ラノベ主人公の近くでワチャワチャしている俺の恋の話

いきらんあ

第1話

 この世には、悲しいことが数多くある。

 無数にある。

 むしろ、悲しいことばかりと言っても過言ではない。

 そんな地獄の中で、誰もが間違いなく耐えがたい痛苦として挙げるものがある。

 そう。

 好きな人が、自分でない別の人を好きだということだ。

 でも、絶望の中に希望を見出すのが人間だ。

 不幸中の幸い……というと、少し語弊があるかもしれない。

 好きな人の想い人が、信用に足るのみならず、素晴らしい友人であることだ。

 そうなれば、俺はどうすれば良いか。

 悩むまでもない。

 全力でその恋を応援するまでだ。

 俺の最愛の人が、俺の敬愛する友に恋している。

 成就させなければならない、この恋を。

 敬愛する友も、俺の最愛の人を、憎からず想っているハズだ。

 俺は、助力を惜しまない。


「なあなあ、タカネさん、これからカラオケに行かないか?」

 俺は極度の緊張を押し殺し、至って軽く彼女を誘った。

 その軽さ、まさに風に舞う綿毛の如し。

 上手く誘えただろうか。

 放課後である。

 ほとんどの生徒が、部活、デート、予備校などに向かい、W高等学校2年D組の教室は人が疎らだ。

 つまり、今いるメンツは、基本的に暇なハズである。

 あとは彼女の胸先三寸。

「どうしましょう。カラオケに行ったことがないのですが……」

 タカネさんは、口元に手を当てて、少し首を傾ける。

 それに合わせて、艶やかな長い黒髪が揺れた。

 美しい。

 容姿端麗で、大和撫子の顕現。

 過度な凹凸があるわけではなく、均整のとれたプロポーションが、むしろ上品だ。

 性格は温厚で、芸術に造詣が深く、成績は上の上。

 そして、旧財閥の御令嬢。

 なのに俺のようなモブにも分け隔てなく接してくれる。

 なにこれ、女神か。

 カラオケに行ったことがない?

 そんな世間知らずが、かわいい。

 いかんいかん、本来の目的から思考が逸れてしまった。

 俺は、隣に立つ親友――通称『ケーオー』――に目を向ける。

 ちなみに、ケーオーはノックアウトの略ではない。

 関東の某有名私立大学からの連想だ。

 苗字と雰囲気がそれっぽいというだけで、ついたあだ名だ。

 タカネさんもケーオーに目を向ける。

 タカネさんの視線の真意に気付いているのか、いないのか、彼はボーッとした顔をしていたが、彼女を励ますように頷いた。

「暇だし、みんなでカラオケ行くか」

 まったく覇気がない。

 かああぁぁぁ、おまえとタカネさんが遊びにいくお膳立てしようっていうのに、まったく困った奴め。

 ケーオーが、無自覚のイケメンで、やる気がないだけで実は運動神経抜群で、地味に成績が良くて、そんなことよりなにより友達想いのナイスガイでなければ、後頭部を思い切り叩いていたところだ。

 やれやれ、鈍感系ラノベ主人公の恋路をサポートするのは楽じゃない。

 ケーオーにジト目をくれてやり、肩を竦めて、そっと溜息を吐いた。

「初めてっていうなら、俺がカラオケボックスの作法を教えるからさ」

 タカネさんに向けて、ウザい感じにサムズアップして見せる。

 空気を読まないのが俺の仕事だ。

「マンサクさんが、そう仰るなら……行きます」

 タカネさんは、小さな決意を魅惑的な双眸に浮かべ、胸の前で小さな拳をグッと握った。

 マンサクは、俺のあだ名だ。

 氏を音読みにして、氏名を縮めただけだ。

 少し……否、かなり野暮ったいが、それほど嫌いじゃない。

「セイブツも行くだろ?」

 俺は、タカネさんの斜め後ろに立って微動だにしない小柄な少女に声を掛ける。

 男性の平均身長に余裕で及ばない俺でも旋毛が見える。

 ボブカットで前髪パッツン。

 その表情からは、感情の一切が抜け落ちている。

 セイブツのあだ名の由来は、生物の成績がやたら良かったことによる。

「行く」

 5ミリくらい頷いた……だろうか?

 というわけで、俺、ケーオー、タカネさん、セイブツの四人でカラオケボックスに行くことになった。

 最愛のタカネさんと、敬愛するケーオーの恋路を応援するためだ。

 しかし、タカネさんとカラオケに行けることに、高揚している自分がいる。

 なんと浅ましい。

 自分が嫌いになりそうだ。

 これは俺が失恋するための物語だ。


 放っておけば、男子は男子で、女子は女子で固まってしまうに違いない。

 カラオケの個室に入るや否や、俺は敢えて空気を読まないムーブを発動する。

「それじゃあ、セイブツはこっちに座れよ」

 俺はセイブツの肩を軽く押して、誘導する。

「うん」

 なんら抵抗せず、セイブツは俺の隣に腰掛ける。

 ふっふっふ、計算通りだ。

 狭い部屋にするよう皆には内緒で受付の店員に耳打ちをしていた。

 要望通り、案内された個室は狭い。

 L字型のソファには、各辺にせいぜい二人しか座ることができず、俺とセイブツが一緒に座れば、必然的にタカネさんとケーオーのカップルシートが出来上がる。

 エクセレント。

「よろしくお願いします」

「おお」

「ふふふ、楽しみです」

 そんな何気ないふたりの姿が眩しいぜ。

 胸がチクリと痛むが、幸福のご相伴に与かっていると思うことにする。

 アオハルだわー。

 そんな風に、恋の悲しみを、友情の喜びで押し込んでいると、タカネさんがこちらを指す。

「セ、セイブツさん、ちょっとマンサクさんと近いのでは?」

 なんだか、タカネさんがプルプルしている。

 空調が効き過ぎて、寒いのだろうか。

 そんなことはない、今日は十分に暖かいし、エアコンは換気のために作動しているようなものだ。

「普通」

 セイブツがザ・淡泊に答える。

「殿方との健全な距離感ではないと思いますが」

「そんなことない」

 むー、と少しタカネさんが眉間に皺を寄せる。

 彼女が僅かにでも不機嫌を露わにするなど珍しい。

 でもそれは拗ねているようなもので、むしろ愛らしい。

 あー、なるへそ。セイブツが他の奴と仲良くしているのに嫉妬しているのか。

 女子同士の友情……尊い。

 が、それは普段やってほしい。

 今は、ケーオーとイチャイチャしてくれ。

 それにしても、セイブツが確かに近い。

 しっかりと俺の肩と彼女の肩が触れ合っている。

「セイブツ、もう少し離れてもいいんじゃないか?」

「やだ」

「なんで」

「挑発だから」

「意味が分からん」

「進展しないから」

「だから、なにが」

 マイクとリモコンをとったタイミングで、セイブツと適正な距離をとる。

 また距離を詰めてこようとしたので、セイブツの額に人差し指を当てて止める。

 タカネさんは、溜飲を下げたようだ。

 俺とケーオーは何度もカラオケを共にしているが、タカネさんはカラオケが初めてだというし、セイブツはいの一番に歌うようなタイプではないだろう。

 ここは、俺が先陣を切る。TPOを弁えない形で。

 聴け。

 X JAPAN『紅』――。

 音痴だが本気で、恥ずかし気もなく。

 これは、作戦だ。

 次は、ケーオーのために福山雅治を勝手に入れている。

 タカネさんはお嬢様だ、ガチャガチャしたのは嫌いだろう。

 俺が場を乱したところで、ケーオーがイケボで歌い上げる。

 完璧でしょ。

 俺は、六分弱の名曲を歌い切った。

 さあ、うんざりした天使の御尊顔を――って、あれ?

