第5話
水曜日の閉店間際、スーパー中松に似つかわしくない風貌のスーツの男がやってくる。
普段のスーパー中松の客層とは毛色が違いすぎて、彼は人の目に余るのだろう。
しかも以前、明らかに酔っ払った高齢男性に絡まれていたレジ店員を助けたらしく、よけいに彼は、スーパー中松の一部の従業員の間で噂になっていた。しかも彼女たちは密かに彼を「若君」と呼んでいるのだという。
「へー。古風ですね。」
「はは。そうね。まあでも、少し前からわりとその人は噂されてはいたみたいよ。」
と、いつの間にか一番よく話すようになった一之瀬から、この時はじめて彼のことを聞いた。
「だからあまり関わらないようにしないとね。目立つから。しかも彼は二ノ宮さんのお気に入りなんですって。」
「へー。」
休憩している菊の横で、帰り支度をしながら一之瀬が「二ノ宮さん本当に元気よね」と笑う。
「へー。じゃあ二ノ宮さんって、あの人におにぎり取ってあげるんですかね?あの人、『おにぎり頂けますか』って言うでしょ?」
「え?」
菊の言葉に、一之瀬は心底驚いた面持ちで上着を羽織ながらもう一度聞き直した。
「え?どういうこと?」
「え?違うんですか?私、前に値引きしてたら、『おにぎり頂けますか』って言われましたよ」
すると一之瀬はハリの無くなりつつある頬を紅潮させ、口に手を当てケタケタ笑った。
「何それ。そんな面白いこと、言われた人いないんじゃない?そんなこと言われたら舞い上がって皆噂するわよ。」
「いやいや、変なこと言う人だってドン引きしますよ。」
包み隠さない本心をそのまま吐露して、菊は残りのお茶をぐいっと飲み干した。
※ ※ ※
菊が勤めはじめて3ヶ月が経ったとある木曜、閉店間際の午後8時。
菊はいつもと変わらず、店頭で中腰になってその日最後の値引きに勤しんでいた。
「げ、嘘でしょ。」
しかし、その日菊の前に現れたのは、水曜日にのみ出没すると噂されていたあの「若君」だった。
※ ※ ※
スーパー中松に採用されたときから、菊は一度も公休希望を出したことがない。特に用事はなかったし、与えられる休みだけで十分だとも思っていた。
勤め始めた最初の月から、雇われ店長が決めたシフトは毎回変わらず土曜日から水曜日までの5連勤だった。
しかし、2ヶ月前くらいから、急に菊の公休が木曜日から水曜日に代えられた。
「まあいいけど。」
当然、皆が噂する「若君」と遭遇する機会はなくなったわけだが、だからといって菊の人生においては何の支障もないと思っていた。
だが、その日は木曜日であったにも関わらず、あの「若君」が、スーパー中松惣菜コーナー前に立っていた。
菊は心の奥でそっと嘆息したが、尾首にも出さずに、「若君」に背を向けると、値引きシールを貼るべく店頭の商品に目を凝らした。
「今日、紀子さんが亡くなりました。」
「………え、」
中腰で値引きシールを貼る菊の背に、「若君」がかけた言葉は、菊の手を止め、足を止めた。
菊は壊れたロボットのようにぎこちなく振り返る。
「今、なんて、」
「紀子さんが亡くなられました。今日、斎場でお通夜があります。」
よく見ると、「若君」はいつもの上等なスーツではなく、真っ黒い喪服に身を包んでいた。
「……うそ、そんな、」
菊は愕然と肩を落とし、手にしていた値引きシールはゆっくりと床に散らばっていった。
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