第5話

 老人に促された通り、イトイスの宿屋でしばしの間休んで疲れを取ったアルド達は約束の時間に老人の家の前へやってきた。老人の家にはてむてむが立っており、四人の姿を見るとパッと顔を輝かせた。

「いらっしゃいましたね。そしたらご案内します」

 てむてむの先導で五人は家の中へ入った。家の座敷で待っていた老人は五人の姿を見てしっかりと頷いた。シャオルーは老人の姿を認めると、背負っていたサンを座敷の上へゆっくりと下ろした。

「来たな」

「……」

 老人は複雑な表情をしているシャオルーに視線を止め、目を細めた。

「どうした坊主。もしや未だに儂のことが思い出せなくてもやもやしているのか?」

「それは、さっきサンから説明を聞いて思い出しました」

 シャオルーは瞼を閉じ、先ほど宿屋で思い出した記憶をもう一度思い返す。

 ――十年前、山の中を駆け回っていた二人はいつしか見知らぬ道へ踏み込んで迷ってしまっていた。

『どうしよう、もう家へ帰れないのかな』

 雪が強まっている中、サンが弱気な発言をした時だった。どこからか白い巨大な影が二人のところへ姿を現した。

『ば、化け物!』

『いたっ』

 影から逃れようと二人は同時に走り出した。だがサンはその瞬間、足がもつれ、雪の上に倒れこんだ。その好機を、二人の目の前にいた山猿は見逃さなかった。

『サン、危ない!』

 サンの頭上に山猿が腕を振り上げ、咄嗟にシャオルーがサンの上にかぶさった。そして山猿の攻撃がシャオルーに直撃すると思われた瞬間、山猿が悲痛な叫び声をあげた。二人が呆気に取られているうちに、山猿は二人を飛び越え、山奥へと一目散に逃げて行った。

『全く。あの山猿の一撃から人を守るのにただ被さるだけな奴があるか。あれでは二人とももろに攻撃を喰らって共死にするだけだろう』

 山猿が逃げ去っていった方向とは反対の方向から現れたのは、弓を背負った一人の妖魔だった。幼い二人はその姿を見て身を強張らせる。

『よ、妖魔め、ぼ、僕たちを食べるつもりかっ?』

『そんな悪趣味は俺にはない。あの美しい風景を見たら人間をいたぶることにはとんと興味を持てなくなったしな』

 シャオルーの言葉に妖魔は呆れたように首を振る。そして名案を思い付いたという風に明るい口調で声を上げた。

『そうだ。お前たちにもあの絶景を見せてやる。そしたら分かるだろう。今日はこれまで以上にいい朝日が見えそうなんだ』

 そう言うと妖魔はにこにこ笑いながら二人へ近づいていく。

『え、な、何?』

『わっ、やめ、やめろーっ!』

 二人が抵抗する間もなく、妖魔は軽々と小さな体を両腕に抱え上げ、軽快な足取りで山道を下っていった。

「洞窟でコウモリの群れが襲い掛かろうが、吹雪で目の前が真っ白になろうが、貴方の爽やかな笑顔もまるで花畑の中を歩いているような軽やかな足取りも崩れることはなかった。僕たちは生きた心地がしなくて、散々泣き叫んだというのに」

(それはトラウマになりそうだわ)

 シャオルーの語った過去を聞き、エイミはひっそりとそんな感想を抱いた。

「そこまで思い出したなら何がしっくりいかないのじゃ?」

「僕がこんな大事なことをずっと忘れていたことです」

 シャオルーは座敷の上に座るサンの方へ向き直る。

「あの日朝日を見てナグシャムへ帰ったのを最後に僕は十年間君に会えなかった。だからずっと気づいていなかった」

 十年前の、忘れていた記憶。山猿に襲われ、逃げ出そうとした時に足がもつれてサンは倒れた。

「サン、君はあの日転んだ時の足のケガがもとで、歩けなくなったんだね?」

「え?」

 状況の理解できず、アルドは怪訝な表情をする。

「すぐに適切な治療をすれば大したことはなかったかもしれない。けれど、君の家は当時も今も大したお金はない。君は医者に行かず、僕にも、おそらく母親にも足の怪我のことを伝えなかった。そして足の怪我のことを誰にも言わなくても大丈夫な方法を見つけた。前々から君の母親が君にやらせようとしていた、纏足だ」

「えっ!?」

 シャオルーの説明を聞いて、アルドはようやく彼の言いたいことを理解して、驚きの声を上げた。

「なるほど。包帯できつく巻いてしまえば怪我した足が見えなくなるし、歩けなくなっていてもそれは纏足のせいだと言い張れるってわけね」

 エイミはシャオルーの推理に舌を巻いた。そこでシャオルーは止まらず、サンの方から視線をそらさずに話し続ける。

「君に靴を履かせるために包帯を外した時に気づけたことだ。いや、久しぶりに君に会った時に僕がちゃんと君の足を直視できれば分かったことだ。或いはもっと前、そう、十年前に君に会えなくなった時から感付くべきだった。いくら母親が会わせまいとしていたとしても、母親が働きに出ている間に家を抜け出せることくらい君には容易かったはずだ。だってずっと君はそうやって僕と外で遊んでいたんだから。そうしなかったということは、君自身が僕に会いたくなかったんだ。あの日山へ行こうと言ったのも、さらに奥へ進んでみようと言ったのも全部僕だから」

「シャオルー?」

 饒舌に話し続けるシャオルーがどこか不安定に見えて、アルドは彼の名前を呼んだ。名前を呼ばれたシャオルーは、しかしアルドの方は見ず、サンの方へ屈みこんだ。

「サン、君は、君の足の怪我で僕が僕のことを責めないようにするために、今まで僕に会わなかったんだね?」

「……違うよ」

 シャオルーの問いかけに、サンは否定の言葉で返す。即答したとは言い難い、不自然な間を前に置いて。それにエイミは一瞬既視感を覚え、すぐにその正体にたどり着く。この不自然な沈黙は、最初にエイミがサンと出会い、彼女に母親が好きかを尋ねた時にもあった。

「私が歩けなくなったのは、足をきつく縛りすぎたからだよ。貴方のせいじゃない」

 口ではそう言いながら、サンは目の前の彼の方を見ない。シャオルーは頭を横に振りながら彼女の右手に自分の左手を重ねる。

「君はお母さんのことが大好きなんだろう? 君のその答えは、歩けなくなった原因を本来の怪我のせいじゃなく、纏足を勧めた母親になすりつけるような行為だぞ」

「足を縛ったのも山へ入っていったのも私の意志だわ。歩けなくなったのは私以外の誰のせいでもない!」

 サンはシャオルーの方を見ないまま、荒げた声で言い放った。一瞬その場に沈黙が舞い降りる。

「言いたいことはそれで全部か?」

 沈黙を破ったのは、老人の一言だった。

「それならさっさと例の場所へ案内するぞ。好機は一瞬だからな」

「話を聞いてなかったんですか?」

 興奮した気持ちを必死で抑え込みながら、シャオルーは老人へ問いかける。

「彼女が歩けなくなった原因は僕なんです。そんな僕が彼女をここまで連れてくる資格なんかなかった。朝日を一緒に見ることなんてできません」

「そんなことどうでもいいんだよ」

 シャオルーは勢いよく立ち上がり、老人の方へ詰め寄った。

「今の発言、どういうことですか?」

「字面通りだ。太陽の姿を拝むのに資格も何もない。そこにあるのは雄大な自然だけよ。自然にとっちゃお前たちの間の事情なぞ関係ない」

 老人は殺気立ったシャオルーの方を見て、にやりと笑って見せる。

「あの朝日を見れば気持ちが洗われてそんな過去のごたごたが全部どうでもよくなる。どうでもよくなったら、前を向こうって気持ちに素直になれるもんだ」

「どうでもいいだって?」

 シャオルーは老人の方をキッと睨みつける。

「どうでもよくあるもんか。僕の軽はずみな行為で彼女の人生が台無しになったんだぞ。彼女は自分の足でどこへでも走って行けるはずの人だったのに!」

「そうかいそうかい」

 シャオルーの言葉に老人は掌をひらひらさせながら家の奥へと進んでいく。

「ちょっと! さっきの言葉をちゃんと撤回して下さい!」

「断る。お前と話し込んでいる間に絶景を見逃しかねないからな」

「待てっ!」

 頭に血の上ったシャオルーは、老人を捕まえようと後ろからバッと飛びかかる。老人はそれを軽やかな身のこなしでかわす。シャオルーの腕は空振りし、勢い余って壁に額を打ち付けた。