「メロディアスで胸が躍りました」

 タカネさんは、胸の前で手を組んで、目をキラキラさせている。

「そ、そうかな。気に入ってくれたなら良かったけど」

「X JAPANさんで、他におすすめの楽曲はありますか?」

「たくさんあるよ。『X』、『オルガスム』、『SCARS』とか」

「それも聞いてみたいです」

「意外だな。タカネさんは、ロックとか苦手かと思ったけど」

「普段は嗜みませんが、マンサクさんが好きな曲を知りたいんです」

「ん?」

 福山雅治のイントロが流れ、俺とタカネさんの会話が中断する。

 やっぱりケーオーはイケボだった。


 頃合いを見て個室を後にし、俺はドリンクバーのコーナーに来ていた。

 配席に気を取られ、ドリンクを持ってくるのを忘れていたのだ。

 不覚。

 オーダーは、ケーオーがコーラ、タカネさんが紅茶、セイブツが水、俺がメロンソーダ。

 プラスチックのコップに氷を入れると、サーバーに臨む。

「マンサクさん」

 振り返ると、タカネさんが立っていた。

 可憐だ。彼女の周囲だけがキラキラしている気がする。なにかしらのアプリを使っているのか。

「どうしたの、タカネさん」

「ひとりで、飲み物を四つ持つのは大変かと思いまして」

「手伝いに来てくれたのか」

 ひとりで大丈夫だと啖呵を切ってきたのに、追いかけてくるとは優しすぎる。

「それもありますが、カラオケボックスの作法を教えてもらう約束でしたから」

 そう言って微笑む彼女の姿を、俺は心のフォルダに永久保存することにした。

 唸れ、俺の瞬間記憶能力。

 そんなものはないが、今だけは頼む。

「ありがとう」

 ドリンクバーのカウンターを物珍しそうに見回していたタカネさんに、使用方法を大雑把に説明すると、改めてサーバーに向かった。

 そこで、俺は驚愕する。

「こ、これは」

「どうしたんですか」

「麦茶がある」

「特別なことなのですか」

「普通は、烏龍茶だからね」

「では、私は麦茶にしてみます」

「いや、待って。ここには、ソーダもある」

 タカネさんが、小首を傾げる。

「リトルビールができる」

「初めて聞いた飲料です」

「『OH!MYコンブ』という漫画に出てきた伝説のドリンクなんだ。麦茶とサイダーを一対一で混ぜた奇跡の一品」

「気になります」

 タカネさんが、激しく前のめりだ。

「しかし、ひとつ問題がある」

「問題……とは?」

 彼女が、固唾を飲んで待つ。

「メチャクチャ不味いんだ」

「え――」

 タカネさんは、一瞬呆気にとられた後、あははと笑い出した。

 かつて、こんな明け透けに笑う彼女を見たことがあっただろうか。いや、ない。

 俺たち同様、タカネさんというのもあだ名である。

 本名は、氏がありきたりで、名がおばあさんみたいだということで、本人はこのあだ名を結構気に入っているそうだ。

 俺には、高嶺の花を連想させる。

 そんな彼女が見せた新たな一面に、俺の恋心は激しくかき乱された。


 個室に戻ると、セイブツがSEKAI NO OWARIを歌っていた。

 選曲が普通で、意外だ。

 しかも、普段は抑揚の欠片もないくせに、やたら歌が上手い。

 タカネさんも、先刻、洋楽で美声を披露してくれた(聞き惚れた)し、もしかしてこの世に音痴は俺だけなのだろうか。

 タカネさんがセイブツの隣に座ったので、今度は男子と男子、女子と女子の配席となった。

「タカネとは、話せたのか?」

「おまえがタカネさんをドリンクバーに来させたのか?」

 ケーオーの問いに、失礼ながら問いで返した。

「あいつが行きたそうだったから、追いかければって言っただけだ」

 相変わらずボーッとした感じで、なんでもないことのように言う。

「なんで、そんなこと」

「タカネのこと、好きなんだろ?」

 女子たちに聞こえないように、ケーオーが俺の耳元で囁く。

 イケボに惚れそうになる。

「友達として……な」

「おまえたちは、分かりやすいんだよ」

 愛しき鈍感君が、なにかほざいている。

 親友に嘘を吐くのはツラいが、ここで真実を話すわけにはいかない。

 タカネさんとケーオーの恋が成就したら、俺は彼女に告白するつもりだ。

 略奪するつもりはないし、略奪できるわけもない。

 ただ、俺の恋をキッパリと終わらせるためだ。

 なら、なぜ今、告白しないのかって?

