003 選手と興行と私

皆さん、こんばんは。

私です。

唐突ですが皆さんは黒縁の丸眼鏡というものをどうお考えでしょうか。

古いモノクロ写真の有名な科学者や著名な文学者などは、必ず黒縁の丸眼鏡がセットだとは思いませんか。

私は思います。

何事も形から。

ジム経営には様々なデスクワークが発生します。

家賃や電気代など各種料金支払い伝票はもちろん会員の方の入会申し込み書、そして選手や試合の契約書、協会やコミッションからの書類などなど。

私はモノクロ写真の科学者よろしく、黒い丸眼鏡をかけて、各種書類を整理しています。

決して老眼ではありません。



003 選手と興行と私


「はい! OK! そこでターン!」


事務室で書類整理をしている私の耳に、トレーナーの声が聞こえてきます。


「沈み過ぎ! もっとリズム良く! 上半身をうまく使って!」


彼が今、指導にあたっているのはプロの選手です。

リズムを取らせているのか、小気味良く手を叩く音も聞こえてきます。

これでこそプロのボクシングジム。

よくミット打ちやサンドバッグ、スパーリングなどの見栄えのする練習が取り上げられますが、一番大事なのはリズム感を養うシャドーボクシングです。


「そう! 右! 左! 右! 左!」


リズムを保って動くということは、全身のバランスを崩さずに動かなければいけません。

練習生とプロの何が違うのかといわれれば、打っても避けてもバランスを崩さないかどうかに尽きるでしょう。


「ワン! ツー! ワン! ツー!」


瞬間、瞬間はしっかり動けていても、それを3分間持続したまま動くということはいうほど簡単ではないのです。

ましてやボクシングは相手がいる競技。格闘技です。

相手は自分の思い通りに動いてなどくれません。


「そう! そこで顔を出してその表情! いいねぇ、ナイスですねぇ! ナイスなガールもおまえにぞっこんだ!」


相手のパンチをかいくぐり、自分もパンチを打つのと同様、相手も自分のパンチをかいくぐってパンチを打ってくるのです。

頭を打たれれば意識が飛び、おなかを打たれれば痛みで動けなくなります。


「OKフォー! ナイスだフォー! ワン、ツー、スリー! フォー!!」


プロのパンチは目で見てから避けられるほど甘いものではありません。

ゆえにプロ同士の戦いはいかに相手のパンチを打たせないか。

つまりいかに打つ前に避けて、避ける前に打つかが大事なのです。


「そう! 足を出す! もっと高く上げろ! 天まで高く! 天より高く!」


さて、私も書類の整理がひと段落ついた事ですし、会長らしく指導を見に行くとしましょう。

会長は選手だけでなく、トレーナーの指導方法もしっかり管理しなければいけないのです。


「足を出して 膝を曲げて ワン ツー ワン ツー くるりんとまーわーれー」


どこかで聞いた覚えのあるメロディに乗せて行われている、選手の指導。

四方をロープに囲まれたリングの中では、選手が水面の下から両足を出して、膝をリズム良く曲げ伸ばして、くるりと一回転しました。

……リングに水面?

言ってておかしいのは承知の上ですが、これは決して間違っていません。


「顔出し 足出し おへそ出し~ぐがっ」


とりあえず私は首を絞めました。


「どういうことか説明してもらおうか」


彼の顔が私と向かい合います。


「どうもこうも見ての通りですよ」


私は驚きのあまり、後ずさります。

私の目の前には、首だけが真後ろに向いた人間が立っています。

……人間?

