002 マネージャーとトレーナーと私

窓の外から聞こえてくる小鳥たちのさえずり。

手元のカップからは、鏡のように磨き抜かれた琥珀色の液体とそこから漂う香ばしい焙煎の香りが鼻孔を刺激します。

その液体を口に運ぶと実に心地よい苦みと酸味、甘味が一体となって、口元から全身の手足の先の先まで染み渡ります。

そして、カップを受け皿に置くと響くのは、硬さの中に温かみを感じさせる、歯切れの良い音。


こんにちは、皆さん。

ボクシングジム会長こと、〝私〟です。


002  マネージャーとトレーナーと私



今、私は朝一番で来た会員の方の指導を終えて、一息ついているところです。

マネージャーの彼女は、山へ洗濯に行く。と言って、現在、外に出かけています。

彼女もいっぱしの女性。

たまには外の空気を吸うことも大切でしょう。

理由や動機をとやかく言うのは大人げないというもの。

ここは年長者が温かく受け止めてあげなければいけません。


再び琥珀色の液体を運ぼうとしたその時、ジムの電話から着信のコールが鳴り響いてきました。

着信表示は〝彼〟です。

大方、寝坊でもしたのでしょう。

今になって目が覚めて、慌てて電話をかけてきた。というところでしょうか。

私は受話器を取ろうとして、寸前で手を止めます。

コール音が鳴り響く中、私はふと考えます。

どうせ彼の事です。

今、起きました! とか、これから今すぐ向かいます! とか言いながら、明らかにコーヒーを飲みながらのんびりテレビを見ている光景が目に浮かびます。

そして、それからシャワーを浴びて、さっぱりした顔でジムに出勤してきて、


「いや~、久しぶりに全力疾走しました!」


とかなんとか言いながら、濡れた髪を指さして、汗びっしょりでしょ? と臆面もなく言うに決まっています。

大人げないのは承知の上ですが、はっきり言って面白くありません。

私は一計を案じ、受話器を取ります。

ゴホンと一言、咳払い。

そして、受話器を耳に当て、いつもより渋みのある声でこう告げます。


「……〝私〟だ」


「オレオレ! オレだよ! オレ!」


私は受話器を電話機に叩きつけました。


「ひどいなぁ、会長。せっかく電話をかけてあげたのにガチャ切りするなんて」


通話が切れているはずの電話機のスピーカーから声が聞こえてきます。

……本当に常識が通用しない奴だな。


「そんなことよりお金貸してくださいよ。明日、嫁が危篤になるんですよ」


「お前、独身だろうが!」


『おにいちゃん♪』


突然、スピーカーからかわいい女の子の声。


「僕の嫁です」


いやいやいや。


「おにいちゃん、って呼んだから妹だと思ったでしょ? でも血の繋がらない妹なので結婚も可能なんですよ」


「知るか、バカたれ!」


私の頭脳が全力で理解することを拒否してきます。


「これも時代の流れなんですよ」


言いながら、エッヘンと胸を張る姿が目に浮かぶようだ。


「しかも名前も自分でつけられるんですよ」


『私、〝まりりん〟っていうの。こんどおにいちゃんがザギンでシースーを食べさせてくれて、全部会長のおごり――』


私は事務室を出ました。

ついでに来客用の椅子と柔軟体操用のマットをドアの前に立てかけました。

無いとは思いますが、奴は受話器を通じて部屋の中に現れかねない。そんな気がしたのです。

ちなみに中から引いて開けるドアなので、ドアの前に物を置いても意味はありません。

自分でもわかってはいますが、やりたくなる気持ちはご理解いただけるのではないかと思うのですが、みなさん、いかがでしょうか。


「何してんの、おじさん」


振り返ると、ハンチング帽とコートを身に着けた……マネージャーが立っていました。


「お、えらい。今、名前を呼ぼうとしたのをこらえたわね」


そんなので褒められても全然うれしくないんだが。


「ところでなんだその探偵みたいな恰好は」


山で洗濯うんぬんは絶対、深入りすべきではありません。

なぜかうんうん、とにこやかにうなづいていますが、絶対ロクなことではありません。


「そんなことないわよ、おじさん。きちんと今の私の恰好をハンチング帽とコートって説明してくれたじゃない。以前のおじさんなら〝探偵の恰好〟の一言で済ませてたでしょ。えらいえらい。ついでに色彩も説明してくれるとよりベターよ。この格好がまさにベタベタの探偵の恰好なだけにね」


ポケットから虫眼鏡を取り出して、テヘっと笑う。

もうそんなかわい子ぶる年齢じゃなかろうに。


「あ゛?」


ドスの効いた声で拳銃の銃口が目の前に突きつけられました。

私は思わず反射的に両手を上げます。

……おもちゃ、だよな?