 簡単なことだ、俺、ケーオー、タカネさん、セイブツの関係を壊さないためだ。

 タカネさんとケーオーの関係が不安定な時点で俺の横恋慕が露見すれば、俺たちのグループに緊張が生じるだろう。

『好きです。俺と付きあってください』

『すみません。私、好きな人がいるんです』

 そんなことになれば、ケーオーのことが好きなタカネさん、それを知っている俺、俺がタカネさんを好きだと知ったタカネさん、俺がタカネさんを好きだと勘繰るケーオー、タカネさんを憎からず想っているケーオー、何も興味ないセイブツ。

 人間関係のバランスが崩れる。

 しかし――、

『好きです。俺と付き合ってください』

『すみません。私、お付き合いしている人がいるんです』

 相思相愛のタカネさんとケーオー、フラれた俺、何も興味ないセイブツ。

 シンプルだ。

 あとは、フラれた俺が気まずささえ克服すれば、四人は元通りである。

 俺は、ケーオーにだったらケツの穴を見せたって恥ずかしくない。

 でも、タカネさんへの恋心を認めることだけは出来ないんだ。今は。

「まあ、いいさ。おまえたちは、急ぐ必要なんてないんだから」

 セイブツが歌い終えると、ほぼ同時に四人でドリンクを飲む。

 オーダーを完全に無視したリトルビールを。

 セイブツ以外の三人が、むせた。


 カラオケ店を出ると、俺たちはゲームセンターに入った。

 鈍感ラノベ主人公と女神さまに、クレーンゲームとプリクラの定番イベントをこなしてもらわなければ。

 まったく、不器用な奴らを友達に持つと苦労するぜ。

 おそらくゲームセンターに来るのも初めてなのだろう。タカネさんは、わーと目をキラキラさせながらクレーンゲームの筐体を見て回っている。

 キュート。

 セイブツは、そんな彼女の衛星のように動いている。地学もいけるのか。

 俺とケーオーは、二人に少し遅れてついていく。

 何気ない風を装っているが、俺はレーダーをビンビンに張っている。

 その時、タカネさんの目が見開かれた。

 視線の先には、プラスチックの檻に囚われたぬいぐるみ。

 仙人のような出で立ちの猫だ。その名を、にゃん爺という。今、女子高生の間で密かなブームになっている。

 密かなのにブームとは、これいかに。

 タカネさんが、にゃん爺を凝視している。

 俺のレーダーが激しく反応した。

 欲しいのだろう。

 そのクレーンゲームに釘付けだ。

 ケーオーを肘で突く。とってやれ。

「なんだ?」

 なのに、この鈍感大魔神は動きやがらねえ。

 畜生おおおぉぉぉぉぉぉ。

 気付けよ。

 やむを得ん。俺がやるしかない。

「なんだこれ、不細工なぬいぐるみだなー」

 気のない風を装うために、クレーンゲームに近づきながら悪態を吐いてみる。

「そ、そうでしょうか……」

 タカネさんが、露骨にションボリする。

「いや、不細工なところがかわいい。むしろ、一周回って超かわいい」

「ですよね」

 慌ててフォローすると、タカネさんは瞬時に元気になった。

 なに、このかわいい生き物。

「じゃあ、やってみようかな」

 1回200円、3回500円と書かれたコイン投入口に、俺は迷わず500円玉を投入する。

 1回目、にゃん爺が僅かに動く。

 次が大事だ。

 2回目。

 手汗が出る。

 横、奥、アームが伸びて、またにゃん爺が少し動く。

 やったぞ。

 あと1回でとれるが、簡単すぎない理想的なポジショニング。

 俺は良い仕事をした。

「こんなの無理だー」

 俺は大仰に嘆いて見せる。

「そんなことないだろ、あと1回でいけるハズだ」

 ケーオーが冷静に分析する。

 セイブツも頷く。

「なら、おまえがとってみろよ」

「いや、でもおまえがやってるんだろ」

「逃げるのか」

「逃げるとかじゃなくてだな」

「いいからいいから」

