004 リングとYシャツと私

私の朝の始まりはいつもロードワークから始まる。

まだ薄暗い中、愛用のスニーカーとともに降り注ぐ朝陽の中に駆け出していく。

同じように道を駆ける人達と会釈を交わす。

もうロードワークを始めて、一年以上経つだろうか。

春から夏に駆けて新顔が増え、秋から冬にかけて減っていく。

植物の四季の移り変わりのように、人もまた一年を通して移ろっていくのだろう。

私は駆ける速度を上げる。

人生とは長いマラソン。

ただひたすらに歩みを止めてはいけない。

歩くこと、走ること、それはすなわち未来を手にすることなのだから。

私は首元に締めたネクタイをキュッと絞り、駆け出していく。

未来へ。


004 リングとYシャツと私


部屋中に鳴り響く着信音に私は体を起こします。

重い体の感覚を全身に引きずりながら、私は懸命に周囲を見回します。

変わらず着信音は鳴り響きます。

しかし、着信音の発信元は見当たりません。


「ここよ! ここ!」


声が聞こえました。

女性の声です。


「どこだ!?」


「ここっていってんの!」


「だからどこだよ? 具体的に言え、具体的に」


「ベッドの横のスキマに落ちてんの! 早く拾いなさいよ!」


それが目上の人間に対する言葉遣いか。

私は出掛かった言葉を飲み込みながら、ベッドの横――壁とマットレスのスキマを探ります。

確かにベッドの中ほど……ちょうどおなかの辺りがあった部分の壁とマットレスのスキマから、スマートフォンのライトと思われる光が漏れて、そこからけたたましく着信のコールとバイブレーションの振動音が鳴り響いてきています。

というか、俺は自分の携帯スマホに電話の着信の振動バイブレーション設定してないんだが。


「BRRRR! BRRRR!」


早く電話に出ろ。と言わんばかりに、私の携帯スマホが大音量を上げながら、魚市場で水揚げされたばかりの魚のように跳ね回っています。

そんなにぴちぴち跳ね回っていたら逆に電話に出れないんだが。


「BRRRR! BRRRR!」


まあ、このままじゃあ話も進まないし、付き合ってやるか。

私は立ち上がって拳を上げ、視線を研ぎ澄まします。

周囲を飛び跳ね回る、私の獲物スマホ

……そこだ!


「BRRRR! BRRRR!」


私はジャブを一閃し、見事、獲物スマホを掴みました。

現役を退いたとはいえ、仮にも世界挑戦権試合タイトルマッチまで駆け上がった男を舐めてもらっては困る。

私は悪をばったばったとなぎ倒した映画の主人公ダンディ・ヒーローのようにニヤリと笑みを浮かべます。

自慢の白い歯もキラリと光ります。


「BRRRR! BRRRR!」


けたたましく鳴り響くスマホを鎮めようと、着信に出ようとした私の眼前を突如、闇が覆い尽くします。

そして、その闇は私の全身を覆いつくし、そのまま闇はスマホの画面の中に吸い込まれていきました。

後には画面に暗闇だけを映したスマートフォン唯一つを残して……。


「ちーこーく、よ! ちこく!」


気がつくと私はジムの玄関でお尻をついて座り込んでいました。


「ったく、どんだけぐっすり眠り込んでいたのでしょうかしらね」


仁王立ちで私を憮然と見下ろす彼女の姿は、いつもと違っています。

頭にリボンをつけ、着ているのはやたらとフリフリがついたスカートドレス。


「なんだお前、いい年齢トシしてそんな(パァン」


私のこめかみを一発の銃弾がかすめました。

ゆっくりと一筋の血が頬から顎を伝い、私の白いYシャツを濡らします。

……Yシャツ?

はて、さっきまで寝巻きパジャマ姿だったはずだが、いつの間に背広スーツに。


「出社するのにパジャマのわけにはいかないでしょ」


「どうやって着替えさせた」


言って、私は後悔します。


「この魔法のマジカル・スマートパッドで、おじさんのスマホと直結リンクさせて、空間ヴァーチャル通過ゴートゥーさせるときに、寝巻きパジャマ仕事着スーツ変換コンバートしたのよ」


なぜなら聞くだけ無駄だからです。

ジムの奥を覗くと、ビキニパンツ一丁でサンドバッグを懸命に叩いている坊主頭が見えます。

……いや解説するだけで誰なのかはっきりわかるからいいんだけど、ぶっちゃけどうなんだよ?


「おじさん、ときどき地の文で素に戻ること増えたよね」


私はネクタイを掴まれました。


「人様に読んでもらっているっていう意識が欠けてるんじゃない? ええ?」


「首! 締まってる締まってる!」


首を締め上げられてる私は掴んだその手に降参タップします。

それを受けて、ネクタイはさらに絞り上げられます……って、うぉい!?


「フフフ……」


目が据わってる!?


「おじさんに悪魔オンナってものを教えてアゲル(はぁと)」


ああ……、なんか気持ちよくなってきた。

この感覚は世界挑戦権試合タイトルマッチで勝敗を分けた、あの強烈な右交差拳ライト・クロスをもらった、天に昇るようなあの感覚……。


「何、遊んでるんですか、会長。早くミットお願いします」


フッと絞り上げられた力が抜け、私は顔面を床に打ち付けます。

その痛みに私の意識は現実リアルに帰ります。


「姐さんも会長来てたんなら、教えてくださいよ。自分、ひとりだけバッグを打ち続けて、ずっと会長を待っていたんですよ」


「そ、そうね。ごめんなさいね」


あ、あやまってるだと……!?

この悪魔マネージャー、今まで一度も私に頭を下げたことなどないというのに。


「ほら、おじさん、立ちなさいよ」


「姐さん、いくら遅刻したからって、かわいそうですよ。悪いと思ってスーツを着てきてるんですから。許してあげてくださいよ」


「そ、そうね。ごめんね。ほら、立ち上がってあそばせ。手を貸してあげるから」


私は差し出された手をとり、立ち上がります。

思わず二人の顔を交互に観察します。


「会長、鼻血出てますよ」


「お、すまんすまん」


顔面を地面に打ち付けたせいでしょう。

私はあわててスーツの袖で鼻血をふき取ります。


「ハンカチぐらい持ってないの」


私は差し出されたハンカチを受け取り、しっかりと血をふき取ります。

おかしい、ウチのマネージャーがこんなにやさしいわけがない。


「じゃあ会長、ミット」


おう、ミットでもなんでもやってやるぞ。

こんなにやさしい扱いを受けたんだ。

心行くまで付き合ってやる!


ラウンド終了のブザーがジムに鳴り響きます。

私は汗まみれのスーツ姿でがっくりとひざをつきます。

というか、ミット打ちの描写を省略!? これ一応、ボクシングの小説だよね?


「会長、もう限界なんですか?」


ビキニパンツ一丁でシャドーを続けながら、さらにおねだりとは。

一発一発、拳を繰り出すたびに周囲に汗が輝きます。

というかなんで私はスーツを着たままミットを受けてるんでしょう?


「仕事はスーツを着て行うもの。そうじゃなくって?」


いや会長の仕事はジム経営であって……「Shut upおだまり

問答無用ですか、そうですか。


「姐さん、そのカッコ、かわいいですね。どうしたんですか」


あ、赤くなった。

そして、なぜ俺を見る。

ピコーンと私に名案ナイスアイディアが浮かびました。


「今日から、この服で仕事するんだと。もっとほめてやれよ」


「へえ、いいですね。可愛い服、自分、大好きです」


「…………」


くっくっくっ、照れてる照れてる。

なんとかとハサミは使いよう。

パンツ一丁で練習トレーニングしてたところを見たときは、正直、頭を抱えたがこんな使い道があるとはな。

私は勝ち誇った笑顔を見せ付けます。


「そういえば仕事って言えば、自分、何をしたらいいんですかね?」


「あれ? お前、働いてなかったんだっけ?」


「いえ、働いてましたよ」


「何の仕事してたんだっけ」


「警備の仕事です」


「おお、よく交通誘導で旗振ってるあれか」


「いえ、自分は自宅を警備してました」


……おいおい。


「自分、お父さんやお母さんを守りたいと思って、みんなの帰るところを守る仕事を自発的にやってたんです」


「で、でもボク? それじゃあお給料は出ないんじゃなくって?」


「? ちゃんともらってましたよ。月に8000円。それとこのジムの会費も」


それってただのお小遣いじゃあ……。


「……」


頼む、俺に目線で助けを求めないでくれ。


「と、とにかくだ。ボクサーたるもの、プロである以上は仕事をきちんとした上でトレーニングに来なければ駄目だ」


「あ、あのね、ボク。プロボクサーなんてものはね、せいぜい選手寿命は5年くらいなのよ。だから引退後も見据えた上できちんと社会生活を全うした上でやらなきゃね。会長だってサラリーマンしながらリングに上がってたんだから」


会長呼ばわりとか明日は槍が降るかな?


「自分、お酒飲めないんで大人じゃないですよ」


そ、そうだな。


「……」


だから俺に助けを求めないでくれ。


『この子、からみづらいんだけど』


遂に頭の中に直接話しかけてテレパシーきたッ!?


『素直でいい子じゃないか』


『困惑した顔でそんなこと言われてもね』


『お前だってそのドレス褒められて嬉しそうじゃないか』


『殺されたい?』


『なんで殺される!?』


『素直に褒められても恥ずかしいのよ! 突っ込んで欲しいのよ、ほんとは。わかって?』


んなもん知るか。めんどくさいやつだな。


「自分、生涯プロボクサーでいたいんですけど、ダメですか?」


ああ、うん、気持ちはわかる。

ほんとによくその気持ちはわかるぞ。


「あのね。そんなこと言ってると、会長この人みたいになっちゃうのよ。あなた、本当にそれでいいの?」


「それはイヤですね」


即答かよ!

いや、確かに俺だって今の自分はかなりどうかと思ってはいるんだけどな!

でもしょうがないじゃない、人間だもの。


「自分、いつもありのままの姿でいたいんです。トレーナーも飾らない自分が大切だって言ってました」


野郎、よけいなことを吹き込みやがって。


「でも自分をよく見せる事も大切よ。会長この人みたいにだらしない人間になりたくないでしょ」


「それもそうですね」


俺をいつも引き合いに出すの、やめてほしいんだが。

否定できない自分にも悲しくなってきました。


「断っておくが、俺だって社会人サラリーマン時代はちゃんとしてたんだぞ。確かに今はこんなだけどな」


「そんな乱れたネクタイで言われてもね」


「乱したのはお前だろうが!」


私はネクタイをきちんと整えます。


「会長はどんな仕事をしてたんですか?」


「俺は営業だよ。お客様に商品を提案して購入してもらう」


「はあ」


「おじさん、その言い方じゃピンとこないわよ。はっきり言えば良いじゃない。人様を騙してお金を支払ってもらうぶんどるのが仕事だって」


「え、その頃から人を騙してたんですか」


「騙してねえよ! 今も昔も俺は真っ当に生きてるだろ!」


「真っ当な人間がリングの上で殴りあいなんてできるわけないでしょ」


くそ、2対1じゃ分が悪い。

かといって助けトレーナーを呼ぼうにも、3対1になって余計こっちが窮地に立たされる可能性の方が高い。

どうする。……どうすればいい?

そもそもなんでジムの会長オーナーである俺が、自分とこの選手とマネージャー相手にこんな追い詰められなきゃいかんのだ。

俺はお前らの上司で、お前らは俺の部下だぞ、部下。

口に出すと何してくるかわからないから、言わないけどな。


「ところで自分はどんな仕事をすればいいんですかね?」


「趣味とかないの?」


「体を鍛えること…ですかね」


なぜいちいちマッスルポーズをとる。

まあその場の流れを読まない天然な性格は、非常にありがたいんだが。


「ならスポーツインストラクター?」


「それはダメだな。ある程度名前が売れて引退後にやるならいいが、接客関係の仕事は薦められない」


「そうなの? どうして」


「時間帯が合わないだろ。どのジムのプロも大抵仕事をしているからな。練習時間が夜になる。こっちが出稽古に行くのも、来てもらうのも夜が都合いいからな。接客だと大抵、仕事は夜の時間になるだろ」


