第5話

 リエンのすぐそばにあるとは言っても、山の頂にまで来るのは初めてだった。


 何気なく服のポケットに手をやると、リコのペンダントと両親の〈メジア〉のふたつがあり、返し忘れてしまっていたことにいまさら気付いてしまったが、返すのは明日でもいいだろう。中身の入った酒瓶を携えて、山の一番上まで来るのは想像以上に骨が折れ、ホープはこの往復を何度も繰り返していたのか、と思うと、〈護り手〉になったあとのことが不安になってくる。


 あぁ、駄目だ、駄目だ。先のことを考えると、失敗に繋がってしまうに決まってる。


 火の精に会うのも初めてなら、長く話には聞いていた〈永遠のともしび〉を見るのも生まれて最初の経験だった。山の頂上には壺形の暖炉のようなものが置かれていて、蒼い火が絶えることなく、火の精の加護がなくならない、つまり精霊が死なない限りはその火は消えない、という。


 いま、ぼくの目の前では、ばちばちと音を立てながら煌々と蒼い炎が揺らめいていて、幻惑的なその光景に思わず息を呑む。


 壺の前には、細く縦に伸びた器がある。


 山頂に着いたら器があるはずだから、そこに火の精に捧げる酒を注ぐんだ。村を出る前にホープが伝えてくれた言葉に従って、ぼくは持ってきた酒瓶の蓋を開けて、器に中の液体を注いだ。液体から漂うにおいは予想外に刺激が強く、気持ち悪くなってしまったが、本当に火の精はこんなものを好むのだろうか。


 先に火の精に気に入られてしまえば、村長だってお前を〈護り手〉に指名せざるを得なくなる。勇敢でありながらも、思慮深い性格のホープにとってはめずらしく強引な手段で、最初に聞いた時は卑怯な手を使ってしまっているみたいで抵抗もあったのだけれど、成人の儀に参加させてもらえない、という嫌がらせがなければ、そもそもこんなことをしなくたっていいのだから、と思い直して、ぼくはホープの提案に乗っかることにした。


 火の精は無類の酒好きだから、これを持っていって振る舞うといい、と手渡されたのが、いつも父親が飲んでいる安酒ではなく、リエンから東に数刻歩いた隣町のラキーテの名物でもある高級酒のテキイラだった。財政状況的に毎回は困難なものの、舌の肥えた火の精を不機嫌にさせないためにも、可能な限り、持っていく酒はテキイラだ、と決めているらしい。


 注ぎ終えるのと、ほぼ同時だろうか。


「おぉ、酒じゃ酒じゃ」


 ぼくの眼前に火の精がいる。どこからやってきたのか分からないほど一瞬で目の前に現れた火の精は、嬉しそうに目じりを下げているが、その瞳の奥には残忍な光があるように思えた。ぼく自身が火の精に怯えているからこそ、そうやって残酷さを感じ取ってしまうのだろうか。


 噂を通して知る火の精の残忍な行動には、枚挙にいとまがない。


 姿形は火の精と出会ったことのある村人たちの言葉を経て、ぼくの耳にも届いてきていて、ある程度、事前に想像を描けてはいたが、やっぱり大きい。体長はホープの三倍くらいはあるだろうか、巨躯の持ち主だった。外見はひとのそれとあまり変わらないが、肌は全身に血でもかぶったのか、と思うほどに真っ赤な色をしていた。精霊に性別があるのかは分からないが、外見は男にしか見えない。


「あの……」


「うん……、お前は?」


 酒の入った器を手に取り、眺め回していた火の精が、ぼくの言葉でようやくぼくの存在に気付いたのか、じろりと睨む。その威圧的なまなざしは村長やヤトとは比べものにならないほどの恐怖をぼくに与えた。


「ハルトと言います」


 竦み上がっていたぼくの言葉は、ひどく震えていた。


「ハルト……ねぇ。あぁもしかしてホープの後任か?」


「いや、まだです。でも、そうなりたい、と思っていて」


「こんな、じじいに、酒を注ぐ仕事をやりたい、と。人間というのは、本当に変わってるな」


「そんなこと……」


 勇敢な者に与えられた仕事と言ってはいけない、と事前にホープから聞かされていた。火の精の機嫌を損ねかねないこと、気に障ることは言ってはない、と。敢えて勇敢な者を行かせている、と知れば、自分は腫れ物のように扱われているのか、と思うかもしれないからだそうだ。