 無理矢理、ケーオーに3回目をやらせる。

 嫌々なのに、そこはラノベ主人公、難なくにゃん爺をゲットする。

 さすがは俺が認める男。いや、漢。

 惚れて良いですか。

「ほらよ」

 ケーオーがにゃん爺を俺に差し出してくる。

 いるかボケ、そこはタカネさんやろ、と視線で伝える。

 超絶鈍感マンも気付いたようで、にゃん爺をタカネさんに渡す。

「タカネにだってさ」

「あ、ありがとうございます」

 なぜかタカネさんが、顔を赤くして、俺に頭を下げてくる。

「宝物にします」

 そうか、恥ずかしくてケーオーの顔をまともに見られないのか。

 本当に清い二人だ。

 だから俺も潔く身を引くことができるのである。

 タカネさんの想い人がケーオー以外だったら、諦めきれなかっただろう。

 今日の最終ミッションは、プリクラだ。

 四人の立ち位置で少しワチャワチャした。

 ぬいぐるみの件で気恥ずかしいのか、主人公とヒロインは隣になるのを避け、セイブツが珍しくアクティブになったかと思うと俺をグイグイと押してきた。

 結果として、気付けば俺の傍らにはタカネさんがいた。

 タカネさんは、プリントアウトされたプリクラを見ると幸せそうな笑顔を浮かべ、大事そうに胸に抱いた。

 初めてのプリクラが嬉しかったのだろう。きっと。


 帰り道で、俺とタカネさんは、二人になった。

 夕暮れ時の土手を並んで歩く。

 他意はない。ケーオーとセイブツとは、帰る方向が違うだけだ。

 さて、ケーオーの数多ある武勇伝のうちとっておきでも教えてあげようか。

 陰湿なセクハラ教師を学校から追い出した話。

 影の番長を炙り出し、体育館破壊の陰謀を食い止めた話。

 PTAによる文化祭の妨害を薙ぎ払った話。

 大きなものだけでも、数えきれない。

 そんな、最高の漢の近くにいられたのは、俺にとって僥倖だった。

 少し雑用するだけなのに、いつも特等席でラノベ主人公の活躍を見ることができるのだから。

「きゃああぁぁぁぁ」

 絹を引き裂くような悲鳴が木霊する。

 発生源に目を向ければ、橋上に我らがW高等学校の制服を着た女生徒の姿がある。

 彼女が指し示す先には、川を流される小さな柴犬。

 俺は、土手を駆け降りると、全力でダイブ。

「マンサクさん!」

 タカネさんの叫び声が、俺の背を叩く。

 着水と同時に、思い出したことがある。

 そういえば、俺は泳げない。

 柴犬からの連想で、全力の犬掻きで柴犬目掛けて突き進む。

 バシャバシャ

 キャッチ。無事に柴犬を捕獲した。

 しかし、新たな問題が発生。

 片手になった俺の犬掻きが、大幅にパワーダウンする。

 必死に両手を振り回すことで、今までなんとか浮いていたのだ。

「ぎゃああぁぁぁっ」

 し、沈む……。

「マンサクさん、その川は浅いですよ!」

「あ、ホントだ」

 立ち上がってみれば、なんのことはない。

 水位は、上背のない俺の胸くらいしかない。

 少し気まずい思いをしながら、川から上がる。

 ブルブルと身体を振った柴犬を、飼い主と思しき女生徒に返す。

「ありがとうございました」女生徒は、丁寧に頭を下げる。「私の家が近くにありますので、シャワーを浴びてください。着替えも用意しますので」

 なんだか感謝とは違うなにかが含まれている感じがしたが、気のせいか。

 少し目が潤んでいる。余程、犬が心配だったと見える。

「いや、俺の家も近いから」

「お名前は? お礼に、お食事でも――」

「大丈夫ですか、マンサクさん」

 俺に近づいてきたタカネさんの姿を認め、女生徒は言葉を止めた。

「あ、タカネさん」

「タカネさんと、マンサクさん……」少女が少し寂しそうな顔をする。「あなたたちが……、そうなんですね……」

「それじゃあ」

 トーンダウンした少女に手を振って、タカネさんと再び帰路に就く。