「まあそりゃあね。うちのジムも本格的に人が来るのは6時以降ってカンジだものね」


経営者オーナーが理解あればいいけど、大抵は朝から初めて夕方までに終わる仕事が無難だな」


「でもほら勝ちあがって日本ランカーとかになればお店とか宣伝にならない?」


「ならない。残念だがな」


「ボクシングってやっぱりマイナーなんですね」


「世知辛いお話なのね」


「いやそんなことはないぞ。単純に勝ち上がれば応援してくれる人はいくらでも増える。頼まなくてもな。お前だって見たことあるだろ」


「あー、あるわね。勝ち続ければみんなコロっと手のひら返してくる。会員の人でもそうだものね。勝てない選手には用は無いってカンジ。中には一生懸命やってる選手を応援してくれる人もいるけど」


「会社と同じだな。成績の悪い社員と良い社員では扱いにどうしても差が出る。違うのはリングに立つ以上は必ず勝者と敗者が存在するという点だな」


「世知辛いお話ですね」


「後は現役時代の短さ、だな。今でこそ10年くらいまではって言えるようになったけど。本当に一線を張れるのはせいぜい3年だ。選手は自分の事を考えていればそれでいいけど、周りはそうは見ないからな。勝ってればおだててくれるけど、負けたり辞めたりすると潮を引くようにいなくなる。次の選手も出てくるしな」


「会長も自分を見捨てるんですか……」


「なんて薄情な人間なのかしら。さすがおじさんね」


「ジムの会長がそんな簡単に選手を見捨てるか!」


「でも選手と会長が揉めるのなんて日常茶飯事じゃない。うちのジムにも時々、他のジムから流れてくるプロいたし」


「あのな。プロの選手ってのはジムの財産なんだよ。だから移籍も簡単じゃない。時間も金も労力も使ってるわけだから」


「えー、トレーナーに全部ぶん投げてるじゃない。自分は楽な一般会員のミットばかり持ってさ」


「会長が特定の選手を可愛がると絶対、選手間で嫉妬が起こるんだよ。会長と選手の二人三脚ってのはドラマの絵空事。空想の産物フィクション


「そこまで言い切っちゃう!? 似合わないルビ振りまでして」


「やっぱり自分は要らない子だったんですね」


「違うっての!」


「いや話の流れのオチとして必要だって。流れをつくることが大事だって」


もう誰が吹き込んだのか、聞かずとも把握が出来てしまいます。

たまの休みで久しぶりに気が休まると思ったら、いちいちトレーナーのにやけ顔が思い浮かんで仕方が無い。

私は深くため息をつかずにはいられません。


「PRRRR! PRRRR!」


リング横の棚に置いていた電話の子機からの着信音。

私はかつての社会人サラリーマン時代を思い起こしながら、着信に応答します。


「はい、こちら営業部門第一課」


……あ。


「会長……」


「ごめん、おじさん。背広着せなきゃ良かったね……」


頭の中が真っ白になります。

可哀相な目で二人が私を見ていますが、もはやそんなことは二の次です。

どうするどうするどうする。

ジムに掛かってきた電話だぞ、これ。


「聞きましたよ、か・い・ち・ょ・う」


お前かーい。

いや、ある意味お前でよかったが。

私はホッと胸をなでおろします。


「はい、こちら営業部門第一課」


電話口の向こうでは先ほどの私の物真似が聞こえてきます。


「さあ、みなさん。ご一緒に」


「「はい、こちら営業部門第一課」」


勝手に通話をスピーカーモードにしたのか、周囲にまで声が聞こえ始めました。

……まあたまにいいでしょう。私をからかうぐらい今の私にはなんともありません。

それに、そろそろ今回もお話を締めないといけませんからね。


「ご唱和ください、我が所属!」


「「「こちら営業部門第一課!」」」


次回に続く。

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