「お、おい、シャオルー、落ち着けって!」

 アルドが慌てて止めようとするが、シャオルーはそれに構わず老人に何度も飛びかかった。老人はその度に彼をかわし続け、結果老人の方は擦り傷一つ付いていないのにもかかわらず、シャオルーは体の何か所にもあざや擦り傷がつく羽目になった。

「ちょっと、シャオルー、一度止まりなって!」

 エイミも制止の声を上げるがシャオルーは聞く耳を持たない。老人は家の一番奥の裏口の前に立っており、満身創痍のシャオルーを呆れ顔で見ていた。

「案外しぶとい奴じゃのう。そろそろ時間じゃから儂は行くぞ」

「待てっ!」

 老人が裏口の向こうへ姿を消し、シャオルーはそれを追いかけて裏口から外へ飛び出した。その瞬間、彼の視界は急激に眩しくなり、シャオルーは「うわっ」と短く声を上げて思わず腕で目を隠した。

「腕で視界を覆うのはもったいないぞ」

 チカチカとした世界の中で、老人の飄々とした声がシャオルーの耳に聞こえてくる。

「その目でしかと見ろ。お前の目の前に広がる絶景を!」

 老人の言葉に促され、シャオルーは腕を下げ、目を開けた。周囲の明るさに段々と慣れてきた彼の目の前に広がっていたのは、彼の記憶の中の風景よりも上をいく、絶景だった。

 白い雪で覆われた山の合間を太陽がゆっくりと上り、世界を光で染め上げていく。群青の青空に上塗りされた紅と黄金の彩も、湖面に反映された朝焼けも、木の上で日の光を浴びて煌めく雪の結晶も、全てが彼から言葉を奪っていた。

「きれい……!」

「いつ見てもここの朝日は綺麗ですね!」

 言葉を失っていたシャオルーの耳に聞こえたのは、背後で発せられたエイミとてむてむの感嘆の声だった。振り返ると、てむてむ、アルド、エイミの三人も裏口から出てきて朝日を前にして立ち尽くしていた。そして、アルドの背にはサンが担がれていた。アルドはシャオルーの視線に気づくと穏やかな笑みを浮かべ、サンをゆっくりと雪の上に座らせるようにしておろした。そして再び太陽の方に視線を向け、シャオルーに話しかけた。

「すごい綺麗な朝焼けだ。みんなでここまで来たかいがあったよ。サンとシャオルーがもう一回見たいって言っていた理由が分かる」

 シャオルーはアルドに何か言おうとして、口に出す言葉を見つけられなかった。そして再び太陽の方を見て、その中途半端に開けた口から、自然とその言葉が出てきた。

「うん、来てよかった」

 本心からの言葉だった。シャオルーはそのままアルドの方へ向き直り、首を垂れた。

「ありがとう、アルド。僕らがここに来られたのは、貴方達のおかげです」

「俺達だけの力じゃないよ。シャオルーとサンが強くそうしたいと思ったから叶ったことだ」

 アルドはそう言うと、視線をサンの方に向ける。つられて彼女の方を見たシャオルーは、目を見開いた。

「サン、泣いているの?」

 彼女は、泣き声も嗚咽もなく、ただ静かに頬を涙で濡らして朝日の方を見ていた。その姿に呆気にとられたシャオルーの肩を、アルドは優しく叩く。

「話を聞いてきなよ。ただそばにいることに資格はいらないからさ」

先刻までならシャオルーはそのアルドの言葉を否定して声を荒げていたかもしれない。だが今のシャオルーはそれに静かに頷いてサンの隣に腰かけた。

「シャオルー」

 顔についた涙をぬぐいながら、サンは幼馴染の名前を呼んだ。

「私、ここに来れてよかったよ。この朝日がまた見られてよかった」

 感動で声を震わせている彼女に、シャオルーは微笑みながら黙って頷いた。サンはシャオルーの方を見て一瞬頬を綻ばせ、それから背筋を正して彼の方へ真っ直ぐと向き直った。

「私が歩けなくなったのは、私がそういう選択を自分の意志でしてきたから。それはお母さんのせいでもシャオルーのせいでも、誰のせいでもないの」

 シャオルーは真剣な顔になってサンの方を見た。彼女の主張を否定する声をすぐに上げなかったのは、彼女の眼差しに、絶対その主張を変えるつもりはないという強い意志を感じたからだった。

「君がそう言うなら、僕はそれをもう否定しないよ」

 しばしの沈黙の後に、シャオルーはそう言った。

「さっきまでは、君の足が僕のせいなのだとしたら、僕はその償いとして君ともう一緒に過ごしてはいけないと思っていた。でも、そうじゃないんだって、この朝日とアルド達が教えてくれた」

 この絶景を見たら、過去がどうでもよくなり、素直に前を向こうという気持ちになれる。彼にそう告げた老人は二人から少し離れたところで朝日の方を惚れ惚れとしながら見つめていた。先刻聞いた時は憤慨したものの、シャオルーはその言葉を今はすんなり受け入れられていた。

「今僕の目の前にいるのは、自分で歩けなくて困っている君だ。その君を、僕は助けたいし、支えたい。今も、これからも」

 シャオルーの言葉に一瞬目を輝かせたサンは、すぐに考え直して視線を伏せた。

「でも、それじゃシャオルーの重荷になる。今回だって山を登るときはずっと背負ってもらってここまで連れてきてもらった。久しぶりに外に出てこられたから嬉しくて思わず誘いに乗ってしまったけれど、毎回こんなことをしていたらいつかシャオルーが私のことを疎ましく思う時が来るかもしれない。嫌いになるかもしれない」

「誤解するなよ?」

 弱気な言葉を口にしていたサンは目をぱちぱちさせてシャオルーの方を見た。

「君を支えたいと思うのは、君が歩けなくなったことに引け目を感じてだとか、償うためだとかじゃない。それだったら君のことを重く感じる時が来るかもしれないけど、そうじゃないんだ」

「?」

 サンは首を傾げた。シャオルーはサンから視線をそらし、朝日の方を見ながら、ややたどたどしい口調で語る。

「その、サンが必要ならオレはいつでも助けたい、から」

 サンはきょとんとして彼の横顔を見る。シャオルーは頬から耳たぶまで真っ赤になりながら恥ずかしそうに話す。

「ア、アルドが僕におんなじことを言ってくれたんだ。アルドとエイミはついこの間出会ったばかりの僕と君のために惜しみなく尽力してくれた。同じように、僕も君を助けたいんだ」

「そっか」

 笑われるだろうか。それとも他人の受け売りかと怒られるだろうか。シャオルーは恐る恐るサンの方を見た。

「助けが必要な人がいるからただ純粋に助けるってことか。とても、素敵な考え方だね」

 はにかみながらそう言ったサンの笑顔を見て、シャオルーは自分の心配が杞憂に終わったことに気づいた。それから、先ほどまで気恥ずかしい気持ちだったのを忘れてサンの方へ半ば身を乗り出しながら喋り出す。

「サンが自分で歩けるようになる手段を探そう。その足でも練習すれば歩けるようになるかもしれない。お医者さんも、いろんな人に話を聞きに行くよ。サンが前に見てもらったお医者さんは足を切らなきゃいけないって話していたらしいけど、もしかしたら切らずに治療できる方法があるかもしれない」

「それなら、絡繰はどうですか?」

 二人の間にひょっこり顔を出したのは、てむてむだった。予想外の登場に、驚きの声を上げながら二人は後ろへ仰け反った。

「あわわ、驚かせてしまってすみません!」

「い、いや……」

 必死に謝るてむてむに、シャオルーは首を横に振る。はっきりしない物言いになってしまったのは、まだ彼の中に妖魔への抵抗があるからだ。目の前の妖魔の老人や少年が悪さをするような者ではないことはシャオルーなりに理解はしているつもりだった。だがナグシャムでは妖魔は悪しき者という見方が主流であり、シャオルーも長年そう考えてきた。この短期間の間にその価値観を覆すことはなかなか難しかった。

「絡繰とは、何ですか?」

 一方のサンは、俗世と隔離した生活を送ってきたことが転じてそういう抵抗はないようだった。率直に質問した彼女に、てむてむははきはきとした声で答える。

「プリズマの力を使って、木材や石材で作った人形がひとりでに動くようにした仕組みのことです。それを使って本当の人間の女の子にしか見えないような人形を作られた方がいたと、師匠から聞いたことがあります。それを利用して足の代わりを作るとかどうかなって」

