて、彼女の仕草から本音を察します。
伊達に長年、スポーツジムを経営していません。
女性の心理はこれでもわかっているつもりです。
だから彼女はさっき下着一枚でおそらく
つまり、そこから導き出される結論は。
「お前、太っ(ゴスッ
鉄アレイが私の背後のロッカーに激突し、重く硬い音を立てて床に落ちました。
「気持ちのいい汗をかきたいのよ。健康のためにね?」
ロッカーの戸は大きく歪んでいます。
そして彼女の顔はそれ以上に歪んだ表情をしています。
笑っているのに怒っている。
まさに矛盾に満ちた存在です。
「姐さん、やせたいんですか?」
堂々と地雷を踏み抜くな、こいつは。
「そ、そうね。否定はしないわ」
こいつもこいつで、こいつには素直というか悪態つかないんだよなぁ。
「やせるのならば、まずは体質改善! 炭水化物を中心に脂質、糖質を抑えた食生活をしましょう。食物繊維、ミネラル類も忘れずに」
口から出かけた言葉を飲み込む仕草。
「まあ、あきらめろ。ダイエットに近道はない。いま、こいつが言ったとおりだ」
「そうです。自分、この
我々の追い討ちに、言葉も出ないようで、うつむいたまま表情を曇らせています。
握りこむ拳は震え、その肩は小刻みに震えています。
「……そよ」
クワッと目を見開き、敢然と叫びます。
「うそよ、そんなの! だってボクサーはみんな試合前に簡単に5キロ10キロ落とすっていうじゃない! 絶対あるはずよ! 楽してやせる方法が!」
楽してやせる。
そんな方法があったら苦労はしないというのに。
「答えなさい」
私の眼前に銃口が突きつけられます。
まあいい加減、前置きも長くなってきたところだし、ここらで本題に入るとするか。
「オーケーオーケー。わかったわかった」
「ふん、やっぱりあるんじゃない。絶対おかしいと思ったのよ。人があんなに簡単にやせたりできるもんですか」
「結論から言えば試合前の減量で落とすのは水分だぞ。だから減量とダイエットは根本的に異なるものだ」
「そうですそうです」
うんうんとうなづきつつマッスルポーズ。
「自分も試合前には5~6キロほどですかね。後はおなかにたまっている老廃物が2~3キロ。計8キロ前後ですね」
「ど、どういうことよ」
「落とすのは脂肪ではなく体重ということだ。だいたいボクサーの普段の体脂肪が15パーセント前後。パフォーマンスを維持できる人間の体脂肪率は10パーセントまでが下限と言われている。体重60キロと仮定して落とせる脂肪ってのはせいぜい5パーセント、3キロだ。そこから練習で落とせる重量が体重、水分が10パーセント、6キロ。計算では色々含めて10キロは落とすことはできなくないが、これはあくまで理論値だ。現実的なところでは普段の体重の10パーセントまでが適正な減量値といわれているな」
「じゃ、じゃあ私がやせられるのは……この前計った体脂肪率が……」
指折りで落とせる体重を図っているんだろうが、絶対水分量計算してないだろうな。
「そんなに太ってるようにみえませんよ。 自分のお母さんと比べたら姐さん、ぜんぜん大丈夫じゃないですかね」
よりによって比較対象が親御さんかい。まあらしいといえばらしいが。
やれやれと一息つくと、突如背後のロッカーの戸が蹴破られました。
蹴破られた戸はそのままジムの窓に激突し、窓には包囲状に亀裂が入ります。
いい加減、器物破損やめてくれないかな、ただでさえ貧乏ジムなんだからさ……。
「くくく、楽しそうな話をしてるじゃないですか」
蒸気を吹き上げながらロッカーから何事もなかったように笑みを浮かべて現れるとか、本当に演出過剰だな!
「僕も混ぜて。と言いたいところですが、残念ながら
「は? タイトルの内容、ほとんどないじゃん! ふざけないでよ!」
「この続きは書籍化の暁には必ずや」
「ざっけんな、ゴルァアアア!」
逃げるオトコと追うオンナ。
二人はそのままジムを飛び出していきました。
「あ、待ってくださいよ、自分も一緒に遊びますー!」
……亀裂の入った窓を体当たりで割ってそのまま飛び出していかないでくれ。
床一面に飛び散ったガラスの前で、私は立ち尽くします。
風が吹き込む窓から外を覗くと、銃声があちらこちらからこだましてきます。
頼むから周りの人達に迷惑をかけないでくれよ。
ただでさえボクシングジムなんて、決していい目では見られないんだからさ。
たぶん今日の私は
つづく
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます