007 過去と現在と私(後編)
立っているものはリングのマットの上。
辺り一面を包むものは闇。
見回す場所には何もない。
何も聞こえないし、何も聞きたくない。
乾いた血と汗の匂いも、全身を引きずり降ろされるような空気の肌触りも、全てが不快だった。
空虚でかわいた胸の内。
決して手の届かない場所から〝光〟が熱く身体を照らす。
それは〝夢〟。
かつて自分が懸命に手を伸ばし、そして掴み切れなかったもの。
「――――――!!」
発せられるものは渇望。
光に向かって懸命に手を伸ばす。
当てのない希望。
掴むことのできない絶望。
一瞬、目の前が真っ暗になり、また次の瞬間、光が照らす。
ふわっと宙に浮いた感覚。
遠くなっていく光。
おぼつかない足取りで光に向かって走り寄る。
行く手を遮るロープ。
追いつけない。
手の届かない。
「ッ! ッ! ……ッッ!!」
もがいてもがいて、それでももがいて。
越えられないロープを越えるべくもがいて。
光はもう遥か遠く、彼方の先。
消えていく光。
〝それ〟を確かにこの手に掴んだはずだった。
掴んだつもりだった。
……光は消えた。
辺りを闇が包む。
何を求めて、
ここでなら求めるものがある。手に入れられる。
そう思っていた。
「そう。あんたは〝夢〟をもとめてリングに上がっていた」
目の前に眼帯をした赤い髪の少女が現れる。
「未来への希望を信じて、あなたはリングに上がっていた」
その言葉と共に現れたのは、包帯姿の青い髪の少女。
「……違う。〝オレ〟はそんなかっこいい幻想なんて
眼帯少女はフンと鼻で笑う。
「そうね、あんたの抱いていたものは幻想。偽りの幸せだった」
包帯少女も続く。
「みんなの見せかけの優しさ。あなたはそれにすがって生きてきた」
「……それで、何が悪い」
「悪くなんかないわよ、結構なことじゃない。……あんたがそれに満足できていたのならね」
眼帯少女は冷たく見下ろす。
「〝夢〟を見るのは大切なこと。それは生きとし生けるもの全てに与えられた、とても大切なもの」
包帯少女はかがんで、視線を合わせる。
「あの時のオレに何ができたっていうんだ」
「あんたバカぁ? 勝つ以外にあんたのできることなんてなかったでしょ」
「あなたは勝った。心も身体もボロボロで、それでもリングに上がって、あなたは勝利を掴んだ」
「…………」
「なんとか言いなさいよ」
「黙っていちゃ何もわかってもらえないわ」
「……それが、この結果なのか。何も得られない。何もない。それが……、それが!!」
暗闇の中から巨大な黒い拳が現れ、わしづかみにされる。
「ッ…! なのに、なんでまた〝コレ〟をやらなきゃいけないんだよ!」
見上げた先には光る二つの瞳が浮かび上がっていた。
「……こたえろよ!!」
光る二つの瞳は何も答えない。
「世の中にはね、やりたいことをやりたくってもできない人間だってたくさんいるの」
「あなたは恵まれている。あなただって気付いているはず」
眼帯少女と包帯少女が再び語り掛ける。
「あんたは選ばれた。過程はどうあれ、再びボクシングをすることを許されたのよ」
「あなたは勝つことで〝未来〟を手に入れることができた」
「これが……、こんなものがオレの未来なのか。……こんなものが! こんな未来が!!」
憤りに二人の少女は何も答えず、ただまなざしを返すだけだった。
「オレは……こんな未来のために戦ったんじゃない! こんな未来しかないんだったら、オレは……、オレは……っ!!」
「負けた人間に未来なんて無い。それはあんたが一番よく知ってるはず」
「リングの上には勝者か敗者、その二人しか存在しない」
「相手だってあんたを殴ったし、あんただって相手を殴った」
「互いに互いを殴り合って、傷つけあって」
「そして、あんたは勝った。……勝者と敗者にしかなれないリングの上で、あんたが勝者になった」
「あの時、みんながあなたの勝利を願っていた。あなたがかつて戦った相手も、あなたに声援を送っていた」
「…………」