「絡繰で作った義足ってことか。いいんじゃないかな。私たちの仲間にも体の一部を機械化している人もいるし」

 てむてむの話にエイミも加わる。

「まあこの解決方法だと足を切ることには変わりはないんだけど、それでも新しい足で行けるところが広がって、やれることが増えるっていうのは凄くいいことだと思う。新しい足なら包帯をぐるぐる巻きにする必要はないし、靴もゆっくり履けるんじゃないかな」

 エイミは二人に義足の利点を提示してみせる。それを聞いて、シャオルーとサンは顔を見合わせた。

「えっと、どうしよう?」

「……」

 考え込んでしまった二人に、アルドが声をかける。

「今すぐに答えを出す必要はないんじゃないか。足を切るのか、今の足とずっと付き合っていくのかってサンにとっては重要なことだから、よく考えればいいと思う。それにこれからはシャオルーがそばにいる。二人で話し合えば、きっといい答えにたどり着ける」

「それで気分がすっきりしない時にはまたここに朝日を見に来ればいい。この家の裏庭はいつでも開放しているからな」

 アルドの脇からいつの間にか戻ってきていた老人がひょっこりと現れてそう言う。

「そういえばおじさん、いつの間にここに家なんて建てたんですか。前にここに来た時にはありませんでしたよ?」

「いいだろう。毎日自分が惚れ込んだものを見ることができる夢のマイホームさ」

 サンの問いかけに老人は胸を張って答える。

「里中に一通り自慢して回ったから、もう誰も自慢する相手がいなくなってしまったと思ったんじゃが、まだいたようじゃ。お前たち、儂に自慢されに来てくれるか?」

 やや遠回しな招待の仕方だったが、シャオルーにとっては十分だった。彼の胸の内にあった妖魔への抵抗感はだいぶ弱まって、代わりに目の前のこの優しい人々ともっと触れ合いたいという気持ちが生まれていた。彼は静かに首を垂れ、そっと「はい」とだけ答えた。

「おう、やっぱりここにいたか」

 その時、老人の家の方から声がした。アルド達が振り向くと、そこには妖魔の男性が一人佇んでいた。アルドはそれがすぐに猫正の家でグラスタの錬成を請け負ってくれる、てむてむの兄弟子であることに気づいた。

「てむてむ、師匠が呼んでいたぞ。お前に頼みたい仕事があるって」

「えっ、ほんとですか?」

 兄弟子の言葉でてむてむは驚いた顔をして、それからアルド達の方へくるりと向いた。

「そしたら僕、ここでお暇させていただきますね。また機会がありましたらお会いしましょう!」

 ぺこりと丁寧にお辞儀をすると、てむてむは兄弟子の脇をすりぬけて走って帰っていった。それを見届けた後、兄弟子は今度はアルド達の方へ視線を向ける。

「あとあんた達には猫正の師匠から言伝があるんだ。ちょっとばかし込み入った話だから、場所を変えさせてくれるか?」

「俺達にか? 別にかまわないよ」

「そしたら一度この場を離れるわ。また後でね、二人とも」

 アルドとエイミは兄弟子の後へ続き、その場から立ち去った。そのまま一行は近くにあった酒場まで場所を移し、そこの席に腰を落ち着けた。

「それで、ここまで来たけど、用件は何なんだ?」

 アルドが口火を切ると、兄弟子はにやりと笑って見せた。

「貴方方は本当に面白いくらい騙されてくれますね。まあ、そのくらい上手くやらないと私の商売があがったりなわけですけど」

 先ほどの兄弟子とは明らかに違う、だがその聞き覚えのある低い声音に、二人は思わず仰け反った。

「その声は、ヒカゲさん?」

「妖魔にも変装できるのか……」

 アルドとエイミの反応を見て兄弟子に化けていたヒカゲはククッと笑い声を上げた。

「サン殿の母君に話をつけてきた後、私も山を越えてきまして。いやはやなかなか大変でした。貴方方がいなければあの二人も無事にここまで来れはしなかったでしょう」

「俺達はただ困っているあの二人を助けたかっただけですよ」

 アルドがそう言っている間、エイミは顎先に指を添え、何かを思案していた。それから彼女は目の前のヒカゲに問いかけた。

「そういえば、ずっとヒカゲさんに聞きたいことがあったんです」

「はい。何でしょう?」

 ヒカゲがにこやかな笑顔を浮かべながら促すと、エイミは問答を始めた。

「私たちが街中で拾ってヒカゲさんのところへ届けたのって、ヒカゲさんが持っていた秘伝の書、でしたよね」

「そうですね」

「秘伝の書ってことは、あんまり存在を知られていないってことですよね」

「まあ見せびらかしてはいませんからね」

「でも少なくとも、サンのお母さんとシャオルーは知っていました」

 ヒカゲはにこにこしたまま何も答えない。エイミは更に話し続ける。

「正確に言えば、シャオルーはこれが貴方の持ち物だということを知っていて、サンのお母さんは身分の高い人の持っているものだということだけ知っていた」

「ん、でもそれは、シャオルーはヒカゲさんのところに何度も来たことがあったから、その時に見かけたって考えれば不自然じゃないだろ。サンのお母さんは、確か文字が特徴的で、その文字使うのは身分の高い人が持っている書物だけだって言っていたし」

 エイミの話の内容にアルドが疑問を呈すると、彼女はそれが予想内だというように頷いて見せた。

「ええ。そうだと思っていたから私も特に深く考えていなかった。でもさっき朝日を見に行く前にシャオルーに聞いたら、あの書物に書かれていたのはヒカゲさんの癖が強い筆跡だって答えてくれたの」

「……え?」

 エイミの言葉に、アルドはたじろいだ。

「つまりそんな言葉なんて存在しないの。そうするとあのサンのお母さんがアルドを高官だって考えた根拠がなくなっちゃうのよ」

「え、でも、それじゃなんであの人そんなこと言ったんだ?」

 アルドが困惑してヒカゲの方を見ると、ヒカゲはにこにこしながらゆっくり口を開いた。

「まあ、エイミ殿は色々な仮説を想定していると思いますが、これだけは言っておきましょう」

 そして真っ直ぐエイミの方を見据え、答える。

「私はナグシャムで数多くの方の影武者を務めてきました。そんな私にとって、あの若い二人の再会に尽力してくれそうな人を探すことも、その人たちが偶然彼に出会えるような散歩コースを提案する宿屋の主人になることも容易いことです。もちろん、自分の下手な手書きのノートをシャム語という由緒ある言葉だと赤面せずに吹聴することもね」

「……んん?」

 アルドとエイミがヒカゲの言葉の内容を理解するのに、やや時間が要った。その間にヒカゲは会計を終わらせ、席を立った。

「そろそろあの妖魔の少年が、私が偽者だと気づいて探しに来るかもしれないので、これでお暇します」

「え、あ、ちょっと!」

 慌てて呼び止めようとしたエイミはそこで息を呑んだ。ヒカゲが衣を翻したその刹那に、兄弟子の姿は消えていた。代わりに立っていたのは、彼女の横で座っている相棒とうり二つの青年だった。

「私の力だけでは彼らをあそこまで導くことは叶わなかったでしょう。もう彼らは自分たちの足で自分の道を歩いて行ける。それが何よりも私は嬉しい。本当に、ありがとうございました」

 そう言ってアルドの姿に扮したヒカゲは店から立ち去った。あとに残されたアルドとエイミは互いに互いの顔を見合う。

「えっと、結局どういうことなんだ?」

「さっぱりだわ。ヒカゲさんの年齢や性別すらも分かんないし」

 困惑顔で二人とも肩をすくめた後、エイミがフッと笑ってアルドに問いかけた。

「でも、事情がどうあれ、私はあの二人が仲直りできたからよかったなって思ってる」

「うん、俺も同感だよ。少なくとも、サンの部屋で再会した時のことを振り返った時に、笑って話し合えるくらいには打ち解けられたはずだ」

 そう答えた後、アルドは席から立ち上がり、両腕を上げて背筋を伸ばした。

「さて、それじゃそろそろあの二人を迎えに行こうか。サンのお母さんのいるナグシャムまで送り届けないと」

「うん」

 そして二人は立ち上がり、酒場から外に出て行った。酒場の窓からは、地平線からだいぶ離れたところまで上っていた太陽の光が、店の中へ差し込んでいた。

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