目の前にいるのが人間かどうかはさておき、首が180度回転した普通の人間ではありえない状態で立っている〝何か〟がいるのは事実です。

続けて、当然のように首から下も180度回転させて、私の前に向き直りました。

とりあえずこれ以上の解説はするだけ野暮なことは理解できました。


「会長、自分たち、真面目に練習してるんですから邪魔しないでくださいよ」


言葉の主は水面から顔を出して、立ち泳ぎをしています。

そうですか。練習ですか、そうですか……。

そうこうしている内にラウンド終了のブザーが鳴りました。


「まあ今日はもういいだろう、プールリングからあがっていいぞ」


「了解です」


上がった格好はコマネチ姿。

パンパンと手拍子をすると、リングに貯まっていた水が底面に設置されている排水口に吸い込まれていきます。


「エンドぅ クロぉーズ」


妙に下を巻いた発音でリングの四隅のコーナーから板が張り出してきて、マットを形成しました。


「文章で書くぶんには別に金かからないからいいでしょ」


この辺の仕組みはもう色々突っ込んだら負けなんでしょう。



「で、これはいったい何の練習なんだ」


「自分、世の中の荒波にもまれる練習をしてました」


何を言っているんだ、こいつは。


「リングの上は人生そのもの。いつも会長が言っているじゃないですか」


いや、言っていないが。


「でも闘い方は選手の個性、生き方がそのまま出ますよね」


「……まあ、そうだな。リングの上では逃げられない。その選手の本質人生って奴がどうしても出てしまう」


もう心の中も読まれるのであれば、口に出した方がマシなんでしょう。


「聞いたか? リングは人生なんだ」


「はい! 自分、よくわかります」


「野次も飛んでくる。負ければ馬鹿にされる。でも勝てば褒め称えられる。ナイスなガールもお前にぞっこんだ」


どうもこの男の言うことは、良い事を言っているようでも信用ができない。


「いや自分、まだガールとどうこうって気持ちはありません」


「ほう、良い心がけだ。女ってのは夢を蝕むからな。わかるだろ?」


「はい!」


なぜ今、俺の顔を見た。


「恋より試合。当然じゃないですか。恋は金を生まないが、試合は金を生む。興行こそがこの業界の生命線でしょう?」


そうきたか。


「たまにはいいこというじゃない」


ああ、そろそろ来るとは思ってたよ。


「てっきり新キャラ登場で私の出番もないものかと思ったけどね」


「姐さん、こんばんは! お世話になってます」


「ちょっとズレてるけど、礼儀正しくてよくってよ。ナイスなボーイくん」


ウッス!と空手の挨拶。

坊主頭で筋肉ムキムキのコマネチ姿。

こいつ、本当にプロボクサーなんだろうか。


「ジム経営ってのは選手に試合をさせてなんぼ。勝ち負けなんて二の次よ」


「お前も一応、業界関係者なんだぞ」


「みんな、言わないだけで選手には泣かされてるって、おじさん、よく言ってるじゃない」


いや確かにそれはそうなんだが……。


「自分はやるなら勝ちたいです! 弱い相手と試合がしたいです!」


「よく言った! それでこそ、このジムの選手プロだ!」


ほんと、こいつらは……。


「弱い選手とだけ戦って戦績作れば、良い感じに出荷ドナドナできるじゃない。世の中にはかませ犬だって必要なんだからさ」


「試合には負ける選手と勝つ選手が存在するのは事実ですからねー」


「ドローなら引き分けですよ?」


「そう思うだろ。でも違うんですよね、かーいちょ?」


聞き方がむかつくが、真面目な話にできそうだからしっかり答えるか。


「まあ、違うな。タイトルマッチでドローなら王者が防衛になるだろ」


「ああ、なるほど」


「マッチメイクだって選手同士の相性やら何やらで決めてるものね」


「そこは日本のクラブ制度のいいところだな。ジム同士の話になるから比較的、勝負になる実力の選手同士で試合を組む。これが海外だと悲惨なんだぞ。明らかに実力的に差がある相手とも平気で組まされる。マッチメイカーの力が強いから選手に拒否権はない」


「東南アジアから呼ばれた選手は、寝てお金をもらうのが仕事だって言ってるものね」


「言ってねえよ!」


そこは明確に否定しておきたい。立場的に。


「だいたい強い選手が試合するのだって大変なんだぞ。誰だって自分のとこの選手を負けさせたくはないからな。相手がいなかったら海外から呼ぶのも仕方ないだろ」


「札束でひっぱたいて、ね」


お金の話には興味ありません。

なぜなら私達は〝夢〟を見せるのが商売ですから。


「なんでそれを心の中でつぶやくのか、ね」


「自分はお金もほしいです!」


お前らは少しは口をふさいだらどうなんだ。


「とにかく、だ。試合するってのは興行。興行ってのはお客さんに来てもらわなきゃならない」


「要するにお金でしょ。選手個人が目立とうと思って、いろいろアピールするのもいいけどさ。協賛してくれる人達に頭下げんのは私らじゃん。そりゃ本人は勝ってる以上は持ち上げてくれる人しかいないから気分いいだろうけど」


「でも勝ってればみんな見に来てくれるんじゃないんですか。自分は強い人の試合はお金を払って見に行きたいです」


「そりゃお前がボクサーだからだよ。試合のポスター見てみ? 下の方に協賛でいろんな会社の名前があるだろ。中にはいろんな人達がいる。もちろんボクシングに興味が無くて、地元出身の選手だからって理由で地域貢献の一環として協力をしてくれる人だっているんだ。そういう人達から見れば、選手個人のルールを逸脱した行動はやっぱり気分のいいものじゃないんだよ」


