5.なにかの危機だ

 やわらかい手が、頭をなでている。


 誰だろう。うたた寝の引力から、なかなか抜け出せない。


 昨日は遅くまで勉強した。今日は休日だから、ゆっくり寝ていようと思ったのに。


 あんにゃろうだったら無視するところだが、わからないんじゃ、そうもいかない。重いまぶたを懸命けんめいに開く。


 ふわふわの栗色くりいろの髪と、少しれ気味の目が見えた。


「ユーちゃん、休日はお寝坊さんなんだねー。そういうところも、可愛くて好きー」


 うん。ものすごい変な声が出た。


 寝台しんだいからころげ落ちてひたいを強打したが、構ってはいられない。なにかの危機だ。


 上掛うわがけを手繰たぐせ、ゆかを転がりながら身体に巻きつける。大丈夫、寝巻ねまきはまだ着ていた。


「イ、イ、イ、イルマっ? な、なんで……っ?」


「先週の内に、遊びに行くってお使い出しておいたよー。侯爵さまからも、お返事もらってるよー」


 聞いてないぞ、あんにゃろう。イルマもイルマで、なんで本人には言わないんだよ。


 いや、わかってる。まさに今みたいなことを、やりたかったんだろうさ。


 どいつもこいつも人をおもちゃにして。寝床ねどこも安全じゃないのかよ。泣くぞ。


「と、とにかく着替えるから、一回出てってよ」


「女の子同士じゃない、気にしないでー。ほら、こうやってるからー」


 人のまくらに顔をうずめやがった。もう、なにを言っても無駄か。


 着替えると言っても、自前で大した服は持ってない。機械油の落ち切らない普段着じゃ、あんまりだ。


 横目で見ると、さすがに侯爵家を訪問するとあって、イルマの服装は上品な薄黄色うすきいろ洒落物しゃれものだった。


 あんにゃろうの用意した上等の服が、衣裳部屋にあるにはあるが、この状況でめかし込むのもなんか違う。


 困っていると、なにを受信したのか、あんにゃろう本人がわざわざ服を持って来た。


「気がかず申し訳ありません。一番若い小間使いに見立てさせましたので、悪くないと思いますよ」


「ありがと……」


 薄紅色うすべにいろの軽めの上衣に、両脚りょうあしの太ももが少しふくらんだ白い七分丈しちぶたけ、飾りひものついた靴下と、派手すぎず地味すぎもしない、可愛らしい一揃ひとそろいだった。


「本日は不躾ぶしつけな訪問を快諾かいだくいただき、ありがとうございますー」


「とんでもありません。これからもユーディットと、仲良くしてあげて下さいね」


 おまえら、覚えてろ。


 文句の一つも言ってやりたかったが、すぐに色とりどりのお菓子とお茶を乗せた軽食台が運ばれてきたので、乳性脂肪と一緒に飲み込んだ。


 ああ、もう。甘い物でごまかされるのも、今だけだぞ。


「屋敷の中は、庭も含めて自由に歩いていただいて構いませんよ。私と夫人は応接間にいますので、なにかあったら遠慮なく声をかけて下さい」


「お気遣きづか恐縮きょうしゅくですー」


 そうか、イステルシュタイン伯爵夫人もいらっしゃってるのか。


「ねえ、アルフレット……あたしも、挨拶あいさつした方が良いかな?」


「今日は私があなたの紹介も済ませておきましたから、大丈夫ですよ。いずれどこかの夜会やかいでお披露目ひろめはすることになりますから、その時までに、一緒に練習しておきましょう」


「お母さま、うわさきだから、それが良いよー。悪気はないけど、おもしろくされちゃうよー」


 母娘おやこそろって困った人なんだな。


 ノンナートンの家は分派ぶんぱはしっこだったから、そういう上流階級的なつき合いはらなかったけど、これからはそうもいかないのか。


 あたし一人がどう言われても構わないけど、アルフレットまでまとめて笑い者にされるのは嫌だな。


 アルフレットを扉まで見送って戻ると、イルマがにやにやと、しまらない薄笑いを浮かべていた。


「ユーちゃん、侯爵さまのこと、愛称で呼んでるんだー。良いねー、ほやほやだねー」


「う、うるさいな! 舌足したたらずなんだよ、あたし!」


うそだー。侯爵さまもユーちゃんのこと、すっごい大事にしてるし、愛があふれてるよー」


「……つまり?」


「早くやっちゃおうよー」


「やっぱりそこかよ」


 まともに対応している、あたしが阿呆あほうなんだな。


 自分のことで手一杯な子供に、他人が変えられるわけがない。自分が変わろう。


 お茶とお菓子で、気持ちとお腹を落ち着かせると、イルマを無視して机に向かう。


 昨日の続きだ。どうせいつもの休日も、学術書を読むか機械をいじるか、勉強しているかだ。


 早くきて帰れ。何度か話しかけられたような気もするが、もう相手なんかしないぞ。


 第一、今日来るなんて知らなかったんだから、不義理ふぎりを責められる筋合いもないぞ。


 集中していれば、時間も忘れられる。またお腹がいた頃合いだから、昼を回ってけっこうつだろう。


 陽射ひざしは明るく、部屋の空気は穏やかで、静かだった。

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