「まぁ、いいさ。それで、……そうなりたい、というのは、どういうことだ?」


「次に村で行われる成人の儀で、ホープの後任の候補を決めることになっているんですけど、ぼくには参加の資格がなくて――」


「ほうっ、なんか面白そうだな。それで先に俺のところに来て、承諾を取っておけば、仮に成人の儀に参加できなくても、このじじいの話し相手になれる、とでも思ったのか……?」


 心が読めるのか、と一瞬そんな考えが頭に浮かんだが、もちろんそんなことはないだろう。異常に察しがいいのだ。ホープは〈護り手〉の役職のことは火の精には気付かれていない、と言っていたが、もうすでに知っているんじゃないだろうか。


「はい。そうです」


 ぼくははっきりとそう答えることにした。できる限り気を遣うように、とホープは言っていたが、火の精の雰囲気を見ていると、曖昧に濁した答えのほうが逆効果に思えたからだ。


「ふぅむ。不思議な話だな。こんな、じじいに」


 何度も繰り返して、自身のことをじじいだ、と言っている火の精だが、ぼくの父親よりもずっと若い外見をしている。ただ精霊の寿命は人間のそれとはまったく異なる、という話だから、この言葉は何も不思議ではないのだろう。


「まぁ俺は別に誰でも構わんが……」


「本当ですか!」


「ただ……、俺は意外とホープが気に入っているし、まだ変わってもらいたくはないな」


「別にいますぐの話じゃないです。そう言ってもらえるだけで……、ホープが気に入ってる、って。それは、どういう」


 今後も火の精と関わっていくのなら知っておきたい、とぼくが質問を投げ掛けると、彼は薄く笑った。


「あいつは人間を憎んでるからな。だがそれを指摘すると、必死で隠そうとする。面白いんだ」


 ホープが人間を憎んでる……?


 意外な言葉に何も答えることができなくなったぼくを、火の精が楽し気な表情を浮かべながら見ている。まるで新しい玩具を手に入れた子どものように。


 怖い、と思った。心底。


〈護り手〉になろうなんて思うんじゃなかったかもしれない、とそんな想いが心に萌したが、しかしそれでも〈護り手〉になることが現状を打破する唯一の方法だ、という気持ちもあった。


 その楽し気な表情を変えることもなく、器に入った酒を呷った。


 ――――その時、


 彼の表情が変わった。


「ふん。つまらん、真似を。おい!」


 火の精の身体の周囲をまるで憤怒を表すかのような真っ赤な炎が纏い出し、さきほどまでの笑みが嘘のように、酷薄な表情を顔に貼り付けていた。


「……は、はい」


 怒声に尻もちをついたぼくはそう言うのがやっとだった。


「誰から受け取った」


「な、何が……」


「この酒を誰から受け取った、と聞いているんだ!」


「ほ、ホープから」


「……そうか。どういうつもりだったかは知らんが、俺を殺そうとするなら、もうすこしましな手を使え。殺そうとしたことよりも、それが不愉快だ。たかが毒で俺が死ぬとでも思ったか」


「ど、毒……」


 火の精の言葉はまったくと言っていいほど理解ができず、ぼくは彼の言葉を繰り返すだけだった。


「まぁ別にこんなものを飲んでも、何も感じはしないが、虚仮にされたのは気に喰わん。まぁ……、罰は与えないといけないな。他のやつには、これと言って恨みも何もないが、人間の言葉には、連帯責任、というものもあるし、な」


 滔々としたその語りはまるで独り言のように、途中からはぼくの存在なんて忘れていたように思う。


 それからのことを、ぼくはあまり覚えていない。いや厳密には覚えていなかった、と言ったほうが正しい。


 長い長い旅を終えて、この村に戻ってきて、村の中を歩き回り、見覚えのある顔と出会って、ぼくはすこしずつあの日のそれ以降の記憶を思い出しつつあったからだ。

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