そうだそうだ。その調子で代わりに説明を続けてくれ。あとで冷蔵庫のクリームパンをやるからな。


「おじさんだって会社の宣伝でリングに上がってたもんね」


「ちがうわ! なんで会社のためにリングに上がらなきゃいかんのだ!」


「な? こうやって善意で協力しても、本音は違うんだから」


「なるほど、確かにそうですね」


それで納得するな。


「言っておくが、俺は会社の仕事はきちんとこなした上でリングに上がってたんだぞ。だから会社も色々協力してくれたんだ。最初は会社には黙ってたしな」


「公衆の面前で人を殴りつけるなんて、褒められたことじゃないしね」


「言い方ァ!」


「じゃあ会長が世界タイトルに挑戦できたのも、会社のおかげなんですか」


「んなわけないだろ! 金の力で世界が摂れるほど世の中甘くねえよ!」


視界の端にキラリと眼鏡の光。

私はあわてて目をパチパチさせて、アイコンタクトを送ります。


「……いかほど?」


……私はそっと耳打ちします。

返事は満面の笑顔。

私達はお互いにがっちりと手を握り合います。


「なんですか、あれ」


「時代劇であるだろ。お代官様と越後屋の袖の下」


「あ~、ワイロですか。やっぱり業界もあるんですね」


ふん、一番面倒なやつとは話がついた。

貴様ごときヒヨっこなど、赤子の手をひねるよりたやすいわ。


「あのな、いいか? プロってのは相手がいなきゃ試合ができないんだ。試合がしたいからって、相手が自然に生えてくるわけじゃないんだ。時間とか場所とか色々な事情だってある。だいたいお前が試合するとしてだな、遠くの地方で交通費は出すがファイトマネーはチケットです。と言われて試合するか?という話だ」


「いや自分、金目当てで試合はしないんで。勝てればいいです」


こいつもこいつでひねくれてんな。


「お前はそれでもいいかもしれないけど、試合するのはお前だけじゃない。今後、興行を打つときにそういう前例があると、みんなが困るという話になるんだよ」


「はー、そういうもんなんですか」


おお、めずらしいフォロー。さすがに空気を読んだか。

そして、こちらにアイコンタクト。

よかろう、クリームパンに缶コーヒーもつけよう。

私は右手で缶コーヒーを持つしぐさをしました。

左右に首を振る。

じゃあ追加でチョコアイスはどうだ。と左手の拳を握ります。

首を縦に……振らない、だと?

人差し指を一本立ててきました。

バナナの追加か、しょうがない、今回はサービスだ。

アイコンタクトで契約を交わした私達は、お互い固く握手を交わしました。


「だから興行は簡単じゃないの。色んな人達が関わるからね」


「選手としてリングに上がるって、責任が重いんですね」


「おお、わかってくれたか。会長ワガハイは嬉しいぞ」


みんな、このくらい素直ならマッチメイクも楽なんだがなぁ。


「今のこの二人を見てもわかるでしょ。マッチメイクも色々な駆け引きがあるのよ」


「焼肉、ご馳走様です!」


何を言ってるんだ、こいつは。


「は? なんで格差があんのよ。だったら私、台湾スイーツフルコースね!」


おいおい。


「じゃあ自分も日サロ、お願いします。次の試合までに褐色に仕上げたいんで」


ふんぬ、とポーズを決めるな。あといいかげんパンツ一丁はどうなんだ。


「いいじゃないですか。経費ですよ経費ケーヒ


「たまにはかわいい奴隷スタッフにおいしい思いをさせてあげてもいいでしょ? お・じ・さ・ん」


「自分、プロテインも追加でお願いします」


「やらん、ちゅうに」


「格差があるのはおかしいですよ、会長カイチョーさん!」


何で泣きながら言うんだ。


「そうよそうよ、せこい真似しないでよね」


「あとダンベルも新しいやつが欲しいです」


「一度、合意した契約が覆るわけないだろ。常識的に考えて」


悪いが、ここは絶対に引き下がらんぞ。

……マネージャーにはあとでこっそりタピオカでもおごっておこう。


「なるほど。だからきちんとルール通りの交渉が大事なんですね」


気付いたかのように、ポンと手を叩く。


「まあ、そういうことだ。こっちが善意で対応しても、相手も善意で応えるとは限らないんだ。決められたルールがある以上、それに従うってのが世の中のスジなんだよ。良かれ悪しかれ例外は認めるべきじゃない」


「ボーイ、今日はあなたのためにわざと悪役を演じたのよ。とっても心苦しかったわ。涙が出ちゃう」


「俺もだぜ、ベイビー。わかってくれるよな」


「やだなぁ、やめてくださいよぉ」


いい大人二人が純真な子供を丸め込む構図。

抱きしめられてる本人はそれを知ってか知らずか、まんざらでもなさそう。

まあ、なんだかんだ口ではアレコレひねくれてるけど、最低限の事はできるから、このままにしておこう。


それでは皆さん、また次回。


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