「知りたい?」


二コっと天使のような笑顔に、ブルブルブルと私は首を左右に振ります。

ちなみにボクシングでいう頭を振るとは、足を使って頭の位置を動かすという意味で、実際には頭を振ってしまってはすぐにパンチを返せなくなるので、あくまでそれは緊急回避的な動作となります。


「そんなことぉ、どうでもいいでしょ?」


声色はすごくかわいいですが、拳銃は突きつけられたままです。

しかし、地の文に反応してくるのであれば、このまま何も言わずにいた方がいいんではなかろうか。


「なんか言えよ」


完全に口調がスケ番のソレです。


「そんな昭和の遺物なんかどうでもいいっつってんだろ、オラァン!」


今度はヨーヨーを取り出し、私に向かって撃ち放ってきました。

しかし、私はそれを華麗なステップワークでかわします。


「へっ、なかなかやるじゃねぇか。さすがは元プロ」


「バカいうな。俺はまだまだ現役だ」


言って、ふと、私は我に返ります。


「それはそうと、お前はなんでそんな恰好をしてるんだ」


「事件よ、おじさん」


うーん、お前もまたそんなことを言い出すのか。

薄々、わかってはいたことだけれども、実際に耳にすると頭が痛いです。


「ボス! 事件です!」


「はいはい。で、何の事件なんだ?」


ここは仕方なく付き合いましょう。


「ボス、まずはどこで事件が起こったのかを調べるのが捜査の定石です!」


「あーそう、それでどこのなにがしさんが事件に遭ったんだ?」


「ボス、しっかりしてください! 事件は今、このジムで起こっているんですよ!」


いやまあ、確かにこの状況がある意味、事件なんだが。


「これがその証拠です!」


拳銃をジムに吊っているサンドバッグに狙いをつけ、炸裂音とともに銃弾を撃ち放った。

一発、二発、三発とサンドバッグに銃弾が命中する。

そして、気取ったしぐさで銃口から出ている煙をフッと吹き流した。


おいおいおい、サンドバッグって高いんだぞ。


見るとサンドバッグの銃弾が命中した部分からサラサラと砂があふれ出す。


あーあ。


しかし、その砂の後からあふれ出てきたものは血のような赤い液体。


いやいやいや。


さらにその後に続いて出てきたものは、血で赤く染まった人間の手首、手足である。

私はあまりの事態に言葉を失いました。


「御用だ御用だ!」


時代劇に出てくるような提灯を片手に、サンドバッグからそれらをつかんで中身を引きずり出した。

どう見ても生きているとは思えない肉片と化しているそれは、さっきまで電話で話していた我がジムのトレーナーである。

虫眼鏡でそれをじっくり観察し、そして彼女は私に告げました。


「大変です、ボス! 生きています!」


もはや何がどう大変なのか意味がわからないんだが。

そもそもサンドバッグから人が出てきたり、一般人としか思えない人間が拳銃をぶっ放してるのが大変なことじゃないのでしょうか。


「ボス! 桃太郎は桃から生まれたし、かぐや姫は竹から生まれました! ボクサーがサンドバッグから生まれてもなんら不思議はありません!」


そうなの?

なんか言われてみるとそんな気もしてきましたが、みなさんはどう思われるのでしょうか。

それはさておき、私は駆け寄り、トレーナーに向けられた拳銃を静止します。


「ボス、やめてください! なぜ止めるのですか」


「そりゃあ止めるに決まってるだろ。どう見ても生きているようには見えないが、生きているというのなら、救急車を呼ばなきゃダメだ。このまま死なせたら、お前、殺人犯になってしまうぞ。刑務所ブタ箱行きになるがそれでもいいのか」


「私なら大丈夫よ、おじさん。私には殺人許可証ライセンスがあるから」


自慢げに提示したソレは顔写真と生年月日、住所の掲載された運転免許と酷似したカードだった。

ただ違うのは名称部分に「殺人許可証」と記載されていることだった。


「まったくひどいなぁ。問答無用で撃ってくるなんて」


言いながら自分の手足を拾い集めてくっつけ始めました。


「おっと間違えた。こっちは右足だった」


「なにやってんのよ、ほら」


くっつけたばかりの右足を撃ち抜いて、またトレーナーの身体は地面に転がりました。


「助かります」


そして、はいつくばったまま転がっている自分の右足を拾いに行きます。

なんなんでしょう、この光景は。


「大丈夫ですよ、会長。ちゃんとこの小説は〝残虐描写あり〟って注意書きありますから」


そういう問題なのでしょうか。

きっと私の知らないうちに時代の進化はすごいことになっているのでしょうね。


ふと足元を見ると先ほど見たようなカードと同じ形状のものがあります。

拾って見てみると記載してある内容には住所、氏名、年齢、そして、死亡許可証と書かれていました。

そして、停止処分と書かれた印鑑まで押してあります。


「もしかして免停くらったの?」


身体を一通りくっつけ終えて、立ち上がります。


「こっそり健康的な生活してたらさ、ちょっと見つかっちゃったんですよね」


許可証の裏面にはマイナスイオン、水素水、紅茶きのこといった言葉が並んでいる。

私は見たことを後悔しました。

いやもっと前に後悔しろというのは、わかっているつもりです。


「時代は今! 大・後悔時代!」


「やかましいわ!」


「というわけで僕は今、死にたくても死ねないんですよ。死亡許可証ライセンスが免停くらってますから」


「だいたいなんで死ぬのに許可が必要なんだ。普通は生存許可証が正しいだろ、人はみんないずれ死ぬんだし」


「生きることに誰かの許可が必要なんですか」


いや、確かにそれはそうなんだけれども。


「勝手に産んでおいて! 産んでくれなんてこっちは頼んだ覚えなんかないんだよ!!」


「お父さんになんて事を言うの! 謝りなさい!」


銃弾が炸裂しました。

たぶんホームドラマによくある不良息子をビンタする母親っぽいやつなんでしょう。


「撃ったね!」


「ああ、撃ったさ! 撃って何が悪い!」


もう一発銃弾が炸裂しました。


「二発も撃った!! おやじにも撃たれたことないのに!!!」


この小芝居はいつまで続くんでしょうか。

そして、読んでる皆さんはこれを面白いと思っていただけるのでしょうか。


「ちょっと会長、真面目に解説してくださいよ」


「まあでもこのくらいでいいんじゃない? ライセンスの話も出たし」


「それもそうですね。じゃあマネージャーとトレーナーの解説でもしてください」


いや、いきなり振られても困るんだが。


「今日は私が掃除してあげるから」


マネージャーは掃除機で砂を吸い取り始め、トレーナーはガムテープで破れたサンドバッグの修理を始めました。


「いいですね。そのおじいさんは山に芝刈り、おばあさんは川に洗濯っぽいノリ」


マネージャー・ライセンスは主に選手契約に関する業務を行うのに必要なもの、トレーナー・ライセンスは選手を指導するものに与えられるもので、これはプロ・ライセンスを過去に取得したものでないと取れません。

プロ経験がない人間に関してはセコンド・ライセンスがそれに代わるものになるのでしょうか。


「具体的にはトレーナーとセコンドライセンスは試合の時にコーナーにつけるかどうか、ですよね」


「基本的に選手控室には関係者以外立ち入り禁止だからな」


「というわけで、今回のお題はこれでおしまい! 完っ!」


両手を交差して、試合終了の仕草ジェスチャー

……こんなすぐ終わる説明のためだけに、延々としょうもない小芝居を繰り広げたのか。


「しょーがないでしょ。世間一般の人にはボクシングなんて興味わかないんだから」


「そ、そんなことないと思うぞ。……なあ?」


「自分、コメントは差し控えさせていただきます」


この卑怯者め。


「……もっとも、もっとキャッチーでナウでヤングなネタを取り上げれば、もっと読者は楽しめるかも、ですね」


その言葉を聞いた彼女はすばやく眼鏡をかけて、その眼差しから鋭い眼光を放ちました。


「……じゃあ、ナウでヤングなネタとして刺青タトゥー問題なんてどう?」


「会長! 僕、山に洗濯に行ってきます! お土産楽しみにしてくださいね!」


「待て! 俺も川に芝刈りに行く!」


「逃がさないわよ!」


「すまん!」


「ぎゃあああああ!」


ジムの外に出た私をあたたかな陽の光がやさしく包み込みます。

やはり時には外に出て、外界の空気に触れないといけません。

どうしても視野が狭くなってしまいます。


「だいたいね、選手個人がそれでよくても、言われるのはこっちなのよ! やってることは興行! ビジネス! 遊びじゃないの! 人に裸見せる商売してる人間が刺青タトゥー入れたらどうなるか、なんでわかんないの!」


ジムは厳しく有能なマネージャーと優しく楽しい指導ができるトレーナーに任せて、私はひと時の安息の時を過ごしてきたいと思います。


「金! 金! 金! 世の中、金なのよ! 自分勝手にやりたければ無報酬で自分ひとりでやればいいのよ! みんなの迷惑にならないようにね!」


私は踊り場の階段を駆け下り、ほっほっほっ。と小気味よい足取りで街中の喧騒にまぎれていきます。


「みなさーん! この小説はフィクションですよー! 一切の人物、団体、出来事とは一切関係ありませんからねー! 殺人許可証とか死亡許可証(免停中)とか出てくる小説の内容を真に受けちゃダメですからねー」


それでは皆さん、また次回をお楽しみに。


002 マネージャーとトレーナーと私 終

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