「あんたはわかってた。勝つしかなかったって。勝つ以外に、あんたに未来はなかったって」
「だから、あなたは勝てた。未来を掴むことができた」
「ほんのわずか。与えられた一瞬のチャンスを見逃さなかった」
「今でもあの時のこぶしの感触はあなたの身体に残っている。……かけがえのないものとして」
「じゃあ、もういいじゃないか。これ以上、関わる理由なんてない。オレは勝った。そして未来を掴んだ。その結果がこれだ。結局、勝ったところで未来なんてない。何も変わらなかったんだ。負けていいことなんてない。でも勝ったって、結局、未来なんて手に入らなかったんだ。これからも……変わらない。わかったのはそれだけなんだ。もう……それしかなかったんだ。……それしかなかったんだよ!!」
締め付けていた黒い拳は消える。
解放された身体は膝をつき、うなだれる。
「……もうこれ以上、オレに何をしろっていうんだ」
「あんたバカぁ? そんなの知らないわよ。自分で考えて自分で決めればいいじゃない。ガキじゃないんだから」
「ボクシングのこと、嫌い?」
「……好きでやってるわけじゃない」
「まーた始まった。素直になればいいのに。そういうとこよ、あんた」
包帯少女が眼帯少女の顔をじっと見る。
「な、なによ」
「あなたも。素直にがんばれって励ませばいいのに」
「う、うっさいわね。こんな屁理屈男、まともに励ましたって素直に受け取るわけないじゃない」
足元に壊れた二組の人形が現れる。
一つは血まみれのドレスの女が、ぼろぼろの海賊に馬乗りになってナイフを突き刺している。
もう一つは寝そべった犬の人形だが、耳と目から血を流し、前足と後ろ足がそれぞれあり得ない方向に折れ曲がっていた。
「また、えっらいもん出してきたわね」
「……かわいそう」
二組の人形はそれぞれ同じ動作を繰り返す。
女は力なくナイフを海賊の頭に刺し続け、犬はだらしなく舌を垂らしながら尻尾を振り続けていた。
「……これが、その〝未来〟でもか」
「……そう、これがあんたの手に入れた未来。勝利の結果なの」
「そうさ。これでもあの時、続けろって言えるのかよ。誰もわかってくれない中で、殴って殴られてやっと勝ってそのあげくが、……それでもこんな未来しかなくて、それでもまだ戦えっていうのかよ!」
見下ろす二つの光の瞳はただ変わらない光を放っていた。
「未来は自分のその手で掴むもの」
「そんなの自分に関係ない
「ごめんなさい。それでも、私達はそう言うしかあなたにはできないの」
「あんただってわかってるんでしょ。誰もあんたなんか助けてくれない。あんたの未来はあんた自身のその手で掴む以外にないの。……私達にはあんたに何もしてやることなんてできないのよ」
赤髪の眼帯少女は女と海賊の人形を踏み潰した。
「あんたにはあんたの未来がある」
青髪の包帯少女は犬の人形を拾い上げる。
「偽りの幸せ。見せかけの優しさ」
そして、抱きかかえながら押し潰す。
「でも、本当にそれだけだった?」
眼帯少女と包帯少女の足元に散らばった人形の破片は闇の中に消えていく。
「こんなものはもう〝過去〟でしかない」
「大切なのは〝
「過去か、
「
「みんな、自分の未来なんて選べない。与えられた未来の中で生きていくしかないのよ」
「それでもあなたは知っているはず。未来は掴めるということを」
「未来は絶対よ。それを手にすることが間違いだなんて絶対にありえない。たとえそれがどんな未来でも」
「だからこそ、あなたは再びボクシングに戻ってきた。……戻ってくることができた」
「あんたの掴んだ未来は、確かにあんたの思っていた未来とは違っていた。それだけのことじゃない。……たった、それだけのことなのよ」
「どんなに嘆いても過去も現在も変わらない。でも未来なら変えることができるかもしれない。……いえ、あなたは変えることができると知っている。そうでしょ?」
「…………」
「いい加減、立ちなさいな。下ばかり見ても前に向かって歩けないわよ」
「がんばって。私達はいつもあなたを応援しているから」