「格好悪いとこ見せちゃったね。犬掻きだったし、足がつくところで溺れかけたし、びちゃびちゃだし」

「そんなことないです。格好良かったです」

「ありがとう、慰めてくれて」

 三枚目を気取るのには慣れているけど、意中の人にここまで醜態を曝せば、さすがに少しはへこむ。

「マンサクさんは、いつも格好良いです」

 タカネさんは、モジモジしている。

 思ってもいないことを口にするのが恥ずかしいのか。

「私を助けてくれた時だって」

 数か月前のことである。

 タカネさんが、大学生風の男にしつこくナンパされているところに出くわした。

 止めに入った俺は、慌てすぎて足をもつれさせ、タカネさんと男の間で派手に転倒し、顔面強打で鼻血ぶー。

 大量出血にたじろいだ大学生風の男を、ケーオーがひと睨みで追い払った。

 さすがラノベ主人公だ。

 それからタカネさんとケーオー、そして俺の親交が始まった。

 セイブツとの出会いは、また別の話である。

「あれは、ケーオーのおかげだよ」

「もちろん、ケーオーさんにも感謝しています。でも――」

 気が付けばタカネさんの屋敷まで来ていた。

 続きを聞けないまま彼女と別れ、濡れネズミの俺は我が家に向かった。


 週に一度のロングホームルーム。

 W高等学校では、若者の読書離れを憂いて、そのロングホームルームのうちの10分間を読書の時間に割り当てている。

 厳密に言えば、読書の感想を語り合う時間だ。

 クラス内で固定のペアを作って、互いの好きな本について感想を述べたり、相手に薦めたりするのである。

 毎週ネタを仕込むために、読書をするだろうというのが狙いというわけだが、どれくらい意味があるのだろう。

 本を読んでこなくたって、適当に雑談をしているだけで、やり過ごすことはできるのだから。

 でも、俺とタカネさんは真面目に読んでくる。

 無理をしているわけではない。

 二人とも、元々読書が好きなのだ。

「『高慢と偏見』読んだよ」

 借りていた本をタカネさんに返す。

「どうでしたか?」

「面白かった。なんか少女漫画みたいだよね」

「ふふふ、そうかもしれませんね」

 タカネさんが愉快そうに笑う。

 この読書の時間について、不思議なことが一つある。

 俺とタカネさんがペアになったことだ。

 ペア決めは、生徒が各々で自由に交渉して決めた。

 余り物を炙り出す、ボッチには残酷なシステムだ。

 俺は、ビブリオマニアには付き合いきれないとの謎の理由でケーオーに袖にされてしまった。

 俺を放り出すなど、彼には珍しいことである。

 タカネさんは人気者であるにもかかわらず、いや人気者のため誰もが声を掛けあぐねたのか、なぜか残っていた。

 そして、二人がペアになった。

 まるで、誰かの意図が働いているかのようだ。

 それも組織的な意図が。

「今度は、『大いなる遺産』を読んでみませんか? 語り口がユニークなんです」

 と言って、タカネさんが文庫本を差し出す。

「うん、読んでみるよ。『ドグラ・マグラ』はどうだった?」

 俺が貸した本だ。

「眩暈がしそうで、のめり込みました。それで、お願いなのですが……」

「どうしたの?」

「もう1回読みたいので、もう少しお貸しいただけないかと」

「そう言ってくれないかなと思ってたんだ。『ドグラ・マグラ』は、読み返した方が絶対良いから」

「ありがとうございます」

 なんだか、クラスメイトたちから微笑ましそうに見られている気がするが、たぶん気のせいだろう。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ラノベ主人公の近くでワチャワチャしている俺の恋の話 いきらんあ @masaya1989

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