第6話

 轟音。怒声。悲鳴――。紅蓮の炎に包まれる光景の中を、ぼくはただ走っていた。駆けていたのは、ぼくだけではない。誰も彼もが恐怖に慄きながら、喚き、叫び、逃げ惑いながらも、徐々に逃げ場は途絶えていき、絶望の声を上げていた。ぼくが山を下りた時点で、そうだったのだから、それまでの状況はどれだけ悲痛なものだったのだろうか。考えたところで意味のない話なのだが、どうしても頭に浮かんでしまう。


 ふいに目が覚めるような感覚に陥った。ぼくは夢を見ていたのだろうか。古い、古い記憶だ。記憶はすでに色褪せてしまっているはずなのに、まるで昨日のことのようにその情景が浮かぶ。


 いま、ぼくは、どこにいる……?


 そう、廃屋になってしまったかつてのぼくの家だ。


 そこで、誰に会った……?


 そうだ。見覚えのある顔があった。その人物は薄汚れた外套を着ていた。もうそれが誰なのかも分かっているけれど、部屋の中をぐるりと見回しても肝心のその顔がどこにもない。ついさっきまで、そこにいたはずなのに。どうしてだろう。時間の感覚がひどく曖昧だ。


 ぼくがその廃屋となった家屋を出ると、もう夜になっていた。村の中を歩き回っていた時は朝か昼くらいだったのに、いま辺りは黒に染まっている。灯りのない暗闇の中で、ぼくの唯一の目印となったのは、そのひとが着ている浅黄色だった。


「灯りもないのに、こんな夜中に出歩くのは危ないよ。ヤト」


「火は怖いんだ……。気付いていたのか?」


「全然変わってないから、最初はヤトの息子かな、なんて思ったけどね」


「息子? 何、変なことを」


「これだけ経ったら、子どもだって、できてもおかしくないだろ」


「うん? ……まぁいいか。いまさら、この村に何の用だ、ハルト?」


「ぼくもなんでここに来たのか、どういう経緯でまたリエンを訪れることになったのか、まったく思い出せないんだけど、とりあえずこれは返すよ」


 ぼくはポケットから取り出した、リコのペンダントを差し出す。


「要らない。物なんて、どうでもいい。そんなものがあっても姉貴が戻ってくるわけじゃないから」


「でも、リコが大切にしてた物だし」


「だったらお前が持っておけよ。ハルト。姉貴はお前が好きだったんだから」


「そうか……あの時、リコの姿は見つけられなかった」


「姉貴は親父と一緒に燃えていたよ。もう近付くこともできない状態だった。……なぁ、俺はお前を疑っている。村人がいきなり燃え広がった炎の中を逃げ回っている時、逆に村の中に入ってきた男がいた。それがお前だった。ハルト。水を被って、いかにも助けに来ました、って感じだったけど、なんでお前は村にいなかったんだ。……いや、いい。聞きたくない。聞いたところで、みんなは戻って来ないからな」


 火の精の怒りによって、村は赤い炎に包まれた。山の頂上で轟音が鳴り響いて、ぼくはほんのわずかの間、意識を失い、気付いた時には眼下に燃える村の光景が広がっていた。逃げようと思ったのは一瞬だけだった。気付けば、ぼくは村に向かって駆けていた。正義感ではなく罪悪感だった。犯した罪の意識に耐えられず、ぼくは村へ向かうことしかできなかったのだ。村外れの井戸で汲んだ水を被って、村に入り、まず見つけたのはホープの死体だった。


 人間を憎んでいた。精霊に毒を盛った。


 ホープはどういうつもりだったのだろうか。それを聞きたくても、唯一の答えを知っている相手はもう物言わぬ死体となってしまっている。


 死体、死体、死体……、死体ばかりだった。


 生きている者は老若男女関係なく逃げ惑い、火は生きているかのように動き回り、生者の身体を焼き払い、骸へと変えていった。迫る死に怯え叫ぶ人々の姿を見ながら、ぼくが思い出していたのは、死は怖くて当たり前なんだ、というホープの言葉だった。


 家屋などの建物も焼かれて崩れ落ちて、その下敷きになって、血を飛び散らせて死者となる者もいた。そうすべての家屋も、あの時に失われてしまったはずだ。なのに……、なんでいま、村は在りし日の光景をしているのだろうか。


 ヤト……!


 膝を付き、苦しそうにはしているが、まだ生きている人間の姿を見つけ、駆け寄るとそれはヤトだった。ぼくの顔を見て、ヤトは近寄るな、という表情を作った。それはかすかに死の恐怖に勝ったヤトの自尊心だったのかもしれない。本当にプライドが高い、と思いながらも、見捨てていけるはずもなく、ぼくは彼を背負って村からなんとか離れようとした。


 それからのことは、まだぼんやりとしている。


「お前のせいだ、と俺は、ずっと思ってきた。だからいつかお前に会ったら、復讐としてお前を殺せば、俺の想いは浄化される。俺は安寧を得られる、って」


「ヤト、お前に殺されるなら仕方ない、って思ってる」


「そうか……」ヤトがぼくに近付き、首筋がひんやりと冷たくなった。ナイフの類をぼくに押し当てているのだ、と分かり、息を呑む。ぼくは覚悟を決めて目を瞑った。「やめた。殺す気が失せた」


「何故……?」


「死を怖がらない人間を殺したとしても、復讐心が満たされるとは思えないからな」


「怖いさ。死は。死が怖くない人間なんていないよ」


「村が焼き尽くされていく中で、俺も同じことを考えていた。死が怖くない人間なんていない。ホープから初めて聞いた時、俺はずっと嘘だ、と思っていた。村でそんなことを言うのは、ホープくらいだったから」


「それって、〈天国〉と〈地獄〉の話?」


「なんだ……お前も知ってたのか? そうだよ。良い人間は〈天国〉へ行き、悪い人間は〈地獄〉へ行く、っていう考えだよ」


「変なことを聞いてもいい?」


「なんだよ」


「ここは〈天国〉とか〈地獄〉とか呼ばれる場所なのかな、って」


 ヤトはその言葉に肯定も否定もしなかった。ただヤトはその答えを知っているような気がした。


「ひとつだけ言える、としたら、ここがそういう場所だとしたら、すくなくとも〈天国〉である可能性はないよ。だって……、お前が〈天国〉に行けるわけがないからな」


 ふっとヤトの姿が消え、ぼくは本当に目を覚ました。

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