眼帯少女と包帯少女は消える。
見上げると二つの光る瞳。
「オマエにとってボクシングとはナンダ?」
男のものとも女のものとも判断のつかない、低く重い声。
「……それだけがオレに残された、たった一つの全てだから」
何の感情も熱意もない、冷めきったつぶやき。
立ち上がって小さくつぶやいたそれが聞こえたのか。
二つの瞳から光が広がり、そして、その光は周囲を、すべてを満たしていった。
……………………。
………………。
…………。
……。
007 過去と現在と私(後編)
「ぶぇっくしょいっっ!!」
……私は自身の身体を襲う激しい悪寒によって、目を覚ましました。
周囲を見回し唖然としました。
なんと私が寝ていたリングの周りには、窓は全開、扇風機が全力で回されているじゃあーりませんか。
しかも、私はシャツ1枚です。
いや下はもちろんズボンは履いていますが。
たとえ地の文とはいえ、しっかり述べていかないと履いてないことにされてしまうので、油断も隙もありません。
しかし、シャツは汗でずぶぬれ。
冷たいシャツに冷たい風で、私の身体はもう冷え冷えです。
「大丈夫、おじさん。今、私が暖めてあげるわ」
私は身の危険を感じ、素早く身体をリングの下に逃がしました。
私がさっきまでいた場所には荒れ狂う炎が蛇となって渦巻いています。
「ちょっとぉ、なんで逃げるのよ。せっかく暖めてあげようと思ったのに」
「お前、それ火炎放射器じゃないか!」
全身を灰色の耐火防護服に身を包み、脇に抱えているのは炎の蛇を吐き出した火炎放射器。
マスクを外したその顔は汗に輝いています。
「私の名は〝ファイアー〟。炎の化身。この世の全ての
「知るか、そんなもの! だいたい何でこんな状況なんだ。風邪ひくわ」
「この猛暑の中、熱中症にならないように冷やしてあげてたのよ」
「限度があるだろ!」
いつものことだとはわかっていますが、さすがに普段は
「だから今、こうして暖めてあげようとしてるんじゃない」
「焼け死ぬわ!」
炎の蛇が舞い踊った後には熱で溶け落ちたロープと、リングのマットが黒く焦げています。
「……これは、〝夢〟の続き。おじさんが望んだ未来、そのものなのよ」
「何が悲しくて、マネージャーに会長が焼き殺されなければいかんのだ!」
「いいじゃない。もう人生、充分に楽しんだでしょ?」
……恐ろしい奴だ。
いくら
「たまたま火炎放射器を使ったら、たまたまおじさんがいて、たまたま丸焼きになってしまっただけ。何も問題はないわ」
「問題ありすぎるわ! リングだってまる焼けだし、修理にいくらかかると思ってるんだ!」
「世の中、なんでも〝たまたま〟がつけば許されることって多いじゃない」
抱えた放射器からゴトリと四角い何かが床に落ちます。
落ちた個所の床の四方にひびが入ります。
あああ、大家さんになんて言えばいいんだ、この状況。
「固いこと言わないの。どうせ次の回には何事もなかったかのようにピカピカのギンギンよ」
四角いものを入れなおして、再び火炎放射器を私に構え直します。
「マテ! 話せばわかる。なんでそう俺を焼き殺そうとするんだ」
話してもわかりあえないのはわかりきっていますが、さすがの私も丸焼きはごめんです。
「私のカロリーが怒りに燃えているの。だから仕方ないのよ」
くそ、もう観念するしかないのか。
さっきから言っていることが二転三転してますが、〝私を焼き殺したい〟という確固たる熱意だけはしっかりと伝わってきます。
私はあきらめて両手を上げました。
……冷蔵庫に入れておいたマリトッツォを食べられなかったのが、せめてもの心残りだったな。
「……は?」
ガシャンと火炎放射器が床に落ちました。ついでにまた亀裂が。
「ったくさー、早くそれを言いなさいよね」
防護服も脱ぎ捨てます。亀裂もやっぱり入ります。
どんだけ重い服を着てたんだ、お前は。
「やっぱりおじさん、長年ジムを経営してるんだからきちんと気配りできるんじゃない。ほんとにもう、言ってくれなきゃわからないのよ?」
