第3章 約束の地への道

第41話 北京へ

 水面に垂らした糸が静かに波紋を広げる。

 撈月渠ろうげつきょへの中継地点、北京開臨府ほっけいかいりんふへ向かう途中で通りかかった森の中の小さな川。

 聞こえるのは鳥のさえずりとそよ風が揺らす木々の揺れる優しい音。空は澄み渡る青。そこにふわふわとした白い雲が浮かんでいる。

 水晶は精神を研ぎ澄まし、その時が訪れるのを静かに待つ。

 その気迫には、潘紅玉はんこうぎょく燐風りんぷう費煉師ひれんしも、そして、普段騒がしい雷梅らいめいでさえ静かに息を呑んで水晶の様子を窺うだけ。


「掛かった!」


 だがその静寂は水晶の一声によって終わりを迎えた。


「よっしゃ! いけいけ! 水晶さん!」


 初めて水晶の釣りを見た雷梅は興奮して声を上げる。


 釣竿は道端に落ちていた太くしなりのある木の枝。それに糸を巻き付けただけの簡易な作り。

 水晶は全身を上手く使い針に掛かった獲物を泳がせ体力を奪っていく。茶色いポニーテールが動きに合わせて揺れる。

 そして、徐々に川べりから後退して、獲物の動きが鈍ってきた時を見計らい、思い切り竿を引く。


「やったー! 鯉だぁ!!」


 誰よりも喜びを顕にしたのは、銀棍閃ぎんこんせん・雷梅だった。



 ♢



「美味い! 美味い! 最高です、水晶さん! あたし、こんな美味い鯉の煮付け食った事ないです!」


 湯気と良い香りを立ち昇らせる鍋のそばで、雷梅はガツガツと水晶が作った鯉の煮付けを美味しそうに頬張り幸せそうな顔で感想を述べた。

 はしゃぐ雷梅を他所に、潘紅玉と燐風、そして費煉師は木陰に腰掛けて静かに鯉を味わっている。


「ありがとうございます。そんなに喜んで貰えて、頑張って作った甲斐がありました」


 照れながら礼を述べると、水晶も自分で作った鯉の煮付けを箸で一欠片解して小さな口に運んだ。手持ちの調味料と森で採れた薬味を入れただけの味付けだが中々美味である。


「いやーホントこんな美味い料理が毎日食べられるなら、あたしは水晶さんを嫁に貰いたいです!」


「え……?」


 雷梅の突然の冗談に水晶は苦笑いを浮かべる。


「こら雷梅。水晶ちゃんが引いてるでしょ? そういう事は冗談で言うものじゃないわよ?」


「あ、いや、姉貴。冗談で言ったわけじゃないです! 毎日こんな美味い料理が食べられるなら……」


「貴女、嫁に貰うって、結婚するって事よ? 分かってる? 美味しい料理が食べられるからって理由だけで結婚出来るわけないでしょ? それなら料理人を雇いなさい」


 費煉師の正論に雷梅は返す言葉もなくしょんぼりして鯉の骨をしゃぶっている。


「まあまあ、費煉師さん。そんなに雷梅さんを責めないでください。料理くらいならいつでも作りますから」


「水晶さんはやっぱり優しい! 最高の女ですよ!」


 雷梅は感激したのか目を輝かせ、また鯉に貪り付いた。

 その様子を見て、費煉師はやれやれと首を振り膝の上に置いた皿から鯉を解し上品に箸で口に運んだ。


「ご馳走様。美味しかったよ。水晶」


 先に完食した潘紅玉が言った。潘紅玉は少食なので雷梅と違い鯉を一切れだけしか食べていない。そして、ほぼ同時に完食した燐風が地面に皿を置き立ち上がった。


「うん、美味しかった! その辺に落ちてる枝で釣竿を作って釣り出来るなんて、川があれば食べ物に困らないね。水晶がいてくれて本当に助かるよ」


「ありがとうございます。それより、ゆっくりしてる時間はありません。早く撈月渠ろうげつきょに辿り着かないと」


 焦りを見せる水晶に、潘紅玉と燐風に遅れて食事を済ませた費煉師が箸を置くと口を開いた。


「水晶ちゃん。撈月渠到着の期限はあと2週間。あと1日も進めば、嶺月れいげつ第二の都市、北京開臨府ほっけいかいりんふ。そこから撈月渠までは2週間もかからない。何事もなければ余裕で間に合うわよ」


「そうですね、費煉師さん。何事もなければ……」


 水晶の自信のない言葉に、全員が首を傾げる。


「どうしたの? 水晶」


 様子のおかしい水晶を気遣い、木陰から立ち上がった潘紅玉が言った。オレンジ色のボブヘアーが揺れた。その色は水晶にとってとても落ち着く色。


「気のせいかもしれないですけど、何だか、誰かに見られてる気がするんです……」


 突然の水晶の告白に燐風と雷梅は辺りをキョロキョロと見回した。


「誰かって? 曼亭府まんていふの軍の追っ手が来たのかしら? 私を捕まえに」


 費煉師は涼しい顔で言うと立ち上がり、地面に突き刺していた槍に手を掛けた。


「いえ、何者かは分かりません。人か獣かも……ただ、視線を感じるんです」


「水晶さん! 大丈夫ですよ! 誰が襲って来たって、姉貴も潘姉さんも、あたしだっているんですから、無敵じゃないですか?」


 雷梅が零れそうな程に大きな胸を張って得意気に言った。


「おい! 雷梅! 何であたしを除け者にすんだよ!」


「はあ? だって燐風、お前は脚が速いだけじゃん」


「何だと!? その速さで水晶をおぶって逃げられるし!」


 雷梅と燐風が例の如く言い争いを始める中、潘紅玉は水晶の肩に手を置いた。


「大丈夫。私達がいる。この顔触れで負けると思う? 私達は撈月・・に入る女達だよ?」


 言った潘紅玉の身体には女性の身体をこれ見よがしに露出させる撈月甲ろうげつこう。そうだ。仮にもこの仲間達は皆、撈月に入ろうとしている猛者達だった。弱いのは自分だけ。水晶は、あまりにもちっぽけで的外れな杞憂だった事に気付きクスリと笑った。


「そうですね。そうですよね。皆さんは撈月なんだから。心配する事なんてありませんでした」


「正確には、まだ撈月ではないんだけどね」


 微笑みを浮かべた費煉師が言った。黒髪の長いポニーテールと赤い鉢巻が微風に靡いている。


「それじゃあ、準備して北京ほっけいへ向かおうか」


 潘紅玉は木の枝に掛けていたローブを掴みバサッと羽織った。それを見て燐風も費煉師も同じくローブを羽織る。


「あ! ちょっと待ってくださいよ! まだ食べてるのに」


 雷梅は鍋に残っている鯉を皿に全部取ると急いで口の中に詰め込んで骨ごとバリバリ食べてしまった。


「雷梅さん、そんな急ぐと喉に骨が刺さりますよ?」


 水晶が料理道具の片付けを始めると、頼んでもいないのに皆片付けを手伝い始めた。


 この楽しい旅は撈月渠に到着するまで。撈月に加入しない水晶だけはあと2週間でこの4人とはお別れだ。


 本当にそれでいいのか。


 水晶の気持ちはまだ揺れていた。




 ***


 しかし、水晶の不安は気のせいではなかった。

 遥か後方から、確実に一行の後を追う者達がいたのだ。


「逃がさないぜ。撈月の女共……」


 部下を30人程連れたその男は、憎しみの籠った声で静かに呟いた。

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撈月の水晶~伝説のビキニアーマー女戦士集団“撈月─ろうげつ─”集結せよ! あくがりたる @akugaritaru

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