急に機嫌が直ったみたいですが、ここは流れに乗りましょう。
「あたりまえだろ。こう見えても俺は会長。お前たちの上司だぞ。心配りも完璧だ」
言い始めは若干しどろもどろですが、なんとか言い
「そういえば、〝あいつ〟はどこ行った?」
「ああ、〝彼〟なら今日は帰ったわよ。そりゃあんだけ激しいことやればねぇ」
「何、やらかしたんだ」
「いやいや、おじさんも見てたじゃない。途中で寝ちゃったけど。まあ寝起きだからうまく思い出せないのも仕方ないけどね」
火炎放射器で殺されかければ、記憶喪失レベルの
「ところで質問なんだけど、何で〝彼ら〟はダメだったの。みんな、かつてはこのジムのトレーナーだったんでしょ」
そこは覚えていました。そこから先は思い出せませんが。
「みんながダメってわけじゃない。ただ、プロだからな。意外にいないんだよ。選手第一で考えられる人間って」
「あの金髪さんも? ……まあ、彼とはうまくいかなかったみたいだけど」
「……結果が出せなかったからな。喧嘩しようが何してようが勝てばいい。それがプロ。どんなに仲良くしてても勝たせられなければ、それは失格なんだよ」
「選手第一じゃなかった?」
答えづらい質問です。
「……厳しすぎた部分はあった。選手に求めすぎて、選手もやっぱりトレーナーのいうことだから受け入れて、結果としてそれが結びつかなかった。あの二人に関しては、な。ただ〝彼〟がこのジムで一番選手を勝たせた……実績を残したトレーナーであることは間違いない」
「なんでやめちゃったのよ」
「……色々、厳しすぎたんだよ。選手にも、自分にも」
「じゃあ、〝彼〟はなぜ今、このジムでトレーナーを?」
「そんなこと、俺が知るか」
あ、やばい。
「…………」
どうも寝起きは口が緩んでしまいます。あああ、冷たい視線が痛い。言い訳したいが言い訳はいいわけ。……なんちゃって。
「……まあ、お互いに知ったこっちゃない。ってのが、おじさんと彼の関係みたいだからねぇ」
「え? なんでお前がそれを知っている」
「彼自身が言っていたでしょ。覚えてないかもしれないけど。……覚えてないの?」
ううう、その責め立てる
「……ま、いいわ。彼は、練習生や選手相手の
「そ、そう。そこなんだよ。彼とは感情論でなく結果、実績ベースで話ができる。経営者視点だと本当にありがたいんだよ」
「コミッションや協会相手にちょっとしたミスで揚げ足とって、怒鳴りつける誰かさんとはえらい違いねぇ」
……どこのどなたかな?
「今はそんなことよりマリトッツォだろ? 新鮮なマリトッツォが冷めちまう」
「そうやってまた私を肥え太らせて、ダイエットのためにボクシングをやらせて会費をせしめる戦略ね」
発言は皮肉めいていますが、満面の笑みです。
「人は誰しも甘いものには勝てないさ。さ、お茶を頼むよ」
「そうね。緑茶でカロリーゼロ! これが甘いものをおいしく食べる秘訣よね」
彼女はルンルン気分の足取りで事務室に向かいました。
……はー、疲れた。
思わず行間を空けて、つぶやかずにはいられません。
開かれた窓の外には、いつもと変わらない光景。
風が私の身体をやさしくなでていきます。そして、私は大きく深呼吸。
胸いっぱいに風が空気を運んできます。
大きく息が吸えるって本当にすばらしい。
前回では何やら不可思議な光景が繰り広げられていましたが、外出にマスクやゴーグルがいるとかそんなバカげた未来が来るわけなんてありえません。
皆さんもそう思いませんか?
「おーじさーん。何やってんのよ」
事務室から急かす声が聞こえます。
私はもう一度胸いっぱいに空気を吸い込みます。
じゃっかん焼け焦げた匂いも混じっていますが、そんなものはささいなこと。
胸いっぱいに空気を吸える幸せをかみしめながら、私は新鮮なマリトッツォと温かいお茶の待つ事務室へと向かうのでした。
つづく
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます