ブルーリボンラプソディ ~お姫さまの船~

水原タロ

ブルーリボンラプソディ ~お姫さまの船~



     序章 


 年中吹き流れている潮風にも洗い落とすことのできない、どこかすっぱい匂いの漂う薄暗い路地裏で、シスター姿の彼女──マリナは、乱暴に積み上げられた木箱の陰でじっと身をひそめていた。

 左手には首から下げたロザリオを、そして右手には、この国では珍しい異国製の軍用自動拳銃を持って。

 へらへら笑いながら、意味不明のイタリア語だかスペイン語だかを連発しつつ彼女を追い回していた赤白シマシマシャツの大男は、ようやく彼女の探索をあきらめたらしい。

「……ふう」

 マリナは小さくため息をつくと、ようやくロザリオから手を離した。

 汗ばんだ手で、頭をすっぽり覆っていた白いベールを乱暴に剥ぎ取る。

 厚いベールの中に押し込まれていた、夜目にも鮮やかな銀髪が、汗と一緒にどっと流れ落ちて来る。

 コールタールのようにねっとりと首筋へまとわりついてきたそれを、何度か首を振って払い飛ばす。

 足元に目をやると、無理やり着込んだような、ボタン回りが不自然につっぱって今にもはじけ飛びそうな濃紺の修道服シスターズドレスの裾から、こちらも暗闇に負けず色鮮やな真っ赤なハイヒールが目に入った。

 マリナは顔をしかめ、恨めしげにその「世俗の象徴」を睨みつける。

 こんなものを履いた修道女姿の女が夜の港町をうろついていれば、その手の特殊な趣味を持った男たちに、その手の特殊な商売をしていると誤解されて付きまとわれても仕方がない。

 歩きづらいし腰も辛いし、今にも足がつりそうだし。何もかもこのヒールのせいだ。

 これならまだ、底の抜けた元の靴の方がずっとましだった。

 けれど船内聖堂で知り合ったとあるご婦人から、ぜひその代わりにと押し付けられてしまい、断りきれなかったのだ。

「そうですよ、別にわたし自身がそのような人に見えたわけではないですよ……きっと」

 わざと日本語で、声に出して自分にそう言い聞かせる。

 それは遠い遠い異国の言葉。たとえ誰かに聞かれたとしても、まずその内容を知られることはない。

 何より彼女にとってそれは、心に秘めた大切な思い出を語るための大事な大事な言葉だった。

 両手で捧げ持つようにした彼の国の拳銃──南部十四年式自動拳銃の、その細身の長い銃身を天にかかげるように額に押し当て、「ふう」と一息。

 どうにか落ち着きを取り戻したマリナは、改めて足元のヒールを見下した。

 それにしても俗世の女性たちは、なぜこんな実用性皆無の、それでいてとてつもなく高価な代物を好んで履きたがるのだろう。

 全くの謎ですが──ふむ。でもだからこそ、これは研究の余地があるかもですね。

 となれば、あと二、三足みつくろって履き比べてみなければ。

 ふむふむ。ならば次はもう少し柄の入った、かわいいのを探してみようかしらん。

 つま先に小さなリボンとかついてたら可愛いかも──って!

「あああ、いやいやいや、違いますって!」

 手にした拳銃を大きく振って、邪な考えを振り払う。

 足元に放ってあった紺色の手提げ袋を拾い上げ、その中へ拳銃を戻す。

 不安にかられて思わず手にしてしまったけれど、もちろん引き金を引くつもりはなかった。

 そもそもマリナの細腕では、持っているのがやっとの軍用拳銃である。

 撃てば吹っ飛ぶのは自分の方だし、それ以前に、銃には弾をこめていなかった。

 なぜかと問われれば、危ないからに決まってますと真顔で答える。

 脅すだけならそれで充分。銃を向けられた方は弾が入ってるかどうかわからないのだし。

 もしもマリナの親友であり、同時に自身が所属するとあるクラブの部長でもある「彼女」にバレたら、また文句を言われるだろうけれど。

 だがその「彼女」も、今はまだ出先のロンドンから戻ってきていない。

「完璧です!」

 ちょっとだけガッツポーズ。

 それから他にないので、仕方なく脱いだベールで額の汗を拭う。

 拭った後でまたそれを被ろうとしたものの、うっと唸って手が止まる。

 汗で湿ったそれも手提げ袋に押し込み、手櫛でざっと髪を梳いて整える。

 いよいよ偽物シスターじみてきたけれど、もう半分やけっぱち気分のマリナだった。

 魚の腐ったむっとする匂いを払うように、修道服の裾をぱんぱんとはたいて立ち上がる。

 小柄なのを幸い身を隠した木箱の山──その一番上の箱に山積みされたジャガイモをいくつかわきへのけ、その間からそっと顔を出す。

 いかにも港町らしい、派手な風情の店が軒を連ねた表通りの明かりに、青緑の瞳がきらりと光る。

 夜の暗さが増すにつれて、酔った男たちや浮かれた女たちの姿がさらに増えていた。

 ニューヨークで開催される万国博覧会のおかげで、その対岸~といっても両者の間は差し渡し三〇〇〇マイルの大西洋で隔てられているのだが~にあるこの港町も、ここ一〇年来の活況に沸いている。

 おかげでまだ四月下旬だというのに、この一帯は、かすかに憶えている日本の夏のように、あのじめっとした熱気に包まれていた。

 二度目の世界大戦が近づきつつあるという噂も、その熱気を追い払うことはできなかった。

 新生ドイツ帝国による東欧侵攻の是非も、この国では賭けの対象でしかないのだ。

 通りの先にある港からは、この時間になってもまだ、ニューヨーク行きの客船が鳴らす出航の汽笛が聞こえてくる。

 出入りする船が増えれば、そのぶん船員や港湾作業員たちも大量に増員されることになる。

 その仕事を求めて国中、いや欧州中から集まってきた男たちが、海枯れした声を張り上げて臨時雇いの仲介をしている男の周りに群がっている。

 それ以外の、すでに職と金にありついた男たちは、自分の店に連れ込もうとする肌もあらわな女たちに手を引かれてにやけまくっていた。

 にぎわう港町の酒場では当たり前の光景。

 けれどやっぱりマリナの頬は赤く染まってしまう。

「うわ、うわ、うわわわあ~! とと、いけない、いけない!」

 胸元で手早く十字をきり、全ての海を往く客船の守護聖人たる聖フィセラの名を小さく唱える。

 それから大きく深呼吸をして、再び額に浮き出た汗を拭う。

「ふうふう、平常心よ、シスターマリナ。平常心! ――よし!」

 自ら気合いを入れ直したマリナの背中で、小さく猫が鳴いた。

 はっと身を硬くする。

「くすくす……わたしをお探し? ヒールの似合うかわいいシスターさん?」

 猫の鳴き声に続いて、若い女性の声が言った。

 マリナのやや広めの額にぴきん、と血管が浮かび上がる。

 通りの方を向いたまま、体の影で手提げ袋の中にそっと手を入れる。

「あら、丸腰の人間に銃を向けるつもり?」

「ただの人間ではなくて、ドロボウさんでしょ」

「ただのドロボウじゃないわ、客船怪盗よ。シスターマリナ……いえ、客船探偵マリナ嬢と呼ぶべきかしら?」

 砂混じりの地面でヒールの底をじりじり擦りつつ、ゆっくりとマリナが振り向く。

 表通りの光がぎりぎり届かない薄闇の中。

 すくっと背を伸ばして座る黒猫の背後に、メイド服を着た長身の女性が立っていた。

 とはいえ普通のメイド服ではない。漆黒のワンピースは頭がくらくらしそうなほどのミニ丈だし、純白の胸当てつきエプロンは、まるで子供服のようにフリルやレースで飾られていた。

「客船怪盗〈ブルークライム〉──わざわざあなたの方からおいで頂けるとは光栄ですわ」

「わたしの船の客船探偵さんだもの。見かけたら挨拶くらいはしなくちゃね」

 自ら光の中へ踏み出しつつ、特徴的な青いマスクで顔を隠したメイド姿の女怪盗が答える。

「〈ブルーエアリアス〉号は、決してあなたの船ではありませんわ。第一、今回の航海であなたが乗っていたのは〈オリオンスター〉号じゃないですか」

 頬が引きつるのを無視して、マリナは強引に笑ってみせた。

「まったくお笑いですね。客船史上最後の大怪盗ともうたわれる客船怪盗〈ブルークライム〉ともあろう者が、盗みに入る船を間違えるなんて――」

「間違えたわけじゃないわ」

 女怪盗も、その青いマスクとは対照的な赤い唇に小さく笑みを浮かべてみせる。

「そこに客船がある限り、客船怪盗もまた必ず現われるのよ!」

 そう見得を切った瞬間、しかし表通りを歩いていた酔っ払いが「ぐわっはっは!」と壊れたエンジンのような大声で笑った。

「え、何ですか?」

 耳に手をやりながらマリナが聞き返す。女怪盗の方は、けれどがくんと肩を落として、

「もういいわ」

「え、でも……」

「いいの! 忘れなさいっ! 自分でも言ってて恥ずかしくなっちゃったから!」

 本当に恥ずかしそうに、ぷいっと顔をそらす。そのまま横目にマリナを睨みつけるようにして、

「だいたいあなただって〈ブルーエアリアス〉号の客船探偵でしょ。他の船で起きた事件に対する捜査権はないはずじゃない? しかもそんな下手くそな変装までして」

「ここ、これは関係ないです!」

 一瞬ヒールの足元をじたばたさせたものの、マリナは気を取り直して、

「そこに客船怪盗がいる限り、客船探偵もまた守る船を選ばないのです!」

 女怪盗に向かって手提げ袋をかかげながら、マリナはきっぱりと言いきった。

 その手提げ袋には、三本煙突の客船を包むように翼を広げたカモメと、その翼と対になるように半円形に並べられた『ELLY‐WINDS BOAT DETECTIVE CLUB』の文字からなるマークが刺繍されてあった。

「あんたやっぱり、さっきのセリフ聞こえてたでしょ?」

「あら、なんのことかしら?」

 すっとぼけるマリナ。

 女怪盗はぷくっと頬をふくらませたものの、気を取り直すように長い黒髪をさっと払い、

「とにかく悪いことは言わないから、今晩のところは、このままさっさと自分のお船に帰ることね――その素敵なヒールを履いた足で歩いて帰れるうちに」

「客船怪盗は、船と人を傷つけないのが誇りだったのではないのですか?」

「わたしはね。でも世の中、そんなにいい悪人ばかりじゃないのよ?」

 言うや、女怪盗がいきなりマリナに向かって飛びかかってきた。

 その猫耳のように青いリボンを立てた女怪盗のヘッドドレス越しに、さらに路地の奥からシマシマシャツを着た船員風の男たちがやってくるのが見えた。

「よしよし、てめえらそこを動くんじゃ――!」

 先頭の男が怒鳴る。だが女怪盗は、男が言い終わらないうちにマリナの手提げ袋から自動拳銃を抜き出すと、その腕だけを後方へ向けるやためらいなく引き金を引いた。

「ぎゃあ!」

「うわっ!」

 男たちが悲鳴を上げて頭を抱える――が。

「あら?」

 女怪盗が再び銃の引き金を引く――かちん。

「あらら?」

 かちん、かちん、かち、かちかちかちーーーーっ!

「ちょっとこれ、弾は!?」

「そんなもの、入ってるわけないじゃないですか」

 当然のようにマリナが答える。

「がー! バカかあんたは!」

「ば、バカとは何ですか失礼ですね! 弾なんか入れたら危ないじゃないですか!」

「バカだからバカって言ったのよこのバカシスター! 危ないから武器になるんでしょが!」

 そんな女怪盗からひったくるようにして銃を取り戻したマリナは、銃の握りグリップ

から引き出した空っぽの箱型弾倉をむしろ見せつけるようにして、

「これは武器ではありません! わたしのとてもとても大切な──!」

 ぱーん! ばしっ!

 銃声と同時、木箱の上で山になっていたジャガイモが弾けるように吹き飛んだ。

 思わず銃を抱えてうずくまるマリナの横を、弾丸のような勢いで猫が走り去っていく。

「そのかわいいシスターを追い回してりゃ必ず出てくると思ってたぜ。なあコソドロ」

 うっすらと漂う硝煙の中で、先頭に立つ男が静かに言った。

 よく見れば、さっきまでしつこくマリナに迫っていたあの酔っ払い男だった。

「シスターから離れろ。おれに余計な殺しをさせるんじゃねえ」

 海灼けしたような赤ら顔だが、その声に酔っているようすはまったくない。

「シスターですって、彼女が? これでも?」

 赤い唇を薄く広げた女怪盗が、やっと立ち上がったマリナの修道服を豪快に捲り上げた。

 その下に着込んでいたローズレッドの瀟洒なドレスがあらわになる。

 実はヒールと一緒にそのドレスも着せられたのだが、でも脱ぎ方がわからなくて仕方なく、だって仕方なく──本当に仕方なく、その上から修道服を被っていたのだった。

「本当に本当ですよ! 好きで着ているわけじゃないですよ!」

「誰に何を言い訳してんの! 逃げるわよ!」

 顔に似合わず律儀に目をそむける男たちを尻目に、マリナの襟首を引っつかみ、猫耳メイド怪盗が路地から飛び出す。

「てめえ、シスターに対してなんて不謹慎なマネを!」

 一瞬躊躇したものの気を取り直して追ってくる男たちへ向けて、黒いストッキングに包まれた怪盗の長い足が、路地に積まれた木箱を蹴っ飛ばす。

 だがジャガイモの詰まった木箱は重すぎて、怪盗の三インチのヒールではびくともしない。

「いてて! くそ! カッコ悪う!」

 通りを行く男女が何事かと足を止める中、マリナの手を引いたまま路地から出た怪盗が、素早く左右に頭を振った。

 夜の海を切り取ったかのような長い黒髪が、彼女の背中をさらさらと流れる。

 増え続ける人垣の向こうから、かすかにクラクションの音が聞こえてきた。

「――あれだわ!」

 マリナの手を掴んだまま怪盗が走り出す。さらに慣れないヒールでどたばたする彼女へ、

「ヒールの踵なんてただの飾りよ。つま先で走るの、つま先で!」

 怪盗に言われたとおりヒールの踵を浮かせてマリナも走る。

「ほう、なるほどなるほど」

「感心なんかしてないでさっさと走れ!」

 遅れて路地から飛び出してきた男の一人が、人垣をかきわけて進む二人の頭上へさらに数発の弾丸を撃ち放った。

 数軒先の店先にかかっていた看板が木の砕ける音を残して地面に落ちる。

 二人の周囲は、あっという間に沈没寸前のメインデッキさながらのパニック状態となった。

 その中をマリナは、真っ赤なヒールで、ミニ丈のメイド服に青いマスク姿の客船怪盗に手を引かれて走り続ける。

 右往左往する人込みの先に見える、白っぽい色のオープンカーを目指して――



   第一章


      1


 

 日本ならまだ夕暮れ時といった空の下。

 一足先に夜の陰に包まれた暗い道を、一台の車がひた走っていた。

 一〇〇年前から商売をしているような、煤けて色褪せたパブの店内並みに重苦しく薄暗いヘッドランプに照らされていた砂利道は、いつの間にか石畳のそれに変わっていた。

 ようやくサウサンプトンの町はずれまでたどり着けたらしい――幌を開けたオープンタイプの自動車の運転席に座っている晴海洋平はるみようへいは、ひとまずほっと胸をなでおろした。

「にしても、何時だよ今?」

 大きく揺れるハンドルから離した方の腕を、わざとらしく顔の前にもってくる。

「悪かったわね──で、何時?」

 エンジンのうなりにまざって、後席から思いきり不機嫌そうな少女の声が返ってきた。

 改めて洋平は、その十七という年齢にはいささか不相応な、三つ揃いスーツの袖からのぞいている英国海軍士官用の腕時計に目をやった。 

 片手で暴れるハンドルを押さえつつ、苦労して緑の蛍光塗料が塗られた小さな文字盤を読む。

 八時。むろん午後の。洋平たちがロンドンを出発してから、すでに七時間がすぎていた。

 ちなみにロンドンからサウサンプトンまで、普通の自動車なら、二時間半もあれば余裕でたどり着ける。

 そう、『普通の自動車』なら――

 けれど普通の車にはシュノーケル(煙突型の空気取り入れ口)なんてついていないし、完全防水された船型車体の後部トランクに水上航走用のスクリューが乗っかっているはずもない。

 さらにひびの入ったウインドシールド越しに見える、今にもふっとびそうにガタガタ揺れているひしゃげたボンネットには、本来予備タイヤのあるべき丸くくぼんだスペースを利用して、三本煙突の客船を包むように翼を広げたカモメがでかでかと描かれていた。

 それは、かの連合王国が世界に誇る港町サウサンプトンにある「エリーウィンズ客船学校」の校章であると同時に、同校きっての問題クラブ、「エリーウィンズ客船探偵部」のトレードマークでもあった。

 この自動車は、学生の一クラブでありながら、同時に伝説級の超豪華客船〈ブルーエアリアス〉号専属の客船探偵でもある同クラブの誇る、特別仕様車なのだった。

 その車の、今にも外れそうなバックミラーの中では、校章と同じエンブレムを胸ポケットにつけたブレザーをまとい、外国製の絵本に出てくるヒロインそのままの金髪を夜風になびかせた少女が、腕を組んでふんぞり返っていた。

「何よ?」

 鏡の中の少女――レイテルが、その碧色の大きな瞳で異国の少年を見返してくる。

「あ、いや別に」

 とそのとき、鏡の中からじい~っと見返していたレイテルの顔が、突然バックミラーいっぱいに大きくなって、

「だから昼間のことは悪かったって言ってるでしょ!」

「うわっ!」

 いきなり耳元で怒鳴られて、洋平は思わずアクセルをめいっぱい踏み込んでしまった。

「うわっとっと!」

 慌ててブレーキを踏む。

 ちょうど高速用のギアだったことや、車体に比べてエンジンが非力だったことが幸いして、自動車の反応は鈍かった。

 それでも前後に大きく車体が揺れる。

「ちょっ、ちょっと! もっと気をつけて運転してよ!」

 大きく肩で息をしている洋平の背後で、両手で助手席の背もたれをわしづかみにしてレイテルが叫ぶ。

 しかし彼女は、すぐに甘えたような声になって、

「ねえねえ、やっぱり運転代わろっか?」

「ノー・ネバー・イット!」

 知っている限り最大級の否定表現を使って、洋平。

 さらにヒビの入ったフロントガラスや、波打つボンネットへあごをしゃくりながら、

「そもそも誰のせいでこんなことになったと思ってるんだ」

「客船探偵部の部長として、ちょっと性能テストしただけじゃない」

「だからって何の説明も聞かずいきなり運河へ飛び込むか、普通!」

「客船探偵の仕事にハプニングはつきものよ!」

「スクリューを降ろさずにどうやって水の上を走る気だったんだ!」

「水に入ってからでもセットできると思ったのよ!」

「引き揚げて修理するのに四時間もかかったんだぞ!」

「別にあなたが修理したわけじゃないでしょ!」

 洋平は思いきり息を吸い込むと、大きくため息をついてみせた。

 ロンドンで初めて彼女と出会った時の第一印象は最高だった。日本にいたら、こんな女の子を乗せて自動車を走らせる機会なんて一〇年、いや二〇年待ってもやってこなかっただろう。

 だいたい本国で酒屋を営む実家にあったのは、バイクもどきの配達用オート三輪だったし。

 思わず浮ついてしまい、彼女のお付きの人たちから、彼女には絶対にハンドルを握らせてはいけないと言われていたのを、つい忘れてしまった自分も悪い──が。

「……君と一緒にいると、客船探偵って人種の印象がどんどん悪くなる気がする」

「これはこれは、伝説的客船探偵だった英雄のご子息に対して、とんだご無礼を!」

「とうさ──父のことは、関係ないだろ」

 我知らず厳しい口調になってしまう。

 唇を尖らせたレイテルが、それでも何も言わずにどっかと席に座り直す。

 気まずい沈黙。

 洋平はわざとらしく咳払いすると、

「これからは、飛び込むならちゃんと前を確認してからにしてくれ。ぶつかったのが木造の廃船だったからこの程度ですんだけど、もし鉄製だったら――あれ?」

「ふーんだ! 船を置き去りにする方が悪いのよ! ――あらら?」

 気がつくと、二人を乗せた自動車はとっくに町の中へと入っていた。

 昨今の賑わいを象徴するように、道路は船荷を満載した大型の自動車や馬車でいっぱいだった。

 出歩く人々の数も格段に多くなり、乗っている自動車のせいもあってか、洋平たちはすっかり注目の的になっていた。

「……」

「……」

 二人そろって口を閉ざす。

 むっつりとした沈黙が再び車内を支配してゆく。

 さらに先の道で事故でもあったのか、車道の流れがぴたりと止まってしまった。

「何かあったのかな?」

「ねえねえ、ラジオ、つけてみない?」

 期待のこもった声でレイテルが誘う。

 彼女は昼間からずっとそのチャンスを狙っていたのだが、洋平は頑として拒否していた。

 車載ラジオが珍しいのは洋平も同じだった。だがこんな車に搭載されているラジオである。ロンドンの自動車工房でも「一五分以上の連続使用は厳禁!」と強く注意されていた。耐震耐水仕様の密閉容器は熱がこもりやすく、放っておくと中の真空管が爆発する危険があるという。

「でもまあ、五分くらいなら大丈夫か」

「わたしラジオドラ……いえ音楽番組がいいわ。そうね、こんな夜はクラシックかしら」

 思いきり気取った声でレイテルが言った。

「あ、でもビバルディーだけはやめてね。あれにはもうんざり! 寮じゃ毎朝あの曲がかかるのよ。それも全員が起きるまで、どんどんボリュームが上がってくの! あれじゃミセス・アボットだって起きるわよ! ああ、ミセス・アボットっていうのは、寮として使っている屋敷に八七年前からとりついてる幽霊メイドでね――」

 果てしなく続くレイテルのおしゃべりに「はいはい」と適当に相槌をうちながら、洋平は運転席前のダッシュボードへ手をのばした。

 頼りなげに光る各種のメーター。何のためにあるのか見当もつかない大小のスイッチ類。それらに囲まれるようにして、横倒しになった特大の温度計のような目盛りを持ったラジオ操作部があった。

 少し迷ってから、ラジオの横にあるトグル式スイッチをばっちん、と入れる。

 前方を照らしていたヘッドランプがすうっと暗くなる。

 どうせ街中だし、おまけに停車中なので、そのままランプのスイッチは切ってしまう。

 ダッシュボード上にひとつだけあるスピーカーが、まるでかき氷屋でしゃべっているような雑音を背景にして、サウサンプトンに出入りする船の情報を流し始めた。

 サウサンプトン港は、北米大陸と西欧大陸とを結ぶ大西洋航路の、西欧側を代表する玄関港だ。

 一八〇〇年代後半から大戦前までの客船黄金時代には及ばないものの、それでも〈ブルーエアリアス〉号を始めとする名だたる「オーシャンライナー(大西洋航路定期客船)」たちの大半は、いまなおこの港を事実上の母港としている。

 子供のころから歴代豪華客船の全長やトン数、エンジンの馬力から一日に消費する卵の数まで暗記している洋平にとって、そこはまさに夢の港だった。

 客船探偵だった父の部屋には、客船がらみの本や雑誌が山積みに遺されていた。

 父の死後、洋平はそれらの資料を親代わりにして育ってきた。

 英文で書かれたものがほとんどで、外国船員相手の食堂に入り浸って覚えた英語で必死に読み漁った。

 レイテルに言わせればスラングだらけのいんちきジャパニッシュらしいが、おかげで英語には不自由していない。

 今ここに自分が居合わせていることも含めて、すべては客船のおかげだった。

 船こそ男のロマン! 客船万歳! 豪華客船最高!

「……ねえねえ、ちょっと?」

 入港情報に聞き入ったままチューニングを変えようとしない洋平の肩を、レイテルがつんつん、とつつく。

「うんうん、さすがはサウサンプトンだ! 港にいるのはみんな有名な船ばっかりだぞ!」

「ええとあの、そうじゃなくって……」

「ちょっと待って――〈オリオンスター〉号も入港したって! けど予定よりずいぶん遅れてるな。また何かあったのかも」

〈オリオンスター〉号は、アメリカの船会社「グランドスターライン」が、先の大戦直後の絶頂期にあった同国を象徴する存在として計画した、同国初のブルーリボン級豪華客船だった。

 大西洋航路をゆく定期旅客船オーシャンライナーは、どれも巨大で豪華な設備を誇っている。

 太平洋航路なら文句なく最大級の大きさである全長一八〇メートル、二万トン級の客船も、その中ではようやく中の下といった程度でしかない。

 それでも五万トンを越える「スーパーライナー」級までくると、さすがにその数は少なくなる。

 大西洋横断最速記録、通称「ブルーリボン記録」を競う八万トン超の「ブルーリボンライナー」級ともなれば、同号とイギリス籍の〈ブルーエアリアス〉号以外では、フランス籍の〈ライナ・クリスティーヌ〉号があるだけだ。

「だからあのね、音楽番組は? 荘厳な室内楽は?」

「はいはい、わかってますわかってます! 〈オリオンスター〉号もいいけれど、当代最高のブルーリボンライナーといえば、そりゃあ〈ブルーエアリアス〉号で決まりだって!」

 その船は元々、東欧の小王国がその威信をかけて建造した豪華客船だった。

 しかし先の大戦で国は消滅。王国最後の姫の名を冠するはずだったその客船も、戦時賠償対象となって二束三文で英国へと売却されてしまったのだった。

 買い取ったのはレイテルの祖父が率いる「モーゼス&ブルーアクアンライン」。しかし船名こそ変わったものの、「お姫さまの船/The ship of prinsess」の通称は今なお健在で、就航から一〇数年を経た今も第一級の豪華客船として君臨している。

 引き潮のようなレイテルの気持ちとは反対に、洋平は今や絶好調だった。

「建造途中で世紀の大戦争に巻き込まれたものの、逆に崩壊寸前の王国に残る財宝のすべてをつぎ込み、王宮をまるごと移設したとも称されるその船内装飾と、気まぐれで短気な大西洋の荒波を最高速度三〇ノット(時速約六〇キロ)以上で突っ走る能力を併せ持った、全長一〇〇〇フィート(約三〇〇メートル)、排水量(船の重さ)八万トンを誇る巨大豪華客船。並みの軍艦では追いつくことすらできない、名実ともに大西洋に君臨する海の女王――いや姫君!」

「ええい黙れこの客船マニア!」

 とうとう我慢の限界に達したらしいレイテルが洋平の後頭部を殴った。拳で。

 だがそんなことでいったん火のついた洋平の客船崇拝エンジンは止まらない。

「君こそ! ブルーアクアンラインの人間なら、もっと客船に興味を持つべきだ!」

「持ってるわよ! じゃなきゃ客船探偵部なんて作るわけないでしょ!」

「君に興味があるのはホームランズとかいう、けったいな名前の探偵コンビじゃないか!」

「ホームズよ! 名探偵ホームズ! それとワトスン医師はコンビじゃなくて助手!」

「犬耳帽子の探偵なんてどうでもいいさ! それよりもいいかい、ブルーリボンライナーは、これまでに人類が作り出した中では最も大きくそして美しい乗り物であり――!」

「あれは鳥打帽よ! ていうか静かに! 黙って! ラジオ、ラジオを聞いて!」

 レイテルのその剣幕に、さすがに洋平も口を閉じて耳を澄ます。

 すると、さっきまで淡々と港の情況を伝えていたアナウンサーが一転、興奮した口調で、

『――繰り返し臨時ニュースをお伝えいたします! たった今入った情報によりますと、あの客船怪盗〈ブルークライム〉が出現したとのことです!』

「〈ブルークライム〉だって!?」

「しっ! 黙って!」

 今や助手席に半身を乗り出しているレイテルが、鋭い声と視線で洋平を黙らせる。

『〈オリオンスター〉号に現われた〈ブルークライム〉は、警察や客船探偵たちの追跡をかわして客船通り方面に向け逃走中であります! このため現在、ミドルタウンへ向かう道路は警察によって封鎖されており、各所で渋滞が――』

「やっぱり! そろそろ動く頃合だと思ったわ! マリナが上手くやっていればいいけど」

 さらにレイテルは洋平の頭をばしばし叩いて、

「ちょっとこら、何ぼけっとしてるの! さっさと車を出しなさい!」

「いていて! でも道は警察が封鎖してるって!」

「怪盗を追ってる客船探偵は別よ! 緊急車両扱いになるの!」

「客船探偵といっても、要は学校のクラブじゃないか。第一ぼくは、ブルーアクアンライン社から招待されただけで、君の奇天烈探偵クラブに入部した覚えはないんだけど」

「何のためにロンドン警視庁まで行ったと思ってるの! 公認探偵員としての正式な手続きは向こうで済ませたわ! あと部長としてあんたの入部を許可します! はい決まり! わかったら早く車を出せー!」

「そんなむちゃな! でもこの渋滞じゃ、どのみち身動きが取れないぞ」

「反対車線に出て! わたしがサイレンを鳴らすから、あんたは回転灯を出して!」

 洋平はとにかく車を発進させつつ、ざっとダッシュボードに目を走らせて、

「どのスイッチ?」

「ええと右から四番目、かも!」

 後席に備え付けの工具箱の中から手回し式のサイレンを取り出しながら、レイテル。

「どうせ当てずっぽうじゃ……おっと正解」

 洋平がそのスイッチを入れると、ダッシュボードの中央部がくるんと回って赤色回転灯が現われた。同時にレイテルがサイレンを鳴らし始める。

「うひょー、これって気分いいかも!」

「遊びじゃありませんよ、お嬢さま!」

「うっさいわね、わかってるわよ! 今さらお嬢さま扱いしないで!」

 すぐ先で数台のパトカーが道を封鎖しているのを見て、洋平が車を減速させる。

「止まらなくていいわ――客船探偵よ! エリーウインズ、登録番号BA‐6809一!」

 レイテルがそう声を張り上げると、パトカーの一台がすっと道を開けてくれた。

「まるで魔法の呪文だな!」

「かもね!」

 まもなく洋平たちは、ミドルタウン中央部にある酒場街、通称客船通りへとやってきた。

「特に変わったようすはなさそうだけど……」

 まだ情報が伝わっていないのか、それとも誰もラジオのニュースなぞ聞いちゃいないのか、そこはまだいつもと同じ喧騒に包まれていた。

 いい加減疲れたのか、レイテルがサイレンのクランクから手を離す。

 代わりに軽くクラクションを鳴らしつつ、洋平はゆっくりと車を進めていった。

 と、先の方でさらに人の密集している場所があった。

「ケンカ、かな?」

「にしては静かよね……」

 とにかく先へ進むべく、洋平はクラクションを続けて数回鳴らした――と。

 ぱん、ぱーん!

 たて続けに二度、乾いた破裂音がして、人々がいっせいにあらゆる方向へ走り始めた。

 洋平も反射的にブレーキを踏み込む。

 たいしてスピードは出ていなかったが、それでも停車と同時に車体が大きく揺れた。

「ま、まさか今の!?」

「銃声よ!」

 どこに持っていたのか、レイテルの手にはサイレンに代わって黒光りする回転式拳銃が握られていた。

「ちくしょう、いきなり撃ってくるなんてありか!」

 石を投げ込んだ水面に立った波のように次々と押し寄せてくる人の流れの中で、とにかく車を後退させようと、洋平はギアをバックに入れた。

「待って、待ってええ~~ん!」

 その思いっきり艶めかしい声に、後方を見ていた洋平は思わず顔を戻した。

 酒場街にあっても特異な格好をした二人の女性が、こちらに向かって真っすぐ走ってくるのが見えた。

 洋平が発進をためらっている間に、二人は車のすぐそばまでやってきた。

 一人は、とんでもなく短いスカート丈のメイド服に青色のマスクをした長身の女性。

 そしてもう一人は、濃紺の修道服をまとった小柄な少女。

 よほど疲れたのか、顔を伏せるように膝に手をついて、肩でハアハアと息をしている。

「悪いけど、ちょっとそこまで同乗させてもらうわよ――ってこのマーク、まさか!?」

 メイド服の女性が言葉に詰まる。

「客船怪盗〈ブルークライム〉!」

 対して後席から飛び上がようにして立ち上がるレイテル。

「ここで出会ったのが運のツキ! 客船安全運航規定の全てに対するもろもろの違反容疑であなたを緊急逮捕します!」

 嬉々とした声でそう宣言し、手にしていたスナブノーズリボルバーを〈ブルークライム〉へ向けてポイントする。

「だめよレティ! 伏せて!」

 やっと顔を上げたシスター姿の少女が、後席へ飛び乗りざまレイテルを押し倒す。

 直後また銃声がして、そのうちの一発が二分割になっているフロントガラスの助手席側に命中した。

 レイテルに覆いかぶさったシスターの頭上に砕け散ったガラス片が降り注ぐ。

「ちい!」

 フリルいっぱいのエプロンのポケットから、てのひらサイズの青銀色に光る小型拳銃を抜き出した〈ブルークライム〉が、洋平のすぐ横でぱんぱんぱん! とリズミカルに三連射。

 発射された弾丸は空中で爆発し、意外なほど大量の煙が宙を舞う。

 だが煙を抜けて飛んできた相手側の銃弾が女怪盗の横顔をかすめ、その青いマスクを引きちぎった。

「──え? フローリア、さん!?」

 一瞬見えた女怪盗の素顔に、洋平が思わず声を上げた。

 女怪盗の方もびっくりした様子で、

「ヨウヘイさま!? ――って、あわあわ!」

 女怪盗は、さっと頭を振ってその長い黒髪で顔を隠すと、

「ほほほー、い、いやねえ、人違いよ! 人違い! いいわね? じゃあね!」

 言うが早いか、車の周囲で右往左往している男たちの頭を踏み台にしつつ、建物の二階部分へと飛び上がった。

 さらに鉄棒の逆上がりのような要領で窓枠伝いに屋根まで登ると、あっという間にその向こうへと姿を消してしまった。

 銃を乱射していた船員風の男たちも、彼女を追うようにして次々と建物の間に消えてゆく。

「なんだったんだ、一体……そっちは大丈夫?」

 花火のような匂いのする煙の漂う中、後席ではシスター少女が未だレイテルの上に覆いかぶさっていた。

 その少女が顔を上げて、

「はい、大丈夫です。それより失礼ですが……あなたはもしや、ヨウヘイさま、ですか?」

「え? あの、君は」

「そういえば初めまして、ですね。わたし、〈ブルーエアリアス〉号船内シスター見習い兼、エリーウィンズ客船探偵部副部長のシスターマリナと申します」

「あ、ども。ヨウヘイです。ヨウヘイ・ハルミ。えっと、よろしくです」

「こちらこそ──うひゃん!」

 下敷きになっていたレイテルが、シスター少女を跳ね除けるようにして起き上がった。

「挨拶なんか後あと! ブルークライムを追うわよ!」

「追うって、どこへ? どうやって?」

「いいからさっさと車を出せー!」

 洋平はため息一つ、また頭を叩かれないうちに車を発進させる。 

「でも、まさか……」

 人込みの中を車で入れそうな横道を探して客船通りを走る洋平の頭に、一瞬だけ見えた〈彼女〉の素顔が浮かぶ。

 ――まさかあの人が、客船怪盗〈ブルークライム〉?


     2


「あー、『ヨウヘイさま』はまずかったなあ」

 客船通りからやや離れた屋根の上。

 煤けた煙突の影で、エプロンのポケットに入れておいた予備のマスクを顔につけながら、客船怪盗〈ブルークライム〉は大きくため息をついた。

 新しいマスクの具合を確かめるように軽く首を巡らす。

 色褪せた赤い瓦葺きの屋根が続くその先で、二四時間絶えることのない港の明かりに夜空が淡く光っていた。

「はてさて、明日の朝、どんな顔をして会えばいいのやら」

 いくら悔やんでも時間の針は戻らない。ミスはミスとしてすぐ次の手を打つのが正しい選択だというのもわかっている。

 わかっているのに、今回はなかなか振り切れない。 

 夜風に遊ぶ長い黒髪をそのままに小型拳銃を取り出す。

 四連装の銃身を折るようにして弾倉を開き、空の薬莢と残りの弾丸を抜き取ると、それぞれに新しい銃弾を詰め直す。

 先のような煙幕弾ではない。四発すべて実弾──人を殺せる金属弾頭。

「それにしたってえらいドジよねえ。顔まで見られちゃうなんて……せっかく〈わたしの船〉が綺麗になって戻ってくるっていうのになあ」

 愚痴とわかっていても、ついつい言葉に出てしまう。

 彼女が縄張りとしているブルーリボン級豪華客船〈ブルーエアリアス〉号は、つい先日まで半年かがりの大改装工事を受けていた。

 もとより評判の内装はそのままに、蒸気釜を重油焚き専用としたことで効率が大幅にアップしたという。

 船体の補強による重量増もあるので、最高速度の伸びはそれほど期待できないが。

 ところでその船内には、これまで彼女が苦労して確保してきた隠し部屋や仕掛けがいくつもあった。

 それらに手が回らないよう、彼女は何度となくドックへと足を運んでいた。

 隠蔽に必要な工作や作業員の買収はそれ専門の人間に任せていたが、要の部分はやはり自分でやるしかない。

 高名な客船怪盗は、たいてい有力な貴族や大商人をパトロンに持ち、その影響力を駆使してこの手の仕掛けや工作を行う。

 だが〈ブルークライム〉は、その初代から固定したパトロンは持たず、作業の陣頭指揮も常に自分で執るのが伝統だった。

 いずれにせよ、その工事も先日無事終了。現在は試運転中で、あと数日もすればサウサンプトンへ戻ってくる。

 銃を戻し、待ち遠しそうな顔で再び港の方を見る。

「――美しい船がお望みなら、我が〈オリオンスター〉号の客船怪盗になったらどうだい?」

 何の前触れもなく、風に乗ってそんな声が耳に届く。

「あんな下品な船、この世から全部のブルーリボンライナーが消えたってお断りよ」

 むっと顔を歪めて振り返った彼女の先、隣の屋根にある煙突の向こうで、町の明かりを背にして一人の男が姿を現わした。

 だが鳥のフンに足を滑らせて屋根から落ちそうになり、一〇秒ほど無言で両手両足をばたつかせてからようやく元の場所へ戻ると、何事もなかったかのようにまた同じポーズをとる。

〈ブルークライム〉は諦めたように天に向かってため息一つ。

「そのまま屋根から落っこちればよかったのに。ええと?」

「おいおい、忘れないでくれ。トーマスだ」

 言って、男――トーマスは、煙突へ片手をついて体を支えつつ、遠目にも仕立てのよさそうなスーツの懐から紙巻きタバコを出して口にくわえた。

「思い出したわ。あの下品な船を作らせて自分の会社を倒産の危機に追い込んだ、トーマス・何とか・ジュニアね」

「トーマス・D・グッドライン・ジュニアだ。もっとも今は会社を追い出されて、〈オリオンスター〉号の雇われ客船探偵の身だがな」

「先のない独身の三〇男って哀れね」

「ほっといてくれ! それと独身は余計だ!」

「でもまあ、よくわたしを見つけられたわね。それだけは褒めてあげる」

「運がよかったのさ。路地でふと顔を上げたら、屋根と屋根の間をとても魅力的な足が駆け抜けていったもんでね。慌てて追ってきたんだ」

「そんな高そうなスーツを着て、こんな魚くさい路地裏で何してたの?」

「男が路地裏ですることといったら一つしかないだろ? これ以上は言わせないでくれ」

「やあねえ不潔。かわいいフィアンセにいいつけちゃおうかしら」

「野暮はなしだぜ。ていうか一五の小娘を押し付けられるこっちの身にもなってほしいね」

「冴えない三〇男を押し付けられた女の子の気持ちはどうなるの?」

「いざとなったら修道院へ……ってタマでもないしな、あのお嬢さまは。まあせいぜい頑張ってご奉仕するさ。それより」

 タバコをくわえたまま、トーマスはひょいと上げた足の靴底でマッチを擦った。

 だが一度では火がつかず、反対の足の靴底やら横の煙突やらで必死に擦る。が、一向に火のつくようすはない。

「それより一度でも、この! おれの船に、えい! 足を踏み入れた、くそくそ! 客船怪盗は、てめえいい加減にしやがれ! 絶対逃がしはしないの、だ! ――と、おお!」

 最後のセリフでようやく火がついた、と思ったら、ぴゅーっと風が吹いて消えてしまった。

「……! ……! ……!!」

 あまりといえばあまりのバカさ加減に、もはや声を上げることすらできず、ただけいれんしたように全身をぴくぴくさせながら、「笑い死にって本当にあるのね」なんてことを半ば真剣に考える彼女だった。

 トーマスは何事もなかったかのように、かみしめて歯形のついたタバコを懐に戻し、

「まあいいさ、タバコは体によくないからな。それより〈ブルークライム〉!」

「ひっく、ひっく?」

「君はなぜ〈オリオンスター〉号に姿を見せた? 君の狙いは何だ?」

「それを調べるのも探偵のお仕事でしょ──ひい、ひい! だめだ、死ぬう!」

 笑いがおさまったと思ったら、また思い出したようにぷっと吹き出した彼女へ、トーマスは逆に静かな声になって、

「……どうして、〈オリオンスター〉号を狙う客船怪盗ばかりが命を狙われる?」

「ひはは――は。何のことかしらん?」

「ご案内のとおりさ。〈オリオンスター〉号は就航後二年たらずのまだ若い船だ。ところが、その二年ですでに三人の客船怪盗が命を落としている……」

 ようやく笑いを収めた女怪盗が、細いあごをくいっとしゃくってトーマスに先をうながす。

「二代目〈ブルークライム〉の『悲劇』を唯一の例外として、客船史上、客船怪盗が船上で殺されたことはこれまでに一度もなかった――おっと失礼」

 彼女、三代目〈ブルークライム〉は、ひょいっと肩をすくめて、

「お心遣い、どーも!」

「どういたしまして――それが、二年で三人だ。それもただの客船怪盗じゃない。全員が少しは名の知れた、充分にブルーリボンライナーを狙える腕をもった怪盗たちだった」

 客船怪盗の世界では、自分の縄張りとしている船のランクが、その客船怪盗のランクと直結している。

 特に、ブルーリボンライナー級客船をその縄張りとしている〈ブルークライム〉のような客船怪盗は、その世界だけでなく、一般の人々の間においても最高ランクの客船怪盗として認知されていた。

 だがその建造と就航に莫大な費用のかかる豪華客船は、そうそう新造されることはない。

 就航後二年を経てもなお誰の縄張りでもない〈オリオンスター〉号は、ゆえにブルーリボン級客船怪盗の座を狙う者たちにとっては、一生に一度ともいえる機会なのだった。

 ところが現状は、そうして名乗りを上げた怪盗たちが次々と謎の死を遂げているのだ。

「客船探偵という立場上、客船怪盗の存在を認めるわけにはいかない。だが〈オリオンスター〉号という豪華客船にとっては、この事態はなかなかに頭の痛い問題でね」

 実は客船側にとっても、名のある客船怪盗に狙われるということは、少なからずメリットがあった。

 物を盗んでも乗客や船には一切傷をつけない客船怪盗の存在は、ありきたりの娯楽にあきた船客には格好の「イベント」なのだ。

 二等や三等の乗客にとっては、一等客のお宝を狙う彼らは文字どおりのヒーローだったし、一等客にしても、彼らとの「対決」を期待して乗船する者が少なくなかった。

 あの〈ブルーエアリアス〉号でさえ、常連客の半数が〈ブルークライム〉目当てだというのは公然たる事実。

 むしろ、彼女に狙われて初めて真の常連客となれるのだ──とさえ言われている。

 盗まれた財貨の類は、いわば彼女への「おひねり」なのだ。

「そこへもってきて今晩の騒ぎだ。すでに名実共にブルーリボン級客船怪盗である君が、何の理由もなく、まして命懸けで別のブルーリボンライナーに手を出すわけがない――だろ?」

「ここ半年ヒマだったし、ちょっとのぞいてみただけよ。恐いものみたさってやつ?」

 トーマスは小さく笑いながら軽く首を横に振って、

「その半年、君は〈オリオンスター〉号がサウサンプトンへ帰港するたび、見送り客や出迎え客のふりをして船内を探っていた……客船怪盗たちが殺された原因やその『犯人』をね」

「言いがりよ」

「おかげでこの半年ほど、船員用通路や倉庫内をうろつく女幽霊の目撃情報が絶えなかった」

「船に憑く幽霊対策だって、客船探偵の立派なお仕事でしょ。しっかり働きなさい」

「エリーウィンズのお嬢ちゃんたちも、交代で船を見張っていた。彼女たちも、君がぼくの船に出向くことはわかっていたんだろう?」

「困ったものね。学校をサボってばかりじゃ、誰かさんみたいにろくな大人にならないわよ」

「今の時代、その方がずっとましな大人になれるってものさ」

「かもね。確かにね」

「さておき、結局君は、半年がかりでも確実な情報を掴むことはできなかった。そこで今度は、客船怪盗〈ブルークライム〉の姿をさらして『犯人』をおびき出そうとした――正解?」

「わたしがそんなお人好しに見えて? 客船怪盗は仲良しクラブじゃないのよ」

「見えるから聞いているんだが」

 女怪盗は目を閉じてふうっと一つ息をつくと、

「グランドスターの御曹司でもあるあんたの方こそ、何か知ってるんじゃないの?」

「残念ながら。〈オリオンスター〉号でドジを踏んで以来、まったく蚊帳の外でね」

「役立たず」

「これでも努力はしているんだ。うちの会社が近々、ブルーアクアンラインと合併する予定なのは知っているだろう? みんな自分の椅子を守るのに必死で、怪盗どころじゃないのさ」

「あなたにも青い瞳のかわいい許婚ができちゃったしね?」

「ご心配なく。おれは趣味と仕事と家庭はきちんと区別する主義だ」

 トーマスは、大きく広げたスーツの懐から黒革製の手帳を出した。

 彼女の場所からはよく見えなかったが、その表紙には、一本煙突の客船と三つの星印をあしらった「ライトスター客船探偵社」のマークが描かれていることは間違いなかった。

「とはいえ客船探偵たる我が身にしても、肝心の怪盗がいなけりゃ開店休業だがね」

「いっそ陸の探偵にでも衣替えしたら? 紙巻きじゃなくパイプでタバコが吸えるかも」

「漁師は海で魚を釣るのが仕事さ。なあに客船探偵が貧乏なのは船が平和な証拠だよ」

「平和な船なんてないわ。あんたはきっと、首の下まで水に浸からないと自分の船が沈みかけてることに気づかないんだわ」

「言ってくれる」

 トーマスは肩をすくめて、

「ところでこいつは極秘情報なんだが――」

 手帳をしまいながら、わざとらしく声を落として、トーマス。

「会社合併のあかつきには、〈オリオンスター〉号か〈ブルーエアリアス〉号、そのどちらかがロイヤルフリート(英国王立海軍艦隊)へ編入されることになっている」

「それのどこが極秘なの? とっくに新聞やラジオで発表ずみじゃない」

 もともと民間の商船が軍隊に徴発されるのは、別に珍しいことではない。

 特に、千人単位の兵隊や大量の物資を乗せて高速で移動できる豪華客船は、先の大戦でも、相当数が臨時の武装輸送船として各国の海軍に召し上げられていた。

「いや。臨時に徴発されるんじゃなくて、正規の軍艦として持って行かれちまうんだ」

 それはつまり、選ばれた方の船は、両社の合併が成立次第──早ければこの夏にも海軍へ移籍され、そしてもう二度と客船として復帰はしないということだった。

「何ですって!?」

「もちろん海軍からは相当額の補償金が出る。それ以前に、今時の客船会社に、二隻のブルーリボンライナーを保有できる余裕なんてあるわけもないしな」

 世情不安やアメリカの新しい移民対策による乗客の減少に加え、そのあまりに巨額な建造費や維持費が負担となって、ブルーリボンライナーを保有する船会社は、現在ではどこも赤字経営を余儀なくされている。関係者の中には、〈ブルーエアリアス〉号のような超巨大豪華客船を、絶滅寸前の恐竜にたとえる者も少なくない。

「そんな余裕があるのなら、そもそも合併話なんて出ないだろうが」

「けれど、〈ブルーエアリアス〉号が選ばれると決まったわけじゃないでしょ?」

「〈彼女〉の今回の改装費用は、厳しい予算をさいて全額海軍が出したそうだ。しかも工事のほとんどは、内装よりもエンジンの性能アップと船体強化に集中していたそうじゃないか」

 トーマスは、広げた両手を天秤のように上下させながら、

「新しいがその分往年の客船らしさに欠け、客船怪盗すら寄りつかない〈オリオンスター〉号を差し出すか、全盛期の客船そのままの雰囲気を残しつつも、そろそろガタの出始めた〈ブルーエアリアス〉号を放出するか──新会社としても難しい選択だよな?」

「〈オリオンスター〉号が残るなら、わたしはさっさと引退して陸の怪盗にでもなるわ」

「列車怪盗とか? エリーウインズの連中を引き連れて? ほんとに仲のいいことで」

 トーマスは緩い笑みを浮かべて、

「つまりだ。この一件を解決したかったら、あまり時間は残されていないってことさ。君

だって、このまま客船怪盗を廃業したくはあるまい?」

「手を貸してほしいのなら、素直にそう言ったらどう?」

「おれはエリーウィンズの連中とは違う。怪盗と馴れ合うつもりなど――うん?」

 トーマスがひょいっと足を上げた。その下を一匹の猫が走り抜けてゆく。

「エリーウィンズと馴れ合ってるつもりはないわ。あなたには客船探偵として本当に重要なものが何も見えていない。だからあんな船を作って――あらら?」

 ふと自分の足元を見ると、いつのまにか眼下の路地にたくさんの猫がたむろっていた。

 さらに周りを見回せば、屋根を伝ってやってくる猫、猫、猫!

 トーマスは、ひょいひょいと足を上げて次々とやって来る猫たちをかわしながら、

「君のそのヘアバンドの飾りは、やっぱり猫耳だったのか?」

「青い耳の猫がいたらお目にかかりたいわね――くそ、ドジっちゃった!」

 彼女の周囲は、今や『猫葺き屋根』と化していた。

「何だって?」

 足元でにゃあにゃあ鳴く猫たちに負けじと声を張り上げるトーマス。

「ワナだって言ったの!」

 いつのまにかヒールの靴底に猫を引き寄せる特殊な匂いをつけられてしまったらしい。

 ネズミか客船怪盗しか使わないような通路の床にでも染み込ませてあったのだろう。

「これだから勝手知らない他人の船には乗りたくないのよ!」

 ヒールを脱ぎつつ、猫たちにくっついて路地をやってくる男たちをちらりと見る。

「このアクアンブルーのヒール、気に入ってたんだけどなー」

 脱いだそれを、ちょうど顔を上げた追っ手の一人に向かって力一杯投げつける。

 青色のヒールは見事命中し、盛大な鼻血を吹き上げて男が倒れる。

 一方トーマスは、すでに屋根の端にぶら下って足元の着地点を探っていた。

「この先の『ハンス』ってパブの前におれの車がある! 緑に白ラインの小型オープンだ!」

「デートの誘いなら後にして。今忙しいの」

「相手は君を殺す気なんだぞ! 先に行って待ってる──とうっ!」

 掛け声も高らかにトーマスは屋根から手を離し、一階部分にある帆布製のひさしをクッション代わりにして地上へと降り立とう……としたが、思いのほか強く張られていたひさしに弾き返され、そのまま四、五回バウンドしてようやく地面へと転がり落ちた。

「度胸だけは認めてあげるけどね、トム。あんたってば絶対、喜劇俳優の方が向いてるわ」

 そのトーマスが、しかし今度は拳銃らしいものを持ち出して駆け出してゆく。

 女怪盗はちっと舌打ち。残りのヒールも脱ぎ捨て、路地をうろつく男たちの上を飛び越えるように屋根を伝って別の建物へ。

 そこで手近の煙突にエプロンから出した細いロープを結び、それを伝ってあっという間に地上へと降り立つ。

 最後にロープを軽く振り、結び目がほどけて落ちてきたそれを回収しつつ周囲をうかがう。

 追っ手たちの靴音が近い。二人、いや三人か。

 猫たちが歓迎の鳴き声を上げる中を、ストッキンクだけになった足で走り出す。

「これも高かったのに、高かったのに、高かったのにい!」

 何かぐちょっとしたものを踏みつける度に(それが何であるかは考えないようにした)、その声がどんどん大きくなってゆく。

 ぱあーん!

 すぐ先で銃声。間髪置かずさらに数発。あの重い音はコルトガバメントか。トーマスの愛銃。

「まったくもう!」

 回り込んでいる余裕はない。一気に表通りへ出る。

 樽型の看板が下がった店の前に止まっている緑色の小型オープンカーを見つけ、再び全力疾走。

「だめだ! こっちへ来るな!」

 彼女に気づいたトーマスが怒鳴る。

「予定変更だ! 悪いが客船通りでタクシーでも拾ってくれ!」

 別の路地からトーマスに銃口を向けている男へ、抜く手も見せずポイントした小型拳銃を二発叩き込んだ彼女は、手を振る彼を無視して助手席へと飛び込んだ。

「わたしがやつらを引き離す。それまでここでじっとしてるのよ!」

「バカ言うな! あいつらの狙いは君なんだ! きっと他の怪盗たちもやつらが──!」

「黙って! 三〇男が無理しない!」

「おっさん扱いするんじゃねえ! 男の一番の売り時だぞ!」

 米国謹製の軍用自動拳銃の弾倉を入れ替えたトーマスが、再び車体から身を乗り出す。

「んにゃろ──うお!?」

 そのポマードべったりの頭を押さえつけるようにして、折り重なるように女怪盗がオープンカーの運転席へ倒れ込む。

 同時に数発の銃弾が彼女の腕や背中をかすめてゆく。

「早くどけ! 女にかばってもらうなんて、パブの連中に見られたら一生笑いもんだ!」

「うっさい! ええいこうなったら! うりゃ!」

 女怪盗は銃を握った拳でトーマスの後頭部を殴りつけた。

「はらら~」

「ごめん。だけどあんたが悪いんだからね!」

 座席で引きつっているトーマスを残し、女怪盗は車から離れ夜の町へと駆け去ってゆく。


 ぺたぺたという、どこかかわいげなその足音は、しかしあっという間に聞こえなくなった。

「うう~ん、……なんちゃって?」

 女怪盗の気配が消えると同時にトーマスは体を起こした。

「大の男が女の拳骨くらいで気絶してたまるかってんだ!」   

 運転席に座り直し、キーをひねってエンジンのスターターボタンに指をかける。

「頼むぞ、一発でかかってくれよ!」 

 いつもはぐずることの方が多いおんぼろエンジンが、願い通り一発で始動する。

 勢い込んで車を発進させた直後、だがハンドルを握る手に違和感を感じて、トーマスは再び車を止めた。

 てのひらを返すと、そこには汚れたミッションオイルのような液体がべっとりとついていた。

「まさか……うわ!」

 それがいきなり赤い色を取り戻して、トーマスをどきっとさせた。

 車のライトに照らされていると気づいた時には、目前に白いオープンカーが迫っていた。

 それは車道の真ん中で止まっていたトーマスの車をぎりぎりで避けたものの、それでバランスを崩したのか、後輪を左右に大きく振りながら真っすぐ前方の運河へとダイブしてゆく。

 派手な水柱と共に、若い男女のものらしい悲鳴が上がる。

 車を降りて運河へ駆け寄ると、まるでボートのようにぷかぷかと浮いている車の上で、彼のよく知っている少女が運転席の少年に怒鳴っていた。

「もうあんたってば何やってんのよ!」

「車道に車を止めておく方が悪いんだ!」

「自分だっていきなり水の中に飛び込んだじゃない!」

「車にぶつかるよりはマシだろ!」

 運転席から怒鳴り返しているのは、東洋系の外国人少年らしい。

「まあまあ、お二人とも。とにかく無事でよかったじゃないですか」

 やけに落ち着いた声で、後席からシスター姿の少女が言った。

「よくない!」

 少女と少年が同時に怒鳴り返す。

 そんなこんなで、ひとまず全員の無事を確認したトーマスは、抜き足差し足でその場を離れようとした。が、

「おじさま! ああ、やっぱりおじさまだったのね!」

 一足遅く、少女――レイテルに見つかってしまった。

「どこかで見た車だと思ったのよ! こら逃げるな! トムおじさまってば!」

「自分の許婚をおじさん呼ばわりするな! だいたいおれはまだ若い! 若いんだ!」

 だが言ってるそばから体がふらついて、運河に落っこちてしまう。

 女怪盗に殴られたショックがまだ完全に回復していなかったらしい。

 エリーウインズの三人が、文字通り手漕ぎで車を移動させ、水面にぷかりと浮き上がってきたトーマスのそばへやってきた。

「おじさま? 生きてる?」

 レイテルが聞いた。

「やあマイハニー。君が天使に見える」

 レイテルは無言で拳銃をトーマスへ向けた。

「本物の天使に会いたい?」

「止めなくていいのかい?」

 東洋人の少年が聞いた。

「弾は抜いておきましたから」

 シスター少女が手を開くと、握っていた数発の弾丸が運河に落ちていった。

 間もなくミドル地区担当のパトロールカーが到着し、さらに港湾保安局の巡回艇までが運河をさかのぼってやってきた。

 巡回艇の強力な探照灯が、ベールのないシスター少女の素顔を照らし出す。

「……あの、何か?」

 彼女に言われて、やっと自分がその顔を見つめていたことに気づいたらしい少年は、あたふたと手を振って、

「ああいや、ごめん! その、あんまりきれいだったから、つい……ああいや、そのいや!」

「え? そ、そんなこと──!」

 そんな二人の間にレイテルが強引に体を入れて、

「お邪魔して悪いけど! おじさまを早く引っ張り上げないと。歳なんだから、あんまり水に浸かってると心臓発作で死んじゃうわ」

「だから誰が歳だってんだ! おれはまだまだ若い! 全然若い! ほら若い!」

 ぐいと上げたトーマスの手が、まるで狙ったかのようにレイテルの胸をがしっとつかむ。

「ほお、けっこう大きくなったな。前言撤回。なるほどおれも歳を取るわけだ」

「拳銃を食って死ねこのエロオヤジ!」

「うが! やめへ銃は食えはいっへ! もがむぐ!」

「だめだってレイテル! 暴れるな! 車のバランスが! うわわ!」

 レイテルを抑えようとした少年が、彼女と一緒に車から落ちた。

「大丈夫ですかあ?」

 一人だけ車の上に残ったシスター少女が聞く。

「ねえ、マリイ」

 運河に落ちた全員を代表して、レイテルが言った。

「はい、何でしょう?」

「どうして、あんた一人だけそこにるのかな?」

「もちろん、神さまと聖フィセラのご加護ですわ」

 胸元で十字をきりつつ、きっぱりと少女が言った。

 運河の中の三人が顔を見合わせた。こくんとうなずき合う。

「あの、まさかみなさん……冗談ですよね?」

「主は言われたわ。頬を打たれたらもう一方も差し出せと……ああマリイ! あなたはわたしの永遠の友。不可分の半身。わたしが左の頬ならあなたは右の頬――というわけで、さあやっておしまい!」

 嬉々とした声でレイテルが命した。

「いえすめむ!」

 男二人が声をそろえて答える。そして。

「あ、あの、みなさん? まさか、まさか本当に――ちょ、ちょ、ちょわわわ~!」

 ばっしゃーん。


    3


 晩春の新鮮な朝日の降り注ぐ食堂は、一八世紀前半の王侯貴族用遊覧船の客室を寸分違わず再現したといわれるだけあって、小さいながらも洋平を緊張させるのに充分な迫力があった。

「――おはようございます、ヨウヘイさま」

 意を決して食堂内へ足を踏み入れると、長い黒髪を頭の後ろで大きな「おだんご」にして銀縁の眼鏡をかけた長身のメイド嬢が、日本風に深くお辞儀をして迎えてくれた。

「あ、はい、フローリアさん。おはようございます……」

 ぎこちなく頭を下げて、洋平も挨拶を返す。

 英国へ来て一週間。しかし洋平は、未だにここでの生活に慣れることができないでいた。

 日本では、男ばかりが住む商船学校の学寮暮しで、三度の食事時には毎回、おかずを奪い合いながらの壮絶な戦いを演じていた。それが今は、〈ブルーエアリアス〉号に永久予約した客室と専用サロンを持つことでも有名な貴族クラブ、『ロイヤル・スチーム・クラブ(王立蒸気クラブ)』が所有する客人用アパートメントにいて、呼び鈴一つで執事だのメイドだのがすっとんでくる日々なのだ。

 しかし今朝の彼を最も緊張させていたのは、一八世紀の船室風食堂の豪華な装飾でも、一九世紀製の瀟洒なテーブルセットでもなく、二〇世紀生まれの「彼女」だった。

「あの、ヨウヘイさま、何か?」

 彼女――洋平の英国における身元引受人である人物が個人的に雇っているメイド嬢、フローリアが、ゆっくりとした口調でたずねる。

「いえ、フローリアさん……いや、あの――」

「はい?」

 聞くべきか、聞かざるべきか。

 昨晩警察から解放されてからずっと考えていたが、結局朝になっても答えは出なかった。

 くるぶしまで届く紺色のワンピースに、清潔だが簡素な胸当てつきエプロンをまとったフローリアは、昨日の朝、列車でロンドンへ向かう洋平を見送ってくれたときとまったく変わらないように見えた。

「それで、今朝はいかがいたしましょう?」

 テーブルへ置かれた絞りたてのオレンジジュースを前に、洋平は逡巡する振りをしてから、

「ええと、あー、……いつもと同じでいいです」

「ではシリアルはコーン、ホットディッシュはオムレットとカリカリに焼いたベーコン、トーストに添えるのはマーガリンのみで紅茶はジャージー産ミルクを先に入れたダージリン――以上でよろしいですね?」

「ええと、はい。よろしいです」

 よどみなく暗唱するフローリアへ、こくこくとうなずきながら、洋平。

 それは最初の日に、フローリアの説明を聞きながら必死の思いで注文したメニューだった。

 まるで初めて入った床屋で髪型の注文をするような気分だった。でも一度決めてしまえば、あとは床屋同様「前回と同じで」と言えば通じるようなので、帰国するまでこの手でいこうと洋平は決めていた。

「ふわわわ~っと! ああ、おはよう、お二人さん!」

「はい、おはよー、ヨウヘイ! フローリア!」

 昨晩のことは何も聞けないまま、やはりジャージー産ミルク入りのコーンフレークをかきまぜていると、日本海の荒波を浴び続けた岩礁のような顔をした和服姿の初老の男と、かなり着古されてはいるものの、きちんと手入れのされた花柄のワンピースを着た黒い髪の女の子が一緒に入ってきた。

「おはようございます、プロフェッサーシオウ。おはよう、シェリイ」

 すでに二人の飲み物を載せたトレイを持って、フローリアが挨拶を返す。

「あ、おはようございます教授。それからシェリイもおはよう」

 洋平の身元引受人にして、この『ロイヤル・スチーム・クラブ』唯一の日本人会員でもある「教授」こと潮生祭蔵うしおさいぞうは、ぺたぺたと草履をひきずりながら洋平の横へやってくると、いきなりその頭に空手チョップを見舞った。

「昨日はまた大活躍だったな、え? 敏腕客船探偵殿!」

 席に座っている洋平とそう変わらない身長の祭蔵は、さらに彼の髪をぐしゃぐしゃとひっかき回して、

「おかげでわしまで寝不足だわい! おまけに特注した〈探偵二号〉もいきなり修理工場行きだしな。まったくたいしたもんだ、このこの!」

「痛い、痛いですって教授!」

「黙れ! 素人の分際で客船探偵のまねごとなぞするからこうなるんじゃい!」

「ロンドンへ行ったら、ついでにあの車も引き取ってこいと言ったのは教授じゃないですか」

「旅券や自動車ライセンスの件で領事館へ行けとも言ったし、帰りに多少寄り道するのもよかろうとも言うたわい。だが〈ブルークライム〉を追っかけろと言った覚えはないぞ!」

「だからそれは、先に自動車工房に来てたレイテ――あのアクアンラインのお嬢さまが!」

「ねえねえ、ヨウヘイってば昨日〈ブルークライム〉さまに会ったんでしょ!?」

 フローリアの手で椅子に座らせてもらいながら、花柄ワンピースの女の子――シェリイが、たまりかねたように声を弾ませて聞いてきた。

 祭蔵の万力のような手を頭にのせたまま、洋平は、シェリイの後ろに立っているフローリアを見た。

 シェリイの椅子を支えていたフリーリアが、ぱっと視線をそらす。

「どうだった? カッコよかった? 昨日はあの方、何を盗んだの?」

 食堂内にシェリイの明るく無邪気な声が響き渡る。

 シェリイは、彼女自身が洋平にこっそり打ち明けてくれたところでは、表向きはダウンタウンのはずれに住む港湾労働者一家の「やっと九歳になった末娘」だが、実は日本の有名なショーグンの血を引く伯爵夫人の隠し子である――とのことだった。

 ちなみにそのショーグンさまの名前は「コバヤシマル」というらしい。

 ……つまり早い話が、彼女はいわゆる「ブルーリボンキッズ」なのだった。

 港や船で働く下級労働者や娼婦を親に持ち、学校に通うこともなく日がな一日町中を歩き回りながら、港の露店を手伝ったり、昼間の酒場で店の掃除をしたりして小銭や食事にありつく子供たち――そんな彼らを、町の人々は多分に皮肉を込めてそう呼んていた。

 シェリイもまた、週に何度かこの家を訪れては、祭蔵の自動車を洗う代わりにフローリアのふるまう料理にありついていた。

 彼女によれば、「ここはみんな髪の毛が黒いから居心地がいい」のだそうだ(もっとも祭蔵は半分以上白髪頭だったが)。

「……シェリイ、君は〈ブルークライム〉が好きなのかい?」

 やっと祭蔵の手から解放された洋平が、半分だけフローリアを見ながら聞いた。

「もちろん!」

 今巷で一番人気の客船怪盗〈ブルークライム〉は、ブルーリボンキッズ出身だというのが定説だった。その設定でラジオドラマにもなっている。平日の午後七時からやっている帯番組で、その時間になるとどこからともなくシェリイが現れ、フローリアの入れたココアを手に、洋平のひざの上でそれを聞くのがここ数日の二人の日課となっていた。

「わたし、将来は〈ブルークライム〉さまみたいになりたいの!」

 シェリイは、当代きっての名客船探偵とも称される祭蔵の前で、大胆にもそう宣言した。

 男爵位こそ子息に譲ったものの、あるときは日本海軍予備役技術大佐、またあるときはエリーウィンズ客船学校理事兼ブルーアクアンライン社外取締役、さらにはロイヤル・スチーム・クラブ会員として朝食の席にある祭蔵は、加えて〈ブルーエアリアス〉号の筆頭客船探偵でもあった。

「まあ、おまえさんが大人になるまで、豪華客船なんて代物が残っとったらな」

 洋平から離れて自分の席についた祭蔵が、本音とも冗談ともつかない声で言った。

「――プロフェッサー、あの、よろしいですか?」

 珍しく、フリーリアの方から質問の声が上がった。

「何じゃい?」

「ブルーアクアンラインとグランドスターラインの合併で海軍へ行くことになる船は、もう決まったのでしょうか?」

「いんや。なぜだ?」

 フローリアは、調理用のミニレンジが付いた給仕用テーブルで卵をしゃかしゃかと割り溶きながら、

「いえあの、海軍へ送られた船は、もうそれっきり戻ってこないと聞いたものですから」

「ほう、どこでそれを聞いたのかな?」

「ああっとその、港近くのパブで、少々……」

「店名は『船乗りハンス』、だったかな?」

 フローリアの手から泡立て器が落ちて、卵の汁を飛ばしつつがちゃんと音を立てた。

 もったいな~い! と身を乗り出すシェリイの小さな肩を、洋平がつかんで引き止める。

「まあええ、確かにその通りだ。海軍へ送られた船は徹底的に改造されて、正規の高速輸送艦となる。さらに将来はハウス(上部船室)もとっぱらって、航空母艦とする計画まであるそうだ――そんなもん返してもらうくらいなら、新しく一隻つくった方が早いわい」

「それって、ブルーリボンライナー級の船が残り二隻になっちゃうってことですか?」

 思わず洋平が口をはさむ。祭蔵はこくりとうなずいて、

「現状からして、この先新たなブルーリボンライナー級客船が建造される見込みはまずあるまいて。これも時代だ」

 祭蔵はフローリアの方を見て、それからシェリイにうなずき、最後に洋平を見た。

「客船怪盗も、そして客船探偵も、この子がおまえの歳になる頃には、ラジオドラマの中だけの存在になっとるかも知れんな」

 祭蔵は再びシェリイに顔を向けて、

「それでもおまえさんは、客船怪盗になる気かな?」

「もちろん! わたしが次の〈ブルークライム〉になるの! ええとひのふのみーで、四代目! あってる、あってる?」

 洋平はフローリアを見た。彼女は困ったような、でも優しそうな顔で笑っていた。

「で、洋平よ。おまえの方はどうなんじゃい?」

「ぼく、ですか?」

「事情はどうあれ、せっかくこうして英国くんだりまでやってきたんだ。親父さんと同じ客船探偵になれとは言わんが、何年かこの地で勉強するのも悪くあるまい?」

 今回洋平は、自分が生まれた直後に死んだという父の遺品を受け取りに、はるばる日本からやってきたのだった。

 洋平が単身で渡航できる歳になるまで待とうと言ったのは、父の知己であった教授だった。

 普通の若者が海外へ出るのが難しい時代の中で、それはまたとない機会でもあったから。

「できれば商船学校を卒業するまで待ちたかったがな。わしも関わりのある会社同士の合併話も出ちまって、これ以上ごたごたする前にってことで、そのあたりは急がせて悪かった」

 それでも将来商船乗りになるのなら、その中心である大西洋の客船事情を肌で知る機会でもあるし、一度本物のブルーリボン客船を見ておくのも悪くはなかろう、と教授は言った。

「このまま要件だけ終えて帰るもよし。こちらの商船学校へ留学するもよし、だ。その場合は九月からになるが、それまでの四ヵ月でこちらの生活に慣れればええ」

 どちらにせよ洋平の一生を左右する決断である。渡英一週間で答えの出る問題ではない。

「まあええ。じっくり考えるこっちゃい」

 そのとき、テーブル上のマーマレードを全部自分のトーストにのっけるという偉業を達成したものの、さてどうやって食べたものかしらんと悩んでいたシェリイが、

「でも〈ブルークライム〉さま、どうして〈オリオンスター〉号に出たの?」

 給仕用テーブルのミニレンジで、ベーコンを焼きつつオムレットを作っていたフローリアが、手にしていたフライパンでワインビネガーのボトルを倒してしまった。それが手前に重ねてあった銀製の皿にあたって派手な音を立てる。

「あらあら、ほっほっほ……」

 フローリアの笑い声から力が抜けてゆく。

 皿自体は銀製なので割れることはないが、少しでも傷がつけばもうこの食堂では使えない。その時はミドルタウンのレストランなどに格安で売り、新しい食器を購うことになるのだが、もちろんその差額はフローリアの給金から支払われる。もし彼女が他に仕事を持っていなければ、それはかなりの負担となるだろう。

「――さあてな」

 シェリイがどうやってフローリア自慢の自家製マーマレード山盛りのパンを食べるのか、興味津々といった風の祭蔵が、

「〈ブルーエアリアス〉号が長くドック入りしとったから、暇つぶしでもしとったんだろ」

 ぱしゃん! フリーリアは今度は、サラダ用のトマトを握り潰してしまった。

「いやですわ、フランス育ちのトマトは根性がなくって、ほっほっ……つつっ!」

 トマトを握った方の腕をきゅっと掴むフローリアへ、紅茶に口をつけたままの祭蔵が、

「どうかしたか?」

「いえ、何でもありませんわ、ほっほっほ……ほう」

「フローリアってば、ふくろうみたい」

 結局、周囲の目を気にせず(最初からたいして気にはしていなかったが)大口を開けてトーストにかぶりつくという最終手段に出たシェリイが、べったりとマーマレードのついた手を羽のようにばたばたさせた。

「ああそうそう、こいつを渡すのを忘れておった。ほれ」

 マイセンのティーカップを置いた祭蔵が、袂から一通の封書を取り出して洋平に渡した。

「何ですか?」

「招待状じゃい。──〈フィセラプリンセス〉号からの」

 にやりと教授。「〈フィセラプリンセス〉号!? まさか!」

 それは正真正銘、大西洋の伝説となった、とある豪華客船の名前だった。

 欧州では有名な守護聖女と同じ名を得たとある王女へと捧げられ、けれどたった数ヶ月で消滅してまった、幻の船──

「ああそうだ。〈ブルーエアリアス〉号の旧名じゃな」

 同号は元々、東欧の今は亡き小王国が、その威信をかけて建造した豪華客船だった。

 建造開始と共に戦争が始まり、一度は廃船が決まったものの、当時表向きは敵国だった英国の造船所でひっそりとその建造は続けられた。最終的に枢軸側だった同国は戦争に負けてしまったが、その戦争終結の日に亡くなった幼き姫の名を冠して、ついに〈彼女〉は完成した。

 しかし同号はその後、ベルサイユ講和会議で戦時賠償対象船に指定され英国へ売却。船名も〈ブルーエアリアス〉号へと改められ、結局一度も元の名で大西洋を渡ることなく、〈彼女〉の名は消えてしまった。

 けれど今でも往時を偲ぶ人々の間では、同号は敬意をこめて〈フィセラプリセス〉号──「お姫さまの船」と呼ばれている。

「なんでその名前が、ぼく宛の招待状に?」

 封筒を開けて中身を取り出す。手触りのいい真っ白な厚紙に、金色の気取った英文が綴られていた。

 あまりに流麗すぎて、かろうじて父の名前が読み取れる以外はちんぷんかんぷんだった。

「なんて書いてあるんですか、これ?」

「晴海公平氏の遺品返還式典をやるから、そのご子息には是非ご参加いただきたい、とさ」

「それって……!」

「そうだ。当代最高の豪華客船の上で、親父さんの遺品、受け取って来い」

 はっと顔をこわばらせる洋平に、教授が優しく笑いかける。

「忘れたわけじゃあるまい。そもそもおまえさんは、このためにはるばるこの英国くんだりまでやってきたんじゃろがい」

 確かに洋平は、そのために、はるばる日本から三週間もかけてやってきたのだ。

「そんなに気張ることもないわ。貴族連中の間じゃあ、こういった宴会はよくあるこっちゃ。要は憧れのブルーリボンライナーで豪勢なランチを食って、ガラクタのひとつも受け取ってくるだけじゃい。親父さんがくれた機会だし、せいぜい楽しんでこい――おお、すまんな」

 祭蔵は、やっと出来上がった卵四つ分のオムレットを手にしたフローリアのために体をそらしながら、

「昨日の嬢ちゃんたちも顔を出すだろうし、お楽しみは他にもあるでな。驚くなよ? ぬわっはっは! ――ぐわっ! 辛っ!」

「あら?」

 フローリアは、調理台にあった胡椒入れを逆さに振ってみた。空っぽだった。

「あらら~」


    4


 ロータリー式の交差点に入った黒塗りのタクシーが、それを四分の一周して『客船用埠頭』と書かれた標識のある道へと入ってゆく。

 車が進むにつれて、巨大な倉庫群やホテルをかねた待合室、さらには船客専用列車のターミナル駅などが次々と車窓に登場し、平凡だった町の風景を世界有数の港のそれへと作り変えてゆく。

 そしてとうとう、その先に姿を現わした〈ブルーエアリアス〉号を見て、いよいよ洋平の目が車窓にくぎづけとなった。

 だがそれは、やっと目にすることのできた〈彼女〉の巨大さに驚いたから、だけではない。

「──あれ?」

〈彼女〉専用埠頭の隣にもう一隻、まるで鏡合わせのようにして、同じくらい巨大な客船が停泊していたのである。

 その船は、黒塗りの船体が主流の豪華客船にあって珍しい純白の巨船だった。

 むろんただのオーシャンライナーではない。

 煙突数こそ〈ブルーエアリアス〉号より二本少なく一本しかないが、それ以外はどの部分も〈ブルーエアリアス〉号より高く、広く、そして輝いていた。

「〈オリオンスター〉号だ……!」

 ニューヨークへの定期便として、午後一番に別の埠頭から出航するはずの同号が、なぜか〈ブルーエアリアス〉号の隣に回航されていた。

 同号は、改装後の〈ブルーエアリアス〉号と比べても一〇メートル長く、三〇〇〇トンほど重く、さらに設計最高速度も二ノット近く速かった。

 だがこの新鋭ブルーリボンライナーは、その期待に反し就航以来細かいトラブルが絶えず、現在はフランスのブルーリボンライナーが持つ大西洋横断の最速記録――ブルーリボンレコードを更新できずにいた。

 おかげで同号の客足はのびす、それがグランドスターラインの経営を圧迫して、最終的にやはり厳しい経営状態にあったブルーアクアンラインとの合併へと踏み切らせることになったのだ。

「サー・ルテナン、少尉さん、つきましたけど?」

 タクシーの運転手に声をかけられて、商船学校の白い詰襟制服姿の洋平は料金を差し出そうとした。

 これは軍服ではないと何度説明しても笑って聞かなかった運転手は、今も笑ったままそれを受け取ろうとしない。要は少尉の身分に見合ったチップを寄越せ、というわけだ。

 仕方なくポケットの中のシリング貨を追加して、ようやくタクシーを降りることができた。

 そこは、差し渡し三〇メートル以上ある客船専用埠頭のちょうど中間だった。

 とはいえ、旋回するにも停船するにも、最低数百メートルから速度によってはキロ単位の距離を必要とする豪華客船である。三〇メートルの間隔など、ほとんどないに等しい。

 今にも両船が「吸い込み(その間を流れる水流によって二隻の船がお互いに吸い寄せられる現象)」を起こし、自分がその間に挟まれてしまうのではないかという気がして、洋平はぶるっとその身を震わせた。

 それでもどうにかして、左右に停泊している二隻のブルーリボンライナーを同時に視界におさめようとしたものの、何もかもが巨大すぎてうまく行かなかった。

 究極の二択問題にけりをつけるかのように、洋平はきっぱりと純白の船体に背を向けると、改めて漆黒の巨船と向かい合った。

「〈ブルーエアリアス〉号──いや、お姫さまの船、か」

 世界の全てを滅ぼすとまで言われた大戦争グレート・ウォーの終結と同時に誕生した、今は亡き小王国のお姫さまと同じ名を冠した伝説の船。

 改めて洋平は思う。ぼくは今、その船の前に立って、自分の目でその姿を捉えているのだ。

 ああ、この感激をなんと表現したらいいのだろう!

 もし他に誰もいなければ大声で叫びたいくらいだった。

 どこからか鐘の音が聞こえてきて、それで洋平は、やっと我に返った。

 ランチを告げる鐘にはまだ早い。とりあえずそこらにあったベンチに座ってみた。

 どれだけ顔を上げても、そこからでは巨大な船体のほんの一部しか見えない。すぐにまた立ち上がって船尾へと歩き始める。そこには〈ブルーエアリアス〉号の船名があるはずだった。

 だが金の飾り文字で綴られていたのは、その名ではなく。

「〈フィセラプリンセス〉号、だって?」

 もしかして、今日の遺品返還式典のためわざわざ書き換えた──とか? 

 まさか、それだけのためにこんな大仕掛けをするなんて……と思いつつも再び体が震える。

 とんでもなく場違いな世界に足を踏み入れてしまったような気がする。

 マストを見上げる。海風にたなびく信号旗は〈ブルーエアリアス〉号のものではない。

 うろ覚えの知識で読み解けば、旗の連なりが示すのはやはり亡国の姫の名前だった。

 つまり少なくとも今日一日は、この船は「伝説のお姫さまの船」であるらしい。

 なんのために? 自分のために? まさか──そればっかりだけど。

 やっと生まれた息子の顔を見ることなく死んだ男の遺品を受け取るだけじゃなかったのか。

 伝説の豪華客船に乗り込んで、ちょっと値の張るランチを食べて来るだけじゃなかったのか。

「一体何をやらかしたらこうなるんだ……父さん」

 限界まで反らした頭をマストへ向けたまま、ぼうっとその場に立ち尽くす。

 考えてみれば、その父親がどうやって死んだのかも洋平は知らない。

 実家にはめったに帰ってこない、日本では珍しい客船専門の探偵だったということ以外は。

 どれだけそうしていたのか。

 気がつくと、再び鐘の音が響いていた。

 今度は一度きりではなく、まるでメロディを奏でるかのように続いている。

 それは「お姫さまの船」からで、わずかに遅れて〈オリオンスター〉号からも同様の鐘の音が聞こえてきた。そちらへ向けた洋平の顔が、その意味に気づいて一瞬で真っ青になる。

「約束の時間だ!」

 洋平は走り出しかけて、途中でそっちが純白の〈オリオンスター〉号だったことに気がついて、慌てて黒い船体の〈ブルーエアリアス〉号へと方向転換する。

 式典は「お姫さまの船」──つまり〈ブルーエアリアス〉号の後部デッキで執り行われる。

「憧れのブルーリボンライナーの前で何恥ずかしいマネやってんだぼくは!」

 身形のいい男女に連れられた、シェリイくらいの女の子がこちらを指差して笑っているのを横目に、〈オリオンスター〉号から〈ブルーエアリアス〉号へ向かって走る。走る!

 なんてこった。教授から、式典の前に大事な話があるって言われていたのに。

 仕方ない、これだってめったにない体験さ――と自らをなぐさめつつ、洋平は走った。


     5


 鐘の音が鳴り終わっても、「彼女」の心臓はずっと高鳴ったままだった。

 物心のつく前から決まっていた式典。それがこれから始まるのだ。

 ジャコビアン様式で飾られた大広間を丸々使った控えの間の中心で。

 ベールの代わりに頭へ乗せたティアラはとても心細い。風に吹かれて飛んでいきそう。

 一層高くそして細くなったヒールにはまだまだ慣れない。そしてドレス。またドレス!

 しかも今度のものは、うなじから肩の周りまでむき出しで、こんな姿で人前に出るなんてとても正気の沙汰とは思えなかった──けれど。

 その手の中には大切な「遺品」がある。

 それをかの少年に、正統な持ち主へと返さなくてはならない。

 ただ一度、それだけのために「わたし」は、シスターマリナは、本来の姿へと戻るのだ。

 聖フィセラ──フィセラ姉さま。ついにこの日が来ました。

 どうかつたないわたしを支えてください。

 守護聖女の、亡き姉姫の、そして今は自身へと託されたその名へと、心で呼びかける。

 うつむいていた顔が、ようやく正面を向く。

 控えの間に集っていた人々の視線がいっせいにこちらを向くのがわかる。

 またうつむきそうになって、でもじっとこらえる。

 しっかりしなくては。わたしは今は「姫」なのだから。

 すでにこの世にない国であっても、今このときだけは、わたしはその代表なのだから。

 再び鐘が鳴る。時間になる。

 ただのシスターが亡国の姫となる魔法の時間が始まる。

「へえ、やっぱり見違えるわねえ」

「もう、やめてください」

 時間ぎりぎりでやっと顔を出した友人、レイテルへ、けれどマリナはぷんと顔を背けた。

 彼女に負けず劣らず豪奢なドレス姿のレイテルは、軽くステップを踏むように回り込むと、

「これはこれは失礼を、姫殿下。まさかまだ怒ってらっしゃるとか?」

「まさか。怒ってるにきまってるじゃないですか!」

「だから悪かったって。会社の人に頼んでちゃんと探してもらってるから。あんたの聖書」

 レイテルたちによってたかって運河へ落とされた昨日の晩、マリナはそこで、常に肌身離さず持っていた大切な聖書をなくしてしまっていた。

「そりゃもう運河の水を飲み干す勢いでね! おかでみんな今朝は腹痛で大変よ!」

「んなバカな!」

「お。やっと顔に血の気が戻ってきたわね」

 はあ、とため息ひとつ。でも少しは気が楽になったかも。まったくこの友人は。

「さ、行きましょ! お姫さま!」

 いったん遺品を預けてから控えの間を出、白い壁に赤い絨毯の敷かれた廊下を歩く。

 その先は光り輝くオープンデッキ。

 デッキにある黄金の半鐘にも、確かに〈フィセラプリンセス〉号の刻印。

 この船もまた、二〇年の時を越え、やっと元の名前を取り戻したのだ。

「旧ヘルゼリカ王国王女、ヘルゼリカ・フォルネウス・アン・マリネーテ・フロイゼ殿下!」

 その声に、すでに集っていたデッキの全員が不動の姿勢を取り、彼女へと注目する。

 足が止まる。震えが走る。でもここで止まってはダメ。歩け、歩け!

 足元を見ないように。ヒールの底は少し浮かせるように。つま先で歩くの。つま先で。

 やっと壇上、その真ん中へ進み出る。前を向く。深呼吸。

 と──真正面に。

 周囲から離れたその場所に、一人立つ白い詰襟姿の少年。

 一歩下がって、教授とシェリイ。

 少年はぎゅうと口をつぐみ、今にも窒息しそうな顔でこちらを見上げていた。

 あちらも相当緊張しているらしい。当然といえば当然だけれど。

 その彼を羅針盤代わりにして、あらかじめ指定された場所までどうにかやって来た。

 目の前には聖書台に似た細身の台があり、その上に二つの「遺品」が置かれてあった。

 ひとつは銃。軍用の大型で、聞いた限りではドイツ製らしい。引き金の前にある弾倉にはエリーウィンズの刻印が施されていた。

 もうひとつは懐中時計。こちらは何も特別な仕掛けのない、どこでも手に入る普通の時計。

 どちらも、その持ち主が肌身離さず持ち歩いていたことを物語るように傷だらけだった。

 その二つを前に、マリナはもうひとつ、最後の「遺品」を告げるべく口を開く。

 それは言葉。

 その腕に抱くことの叶わなかった我が子に伝えるようにと残された、「彼」の最後の言葉。

 それは自分で告げると彼女自身が決めた。

 ちらりと祭蔵を見る。一五年前の小王国崩壊前夜──大戦後に起こった民主化の波に飲まれて、ついにその二四〇年の歴史に終止符が打たれた日。旧王国最後の姫として生まれ、ゆえに殺されかけた赤子の自分を「彼」と共に救ってくれた、遠い遠い異国の観戦将校。命の恩人。

「彼」の言葉を直接受け取った、「彼」の上司にして親友。

 その老いてなお猛々しいかんばせが、ぐっとあごをひくようにうなずいてくれる。

 マリナの口が開く。

 正確な日本語で。その夢にまで出てくる言葉の連なりが現実の空気を震わせて響く。

「まだ見ぬ息子へ。生まれてくれてありがとう。うんと生きろ。おれの分まで」

 声が尽きる。

 それだけ。たったそれだけしか「彼」は──洋平の父は、言葉を残せなかった。

「ごめんなさい。ごめんなさい」

 その彼の言葉に続くのは、彼女自身の謝罪の言葉と、そして、涙。

「わたしが、わたしがあなたのお父さまを……お父さまの命を……」

「違うよ」

 式典前にやっと父の最期の時を聞かされたという少年が──洋平が、けれどにこっと笑う。

「父さんは、ぼくの父は、君を、一国の姫を守って死んだんだ。なら、本望だよ」

「でも、でも……」

「父は荒れ狂う海の中でも最後まで君の体を抱いて離さなかった。生きてほしかったから。やっぱり幼いまま亡くなった姉姫のためにも、君にだけは絶対、生きてほしかったから」

 それでもとめどなく流れ続けるマリナの涙へ、少年がすっと姿勢を正した。

「だったら、ぼくが許す!」

「……!」

「晴海公平の息子であるぼく、晴海洋平がここで正式にあなたを許します。父に代わって──だからお願いだ。もう泣かないで」

「ヨウヘイ、さま……」

「お姉さん──フィセラ姫も、ここにいたらきっとそう言うよ。いつまでも泣いてないで。さあ笑おう!」

 少年の笑顔が、まっすぐヘルゼリカ姫──マリナへと向けられる。

「王国崩壊の悲劇を生き延びてくれて、今日まで生きてくれて、父の遺品を守ってくれて、ありがとう。本当に。そしてこれからもしっかり生きて行こう。ぼくらと一緒に。この世界で!」

 短い時間の中で精一杯考えてくれたに違いない、その言葉が心に染みる。目に染みる。

 結局マリナは泣き止むことができず、式典はここでお開きとなってしまった。

 

    6


〈ブルーエアリアス〉号改め、今日一日だけ復活した〈フィセラプリンセス〉号の客船探偵事務所は、アッパーミドルデッキ中央部、船内図書館と児童用遊戯室との間にあった。

 たいていの客船では、客船探偵事務所はアッパーデッキの一等船室区内にあるのが通例だった。

 だが今回の改装で船室の一つが特等に格上げされ、元々の事務所はその第三ベッドルームになってしまった。おまけに設計者が代わりの部屋を用意するのを忘れてしまい(どうしてもそのスペースがひねり出せずにわざと忘れたという話もある)、以前からその使用頻度に対して広すぎると指摘のあった児童遊戯室の一部を削って、仮の事務所とすることになったのだった。

『エリーウィンズ客船探偵事務所』と刻印された、真新しい真ちゅう製のプレート。

 それを優しくなぞった細く白い指が、金色のノブへとかかる。

「あらもったいない、もうドレス脱いじゃったの?」

 開いた扉の向こう、着飾ったドレスもそのままに所長用の椅子に座っていたレイテルが、半ばあきれ顔で修道服姿のマリナを迎えてくれた。

「これってさ、GMT(国際標準時)じゃないんだね」

 レイテルの手前側、客用ソファで遺品の懐中時計を見つめながら、ぼそっと洋平が言った。

 二人とも堅苦しいクイーンズイングリッシュではなく、気さくな地の言葉風だった。

 とてもお姫さまに対するような言葉遣いではないが、それがマリナには嬉しかった。 

「はい、日本時間だそうです」

 また少し鼻をすすって、そっとマリナがうなずく。

「いつどこにいても日本を忘れないようにって、そうしていたそうです」

「ふうん……」

 洋平が懐中時計を置いたテーブルには、式典会場から届けられた料理も手付かずのまま並んでいた。

 手で摘めるサンドイッチや菓子類が、何段にも重ねられた銀製の盆に綺麗に飾られている。

 ランチ用の軽い料理が中心だったけれど、もちろんしっかりと手が込んでいた。

 今朝から何も食べていないマリナだったが、それを見てもやはり食欲はわかなかった。

 それでなくとも塗りたてのニスの匂いがきつくて、とても手をつける気にはなれなかったけれど。

「ほんと、父さんのことは何も知らないんだな、ぼく」

 顔を上げた洋平が、やっとマリナの方を見た。

「この船の、お姫さまの船の客船探偵だったこと、王国崩壊に巻き込まれた王家最後の姫君たる君を救って命を落としたこと──どれもこれも、なんだか遠い世界のおとぎ話みたいだ」

 大柄な革張りの椅子を漕ぐように左右に回していたレイテルも、顔だけをマリナに向けて、

「確かにね。わたしも同感だわ。ねえ、お姫さま?」

「かの王国はとっくに滅びました。今のわたしは一介のシスターに過ぎません」

「でも今日一日はお姫さまなのよね。今夜一二時まで──わお、シンデレラみたい!」

 マリナは困ったように笑ってから、

「そんなことより、みなさん、そのお料理はもういただかないんですか?」

「そんなことって。女の子のクセに夢がないわよ夢が! わたしはいらないけど?」

 こんな甘ったるいの食べたら太るに決まってるし、とレイテル。

「このドレス、腰周りは去年と同じサイズなんだけど、なんかお腹のあたりが危険なのよね。コルセットを一段きつくして、やっと入ったの」

「レティ、一応殿方の前ですから。そういう話は」

「あらごめんなさない! 気づかなかったわ」 

 洋平は何も聞いてませんという顔で、遊戯室時代に天井に描かれた星座の一つへ向けて、 

「ぼくも食べないから。どうぞ遠慮なく」

「ではお言葉に甘えて」

「何よ、夢やロマンよりも食い気ってわけ? やめてよ、せっかくお姫さまなのに!」

 そんなレイテルに背を向けて、マリナは、入ってきたのとは別のドアノブに手をかけた。

「みんな、いいわよ。入ってらっしゃい!」

 扉を開けるのが早いか、その向こうの児童遊戯室にいたらしい子供たちと一匹の猫が、先を争うように走り込んできた。

 部屋にいるレイテルや洋平を無視して、われ先にとテーブル上の食べ物へと群がる。

 みんな、マリナがシスターを務める聖フィセラ教団サウザンライト教会に付属する救済院(孤児院)の子供たちだった。

「せっかくなので招待したんです。お姫さま権限で」

「そんなことに権限行使するなら、もっと他に使い道があるでしょうに」

 でもあんたらしいわ、とレイテル。

「食べ残して無駄にするよりは、ずっといいよ」

 すんでのところで回収した懐中時計を持った手を上げたまま、洋平もうなずく。 

「けどさー、やっぱり速い方がエライに決まってんじゃん!」

 両手にぞれぞれクラブサンドをつかんだ男の子が、それに交互にかぶりつきながら、さっきまでしていたらしい話の続きを始めた。

「それに、あっちのお船の方が新しいんでしょ?」

 迷った挙句、チョココーティングしたドーナツを手に取った女の子が言った。

「もぐもぐ……じゃあこのお船、あたしたちの服と同じ『お古』にされちゃうの?」

 のび上がる猫をかたどったテーブルの脚に寄りかかって、ほかほかのスコーンをほおばっていた別の女の子が、自分の着ているピンクのワンピースをひっぱりながら聞いた。

「うにゃ~ん?」

 その同じ脚に体をこすりつけていた、鼻先とお腹とそして足の先だけが白い黒猫が、女の子の声音をまねるかのような尻上がりの声で鳴いた。

「んぐんぐ、ごっくん! お古っても、軍艦になるんだからいいじゃんか!」

 両手に残るサンドイッチを大急ぎで口の中へ押し込みながら、男の子が答えた。

「――新しけりゃいいってもんじゃないわ」

 レイテルが、所長用のデスクにあったフィナンシャルタイムズ紙を、ばさばさと折り畳んでくるくると丸めながら言った。

「この〈ブルーエアリアス〉号、いえ今は〈フィセラプリンセス〉号だけど──とにかくこの船はね、ブルーリボンを獲ったこともあるすごい船なのよ!」

「でもすぐに、フランスの〈ライナ・クリスティーヌ〉号に抜かれちゃったんだよね?」

 どこで手に入れたのか、食べ物そっちのけで、客室乗務員用に印刷された船内見取り図を熱心に見ていた男の子が鋭く指摘する。

「記録は、イギリスのビショップロックからニューヨーク沖のアンプローズ灯台船までの西行きで、三日と二〇時間五六分四〇秒、平均巡航速度は――」

「お黙り!」

 レイテルが丸めた新聞紙でデスクをぴしゃん! と叩く。

「ブルーリボン? 船もおリボンするの?」

 チョコやらクリームやらで手をべとべとにした女の子が、その指先で、レイテルが着ているドレスの胸元を飾る大きな青いリボンを指差した。

「ううん、違うわ。昔から大西洋をいちばん早く渡ったお船のマストにはね、そのことを示す青い長旗をつける習慣があるんだけど――ああもう、きっついわ!」

 言葉を続けながら、レイテルは頭の髪留めをさっと引き抜いた。

 きちんと結い上げていた金髪が背中へはらりと流れ落ちる。

 ほっとしたように息をついて、レイテルが先を続ける。

「その旗の長さがね、一ノットにつき一ヤード(約九〇センチ)って決まってるの。たとえば平均速度一〇ノットで渡り切れば一〇ヤード。三〇ノットなら――」

「三〇ヤード! すっげえ!」

 新たな獲物を手に、口から食べかすを飛ばす男の子にレイテルがこくんとうなずく。

「そゆこと。で、その青い長旗のことを『ブルーリボン』っていうのよ」

 レイテルは椅子の上からかがみ込むようにして女の子へ顔を寄せると、

「でもさすがに長くなりすぎて、今はトロフィーになっちゃったけどね……な、何よ?」

 子供たちにまざって、洋平もじっとレイテルを見つめていた。

「いや感激した。見直したよ! まさか君の口から、ブルーリボンの歴史を聞くことができるなんて! やっぱり英国最大の船会社のご令嬢だ! 客船探偵だ! 客船探偵部万歳!」

 洋平の素直な賞賛に、レイテルの頬がぽっと赤くなる。

「ま、まあね! そんなに熱く語ったつもりはなかったけど。ほらもっと褒めなさない!」

「外人の兄ちゃん、だまされるな。どうせシスターマリナに教えてもらったんだ」

 男の子のひとりがそっと耳打ちする。一転してレイテルの口元がつんと尖る。

「あんたたちは食事マナーと言葉遣いを教えてもらうのね!」

「うっせえな、ちゃんと拭けばいいんだろ?」

 手をチョコまみれにした男の子が、にやり、とでも呼べそうな笑みを浮かべた。次の瞬間、くるりと振り向き背後のマリナへとその手をのばす。

「あ、マリイ、逃げ――!」

 手にしていた新聞紙をぽろっと落とし、椅子から腰を浮かせてレイテルが叫ぶ。

「――はい?」

 事も無げに答えるマリナの手は、振り向きざま男の子の両手をしっかりと掴んでいた。

「お見事」

「いつものことですから」

 捕まえた男の子と一緒に、ダンスを踊るようにくるくると回る。

「あんたはやっぱり、そうしてる方が似合ってるわ」

 降参といった風に両手を挙げるレイテルへ、にこっと笑うマリナ。

 再び椅子にふんぞり返ったレイテルが、今度は部屋の隅にあった蓄音機に目を向けて、

「そうだわ。何か足りないと思ったら、音楽よ! ほらそこの助手!」

 床に広げられた船内見取り図を物欲しげに見ていた洋平が、ついとその顔を上げた。

「それって、ぼくのことかい?」

「他に誰がいるの。児童室に何か子供向けのレコードがあるでしょ。ええと『主よその御許に近づかん』とか」

 タイトルを聞いた洋平の顔が一瞬曇る。レイテルは彼がその曲を知らないと思ったらしく、

「元は賛美歌よ。室内楽の五重奏で、わたしが小さい頃、絵本を読んでもらいながら子守唄代わりに聞いていたの。でも別にあんたの好みでもいいから。ああでも」

「ビバルディーだけはだめ、だよね」

「ざっつらーいと!」

 わざと『ジャパニッシュ』で答えるレイテルを無視して、洋平は児童室へと続くドアに手をかけた。

 しかしふと思い出したように周りを見回して、

「そういえばシェリイがいないようだけど。まだ教授のところかな」

「いえ、この子たちと一緒にさせていたはずですが。確かにいませんね」

「リンなんかほっとけばいいんだ!」

 マリナに手を掴まれている男の子が、洋平を睨みつけるようにして舌を出した。

「どうしてあなたたちはシェリイ――いえ、リンと仲良くできないの?」

「だってあいつ、髪も目も真っ黒でさ、気味悪いじゃん」

 地図を見ていた男の子が言った。

「あなたたちの大好きな〈ブルークライム〉だって、同じ色の髪や目をしてるわよ?」

「〈ブルークライム〉さまはいいんだもん!」

 猫型テーブルに寄りかかっていた女の子が、男の子の後ろから言った。

「あの子、院を抜け出してばっかで、先生やマリナにめーわくばっかかけてるし!」

「あなたたちが仲間外れにするからでしょう?」

 表情を厳しくしたマリナに、手をつながれていた男の子がふてくされたように顔をそらす。

「あいつ、〈ブルークライム〉と同じ髪の色してるからっていい気になってんだ!」

「マリナだって、昨日は帰ってくるはずだったのに、夜もずっといなかったし!」

 部屋の中にいた女の子たちがそろってうなずく。

「あたしたち、いっしょに寝ようって、おぎょうぎよくずーっと待ってたのに!」

「それはあの子のせいじゃないわ。昨日の夜は〈ブルークライム〉が――」

「えっ、〈ブルークライム〉さまが出たの!?」

 女の子のひとりが、弾かれたようにマリナへ駆け寄ってゆく。

 それを見て、他の子供たちもわっと彼女のもとへ集まってくる。

「ええと、そのお話はまた後でね」

「あとっていつ?」

「何時何分?」

 さすがのマリナも、前後左右を子供たちに囲まれては身動きできない。

「いいわ。あんたはみんなの相手をしてて。シェリイはわたしと助手で探してくるから」

 苦笑いを浮かべて席を立つレイテルに、洋平もうなずく。

「エリーウィンズ客船探偵部部長の実力をいざ拝見、ってところかな」

「ふふん。依頼料は高いわよ?」

「ぼくは君の助手なんだろ、身内から料金を取るのかい?」

「むう、そう来たか」

 とそのとき、トントンと表のドアをノックする音がした。

「シェリイかな?」

 レイテルに言われる前に、洋平がそのドアを開けた。

 しかしそこに立っていたのは、船尾のレクリエーションデッキにあるバーのボーイだった。

 この船には大小五つのバーやパブがあって、ボーイの服装は全て異なっている。

 やや歳のいったそのボーイは、アメリカ風バー『サウザンリバー』の制服を着ていた。

「あ、あの、ここはエリーウィンズ客船探偵事務所、ですよね?」

「疑う気持ちはわかるけど、そのとおりよ」

 はしゃぎまわる子供たちでいっぱいの室内の奥から、レイテルが答える。

 ボーイはもう一度、ドアにかかっている真ちゅう製の看板を見た。それでようやく納得したように、手にしていたトレイを差し出す。

「トーマスさまより差し入れでございます」

 銀の小ぶりなトレイの上には、『サウザンリバー』特製のカクテルが二杯、無数の細かい水滴をまとわりつかせて並んでいた。細身のグラスの下に敷かれたペーパーコースターは、水滴を吸ってすっかりふやけてしまっている。

「トムから? 何のつもりかしら?」

 首をかしげるレイテルに、まとりわりつく子供たちを何とかなだめつつ、マリナも、

「ランチの差し入れにしては、ちょっと遅いですね」

「わたしたちがお酒を飲まないのだって知ってるくせに」

「ヨウヘイさま、お酒は?」

「実家は酒屋だけど、実は家族全員、下戸なんだ」

「よくそれで酒屋なんてやってるわね」

「仕方ないよ、代々の家業だし」

「うーん」

 レイテルは一声うなると、ボーイに向かって、

「あなたはどう思う?」

「わたしなら、さっさと伝票にサインして、あわれなボーイにチップの三枚でも弾んで解放してやってから、この極上カクテルを片手にゆっくりと考えますね」

 レイテルはふっと息をつくと、そうしたのだった。

 ただしカクテルは飲まなかったし、チップも一枚しか渡さなかった。

「残りはこの謎が解けたら渡してあげるわ。楽しみに待ってて」

 というわけだった。

 とぼとぼと帰ってゆくボーイの背中を見送ったレイテルは、手にしたトレイに並ぶカクテルをじっと見据えつつ、

「さて、どうしましょ。シェリイを探しに行きたいけど、ここに新たな謎が提示されてしまったわ。ううむ。ここはひとまず、可能な限り多方面から詳細かつ大胆な分析を……」

「絶賛推理中のところ悪いけど、ぼくは先にシェリイを捜しに行ってくるよ」

「ええ? ああそうね。お願い」

「よろしくお願いします。ヨウヘイさま」

 女性陣二人に見送られて、ひとり洋平は事務所を出て行った。

 直後、それと入れ替わるようにして、長身の男が姿を見せた。

「やあ。今の少年、ヨウヘイくんだっけ?」

「え!? うわっとっと! ほいっ!」

「おいおい、おおっと!」

 いきなり踊り出したレイテルから、カクテルが載ったトレイをパスされたトーマスは、それでもどうにかトレイとカクテルの安全を確保して、

「ふう、びっくりした。これって『サウザンリバー』のカクテルだろ。子供の遊びに使うならもっと安いやつにしておけよ。オレンジジュースとか」

「それはこっちのセリフよ。なら最初からオレンジジュースにすればよかったじゃない」

「何のことだい?」

「だから差し入れだってば!」

 トーマスの持っているトレイを指差して、レイテル。

「知らないな。ぼくはミスターサイゾーに代わって、ちょっと君たちのようすをうかがいに来ただけさ」

「ようすをうかがいにって、トムおじさま、〈オリオンスター〉号の方はいいの?」

 彼が筆頭客船探偵を務めている同号は、すでにニューヨークへ向け出航していた。

「今回はおれも〈お姫さまの船〉の招待客だからね。それとだからおじさんはやめてくれって」

「ならトム?」

「いくらフィアンセでも、人前でそれは気安すぎるかな」

「注文の多い男は嫌われるわよ。ミスター・グッドライン?」

「聞き分けの悪いお嬢さまもね。で? この上等なカクテルがどうしたって?」

「たった今、あなたからの差し入れだと言って、『サウザンリバー』の制服を着た方が運んできてくださったんです」

 マリナが助け船を出した。 

「制服を着た方――っていうのは? やっぱりボーイじゃなかったのか?」

 くんくんとカクテルの匂いをかいでいるトーマスに、マリナはさすがという顔をして、

「わかります?」

「このコースター。プロのボーイなら、こんなに濡らしたままで持ってくるわけがない」

 トーマスとマリナが、顔を合わせてにやりと笑う。

「はい。それに初めて見る方でしたし。改装後の再雇用者リストでは、『サウザンリバー』には新しいボーイさんは入ってませんでしたから」

「マリイ、あんたいつの間に……」

 レイテルが、むしろあきれた声で聞く。

「乗務員の出入りを把握するのも、客船探偵の仕事のうちですわ」

「当然だな」

 したり顔のマリナに、トーマスもうんうんと大きくうなずく。

 レイテルは、しかし納得しかねるといった風に、

「じゃあどうして、あのときは何も言わなかったの?」

 マリナは、今度は無言でその目線を左右に走らせた。

 彼女の周りにいる子供たちは、そんな彼女の視線に気づくことなく遊びまわっている。

「ああ、そか……そうだったわね」

 レイテルもそれ以上は言葉にせず、ふうっと小さく息をついてから、

「でもさ。乗務員を把握するって、言うのは簡単だけど、全部で何百人いると思ってるの?」

「直接会社と契約しているのが、船長さん以下、運航部門と機関部門合わせて一六二名。専門の乗務員派遣会社に籍があったり、仲介者のあっせんを受けて一航海ごとに契約をするパートタイマーさんたち、たとえば医師や通信士、料理人、芸人、音楽家、客室係、それとボーイさんたちもここに入りますけど、その方たちが、多少の変動はありますが現在は八五七名。これにエリーウィンズ客船探偵部たるわたしたちと洋平さま、ミスターシオウ、さらに無報酬の船内教会堂付き神父さまを加えて、総勢一〇二四名といったところですね」

「あう、あう?」

 救いを求めるかのようなレイテルの視線に、トーマスはふっと笑って、

「ちなみに我が〈オリオンスター〉号では、あれやこれやにそんなこんなを加えて、ざっと一二五四名だ」

「ああ、うう……?」

「まあ常識ですね」

 澄ました声で、マリナ。

「当然だな」

 氷が解けてかさの増したカクテルを片手に、トーマス。

「そんなこと、ないもん! 絶対、ないもん! あんたたちの方が絶対に変よ! 何でそんな数字がすらすら出てくるわけ? おかしいわよ! 間違ってるわ! これは陰謀よ!」

「だったら他の人間に聞いてみればいい。こんな数字、ちょっとでも客船に興味のある人間ならさらりと出てくるさ」

「あのねあのね、〈ライナ・クリスティーヌ号〉の場合は、まず運航部門が――」

「お黙り!」

 後ろも見ずにレイテルが怒鳴る。

 折り畳んだ船内見取り図を宝物のように抱えた男の子が、涙目でマリナの後ろに隠れる。

「とにかく! いる、きっといるわ! そんなことも知らない変態客船マニアが!」

「レティ、どなたか心当たりでも?」

 かすかに鼻にかかった声でマリナが聞く。

 それは、自分が絶対的優位にあると確信したときの彼女のくせだった。

「自分の身近で、客船マニアで、しかもどこか抜けてて、肝心なところで役に立たなさそうなやつ――いた!」

 うんうんうなっていたレイテルが、ぱっと顔を上げる。

「あいつがいるわ! ヨーヘイよ! ヨーヘイ、ヨーヘイ!」

「またひどい言われようだな。けれど彼は、あのコウヘイ・ハルミ氏のご子息なんだろ?」

「トーマスさまの言うとおりです。それにコウヘイ氏は、レティ憧れの人でもあったはずでは?」

「父は父、子は子よ! 関係ないわ! わたしの見立てに間違いはない!」

「しかしヨウヘイくんか。ふむ」

 トーマスはじっとカクテルをみつめてから、すっとレイテルへ目を移して、

「残念だが……彼は、濃いぞ」

「ど、どうしてわかるのよ? 昨日今日ちょっと会っただけで!」

「それだけ濃いってことさ。気をつけるんだ。下手に語らせたら一晩中つき合わされるぞ」

 わざと低い声で、トーマス。

 ごくり、とつばを飲むレイテル。

 前後を客船マニアに囲まれて、まさに絶体絶命といった体の客船探偵部部長だった。

「マニアなんて、マニアなんて! 大っ嫌い! ――あら?」

「どうかしました?」

 そろそろレイテルをからかうのがかわいそうになってきたマリナが、レイテルの視線につられるように顔を向ける。

 洋平が開け放しにしていた、児童遊戯室へと通じるドア越しに見える円形窓。

 その中を一瞬、男の横顔が通り過ぎた。

「ミスタートーマス、あの人です。遊戯室の、スターン(船尾側)から三つ目の窓の外」

 それまでと変わらない態度と声で、さり気なくマリナが言った。

 横目にちらりとその窓を見たトーマスの顔から、さっと血の気が引く。

 男は、まるで道に迷ったかのように窓の外を行ったり来たりしていたが、やがてアスターン(船首側)の方へ向かって歩いて行った。

 次の瞬間、トーマスが手にしていたトレイをほっぽって走り出した。

 反射的にレイテルが追う。

「ねえねえ、急にどうしたの!?」

 一方マリナは、ふだんの調子で子供たちに「ここで遊んでてね」と言うと、ドアをそっと閉めてからおもむろに全力疾走を始めた。他のシスター用のものとは違い、彼女の修道服は、こんなときのために裾にスリットが切ってあった。

 先の角を曲がると、トーマスが解放厳禁の非常防水扉を開くところだった。

「すまんが緊急事態ってことで見逃してくれ。近道なんだ」

「あの男、知ってるの?」

 緊張のせいか、レイテルは早くもはあはあと大きく肩を上下させていた。

「知っている――いや知っていた、というべきか」

 扉に三ヶ所あるロックを解除しながら、トーマス。

「どういうことです?」

 やっと追いついたマリナが聞く。

 トーマスは、あとは開けるばかりになった鋼鉄製の非常扉にぴたりを体をつけたまま、

「あの男は、うちの船の客船怪盗だ」

 トーマスのオールバックにした額から、つつっと汗が流れ落ちる。

 マリナが、悲鳴の代わりにはっと息を飲む。トーマスが小さくうなずく。

「うちの〈オリオンスター〉号を狙った、三人目の、な」

「そんな、まさか……」

 トーマスの言っている言葉の意味に気がついて、レイテルの声も震える。

「そうだ」

 外に出るタイミングをはかるように呼吸を整えながら、トーマスが言った。

「あの男は、とっくに死んでいるはずなんだ」


     7


「どこに行っちゃんだろ、シェリイは」

 階層式のデッキを順に下りながら、洋平はようやく、メインデッキにあるレセプションホールへとたどり着いた。

「うひゃー……」

 デッキ四つ分の高さと、船客の半分がいっぺんにダンスを踊れるほどの広さを持つ――とパンフレットに書かれてあるその場所は、いかにこの船が巨大とはいえ、他の施設のスペースがちゃんと確保できるのかと余計な心配をしてしまうほどに広大な空間だった。

 前後左右の壁には、各々五メートル×一〇メートルほどの大きさの壁画が飾られていた。

 船首方向(アスターン)の壁には、大航海時代のそれを思わせる古風なタッチと色合いで描かれた大西洋中心の世界地図。向かって右側(スターボード)には大海原が、左側(ポート)にはニューヨークの街並みが描かれ、そして船尾方向(スターン)には、大きく帆を張った帆船――初代〈ブルーエアリアス〉号の姿が描かれてあった。

 船というものが、港では必ずその左側を埠頭側に、つまり町のある側に着けるということを知っていれば(必然的に右側は海の方を向くことになる)、これらの絵から、たちまちこの船の前後左右がわかるという仕掛けだった。

 前にはこれから進むべき世界が。右には洋々たる海が。左には英々たる人の営みが。そして後ろには、これまでこの船がたどって来た歴史が──それぞれ刻まれている。

 洋平も、これらの壁画のことは雑誌記事などを通じて知っていた。

 だがこうして実際にその場に立つと、豪華客船というものが、単に見た目の派手さや最新鋭戦艦も真っ青のスペックだけで成り立っているのでなく、もはやそれ自体が一つの『文化』といってもいいレベルにまで達していることが実感され、心の底から熱い思いが湧き上がってくるのを押さえることができなかった。

「うおおお……か、感動だあ……!」

 ぼくは今、確かにあの〈ブルーエアリアス〉号の中にいるんだ――!

 一時とはいえ、シェリイのことはもうすっかり頭から飛んでいた。

「ああ、この感動をぼくはどうしたらいいんだ……そうだ、乗船したという証拠に、船内のどこかに自分の名前を彫り込んでおくってのは――いやだめだだめた! たとえわずかでも船を傷つけるようなマネなんかしちゃ! でも、でもだったらどうすれば……ああ!」

 周囲の人々が自分から微妙に距離を置いていることにも気がつかず、また自分がここに来た目的すらもすっかり忘れて、洋平は一人、押し寄せる感動の大波にもまれ続けていた。

 そんな洋平の背中に、誰かがどすんとぶつかってきた。

 振り向くと、三つ揃いのスーツを着て眼鏡をかけた中肉中背の男が立っていた。

 体の具合でも悪いのか、足元が少しふらついている。

「大丈夫ですか?」

「え、ええ、すみません――では失礼」

 男は被っていた中折れ帽子に軽く手をやると、手を貸そうとした洋平を半ば強引に振り切って歩き出した。

 その横顔に一瞬、洋平は目を細めて、

「あの、もしかしてどこかでお会いしませんでした?」

「知りませんな。それがお互いのためですよ」

 つぶやくような声を残し、男はあっという間にホールに集う人々の中にまぎれてしまった。

 その直後、また誰かが洋平の体にぶつかってきた。

 だが今度は洋平の方が肩をつかまれ、ぐいっと相手の方を向かされる。

「今の男、何て言った?」

 帽子もスーツも上等だが、顔つきや体つきは肉体労働専門の甲板要員といった感じの男が、外国語なまりのある鋭い声で言った。

「何って、ぶつかったのを謝ってただけですけど?」

「何か渡されたりしなかったか?」

「いいえ」

 小さく舌を打った男からは、どこか船員風の生臭い潮風のような匂いにまざって、それとは正反対の危険な匂い――消し難くこびりついた硝煙の匂いが漂っていた。

「きさまは軍人か? 若いな。日本海軍か?」

「少尉候補生です」

 ちょっと見栄を張って答える。

 洋平の正式な身分は、前大戦期の戦時特例法下で新設された「高等商船学校生兼海軍予備生徒」である。

 一応民間人だが、卒業後には軍艦での同乗実習もある。

 その後は戦局にもよるが、命令があれば特務少尉待遇で軍属となることも決まっている。

 あのタクシー運転手ではないけれど、そういう意味では「少尉候補生」でもまったくの間違いではない。

「本当に何も受け取っていないのか?」

 さらに表情を険しくする男の肩を、遅れてやって来た別の男が乱暴につついて走り出す。

「罠だ、そいつは時間稼ぎだ!」

「そうか、くそ!」

 男はまた小さく舌打ちすると、手荒く洋平を解放した。そして最初の男同様、人込みの中へ消えて行ってしまった。

 彼らと入れ替わるようにして、数人の男女がプロムナード(遊歩)デッキへとつながる大階段を駆け降りてきた。

「我々は客船探偵です! すみません、みなさんその場を動かないでください!」

 先頭の男が怒鳴りながらホールへと降り立つ。その横には胸元の大きく青いリボンが印象的な白いドレスの金髪少女。さらに階段途中の踊り場にも修道服姿の少女がいた。

 トーマスにレイテル、さらにシスターマリナの三人だった。

「見えるか!?」

 トーマスが、踊り場に留まってホール内を見回しているマリナに聞いた。

「いえ、確認できません!」

「あ、ヨーヘイ!」

 ラジオの雑音のように続くホール内のざわめきをかきわけるようにして、レイテルが洋平のすぐ近くまでやってきた。

「ねえ、ここにあいつが来なかった!?」

「あいつ?」

「事務所にカクテルを運んできたボーイよ!」

 言われて洋平は、先の眼鏡の男がそのボーイだったことにやっと気がついた。

 追いついてきたトーマスともども、そのことを話して聞かせる。

「逃げられたか」

 洋平の話を聞いて、トーマスがくやしそうに言った。

「今頃はもう、とっくに船の外よね」

 レイテルが答える。

「その硝煙の匂いがする男ってのも含めてな──よし、おれは一応、外のようすを見てくる。あとでまた会おう」

「いいわ。じゃあ『ペニーレイン』のディナーを予約しておくから。そっち持ちで」

『ペニーレイン』は、〈ブルーエアリアス〉号で最も人気のあるアラカルトレストランだった。入港中であれば、乗船客でなくても利用できる。むろん相応の対価は必要だが。

「どうしてそうなる!」

「いいじゃない。今日はランチも食べ損なったし」

「おれのせいじゃない。でもまあいいさ。君こそ夜までに髪をきちんとしておけよな」

 背中を見せて去るトーマスへ、レイテルはセットを解いたままの髪をさっと払いながら、

「余計なお世話! じゃあマリナ、あとよろしく!」

 すると踊り場のマリナがこくりとうなずいて、

「ええこっほん。淑女並びに紳士のみなさま、このたびは大変お騒がせいたしました。わたしは本船の客船探偵兼船内教会堂付きシスターで、マリナと申します。ただ今、本船内にて迷子になっている女の子を探しております。名前はリン・ホーリー、またはシェリル・ホーリー。九歳です。髪と目は黒。ピンクの花柄ワンピースを着ています」

 とても子供一人を探しているような雰囲気ではなかったが、マリナの声にうそっぽさはまったく感じられなかった。

「見かけられた方、または保護していただいた方は、お手数ですが近くの乗務員、またはアッパーミドルデッキの児童遊戯室、いえ客船探偵事務所までご連絡をお願いいたします」

 ここでマリナはいったん言葉を切ると、遠目にもわかる大きな笑みを浮かべて、

「お騒がせしたおわびといたしまして、当船のトライバル船長よりお飲み物のサービスをさせていただきます。船尾デッキのバー『サウザンリバー』にて、お手持ちの乗船券をご提示いただいた上で、次の秘密の言葉をお願いいたします。『ヘイマスター、いつものやつ!』」

 ここでどっ、とホール内がわく。

「いいのか、あんな約束して」

「これもサービスのうちよ。それにトライバル船長はわたしの父の友人だから。多少のわがままなら喜んで聞いてくれるわ」

「百人単位でカクテルを奢らせるのが多少のわがまま、ね」

 客船では通常、乗船客の飲食代は船賃に含まれている。だがアラカルトのレストランとアルコールだけは別料金となっていた。

「それよりも、ねえヨーヘイ。あんたに聞きたいことがあるんだけど」

「何だい改まって。シェリイのことなら、まだぼくも捜してる最中で」

「あのね、うちの船の人数って、知ってる?」

「人数?」

「だからほら、乗員数とか」

「〈ブルーエアリアス〉号の?」

「うん、うん」

 洋平は少し天井を見上げてから、ちょっとばつの悪そうな顔で、

「いや、ごめん。知らない」

「え、知らない?」

「うん」

「ほんとに?」

「うん。でも、それが何か――」

「あ、いいのいいの、知らなくていいの、全然いいの!」

 レイテルは、洋平の背中をばっしんばっしん叩きながら、

「あんたってば、けっこういいやつだったのね。変態マニアの一味とか疑って悪かったわ! わたしたちは仲間よ! はい握手、握手!」

 レイテルは、むりやり洋平の手を取って握手をすると、もう一方の手で踊り場にいるマリナへVサインを送る。

「ふっふーんだ! ヴィクトリー!」

「……何のこっちゃ?」

 レイテルに手を握られたまま、けれどちょっとだけ頬を赤くする洋平だった。

 それから、そういえばまだ改装後の〈ブルーエアリアス〉号の正確な乗務員数や乗客数をチェックしていなかったなと我が身のうかつさを反省し、これは手が空き次第即刻調べておかねば! と固く心に決めたのだった。

 

     8


 電球が発明されて以来、ずっと光り続けているようなぼんやりとしたランプに照らされたカウンターで、白髪頭の小柄な老人が手にしたグラスをカラン、と鳴らした。

「似合ってないわよ、それ」

 いつの間にか、このアメリカ風バー『サウザンリバー』の入り口に一人の女が立っていた。

「足が浮いちゃってるじゃない」

 くすくす、と女が声に出して笑う。

 だが照明の暗さと、その顔の半分を覆う青いマスクのせいで、彼女が本当に笑っているのかはわからなかった。

 カモメの翼に包まれた、三本煙突の客船を刺繍したエンブレム付きのブレザーをまとった老人は、背の高いスツールから垂らした両足をぶらぶらさせながら、

「この足はな、正座に最適なように作られておるんだ」

 長い黒髪とミニ丈メイド服のエプロンを結んだ長いリボンを揺らしつつ、老人の隣に座った女が、ポンと手を打った。

「セイザ? ああ、お星さまね。わたしは夏の大三角が好き。それからここの『サザンクロスブルー』もね。代金はエリーウインズ探偵社につけてといて」

「わかりやすいボケかましおって。どこの船に客船怪盗に酒をおごる客船探偵がおる」

「ならいいわ。マスター、つけはキャンセルね。ここは怪盗らしく、正々堂々踏み倒して行くことにする」

「だから、無銭飲食なんてセコいまねする怪盗がどこにおる!」

 老人の拳がカウンターをドン! と叩いた。

「いたっていいじゃない?」

「これも時代か」

「わたしの時代よ」

 老人――祭蔵は、ふう~っと大きくため息をつくと、懐から一枚のドル紙幣を出してカウンターに置いた。

 やはり白髪頭の、しかしこちらはがっしりとした長身のマスターが、その紙幣と「CLOSED」の札を手に、黙ってカウンターから出て行った。

「腕はもうええんか?」

 再びグラスを手にした祭蔵が、女怪盗のまとうメイド服のパフスリーブ袖の下、青いバンダナの巻かれた右の二の腕に向けてそれを軽く振ってみせる。

「まだちょっと痛いかも」

 炭酸の泡がぷちぷちと音を立てているブルーグリーンのカクテルに口をつけた客船怪盗〈ブルークライム〉は、一瞬満足げな笑みを浮かべたものの、すぐに眉をしかめるようにして、

「あのおっちょこちょい探偵、喜劇役者に転職した方がいいわ。でないとそのうち死ぬわよ」

「半分は成り行きとはいえ、自分で選んだ道だ。本望だろうて」

「確かにやる気だけはあるように見えるけど、それだけじゃね」

 さらに目の目にかかげたカクテルをじっと見つめながら、「あなたもね」と付け加える。

「何のことじゃい」

「飲めないくせに」

 ちらりと笑った女怪盗が、匂いをかぐようにその鼻先でグラスを揺らし続ける祭蔵を横目に残ったカクテルを一気に飲み干す。

「雰囲気じゃい。だいたい、おっちょこちょいならおまえも負けとらんだろ?」

「ほっほっほ、何のことかしら?」

「洋平に顔を見られたな?」

「ぎく。……あの子が言ったの?」

「今朝の態度を見れば一発じゃい」

 祭蔵の揺らすグラスの中で溶けてなお氷山のごとく鎮座する氷がくるりと回る。

「まあやっこさんも、今のところはまだ半信半疑みたいだがな」

「いい子よね。誰かさんみたいな格好だけの自滅男にならないことを祈るわ――で?」

「うむ」

 祭蔵は声を改めて、

「電話は予告どおりの時間に、直接船長室へかかってきた」

「あら大胆」

「入港時のみ使える会社との直通有線電話でな。例のイベントを中止せんと〈ブルーエアリアス〉号か〈オリオンスター〉号、どちらかの船が沈むそうだ」

「沈めるぞ、じゃなくて?」

 祭蔵は答える代わりに、再びカランとグラスを鳴らした。

「例のイベントって、急きょ決まった、あのばかげた客船レース計画のことでしょ?」

「状況からみて、他にあるまい?」

「ふうん。ただの脅迫じゃなさそうね」

「今の段階では何も断定できんがな。加えて昼間の一件だ」

 祭蔵は、二人の他には誰もいない店内をぐるりと見回して、

「あの亡霊怪盗は、ここのカクテルが〈おまえ〉との密会の合図だと知っとったわけか」

「ウソでもデートって言えないの? ――どの船でも似たようなことはやってるもの」

 客船怪盗は、時にその利害を越えて客船探偵と手を組むことがある。決して表に出ることはないが、両者のタッグによって未然に阻止された事件──禁制品の密輸や殺人といった「客船の名誉を傷つけるような凶悪犯罪」は、実際にはかなりの数にのぼっていた。

「最近は朝から晩まで一緒におるのに、今さらデートでもなかろ」

「ほっほっほ。御用は何でしょう、ご主人さま?」

「やめんかい――レティ嬢ちゃんたちの話によると、やつは警察でも探偵でもない何者かに追われていたらしい。そして結局、やつはここには来ず、代わりにこの脅迫電話だ」

「急用ができたんで、お断わりの電話をしてきただけでしょ」

「やつ――〈ニック・ザ・グレート〉からだと思うか?」

「あの手の直通電話の存在を知ってるのは、会社関係者をのぞけば、わたしたちだけよ」

「自慢すな」

「自慢じゃないわ。事実よ」

〈ブルークライム〉は空になった自分の細身のグラスへ名残惜し気な目線を向けつつ、

「電話で語った内容の真偽はともかく、わたしたちが〈オリオンスター〉号を探っているのを知って、連絡を取ろうとしてきたことに間違いないと思う」

 こちらは溶けた氷で量が増えてゆく一方のグラスに向かって祭蔵もうなずく。

「しかも命懸けでな。だがそれも叶わんかったというわけだ」

「でもないわ」

〈ブルークライム〉は、フリルやレースでいっぱいのエプロンのポケットから、一枚の紙片を取り出してひらひらさせながら、

「伝言があったの。わたしの秘密のお部屋に」

〈ブルークライム〉の隠し部屋は、さすがの祭蔵でもその全てを把握できてはいなかった。

 噂では、船体設計の段階からこっそり図面に書き加えているらしい。

 客船怪盗の仕事は、狙う船が実在しないうちから始まっているのだ。

「あやうくごみ箱に捨てちゃうところだったわ」

 祭蔵が紙片に手をのばす。だが〈ブルークライム〉は、さっとその手をかわしながら、

「条件があるの」

「聞こえんな」

「条件が! あるの!」

〈ブルークライム〉が、祭蔵の耳元で声を張り上げた。

「だあーっ! そういう意味とちゃうわい!」

「……、……」

〈彼女〉は今度は声を出さず、口だけをぱくぱくさせる。

「さて、夜も更けたことだし、おじいちゃんは帰るとするかの、ごほごほ」

「この場所に、わたしも連れてって」

 スツールから降りてむしろ背の低くなった祭蔵へ、紙片を持った手をつき出す。

 そこには小数点二桁まである数字の列が二つ書かれてあった。

「だめだ」

 その数字──海図の座標を頭に叩き込みながら、祭蔵はきっぱりと言った。

「あの子たちは連れて行くんでしょ? これは学校のクラブ活動とは違うのよ。危険だわ」

「それを身をもってわからせるのには、ちょうどいい機会じゃい」

「厳しいのね」

 空のグラスのふちをなぞるように指を当てていた女怪盗は、ふっとそれを止めて、

「ううん、焦ってるのかしら。そんなに後継者が欲しい?」

「おまえはどうなんじゃ。この先もずっと、こんな老いぼれの相手をしていたいんか?」

 答えない女怪盗に、けれど祭蔵は気にした風もなく、 

「それに今は、この船から目を離すわけにはいかん。おまえさんには留守番を頼みたい」

客船怪盗ドロボウに船を見張らせる客船探偵がどこにいるのよ」

「なら船の方は、そのバスターキートンも真っ青の喜劇探偵にでも頼むとしようかいな」

「ああもう、わかったわよ。残ればいいんでしょ、残れば!」

 祭蔵はひひと笑って、カウンターの向こうでボトルに囲まれている〈ブルーエアリアス〉号の模型にグラスをかかげた。

「〈お姫さまの船〉に乾杯──げほげほ!」

「だから、飲めないくせに」


 第二章


     1


「……なあ、シェリイ?」

 さわやかに晴れ渡った空を見上げながら、洋平が言った。

「なあに、ヨウヘイ?」

 手にしたブラシで、せっせとクリーム色の四ドアオープンを磨きながらシェリイが答える。

「君は、どうしてここにいるのかな?」

『ロイヤル・スチーム・クラブ』の敷地内、ロールスロイスだのメルセデスだのが当たり前に並んでいる駐車場内をざっと見回しながら、さらに洋平が聞いた。

「これのそうじはわたしの仕事だもん」

 シェリイは、足元のバケツにブラシを突っ込んでぐるぐるかき回しながら、

「サボってたら、ほかの子にとられちゃうでしょ?」

「シスターマリナに心配はかけないっていう、昨日の約束はどこへいったんだい?」

「マリナのお部屋のドアに貼ってあるわ。ちょっとそこ、どいて!」

「ああごめん──ドアに貼ってある、って?」

 洋平が譲った場所にしゃがみ込むと、シェリイは目の前のタイヤにせっせとブラシをかけ始めた。

「かきおきよ」

「書き置き?」

 同じ言葉を繰り返す洋平に、シェリイが自慢げにうなずく。

「わたしが書いたの。ヨウヘイのとこにいますって。すごいでしょ!」

 確かに、ダウンタウンを我が物顔で駆け回っているブルーリボンキッズたちの中で、文字の読み書きができる子供はほとんどいない。

「ヨウヘイのとこにいるってわかれば、マリナだって心配しないでしょ?」

 昨日行方不明になっていた彼女は、最終的には船内の郵便荷物用倉庫で見つかった。

 その床の一部が巧妙な仕掛け蓋になっていて、その下の小部屋に隠れていたのだった。

 そこは客船怪盗〈ブルークライム〉の隠し部屋の一つだった。

 シェリイは偶然、それを見つけてしまったのだった。

 彼女によると、先に使っていた人物がいて、そのまねをしたら扉が開いてしまったという。

 祭蔵はその人物について何か心当たりがあるようだったが、まだ確証はないらしい。

 いずれにせよこれはこれで大変な功績である。が、みんなに心配をかけた件はまた別の話。

 彼女を捜すのに手間取ったせいで、マリナのお姫さまとしての最後の舞台である午餐会と、それに続く舞踏会がどちらもキャンセルになってしまったし。

 それでがっかりしたのは、マリナよりもずっと気合の入っていたレイテルだったけれど。

 なんだかんだでシェリイは、こっぴどくマリナに叱られて、もう二度と勝手に院を抜け出しませんと、聖フィセラとマリナと〈ブルークライム〉に誓わされたのだった(最後のはシェリイが付け加えた)。

「でもいいかい、シェリイ。書き置きを残しただけじゃ、シスターマリナの許可を取ったことにはならないわけで──いて!」

 シェリイの横でかがんでいた洋平の頭上に、突然空手チョップが落っこちてきた。

「おまえの負けじゃい」

「教授!? いきなり何すんですか!」

 頭を抱えて洋平が振り返ると、そこには微妙に形の崩れた浴衣を着た祭蔵が立っていた。

 その浴衣は、日本から送らせた型紙と布地をサヴィル・ローの仕立屋に持ち込んで作らせたものだった。けれどその手間の割りに出来は最悪で、今のところ寝巻き以外の出番はなかった。

「この娘っこの言い分が正しい。自分の仕事は自分で守る! 当然のことだろが?」

「ですけど教授、仕事っても、これはただのお手伝いで」

「立派な仕事じゃい――この子らにとっては、な」

 祭蔵の言葉に、洋平ははっと息を飲む。

 ブルーリボンキッズにとって、この手の『仕事』は決して遊びや暇つぶしなどではない。

『それ』を失うということは、以降の食事や収入を失うということなのだ。

 洋平は昨日、改めてマリナからシェリイのことを聞かされていた。

 だめになった舞踏会の代わりに、〈ブルーエアリアス〉号の英国風レストラン『ペニーレイン』にて開かれた、客船探偵部主催の夕食会「幻のお姫さまを囲む会」──その席上で。

 残念ながらシェリイはショーグンの隠し子ではなかったが、さらには本来の意味でのブルーリボンキッズでもなかった。

 彼女は五年ほど前、町の教会の前に捨てられていた孤児だった。

 その容姿や髪の色から複雑な出自が予想された。けれど彼女には過去の記憶がなく、確かなことは何もわからなかった。

 もしかしたら、合衆国へ行く船賃が足りなかった両親から捨てられたのかもしれない。

 それは国際航路船が出入りする港町ではよくある話だった。

 事情はどうあれ、シェリイは結局、そのまま教会付属の救済院に入れられた。

 一人だけ見た目の違う彼女は、親から見離された子供たちにとって欲求不満の格好のはけ口となった。

 マリナがその教会に配属されてからは、あからさまな暴力こそなくなったものの、すでにそこに彼女の居場所はなくなっていた。

 だからシェリイは、自分でその居場所を見つけようとした。この町で。名前も新しく自分でつけた。町で見つけたすてきな名前。そうして彼女は、孤児の「リン・ホーリー」ではなく、ブルーリボンキッズの「シェリル(シェリイ)・ホーリー」となったのだ。

 洋平は、自分の足元で黙々とタイヤを洗うシェリイに目を戻した。

「……まあ、来ちゃったものはしょうがない、か」

 洋平が英国にいられるのは、当初の予定ではあと二週間ほど。

 留学を決めれば別だが、それでも一介の学生であることに変わりはない。

 これ以上シェリイの問題に深入りするべきではないし、その資格もないのだ。

「そうだ、ちょいとこれを見てみい」

 祭蔵が、浴衣の懐からひっぱり出した朝刊でポンポンと洋平の頭を叩いた。

 やっとシェリイから目を離した洋平が新聞を広げると、その第一面には、

『史上最大、世紀の大レース開催決定!』

『超巨大豪華客船同士による大西洋横断レース!』

『真のブルーリボンライナーは〈オリオンスター〉号か〈ブルーエアリアス〉号か!?』

 などといった見出しが極太のアルファベットで並んでいた。

「客船同士のレースって……なんですか、これ?」

 なになに? と新聞と洋平の間に頭を突っ込んできたシェリイともども、祭蔵を見上げる。

「見たまんまじゃい」

「〈ブルーエアリアス〉号と〈オリオンスター〉号で競争するって書いてありますけど」

「うむ。そう書いてあるな」

「んなバカな!」

 思わず洋平は叫んでしまった。

 新聞と洋平の間に挟まっていたシェリイが、うるさーい、と赤くなった指先で耳を覆う。

「豪華客船同士でレース? それも開催は二週間後? いくらなんでも無茶苦茶ですよ!」

「同感じゃな。それでもおまえさんの帰国にはぎりぎり間に合うわい。良かったの」

「はい! ──じゃなくって! 誰ですか、こんな馬鹿げたことを言い出したのは!」

「誰であれ、話としてはわかりやすかろ? 要はこのレースで勝った方が客船として大西洋に残り、負けた方は軍艦として王立海軍ロイヤルフリート行きとなる。シェリイでもわかる理屈だ」

 二人の日本語の中に自分の名前を見つけて顔を上げたシェリイに、洋平は英語で客船レースの話をしてやった。

「わたし〈ブルーエアリアス〉号の勝ちに一〇〇ポンド!」

「シェリイ、君って見かけによらず大金持ちだったんだね」

「言ってみただけ! 一〇〇ポンドって、何ギニー?」

 とっさに答えが出なかった洋平は、聞こえなかった振りをして、

「どちらの船を残すか迷うのはわかりますけど、でもこんな乱暴な決め方でいいんですか?」

「わしに言われてもな。もっともイベントとして見れば大舞台じゃし、文字通り世界中の耳目を集めることになるじゃろ。新会社の船出としては、これ以上ない宣伝になるぞい」

「それにしたって、二週間後じゃ大した準備も宣伝もできませんよ? 日本でこのことがニュースになるのだって、早くても一週間は先でしょ」

「今時の電信技術を見くびるな。今夜じゅうには向こうにも伝わっとるわい」

 そこで祭蔵は、懐から別の新聞を取り出して洋平に見せた。

「本来はもっと穏便に決めるはずじゃったんだが、海軍から早く船を寄こせと矢の催促でな」

 その新聞には『独伊軍事同盟へ日本帝国も加盟の動き!』『ドイツ帝国いよいよポーランドへ進軍か!?』などの見出しが、客船レースのそれにも負けないくらい大きく載っていた。

「欧州でも本格的に戦争が始まるんですか?」

「日本にしても、満州だけじゃないぞ。太平洋も時間の問題じゃ。いずれは二つの大洋を戦場にした、先の大戦よりもでっかい戦争になる」

「そうなったらもう、留学どころの話じゃなくなりますね」

「んなことたあないわ。おまえさんが望むのなら、わしがなんとでもしてやる。この先必要なのは、この激動の世界を直接肌で感じて学んだ若者たちだ。むしろこうなった以上、わしとしては、是非ともおまえさんには留学してほしいくらいじゃて」

「はあ、どうも」

 いきなり大きくなった話についてゆけず、とりあえず洋平は頭を下げた。

「まあ聞くだけ聞いておけ。戦争の方はわしらにはどうしようもないしな」

「その言い方だと、他にも何か問題が? そりゃないわけないでしょうけど」

 浴衣の懐に手を入れてぼりぼりとかきつつ、祭蔵は少し考えるようにしてから、

「ええか、ここだけの話だぞ――」

 祭蔵は、洋平から奪い取った新聞を「おっほん、さて本日のせかいじょーせーは……」などど言いながらばっさばっさとめくっているシェリイをちらりと見てから、

「――脅迫電話かあった」

「えっ?」

「驚いた顔をすな。ポーカーフェイスも客船探偵の必須項目だぞ」

 祭蔵はのんびりとした口調で、

「レースを中止せよ。さもなくば世界最高の豪華客船のうち、どちらかが沈むことになるだろう、とな」

「船を沈める……ですって?」

「そうは言うとらん。沈むかもと言うただけじゃい」

「同じように聞こえますけど」

「バカもん、大違いじゃ。沈めてやるぞというなら、電話をかけてきたやつが実行犯かその一員である可能性が高い。じゃが沈むかもしれんというなら、それは別の誰かが沈めるって話を聞いて警告してきただけかもしれん」

「なるほど」

「わしも直接その通話を聞いたわけではないからの、確実なことは言えんが」

「こういったイベントにはつきものの、単なるいたずらとは違うんですか?」

「それはない。かかってきたのは船長室にある、会社との直通有線電話じゃった」

「船の外につながる有線電話ですか? そんものがあるんですか?」

「うむ。もっとも港におる間にしか使えんがな。ところでその電話は、サウサンプトン支社の運航管理部長室にある、特別の電話からでないとかけられん建前になっとるわけだ。これが」

 祭蔵の声は、むしろ楽しそうに洋平には聞こえた。

「つまり思つきのいたずらではないっちゅうことだ。第一、そんな電話があることを知っていること自体、すでにただ者ではない」

 洋平は大きくうなずいて、

「はい、相当なマニアですね!」

「んなレベルなぞとっくに越えとるわい!」

「だどしたら、客船怪盗が?」

「悪くない線じゃな」

 洋平はもう一度新聞の大見出しを見た。

「それで客船レースはどうなるんです? 中止ですか?」

「馬鹿を言え。決行に決まっとろうが」

「でも脅迫が……」

「まだ本物と決まったわけじゃないわい。それに」

 祭蔵のしわだらけの指が、シェリイの持つ新聞を今一度示した。

「これから先は、もうこんなお祭り騒ぎなどやりたくてもやれなくなる。そう、これは祭りなんじゃ。こっち流のな。厳しく辛い時代を前にしての、最後の景気づけってわけだ」

「祭りですか。それにしちゃでっかい神輿ですね」

「まったくな。そしてそれと同時に、これはわしら客船探偵に対する最大級の挑戦でもある。客船探偵の誇りにかけて、絶対に中止なぞさせるもんかい!」

 祭蔵がひとり大きくうなずく。

「なあ、洋平よ」

「はい?」

「どうだ、いっそのこと、このまま本当に客船探偵になるつもりはないか?」

「ぼくがですか?」

「この仕事の未来が明るくないのはわかっとる」

 祭蔵は、日本語ばかりの会話に飽きたのか、洗車を再開したシェリイに目を細めながら、

「だか逆を言えば、今が本物の客船探偵になれる、その最後のチャンスでもあるんじゃ」

「本物の、客船探偵?」

 祭蔵は自分の頭をこんこんとつついた。

「ええか。知識ってやつは、その気になればいつでも身につけられる――しかし経験というやつはな、今この時に、実際にそれをしなけりゃ絶対に得られんのだ」

「……」

「大西洋の荒波を蹴立てて進むブルーリボンライナー。その船上では客船怪盗が暗躍し、客船探偵との対決に乗客たちが一喜一憂する――この先もし客船が生きのびたとしても、それがどんなに大きく豪勢に進化を遂げたとしても、こんな時代はもう二度と訪れることはあるまい。わしらは今、本物の豪華客船時代最後の大イベントを見られる特等席におるんだぞ」

「教授……」

「わしらの時代はもうすぐ終わる。これからはおまえたちの時代じゃ」

 祭蔵は、そこで何かを思い出したように小さく笑うと、また表情を改めて、

「おまえさんが将来何になるつもりかは知らんし、無理強いをするつもりもない。何よりこんなご時世じゃ、望んだからといってそのとおりになれるとも限らん」

 祭蔵が顔を上げた。

 つられて洋平も空を見上げる。真っ青な空を一羽の白いウミネコが飛んでいた。

「じゃが今なら客船史上最高の……とは言わんが、史上最後の客船探偵くらいにはなれるかも知れんぞ?」

「目標がいきなり現実的になりましたけど」

「うわ言だけじゃメシは食えんからな──そうだメシじゃ! そろそろメシの時間じゃな!」

 祭蔵が最後は英語で声を張り上げた。

「え、ごはん、ごはん!?」

 ちまちまとサイドミラーを磨いていたシェリイが、ぱっと顔を上げた。

「わたしいっちばーん!」

 持っていたボロ布を洋平にパスして走り出す。

 白い柵に囲まれた駐車場の入り口で手を振っていたフローリアが、その手を横に広げてシェリイを受けとめた。

「そうじゃ、ひとつ言い忘れておった」

「はい?」

「この客船レースじゃがな。そもそもの言いだしっぺは、あの嬢ちゃんじゃよ」

「嬢ちゃん?」

「ブルーアクアンラインご令嬢にしてエリーウィンズ客船学校客船探偵部部長、レイテル嬢ちゃんじゃ」

 洋平の手から抜け落ちたボロ布が、思いっきりへたくそな字で『SYELLY!』と書かれた小さめの木箱の中へ、ぽとりと落ちた。


       2


『史上最大級の巨大豪華客船同士による大西洋横断マッチレース』は、ここしばらく暗いニュースばかりを聞かされ続けてきた人々の間から、予想以上の歓迎の声をもって迎えられた。

「こんな時期に不謹慎な!」と非難され、最悪両社の合併再建どころか相討ち轟沈(倒産)、という事態も予想されていただけに、ブルーアクアンライン、グランドスターラインの両社としては、ひとまずほっと胸をなでおろすこととなった。

 先の脅迫電話にしても、造船工学の専門家や、実際に二隻のブルーリボンライナーを設計した技師たちが協議した結果、軍艦や潜水艦でも持ち出さない限り、ポストタイタニック級の安全施策を講じた現代客船を、故意に狙って沈めることは不可能との結論を得ていた。

 どうやって会社の専用電話を使ったのかは依然として謎だったが、しかしこの手の脅迫は、レース開催の正式発表がなされて以降、他にもさまざまな手段で両社に送り付けられてきていた。逆に当の電話を使った脅迫者の方は、レースの記事が新聞を飾ってからまる二日がすぎても何の反応もなかった。

 いずれにせよ脅迫者対策は警察と、そして客船探偵の仕事だった。

 というわけで両社の関心は、今や客船レースの実現そのものに移っていた。

 一見単純に見えるこの企画は、だが実際に行なおうとするとさまざまな困難がある。

 第一に安全性。何せ全長三〇〇メートル、二隻合わせて一六万トンを超える巨大船同士が、同時に同じ最短航路を全速力(時速六〇キロ以上)で四日間も走り続けるのだ。

 もし途中で接触事故でも起こしたら、どんな大惨事になるか見当もつかない。そうなれば、新会社グランブルーラインの名は別の意味で世界中の新聞のトップを飾ることになるだろう。

 さらに両船とも定期航路船であるため、そのスケジュール調整は非常に厳しい。

 定期航路船の重要な仕事の一つに、国際間郵便の輸送業務がある。特に国家の重要な書類を運ぶ政府指定郵便船ロイヤルメイルシップに選ばれることは、ブルーリボンを取るのと同じくらい名誉なこととされていた。それだけに、その業務に支障をきたすような事態は絶対に避けなくてはならない。

 他にも、ニューヨーク万博が開かれているとはいえ、戦争の匂いが日増しに強くなってゆくこのご時勢に、千人単位もの乗客を運ぶ豪華客船を二隻同時に走らせて採算は取れるのか、などといったことまで、とにかく越えなければならない障害は数多い。

 そもそもが、どちらの船を差し出すか海軍省のお偉いさんの前で返答に窮していた会社の重役たちを差し置いて、

「そんなに迷っているのなら、いっそ二隻で競争して勝った方を残せばいいじゃない」

 とかのたまった、とある社長のお嬢さまがいたとかいないとか、それ自体が冗談のような話から始まった企画である。無茶な状況なのは当然といえば当然であった。

 実際にレースをするにしても、〈ブルーエアリアス〉号と〈オリオンスター〉号では、現状でもその最大船速に二ノット近い差がある。

 わずか一ノットの速度差でも、四日後には両船の間は一八〇キロ近くも開いてしまう。

 単純に競争をさせれば、性能に優る〈オリオンスター〉号が勝つに決まっているのだ。

 確かに同号は、これまでつまらない故障続きで、未だ設計通りの性能を発揮できずにいた。

 だが今はそれもほとんど解決し、あと数航海のうちには大西洋最速横断記録──ブルーリボン記録を更新して、フランス船から「ブルーリボン・トロフィー」を奪取できるだろう。

 とはいえ純粋に客船として見た場合、ただ速いだけでは能がないというのも事実なのだ。

 この点では、小なりとはいえ伝統ある王国が、その威信をかけて建造した「お姫さまの船」──〈ブルーエアリアス〉号の方が、客船黄金時代の正統な後継者たる威風を持って逆に一歩リードしていた。

 現に〈ブルーエアリアス〉号には、「大西洋はこの船でしか渡らん」という熱烈な常連客が少なからずついていた。もちろん皆、社会的地位も名誉もそして金もある名士ばかりである。

 もしも同号が負けた場合、彼らのような上客を失うことにもなりかねない。

 会社にとっては、それは単に船を失うということよりも痛いことだった。

 だがもはやレースの開催は決まってしまった。

 新会社グランブルーラインに残るのは〈ブルーエアリアス〉号か? それとも〈オリオンスター〉号か?

 その答えが出るまで、あと二週間――


「うーん、しかしまさか、本当にやることになるとはねえ」

 金色の枠で飾られた丸窓の前、ブレザー制服姿のレイテルが難しい顔をして腕を組む。

「あんなバカでっかい客船同士でレースをするなんて、何を考えてるんだか」

「その言いだしっぺが何を言ってるんだか」

 深紅の緞子張りソファに軽く腰をかけたシスターマリナが、深くため息をついた。

「知らないわよ、そんなの。冗談を本気にする方が悪いのよ。でもまあ、決まっちゃったものは仕方ないわ。これより二週間、我がエリーウィンズ客船探偵部は、その総力を挙げて〈ブルーエアリアス〉号の安全確保、ならびに脅迫犯の逮捕を──!」

「あ、開き直った」

 レイテルと同じく、エリーウィンズのエンブレム付きブレザー姿の洋平がぽつりと言った。

「そこ、うっさい! おっとっと」

 室内がぐらりと揺れて、ひとり立っていたレイテルは危うく、横の棚に飾られていた端午の節句に使うような小振りの兜や、スマートな外洋クルーザーの模型をなぎ払うところだった。

 その模型は、洋平たちが乗り組んでいるこの船のものだった。

 船名は〈エリーウインズ〉号――またの名を探偵一号。

 元々は〈ブルーエアリアス〉号の送迎用ボートだったが、同号の改装を期にお役ごめんとなったものを、祭蔵がただ同然で引き取ったのだった。

「おねえちゃん、気をつけてよね。それ壊したらわたしのせいにされちゃうじゃん」

 当然のようにマリナと洋平の間でちょこんと座っていたシェリイが言った。

 洋平は軽くその頭に手を置いて、

「ええとシェリイ、なせ君がここにいるのかな?」

「だって、このお船のそうじはわたしの仕事だもん!」

「いつからそうなったのかな?」

「今日から。だってここならマリナもヨウヘイも安心でしょ?」

 洋平の腕をつかみ、マリナへ向かってにっこり笑いながら、シェリイ。

「それにしたって、出航のときには船内にいなかったじゃないか」

「ちゃんといたわ。キャビンのタンスの中に」

「それは隠れていたって言うんだ」

「違うわ。ケレナディレウスを探してたの。そしたらこの船に入っていくのが見えたから」

 シェリイにうながされて床に固定されているテーブルの下をのぞくと、レイテルの足元で、客船の塗装を逆にしたような黒白の猫がまるくなっていた。

〈ブルーエアリアス〉号の客船探偵事務所でも見かけた、あの猫だった。

 洋平が体を戻すと、レイテルがひょいっと肩をすくめて見せた。

「この猫が、ええとなんだっけ? けれす、でれんす?」

「ケレナディレウス!」

 大きな声でシェリイが訂正する。

「ケレナディレウスはね、マリナのお国にいた海の守護魔神なの。いつもはいたずらばかりしてるんだけど、わるい海賊から客船を守ってくれるのよ! だからつれてきたの!」

「連れて来たって、君はこの猫を探していて、この船に乗り込んだんじゃないのかい?」

「うわわ」

「シェリイ?」

 マリナが一言、静かに言った。

「わわっ!」

 シェリイは、ぱっと自分の口に手を当てると、洋平の方にぴょんと体を寄せてきた。 

 洋平とマリナは顔を見合わせて、一緒にため息をついた。

「ええと。ではレイテル部長、改めて質問ですが」

「はいどうぞ、エリーウィンズ客船探偵部新人見習い助手候補生のヨーヘイくん!」

「〈ブルーエアリアス〉号を守らねばならぬ我々が、なぜサウサンプトン港から四〇マイル(約六〇キロ)も離れた海の上に浮かぶ、こんな船の上にいるのでしょうか? 加えてレイテル部長も一応は学生であるはずですが、おまけに進級試験も近いそうですが、学校の方は放っておいてもいいのでしょうか」

「うむ、いい質問ね。というわけでマリイ、説明よろしく!」

 マリナは、膝上の手さげ袋を脇に置くと、やれやれといった調子で立ち上がった。

「まず学校の方ですが。エリーウィンズ客船学校は今、全学生が客船レースの準備に駆りだされています。元々学外活動として黙認されていた客船探偵部の活動も、その一環として晴れて学校側から公認されました。ですので問題はありません。あるとしたら、レティ部長の学力と日頃の評判だけですわ。そのせいで試験の勉強がはかどらなくてわたしに泣きついてきたり、念願の客船探偵部を立ち上げたものの部員が一人も集まらず、どうしようもなくなってわたしに泣きついてきたり、ちょうど目についたヨウヘイさまを巻き込んでみたり」

「あーごっほん! ごっほん! うほんうほん!」

「おねーちゃん、かぜひいたの? ええとひごろのふせっせーがいけないのよ。ねえマリナ」

「おだまり! マリイ先を続けて。試験の部分を除いてね!」

「──この先はおれから説明させてくれ」

 洋平の向かいに座っている三つ揃いに身を固めた男、トーマスが手を上げた。

「こらそこ、オブザーバーに発言を許可した覚えはないわよ」

 レイテルが口をつんと尖らせる。

「だったら船客として言わせてくれ。これから向かう場所で、我々は一人の客船怪盗と落ち合う約束をしている」

「客船怪盗?」

 思わず声に出す洋平に、トーマスがこくりとなうずく。

「〈オリオンスター〉号を狙って死んだはずの客船怪盗、〈ニック・ザ・グレート〉だ」

 トーマスは手にした紙巻タバコの先で、テーブルに広げられたイギリス海峡付近の海図を示しながら、

「本日この時間、この海域にて、我々との接触を希望してきた」

「ちょっとお客さん、船内は禁煙よ」

「法外な乗船料を要求しておいて、タバコの一本も吸わせてくれないのか」

「密航者として放り出されないだけ、感謝してほしいわね」

「それが君のフィアンセに向かっていうセリフかい?」

「あ~らすっかり忘れていましたわ!」

「ついでに客船探偵としてはおれの方がずっと先輩だってことも、思い出してほしいな」

「他にすることがなくて仕方なくやってるくせに」

「でもないさ。特に君らの〈ブルークライム〉には並々ならぬ興味がある」

 トーマスはぐっと身を乗り出して、

「彼女、本当のところは何歳かな。どんな男に興味があるか、聞いたことはないかい?」

「それが愛するフィアンセに向かって聞くことかしら? ねえトムお・じ・さ・ま?」

「おじさん言うな! おれは若い! まだまだ全然元気でしっかり若い! 若いんだ!」

「そうがなり立てんでも、わしから見れば、みんな同じ若造じゃい」

 洋平たちのいる船室と仕切り一枚で隔てられた操舵室から半分顔をのぞかせて、祭蔵。

「いつまでもくっちゃべっとらんで、全員甲板へ出ろ。会合地点が近いぞ」

 洋平は、案の定真っ先に飛び出そうとしたシェリイの頭をぐっと押さえつけて、

「わかってるね、シェリイ」

「頭がトマトになりそう」

「……シェリイ?」

 シェリイは、洋平の手を頭に乗せたまま、大人がやるようにひょいっと肩をすくめて、

「オーケー。ここで待ってるわ、まいはにー。でも忘れないでね、この中でいちばん目がいいのはわたしなのよ」

「わかってるって。ワイト島が行方不明になったら、真っ先に君を呼ぶから」


 見渡す限りの海原には、ゆるやかにうねる波と、空の一部を占める数十羽ほどのカモメ以外は何もなかった。

「ほれ、よーく見てみい」

 船首に立った洋平の横で祭蔵が言った。

「最も大きなうねりとうねりの間の間隔、どのくらいあるように見える?」

「さあ。船でも浮いていてくれれば比較もできますけど……」

「ざっと三〇〇メートルだ」

 祭蔵は自分で答えると、

「この数字がどういうことかわかるか?」

「……ブルーリボンライナーの全長と同じ?」

「ご明答」

 祭蔵は一歩前に進み出て、

「ブルーリボンライナーは、むやみやたらにでかいわけじゃない。その長さは大西洋のうねりの波長に合わせて決められておるんだ」

「なるほど、うねりに乗って進めば余計な揺れに悩まされることはないってわけですね」

「そういうこっちゃい」

 洋平はしばしの間、緩やかにうねる海を見つめていたが、

「教授」

「何じゃい」

「あの……」

 洋平は水平線を見つめたまま、

「あの、フローリアさんは〈ブルークライム〉、なんですか?」

「だったらどうする? 警察に通報するか?」

「いえ。通報してもどうせ逃げられるだけでしょうし。ただ、どうしてあなたとあの〈ブルークライム〉が一緒にいるんだろう、って」

 祭蔵は、五年前に先代の〈ブルークライム〉に引導を渡した客船探偵その人だった。

 その活躍は当時の日本の新聞紙上でも大きく取り扱われ、客船探偵という存在を以前から知っていた洋平は、まるで自分のことのように興奮したものだった。

「なあ洋平、客船探偵ってのは警察官じゃない」

 着物の要領で懐に手を入れようとした祭蔵は、空を切った腕を改めて組み直しながら、

「まあ言ってみれば、何でも屋のサービス業ってところかの。そしてそれと同様、客船怪盗もまた、単なる悪党ではないのだ――わかるか?」

「いいえ」

 魚取りの練習か、それともただ遊んでいるだけなのか、海面に向かって急降下と急上昇を繰り返している一羽のカモメに目をやりながら、洋平は、

「でも、そうですね。確かに、客船怪盗は単なる悪党とは違うと思います」

「ほほう、なぜだ?」

「船は一度港を離れたら完全な密室です。どこにも逃げ場はないし、もし船にトラブルが起これば、最悪の場合せっかく盗んだお宝と一緒に海の底――単なる金目当ての悪党なら、わざわざそんな場所を仕事場に選んだりはしません」

「じゃあ、なぜわざわざそんな場所を仕事場に選んだと思う?」

 洋平は、確信のこもった目で祭蔵を見た。

「それはもちろん、心の底から船が好きだからでしょう」

「わしらと同様にな。わかっとるじゃないか」

 祭蔵の目が優しく笑う。だがすぐに真顔になって、

「トーマスはその辺が全然わかっとらん。客船探偵ちゅうより、あれじゃあ、ただ船に乗っとるだけの『船客探偵』にすぎんわい」

「なに二人だけでこそこそ話してるんですか」

 一五ヤード級の船にしては長めの前部甲板をやってきたレイテルが、「頑固教授とのんびり学生」そのままの二人の間に割って入る。

「もう会合海域なんでしょ、もっと気合を入れて捜してください!」

 二人を押し退けるようにして船首に立ったレイテルの横で、遅まきながら洋平は、首から下げていた双眼鏡を目に当てた。

「そういうのは早く出しさないって!」

 洋平から双眼鏡を奪おうとしたレイテルだったが、首にかかっていた紐のせいで、逆に二人の顔がぶつかりそうになってしまう。

「きゃっ! あんたはいらないっての! 離れろこらー!」

「わかってるから手を、手を放せって! く、苦し……!」

 祭蔵はやれやれという風に首を振ると、双眼鏡を手に操舵室の上に立っているマリナへ、

「どうだ、何か見えるか?」

「ええと……あ、はい。ポート・イーズィー(左斜め前)で何か小さく光っています」

 マリナが応える。

「数は複数。光の加減から見て魚やイルカではありません……それと帆船の帆のような布も漂ってます。どうやら下に何かあるようで、海面から少し浮かんでいるようですが」

 洋平もレイテルから取り返した双眼鏡でそれを確認する。

「まさか教授、あれって会合予定だった船じゃ──!」

「落ちつけ洋平。まだ船の残骸と決まったわけじゃない」

 祭蔵はひとつうなずくと、

「よし、とにかくそこへ行ってみよう。わしは操舵室へ戻る。誘導を頼む」

「はい。方位ステディ(そのまま)、距離目測で約一・五マイル。目標は移動していません」

「半速前進、舵ステディ、よーそろ」

 船首に残った洋平は、操舵室の上から商船学校生も真っ青の的確な指示を出し続けるマリナを見上げた。

「……彼女って、何者?」

「亡国のお姫さまって以外で?」

 レイテルは前方へ目を向けたまま、

「でもああ見えて、あの子、お裁縫と料理作りは苦手なのよ」

「ふうん、それは意外かも。ちなみに君の方は?」

「着るのと食べるのは大好きよ」

 レイテルはそう言ってから、

「マリイのことは、あなたの方が詳しいんじゃない?」

「どうして?」

「彼女って、幼い頃は日本で保護されてたんでしょ。そのときに会ったりしてないの?」

 いたずらっぽい声で、レイテル。

「まさか。うちはただの酒屋だし、あちらは一応は、王族のお姫さまだったんだから」

「でもあなたのお父さまは、彼女の命の恩人なのよ? 一度くらい、滞在先を訪ねたりはしてないの?」

「覚えてないなあ。きっとお忍びだったんじゃないかな」

 洋平は何度か首をかしげながらも、

「父さんの形見だって、今回やっと返してもらえたくらいだし……日本にいたことすら秘密だったのかも」

「そっか。でも惜しいわね。もしも出会ってたら、そこから幼い恋の物語が始まってたかも知れないのに」

「君、少女小説の読みすぎだよ……あれ?」

 何気なく覗いていた双眼鏡の先で、風にあおられたのか、帆のような布が大きくめくれ上がった。

 その下から現れたものが、一瞬洋平には信じられなかった。

「何だ、あれ……?」

「複葉、単発エンジン──水上機か? ソードフィッシュの改造機?」

 いつの間にか隣にいたトーマスがつぶやく。

 間もなくして、かすかに耳元で蜂が飛ぶような音が聞こえ始め、その物体が動き始めた。

 それはみるみる速度を上げ、あっという間に波を蹴立てて飛び上がるや、機首を返してこちらへ向かってきた。

「何でこんな海の真ん中に飛行機が……」

 機体の下に大きなフロートを二つ下げた水上機を追いかけるようにレイテルが首を回す。

 その頭上でぶーん……という羽虫のような音がいきなり大きくなったかと思った直後、〈エリーウインズ〉号の右舷側で幾本もの水柱がいっぺんに吹き上がった。

 一瞬遅れて、どんどんどん! という太鼓の連打のような連続音が空気を震わせる。

「全船警戒! 空襲じゃ! 敵機来襲っ!」

 自身信じられないといった声で祭蔵が怒鳴る。

「機体の色からすると王立海軍機のようだが……でも蛇の目(英国軍の国籍マーク)がない──?」

 目の上に手をやって空を見上げながらトーマス。しかし直後、

「──くそ、太陽に入られた!」

「全員船内へ入って救命胴衣を着ろ! 現海域より離脱する!」

 怒鳴る祭蔵の向こうで、船の細い煙突が塊のような黒煙を吐き出す。

 その直後、また急降下する飛行音がして、今度は左舷側に水柱が上がった。

 動くなという命令か、ここから去れという警告か、それとも単に狙いが外れただけか――そのどれとも取れる距離と角度だった。

「何で軍用機が襲ってくるのよ!?」

「軍の飛行機じゃない! 敵だよ! 早く船内へ入って!」

 立ち止まったレイテルの手を洋平が引っ張る。

「待ち伏せか!」

 唸るトーマスへ、レイテル共々船室に入りかけていた洋平もふと振り返って、

「だったらあの破片は、やっぱり先に沈められた〈ニック・ザ・グレート〉の船?──全然気が付きませんでしたけど」

「おれたちが来るずっと前に沈められたんだろ──けどそれなら、弾薬の残りはそう多くないはずだ!」

「トーマス! 御託並べとる暇があったら二人を船内へ入れんか!」

「わかってますって! さあレティ! ヨウヘイくんも早く!」

 少年たちの背中を押しつつ、トーマスはもう一度空を見上げて、

「あとはやつの燃料次第か……」

 ばしっばしん!

「――!?」

 船尾方向から音と衝撃が来た。

「エンジン室か!?」

「見てきます!」

 祭蔵の声に、トーマスの横をすり抜けた洋平は、そのまま船尾に回った。

 あとからやってきたトーマスと共に、ざっと検分してから操舵室へ取って返す。

「報告! エンジン本体は無事です!」

 操舵室の扉越しに、洋平はほとんど叫び声で、

「でもバッテリーの大半が吹き飛ばされて、左舷食料庫にも浸水が始まってます! ポンプが不調でトーマスさんがバケツで排水作業を!」

 祭蔵はうなずくと、今度は操舵室と船室をつなぐ通路へ顔を出して、

「レイテル! シェリイに救命胴衣を着させるんじゃ。自分の分も忘れるなよ! 着せたらシェリイはテーブルの下に入れて、その上からありったけ毛布をかぶせて水をぶっかけろ。それと油や酒の類は目についた端から海に捨てちまえ!」

「教授、無線機が使えなくなりました!」

 祭蔵の横で、銃撃の飛沫を浴びてずぶぬれのマリナが報告する。

「バッテリーを持っていかれた。無線はええ!」

 さらに祭蔵は操舵室の壁に張り付いている洋平へ、

「このままだと沈められるのは時間の問題じゃ! 手伝え、反撃するぞ!」

「でも拳銃くらいじゃ飛行機は墜ちませんよ!」

「わかっとるわい、奥の手じゃ! マリナ、主砲発射準備!」

「は、はい! 主砲発射、準備します!」

 言うが早いか、マリナが操舵室を飛び出してゆく。

「しゅ、主砲って!? まさか教授!?」

「おうとも! やつめ、目にもの見せてくれるわい!」


「へたくそめ! 何をやっているか!」

 着陸用車輪の代わりに二本の巨大なフロートをつけた水上型複葉機の後部操縦席で、飛行機用ゴーグルの下によく手入れのされた髭を生やした操縦士が怒鳴った。

「うるせえ、ならもっとしっかり誘導しやがれ!」

 肉体労働専門の船員のような巨体を、狭い後部銃座にむりやり押し込めている男が怒鳴り返す。

「燃料が残り少ない上に風も立ってきた! これ以上滞空するのは危険である!」

「〈エリーウィンズ〉の連中が悪いんだ! 探偵の分際で遅刻しやがって!」

「偽の会合時間をつかまされたのだ! まんまと〈ニック〉に騙された──待ち伏せして二隻まとめて片付けるはずが逆に誘き出され、その分弾と燃料を無駄にさせられてしまった!」

「文句を言うヒマがあったらさっさと機体を船に寄せろ! 今度こそ穴だらけにしてやる!」

「対船用爆裂弾の残りは!?」

「あーわかってる! ちくしょう──あの野郎にサービスしすぎたぜ!」

 さらに髭の操縦士は、目前の燃料計をコンコンとたたきながら、

「燃料の減りも早すぎるのである! どうやら燃料タンクに穴を開けられたようであるな!」

「ウソだろ? あんな豆鉄砲が当たったってのか!?」

 最初に沈めた船に乗っていた男──〈ニック・ザ・グレート〉は、たった一挺の拳銃で立ち向かってきた。

 そんなもので、しかも揺れる船上から空を飛ぶ飛行機を狙ったところで弾が当たるわけがない。当たってたまるもんか!

「客船怪盗の連中は悪運が強いことでも有名であるからな!」

「おれらは宝くじか! くそう、もう弾がねえ!」

 銃座の男は、さらに体をひねって『下』を見た。

「今なら波も低い! 着水侵攻して真横からの零距離射撃! それで一気にケリをつけるぞ!」

「それで沈まなかったらどうするのだ! 下手に近づいて我々の顔を覚えられたら後がめんどうだ。彼らは客船探偵なのだぞ!?」

「だから何だってんだ! ここまできたら客船怪盗も客船探偵もねえ、あの船の秘密を探るやつらはみんなまとめておれさまが地獄へ――!」

「待て、待て、待つのだ!」

「世界大戦のエースがここで弱音か!」

「違うのである! あの船の前部甲板に、何やら見てはいけないものを見たような気が──」

 言葉の途中で、髭の操縦士がいきなり機体を横倒しにした。

 ひゅん、ひゅん、ひゅん!

 銃座の男が文句を返すよりも先、その頭上を幾条もの光が猛烈な勢いで通り過ぎていった。

「な、何だ今の!?」

「曳光弾──対空射撃だと!?」

 操縦士が、翼を守るように機体を斜めにしたまま、眼下の敵をにらみつける。

「あやつら、民間船の分際でとんでもないものを装備しておる!」


「――外れたか!?」

 ほとんど垂直になった、水冷式特有の長く太い銃身。

 その背後でぶら下がるような恰好で空を見上げながら、洋平がちっと舌を打つ。

「そうそう当たるもんじゃないわい!」

 操舵室の中で舵を左右にぐるぐる回しながら祭蔵が怒鳴る。

「狙わんでええ! とにかく撃ち続けるんじゃ! ──マリナ!」

「はい!」

 頭に鉄兜をかぶって洋平の横でしゃがんでいたマリナが、ひょこんと立ち上がる。

 洋平も協力しつつ、二人掛りで足元のハッチから予備の弾薬箱を引き出す。

 弾薬といっても、拳銃のそれとは比較にならない。何たって今洋平の目の前にあるのは、ヴィッカース社製一二・七ミリ機関銃――軍隊御用達の歴とした「兵器」だった。

 特注した一箱一〇〇発入りの弾薬箱は、それひとつだけで軽く一〇キロを越える。

 この機関銃はそれを十数秒で撃ち尽くしてしまう。その度にマリナとこうして弾薬箱を差し替えることになる。

 全速力で高速蛇行している船の上では相当の重労働だ。

 何でそんなものがこの船に? などと考えているヒマはない。

 祭蔵の指示で前部甲板の水密ハッチを開けて折り畳み式の銃架を立ち上げ、マリナがそれを固定する間に祭蔵と二人掛りでこの『主砲』──一二・七ミリ機関銃を取り出して銃架の上にセット。頭上から頭の毛が逆立つような急降下音が迫る中、あとはもうしがみつくように機関銃に取りつき、とにかく銃身を上に向けて撃つ、撃つ、撃つ──!

「ええか、敵機が降下に入る直前を狙うんじゃ! 降りてくるその少し先へ弾を置くようにばらまけ! 遠慮すな! ちまちま撃ってんじゃないぞい!」

「はい!」

 細目の電信柱ほどの太さがある折り畳み式銃架の上に載っている機関銃を、体全体で振り回しながら洋平が怒鳴り返す。

 洋平が通っていた日本の高等商船学校では、大陸での戦いが始まった年から、武装商船の主兵装でもある機関銃を取り扱う課目が追加されていた。

 しかし二年生になったばかりの洋平は、飛行機を狙い撃つどころか、実弾射撃の経験すらまだ数えるほどしかない。

 だがそれをいえば、この中で唯一の実戦経験者たる祭蔵でも大して変わりはない。祭蔵が現役将校だった先の世界大戦では、飛行機はまだおまけみたいな存在だったのだから。

 目の良さと機関銃を振り回す体力のある分、まだ洋平の方がましとさえいえた。

 マリナと一緒に弾薬箱の交換を終えるや、祭蔵が舵を立てて船を直進に戻す。

 回避運動が止まったところを狙い敵機が降下してくる。さらにそれを待っていた洋平が、

「少し先へ弾を置くようにバラまけ、少し先へ――今だ!」

 がんがんがんがん! 

 引き金ではなく、押し下げ式のトリガーを左右の親指でぐいと押し込む。

 灰色の熱い煙が一瞬視界を覆い、銃架の上で暴れる機関銃が、まるでヒステリーのように空薬莢をバラまく。

 甲板上にまき散らされた指の太さほどもある真ちゅう製の空薬莢は、洋平の邪魔にならないよう、鉄兜姿で洋平の横でしゃがんでいたマリナが手にした箒で払いのけてゆく。

 思いもしない強力な反撃に、敵機がびっくりしたように機体を横へひねり、旋回しながらまた上昇してゆく。

 その姿は、獲物を先に取られてくやしがるカモメにそっくりだった。

 あっというまに弾薬箱が空になる。が、敵機はまだ空にある。

 祭蔵が再び船を全速力のまま蛇行させる──これにはかなりの操船技術を必要とする──中で、マリナと二人で新しい弾薬箱を出して交換する。

 一方その瞬間を狙って再攻撃に移ろうとした敵機の動きが、だがそこでためらうようにふっと止まった。

 次いで小さくばす、ばすっという空気の抜けるような音がして、一瞬だが飛行機のエンジン音が聞こえなくなった。

「やったか!?」

 再度機関銃に取りついた洋平が声を上げる。

「いや、ガス欠じゃな」

 祭蔵があっさりと否定する。

「あ、逃げます!」

 ふらつきながらも水平飛行に移った敵機を指差しながら、マリナが叫ぶ。

「好きにさせちょけ」

 祭蔵はさらに、

「会合海域へ戻るぞ──洋平、もう少しやつを見とれ。『主砲』はカバーをかぶせておくだけでええ。水冷式とはいえ銃自体は相当熱くなっとるから気をつけえよ。マリナ、舵を頼む。わしは船尾を見てくる」

「……終わった?」

 操舵室の後方にある船室から、救命胴衣姿のレイテルが顔を出した。

「まだ出てくるな。シェリイはどうしてる?」

 緊張と興奮が解けず言葉の固い洋平に、レイテルはちょっと笑って、

「テーブルの下でケレナディレウスを守ってるわ」

 結局レイテルは船室を出ると、ゆっくりと洋平の近くまでやってきた。

 船尾から、水汲みに疲れて弱音を吐くトーマスと、彼を叱咤する祭蔵の声が聞こえてくる。

 操舵室の丸窓で、マリナがこちらへ小さく手を振るのが見えた。

 クリーム色のごわごわした防水布越しに、レイテルがその中のものをつんつん、とつつく。

「お疲れさま──ってところかしら?」

「ほんとにね」

「こんなものを扱えるなんて、知らなかったわ」

「ぼくの国は、一足先に戦争をしているんだぞ」

「自慢そうに言わないで」

 レイテルは少し怒ったように、

「助けてもらった身で何だけど、あなたはもう少しで、人を殺すところだったのよ」

「そうしなきゃ、ぼくらが殺されていた」

「かもね、だけど──ううん」

 小さく首を振って、レイテルは、

「ちょっと、いい?」

 言って、洋平の体に自分の背中を押し付けてきた。

 何か言い返そうとしたものの、想像以上に細くて小柄な体が細かく震えていた。

 我知らず振り返った洋平は、気が付くと救命胴衣越しにレイテルの体へ手を回して抱きとめていた。

「あ、ごめん!」

「いいの。このままで。離れないで。お願い」

 離れようとする洋平の腕を、レイテルが自分の手で掴んで引き留める。

「……客船探偵が」

「なに?」

「客船探偵が、こんな危険な仕事だとは思わなかった」

「いやいや。これはかなり特殊なケースだと思うけど」

「一国のお姫さまを助けて命を落とすのも? あ、ごめんなさい」

「謝ることはないよ。おかげで本物のブルーリボンライナーにも乗れたし。異国の女の子を乗せてドライブもできた──それはもう遠慮したいけど」

「黙れ!」

 レイテルは、でも安心したように、ふうっと小さくため息をついて、

「それもこれも含めて、けれどやっぱり、みんな客船探偵の仕事なのよね。きっと他にも、まだまだわたしたちの知らない仕事があるんだわ」

「もしかして、嫌になった?」

「バカ言わないで。ちょっと疲れただけ」

「聞いてもいいかな?」

「何よ。どくさくさまぎれにスリーサイズでも聞き出そうっていうの?」

 洋平はレイテルの小さな耳を見つめたまま、

「すりーさいずってなんだい? 改装後の〈ブルーエアリアス〉号のサイズなら、全長は」

「黙れ口を閉ざせこの客船マニアが! ふー危ないあぶない。で? 何を聞きたいって?」

 洋平はちょっと、いやかなり打ちのめされたような顔をしたものの、どうにか立ち直り、

「あ、うん。そもそもなぜ君みたいな人が客船探偵部なんて作ろうとしたのかなって」

「わからない? あの教授のそばにいて?」

「まあ確かに、客船探偵のことは熱心に話をされていたけれど」

「客船探偵ちゅう職業に未来はないかもしれん。じゃがだからこそ、今が本物の客船探偵になれる最後のチャンスなんじゃあ~! ってね」

「おお、うまいうまい」

「こっちは昨日今日のあんたと違って、それこそ小さい頃から年中聞かされていたもの」

 レイテルは背中から回された洋平の腕の中で小さく笑うと、

「むしろあの教授が理事をしている客船学校に、客船探偵部がなかったことの方が驚きだったわ」

「それで君が?」

「他にいないなら、わたしがやるしかないじゃない」

「やる気があるのはいいけど、その割りには船のことや客船探偵の仕事のこととか、知らないこともけっこう多いよね。人の話だってもっとちゃんと聞かないと。そんなだから試験で苦労を」

「黙れ! いえううん、やっぱり何か話して。今度はあなたの話が聞きたいわ」

「いきなり言われてもなあ」

 レイテルごと機関銃に寄りかかりながら、そこで洋平は、ぱっと顔を明るくして、

「そうだ。主砲といえばね、帆船時代の初代〈ブルーエアリアス〉号は、実はとある有名な私掠海賊がスペイン船を襲うために特注した、客船に偽装した重武装の高速コルベットで──」

「……ヨーヘイ?」

「なんとその主砲には、コルベット艦ながら60ポンド級カロネード砲を……なに?」

「ごめん。やっぱり黙れ!」

「ええっ!」

「──お楽しみのところ悪いが、お二人さん、ちょっとこちらへ来てくれ!」

「あらトムおじさま? どうしたの?」

 話を中断されてご機嫌斜めの洋平をほっぽって、レイテルはさっさと船尾の方へ行ってしまった。

 あわてて洋平も後を追う。

 船尾には排水作業で疲れ果てたトーマスはもちろん、すでにマリナも来ていた。

 会合予定海域はまだ少し先だったが、祭蔵も含めて全員の目が波間に漂うあるものに集中していた。

 紅白に塗り分けられた、それは浮き輪だった。

 半分ひしゃげた手すりにつかまりつつ身を乗り出したレイテルが、

「ねえあの浮き輪、何か斜めになってない?」

「何かが下にひっかかってるとか? ――まさか!」

 やっと追いついた洋平がうわずった声を上げる。

「落ち着け。まだそうと決まったわけじゃない」

 ことさら落ち着いた声で、祭蔵が指示を出す。

「トーマスと協力して、ゆっくり引き上げるんじゃ……下で人が引っかかってるのなら、なおさらな」

 だが幸か不幸か拾い上げた浮き輪に人の姿はなく、代わりに長いロープが水中に向かってのびていた。

 洋平とトーマスがえっさほいさと手繰ってゆくと、その先には、防水布で幾重にも厳重に梱包された、マリナの手提げほどの大きさの包みがくくりつけてあった。

 洋平はその包みを軽く上下させてみた。大して重くはないし、何の音もしなかった。

 浮き輪を調べていた祭蔵が、そんな洋平に「ばかもん!」と一喝する。

「何もわからんうちから手荒に扱うな。爆発物という可能性だってあるんだぞ!」

「──いいえ、違います!」

 爆発物と聞いて思わず固まった洋平から、奪い取るようにして包みを手にしたマリナが、震える声で言った。

「これは――聖書です」

「聖書? ちょうどよかったじゃない。運河でなくしたやつの代わりが見つかって」

「それとは別物です!」

 振り向きもせずにレイテルを一喝したマリナは、防水布の上面にある消えかけた刻印を指でなぞるように示しながら、

「The Bible of MotherEvaress――これは『聖女エバレスの聖書』です!」

「聖女エバレス? って、あの伝説の?」

「なんか聞いたことある名前ね。誰だっけ?」

「君、部長のくせに聖女エバレスも知らないのか? 客船探偵業界の常識だぞ」

「ヨーヘイのくせに何よ偉そうに。で、要するに何なのよその聖書は」

 だが洋平はマリナの持つ包みに夢中で、代わって祭蔵が、

「かの有名な『ルシタニア文書』同様、世界中の客船怪盗が狙っとる伝説的なお宝じゃい」

「教授、その言い方はやめてください」

 マリナのその声は、洋平が思わずびくっとするほど厳しかった。

「あ、こりゃすまん。悪かった。だがちょっと信じられんな。まあ、まだ本物と決まったわけじゃないが──うん?」

 祭蔵の足元でぎぎっと嫌な音がした。と同時に、波もないのに船体がぐらぐらと傾ぎ始める。

「こりゃいかん。聖書の詮索は後回しじゃ。さっさと修理して戻るぞい!」


    4


 どうにか自力航行可能なところまで復活した〈エリーウインズ〉号はその後、緊急発進してきた英国海軍のズールー級駆逐艦二隻と共に、サウサンプトン港のすぐ隣にあるポーツマス軍港へと入港した。

 正体不明の戦闘機に狙われた船を民間の港へ入れるわけにはいかないし、同様に一二・七ミリ機関銃弾なんて代物も、いかに「ハエたたきから日本製の火縄銃まで」というバラエティーの豊かさを誇るサウサンプトン市場とはいえ、入手することは不可能だったからだ。

「今さらですけど、よく軍用機関銃の搭載許可なんて下りましたね」

 実は軍艦にもかなり興味のある洋平が、離れてゆく英国製駆逐艦からやっと目を離して、

「レイテルお嬢さまじゃないですが、客船探偵って、実は何でもありなんですか?」

「そんなわけあるかい」

 入港作業を水先案内人とマリナに任せ、同乗してきた海軍中尉と話をしていた祭蔵が、ふんと鼻を鳴らして否定する。

「とはいえまあ、要は話の持って行き方次第じゃな」

 例えば客船探偵は、その立場上、そもそも警察官に準ずる武装が許可されている。

 しかし、探偵個人が携行できる武器については確かにその通りだったが、彼らの使用する乗り物(自動車、船、飛行機など)に取りつける武装については、特に明文化された規定はなかった。

 ナンバープレートの裏に仕込んだ鉄製の撒菱まきびしとか、煙幕発生装置とか、強力なサーチライトとか――いわゆる「武装」の概念にはあてはまらないものがその大半だったからだ。

 さてここに、その手のことには抜け目のない客船探偵がいたとしよう。

 その客船探偵が、とあるパブでこんなことを言ったとする。

「つまりわしらは、その気なら、自分の船に戦艦用の大砲を載っけることもできるんじゃ!」

 ところでパブという場所には、たとえば『ハンスの店』などには、こんなヨタ話がエール(英国風ビール)よりも大好きな連中がいつも聞き耳を立てていたりする。

 そんな連中が、こんな話を聞いて黙っていられるわけもない。

「だったら載せてみろ! もしできたら、費用は家を売ってでもおれっちが払ってやらあ!」

 だがここが英国海軍の恐ろしいところで、その申請はあっさりと通ってしまった。

 それどころか、やれるものならやってみろとばかり、退役した戦艦に装備されていた主砲の砲身を一本、格安で都合してもいいとまで言ってきた。

 とはいえむろん、それ一本だけでも〈エリーウィンズ〉号より倍以上も重い戦艦用の一五インチ(三八センチ)砲を、同号に搭載できるわけがない。そもそも発射装置のない砲身だけを載せたところで何の意味もない。

 海軍にしても、それを見越しての申請許可であったわけで、結局は探偵が相応の違約金を払っただけで、相手の男も家を売らずにすんだのだった。

 ところがこの話にはおまけがあった。

 かの客船探偵はこのとき、補助武装として、一五インチの主砲に比べれば『たかが』半インチ(一二・七ミリ)口径の機関銃の購入、および搭載許可申請書も提出していたのだった。

 もしこちらだけを申請していたら、さすがに通らなかった可能性が高い。

 だが文字通り戦艦の主砲という大物の陰に隠れる形で、こちらもすんなり通ってしまったのだった。

 かくして〈エリーウインズ〉号には、めでたく? 軍用機関銃が搭載される運びとなった。

「船の改装費用も含めた機関銃座一式の請求書が回ってきたときには、さすがに一晩考えたがな。払えない額ではないし、まあええかなと、思いきって買ってみたわけじゃ」

「なんだかもう、ひどい話ですね」

「何を言う。おかげで助かったろうが」

「ですが前回は警察、今回は軍隊での事情聴取ですよ……次はどこです? 軍法会議ですか?」

「次は客船レースの本番に決まっとろうが。ここからが客船探偵の本領じゃい!」

 がははと笑う祭蔵を前に、洋平はもう黙るしかなかった。

 そんなこんなで、洋平たちが海軍指し回しの車で『ロイヤル・スチーム・クラブ』のアパートメントへ帰ってきたときには、日付はとっくに翌日となっていた。

 シャワーもそこそこに、フローリアの用意してくれていたサンドイッチと紅茶の夜食を手に二階の寝室へ上がる。

 常夜灯代わりのスタンドの淡い光の中、ふと見れば時計の針はすでに第一当直時間(午前四時)を回っていた。

「晴海一等航海士、ファーストワッチ(第一当直)入りまーす! なんちゃって」

 四方を金色の柱に支えられた、緞子張りの天蓋つきベッドの上。

 ごろりと仰向けになった洋平は、かろうじて指先が出るくらいの明らかにオーバーサイズのパジャマ姿で、紺色の天井に向かってだらしなく敬礼する。

「晴海洋平一等航海士、か……」

 寝転がったまま、ベッド脇に置かれた背もたれのない椅子のような家具へと目をやった。

 その上部は柔らかなクッションに覆われており、さらに足元にもクッション付きの台座がついている。

 一見椅子のようにも見えるけれど、それにしては座面(台座)の高さが不自然だし、クッションも柔らかすぎる。

 未だ何に使うのかわからない謎の家具──今のところそこには、先ほど脱いだ紺色のブレザーが無造作にかけられていた。

 カモメの翼に包まれた三本煙突の客船が刺繍されたエンブレムが、その胸元を飾っている。

「客船探偵、晴海洋平──ね」

 洋平は口元を歪めてにやりと笑ってみる。が、すぐに真顔に戻って、

「なんだか、二流アクション映画のタイトルみたいだな」

「そう? わたしは悪くないと思うけど」

 突然入り口の方からそんな声がして、洋平は弾かれたように半身を起こした。

「立派なのは格好と口先だけで、頼みもしないのに屋根の上で猫とタップダンスを踊っちゃうような、お笑い客船探偵が主役の三流コメディよりは面白そう」

「……それって、新しいラジオドラマか何かですか?」

 この二週間ですっかり聞き慣れた〈彼女〉の声に向かって、洋平が聞く。

「いいえ。でももしそうなったら、けっこう人気が出ちゃったりするかもね?」

〈彼女〉の声がくすくすと笑う。

 今さら語るまでもなく、客船探偵と客船怪盗の対決を語った連続ラジオドラマは、ここサウサンプトンのゴールデンタイムには欠かせない存在だ。

 もっとも劇中に登場するブルーリボンキッズ出身の美人客船怪盗〈ブルースラッシュ〉は、某軍事国家の最高機密を奪って逃亡中の元秘密工作員だったし、対する敏腕客船探偵マイクル・ロックワード卿は、自前の潜水艦と飛行船を持ち、〈コバヤシマル〉という東洋の豪華客船に暮らす『謎の大金持ち』だったりするのだが。

「けれどまあ、二流客船探偵だったとしても、ちょっと不用心よね?」

「本物の探偵だったら、枕の下にある拳銃に手をかけてるところですよ」

「本物の客船探偵だったら、そう簡単に拳銃には頼らないことね」

 隣の居間からの照明でシルエットになった〈彼女〉が、その口元の辺りで小さく指を振る。

「客船探偵にとって、拳銃は最後の武器と心得なさい。下手に撃って、壁に飾ってある名画だの、技巧を凝らした装飾だのに穴を開けられたらたまらないもの」

 言って〈彼女〉――客船怪盗〈ブルークライム〉は、もたれかかっていたドアから離れ、ゆっくりと歩いてスタンドの光の前までやって来た。

「はい、こんばんわ。というより、おはようございます、かしら?」

 青いマスクの中で漆黒の瞳が笑う。

「……おはようございます」

 洋平もとりあえずあいさつを返す。

「こんな時間に、〈ブルークライム〉がぼくに何の用ですか?」

「ええ、ちょっとね――あらあら、こんなとこにブレザーなんか置いちゃって!」

 謎の家具を見て、〈ブルークライム〉がわざとらしく驚いた声を上げる。

「こんなところをシスターマリナが見たら、何て思うかしらね」

「そういえば、これっていったい何なんです?」

「さあ何かしら?」

「フローリアさん!」

「はい、ヨウヘイさま? 何かご用でしょうか?」

 ついその名を呼んでしまった洋平に、こちらも丁寧な口調で〈ブルークライム〉が返す。

「あ、えと、あの、」

「とまあ、そんな冗談はこの上に置いておいて、と」

〈ブルークライム〉は謎の家具の上に物を置く振りをすると、

「というわけで、短い間だったけれど、けっこう楽しかったわ。じゃあ元気でね」

「──はい?」

 突然のお別れ宣言だった。

「あの、いきなりどういうことですか?」

「どうもこうも、言葉どおりよ」

〈ブルークライム〉は軽やかに手を振りながら、

「わたしの船──〈ブルーエアリアス〉号も戻ってきたし、『マザーエバレスの聖書』なんてお宝まで出てきちゃったんだもの。いい機会だから、そろそろ『本業』に戻ることにしたの」

「ここの仕事、辞めちゃうんですか?」

「残念だけどね。でも〈オリオンスター〉号にちょっかい出すくらいならともかく、〈ブルーエアリアス〉号で怪盗稼業を再開するなら、やっぱりその船の客船探偵のところにいるわけにはいかないでしょ?」

「そもそも客船怪盗であるあなたが、どうしてここでメイドさんなんかやってたんですか?」

「教授からは何も聞いて……ないわよね、もちろん」

〈ブルークライム〉は、小さく、まあいっか、とつぶやいてから、

「生活のためよ」

「……はい?」

「わたしの船は半年もドック入りしていたのよ? その間は仕事にならないから、ここで生活費を稼いでいたの」

 あっさり明かされた怪盗の懐事情に戸惑う洋平に、「意外?」と笑う〈ブルークライム〉。

「怪盗って、もっと優雅でゴージャスな暮らしをしているとでも思った? そんなの物語の中だけよ。特に客船怪盗っていうのはね、これでかなり物入りな稼業なの。何たって相手は八万トンの豪華客船なんだもの!」

〈ブルークライム〉の声は、それでもどこか嬉しそうだった。

「役者を雇ってアメリカの大金持ちに変装させて一等船室を借り切ったり、ドック入りの度に隠し部屋を作り替えたり。一〇〇人単位で三等船客を買収したこともあったっけ──」

「一〇〇人って……本当ですか?」

「さあね──でも話半分としたって、いったいいくらかかると思う? 金払いのいいパトロンでもいれば別だけど、でも代々〈ブルークライム〉は自前が原則だから」

 なあんてシビアでさみしい現実もこっちへ置いておいて──と〈ブルークライム〉は、また謎の家具の上に物を載せる振りをした。どうやらその仕草が気に入ったらしい。

「ところで将来の敏腕探偵くん。今回の件に限らず、〈オリオンスター〉号絡みで、客船怪盗が立て続けに謎の死を遂げているのはもちろん知っているわよね?」

「あ、はい。日本でも新聞に出てましたし」

「わたしはこれまで、教授と一緒にその裏を探っていたの」

「客船怪盗って、そんなことまでするんですか?」

「ときどき思うのよ……ああ、わたしってばなんてお人好しなのかしらって!」

 洋平が突っ込まないので、〈ブルークライム〉はつまらなそうにふん、と鼻を鳴らすと、

「わたしの〈ブルーエアリアス〉号も改装工事中でヒマだったしね。それにこの件が単なる事故なのか、それとも裏に何か巨大な陰謀でも隠されているのか、だとしたらそれは〈オリオンスター〉号だけのものなのか、それともいずれは他の船の客船怪盗まで狙われるのか、ちょうど気になってたところだったし」

〈ブルークライム〉は一気に言うと、それだけは『フローリア』と共通の黒いヒールにちらりと視線を落として、

「ここでメイドさんをやっていたのは、生活費のこともあるけれど、第一に教授と情報交換するのに都合がよかったから──もちろんわたし自身の安全確保も含めてね」

 洋平は、町の客船通りで初めて〈彼女〉と会ったときのことを思い出した。

 それ自体、もう何週間も前のことのように思える。

 そういえば確かにあの夜、客船怪盗〈ブルークライム〉は何者かに狙われていた。

「どれだけ狙われても、さすがにここまでは追ってこれない。英国でも有数の変人クラブの、いえ有名な王立クラブの所有する建物だし、高名な客船探偵も同居してるしね」

〈ブルークライム〉が、その細い首をのばすようにして寝室を見回した。

「けれど今回の襲撃事件は別。ああいうことをする連中なら、ここにだって爆弾の一つも落っことしかねない。船が戻ればわたしの方はもう大丈夫だし。自分の船で殺されるようなドジは踏まないわ」

「その『連中』については、何かわかってるんですか?」

「多少はね。少ない時間だったけど根性で調べたわよ。やられっ放しじゃ悔しいじゃない」

 だが洋平が何か言う前に、〈ブルークライム〉はその黒の長手袋をはめた手をあげて、

「だめよ。教えられない」

「ぼくが何の経験もない、頼りない学生だからですか?」

「がっかりすることはないわ。あなたはこれからの人なんだから。それにたとえあなたが帰国した後だって、わたしの身に何かあれば、日本の新聞にも載るでしょうし」

 それくらいは大物のつもりだけれどね、と笑う〈ブルークライム〉。

 だが洋平は、逆に真剣な顔で、

「見たくないですよ、そんなもの!」

「あら心配してくれるの?」

 答える代わりに顔をそむけてしまった洋平に、〈ブルークライム〉は、

「気持ちはありがたいけれど、でも忘れないで。わたしはやっぱり客船怪盗で、あなたは一応、客船探偵クラブの一員なのよ」

「わかってます。馴れ合うつもりはありません」

「だったら良いわ」 

〈ブルークライム〉はしっかりうなずくと、雰囲気を変えるようにパンと手を打って、

「そうだ忘れてた、七時に新しいメイドさんが来るからよろしくね――そんな顔しないで。案外わたしより美人だったりするかもよ?」

「……」

「あと一応、朝食の用意はしておいたから。といっても夜食と同じサンドイッチだけれどね。もちろん中身は変えてあるから、まあまあお楽しみに。紅茶は新しいメイドさんに入れてもらうといいわ。それで彼女の腕もわかるし」

「……」

「昨日までの洗濯物は乾燥室にあるから。それと新しいメイドさんに、給湯器の水温計は信用しないよう伝えておいて。シャワーを浴びながら湯むきトマトを作る気なら別だけど」

「……」

「あなたの好物や、朝食の注文表は台所にメモしておいた。でも一人前に扱ってほしかったら自分でちゃんと言うことね。ええとそれから――」

「フローリアさん」

「……〈ブルークライム〉って呼んでくれない?」

 ぱたり、と言葉を切ってから、冷めた声で〈ブルークライム〉が言った。

 洋平は、謎の家具をじっと見つめたまま、

「シェリイには、会って行かないんですか?」

「どうして?」

「どうしてって。シェリイは、あなたのことが大好きなんですよ!?」

「へえ。それってどっちのわたしかしら?」

「どっちもに決まってるじゃないですか!」

 洋平が思わず顔を上げると、〈ブルークライム〉はわずかに目をそらして、

「残念だけど、わたしの知ったことじゃない」

「本当に?」

 目の前を行ったり来たりする〈彼女〉を目で追いながら、洋平。

「……わたしが先代の〈ブルークライム〉に会ったのは、ちょうどあの子くらいの年だった」

 ふと歩くのをやめると、〈ブルークライム〉が言った。

「もっとも先代は、真っ白なタキシード姿で髭を生やした紳士面の男だったけどね。その彼に弟子入りを志願したら、三年後におまえがまだ生きてたら考えてやるって言われたの。わたしはその三年を必死に生きて、やっと客船怪盗になれると思ったら、そのままとある金持ちのお屋敷カントリーハウスへメイド見習いに出されちゃった」

〈ブルークライム〉は、洗濯物を畳んだりベッドメイクしたりするしぐさをしてみせながら、

「確かに、客船怪盗のターゲットになる上流階級の生活パターンを覚えたり、客船内でも通用するマナーやいろいろな国の言葉を覚えたりするのには好都合だったけれど」

 それもお給金付きでね! と軽くウィンク。

「でも先代からいちばん注意されたのは、メイドとしての『奉仕の心』――サービス精神を身につけろってことだった」

「サービス精神?」

〈ブルークライム〉は、何もない空中からパッとステッキを出現させて、

「一流の客船怪盗は最高のエンターティナーたれ! っていうのが、初代、二代目を通じての〈ブルークライム〉のポリシーなの。早い話が、うちらはお客相手のサービス業だってわけよ」

「サービス業? 怪盗が?」

 そこで洋平は、祭蔵も、客船探偵のことをそんな風に言っていたのを思い出した。

『客船探偵ってのは警察官じゃない。まあ言ってみれば、何でも屋のサービス業ってとこか』

「わたしがわざわざこんな格好をして青いマスクをしてるのはなぜだと思う?」

「……それが好きだから」

「言うと思ったわ。否定はしないけど――これはね、わたしのステージ衣裳なのよ!」

〈ブルークライム〉は、その場でくるっと回って見せた。

「さあここで質問です! 真の客船怪盗が狙う獲物って何だと思う? ――宝石?」

〈ブルークライム〉がさっとステッキを振ると、色とりどりの玉が床にポロポロと落ちた。

「はずれ! ――じゃあ絵画?」

 今度はステッキを傘のようにぱっと開いた。

 そこには、腕を組んでにっこりと微笑んでいる黒装束の女性が描かれていた。

「いいえ、いいえ!」

〈ブルークライム〉は、すぐにまたステッキを閉じて、

「それどころか、実は『マザーエバレスの聖書』でも、ましてや我らが連合王国グレートブリテンを先の大戦へと巻き込んだ『ルシタニア文書』でもないわ! ――さあさあ、時間がないわよ!」

 その両方とも、先の世界大戦中に沈没した豪華客船にまつわる伝説のアイテムであり、一般には客船怪盗の狙う最大の獲物とされていた。

「わかりません」

 考えるまでもなく洋平は即答した。

「あ、あら? ずいぶんあきらめがいいのね」

「だって、時間がないって言ったじゃないですか」

「あ、そうだっけ――はい!」

〈ブルークライム〉は、ステッキをポンと洋平に放ってよこすと、

「真の客船探偵の獲物、それはね……」

「それは?」

「ヒ、ミ、ツ!」

 わざわざ日本語で、しかも腰に手を当て指を振りふり、〈ブルークライム〉。

「そうくると思いました」

「やっぱり?」

〈ブルークライム〉は、ちょっと恥ずかしそうに舌を出して、

「まあね、でも本当の話、そんなに自慢げに言うほどのものじゃないのよ」

 さらに洋平の視線から逃れるようにちらちらっと窓の外を見て、それからまた話を続けた。

「つまりね、客船怪盗なんてその程度の存在ってこと。ただ周りが面白がって騒いでるだけ。そしてわたしはと言えは、そんな騒ぎの波に乗って遊ぶのが大好きなのよ!」

「イルカが船の船首波に乗って遊ぶように?」

「ものは言いようね。でもとっても素敵なたとえだわ、ありがとう!」

〈ブルークライム〉は、演技を終えた役者のように深々とお辞儀をした。

「あの、この話、シェリイには?」

「あなたに任せる。どうぞお好きに。でもあの子が本気で四代目になるつもりなら、こんな話を聞こうが聞くまいが、いずれまたわたしと出会うことになるでしょうけどね」

 それから〈ブルークライム〉は、謎の家具から洋平のブレザーを取り上げて、

「さっきのたとえのお礼に、『これ』が何なのか教えてあげる」

 そう言うと〈ブルークライム〉は、洋平のブレザーを脇へ置き、謎の家具の台座の上にひざまずいた。

 さらに家具の上のクッション部分に両肘をつき、握った両手に額を寄せる。

「あっ!」

 それは祈りの姿だった。

 夜明け前の窓から差し込んでくるやんわりとした星明りの中で、〈ブルークライム〉はしばしの間そうしていた。

「――わかった?」

 ようやく、膝をついたまま洋平の方に顔を向けて〈ブルークライム〉が言った。

「ご覧の通り、必要のない人間にはまったく関係のない代物よ」

〈ブルークライム〉が、洋平のブレザーを持って再び立ち上がる。

「でも、人によってはかけがえのない大切なもの──たとえばシスターマリナにとってはね」

「……」

「その人にとって何が本当に大切か。それを見極めるのも、客船怪盗の重要な資質なの」

「それを盗むために?」

「逆よ。それを盗まないためにね――ほい!」

「わっ!?」

〈ブルークライム〉の投げたブレザーが、洋平の頭を覆う。

「何するんです――え?」

 ブレザーを取った洋平の前には、マスクを外した素顔の〈ブルークライム〉――フローリアが立っていた。

「本当はね、〈ブルークライム〉のまま、さよならしようと思ってたんだけど」

 いつもの床を引きずるような服装とは違い、〈ブルークライム〉のド派手なミニ丈メイドスーツに身を包んだフローリアが、ゆっくりと近づいてきた。

「どうしても、『フローリア』があなたに会いたいっていうものだから」

〈ブルークライム〉改めフローリアは、後ろ手に長い黒髪をおさえつつ、ベッドの縁に座っまま硬直している洋平の横にひざまずくと、その頬へ唇で軽く触れた。

「――!?」

「ふふふ!」

 また何も言えなくなってしまった洋平にほほ笑み一つ残して立ち上がったフローリア、いや〈ブルークライム〉は、再び青いマスクをつけると、開け放った窓の縁にヒールを乗せた。

「それじゃあね。客船探偵の卵さん。『エン』があったらまた会いましょう!」

 言葉とステッキを残し、そうして怪盗は夜明けの町へと消えていった。


    5


 サウサンプトンの客船専用埠頭に、盛大なファンファーレが鳴り響く。

 返礼の汽笛や見送りの歓声に包まれつつ、〈オリオンスター〉号の巨体がゆっくりと岸壁を離れてゆく。

 しかしそのデッキ上に乗船客の姿はない。

 代わりに十数人の甲板員が、死にそうな顔で一人あたり数百本の紙テープと格闘していた。

 昨晩ニューヨークから戻ってきたばかりの同船が、今回向かう先はリヴァプール。

 開催まで一週間をきった『大西洋横断客船レース』のための最終調整を、同港にある客船用の整備ドックで行うのである。

 そのドックには、先に〈ブルーエアリアス〉号が入っていて、同様に調整を受けていた。

 おかげで一時とはいえ、客船レースの開催告知後初めて、この客船専用埠頭から両船の姿が消えることになった。

 閑散とした船上とは逆に、客船埠頭は、〈オリオンスター〉号目当ての見物客でごった返していた。

〈オリオンスター〉号が動き始めた今になっても、訪れる人々は増える一方。

 ロンドン発の客船埠頭行き直通列車は、早朝から全ての列車で一等から三等までぎゅうぎゅう詰め。サウサウプトンの通りはどこも大渋滞で、お昼時には、ダウンダウンの大衆酒場にまで、メイドを引き連れたシルクハットの紳士が登場して失笑を買うという一幕まで起きた。

 それはまるで、この港町全体が往年の客船黄金時代に戻ったかのような光景だった。


「けど良かったのかよ、ドックなんかに入れさせて?」

 どこから見ても力仕事専門の船員といった風体の大男が、今にもボタンがちぎれ飛びそうな三つ揃いスーツの襟元にぶっとい指を差し込みながら聞いた。

「仕方あるまい」

 顔の左右に張りついている鋭いナイフのような口髭を細長い指先で優しくしごきながら、汗とは無縁のような顔をした色白の男が答える。

 さらに彼は、埠頭にあって開店からずっと満席が続く『バトルシップガーデン亭』の、その名のとおり軍艦の甲板を模したテラスから、今まさに出航してゆく〈オリオンスター〉号へとかぶっていた山高帽を振り上げつつ、

「表向きはレース直前の整備だが、実際は警察と軍による合同船内調査なのだからな」

「まったく客船怪盗ってのはやっかいだぜ。やっと始末したってのにこの騒ぎだ」

 この出航劇の本当の目的は、つまりはそういうことなのだった。

 先日の「お姫さまの船」復活イベント中にかかってきた一本の脅迫電話――そのおかげで両船は、厳しいスケジュールの間を縫って、爆発物やそれに類するものが船内にないかどうかを調査することになったのだった。

「なあに、船の素人連中がたった二日で何を見つけられるというのだ」

 口元を薄く引き延ばすようにして、髭の男が笑う。

「この程度なら計画に影響はない。逆に好都合であるよ。せいぜい利用させてもらうさ」

「客船探偵を同行させれば、少しはマシだったろうに。バカなやつらだぜ」

 大男の言うとおり、この調査は、どちらの船の客船探偵も排除する形で行われることになっていた。

「脅迫電話の第一容疑者は客船怪盗であるし、客船探偵はむしろやつらに近い存在と見なされているからな。外されるのは当然であろうさ」

 おかげで〈ブルーエアリアス〉号では、何も発見されることなく調査は終了していた。

「だが探偵たちもバカじゃない。そろそろ事情に気づいて動き出す頃合だぜ」

「手遅れであるよ。〈ブルーエアリアス〉号については、必要な手はもう打った。同船はすでに警察によって封印されているし、もはやエリーウィンズの客船探偵であっても手は出せん」

 それに、と髭の男は指を一本立てて、

「オリオンスターの客船探偵にしても、すでに我が方で買収済みであるしな」

「おいおい聞いてないぜ、それ? 独断専行はまずいぞ!」

 大男が声を上げたちょうどその瞬間、彼の横を通りがかった子供が、子猫のようにびくっと体を震わせて二人を見上げた。

 すかさず髭の男が、テーブルにあったクッキーを一枚、子供に渡してやりながら、

「さあ泣くでない、うまいぞ――こら、いちいち大声を出すでないわ」

「ふん! おれは知らねえからな」

「きちんと結果を出せば『上』も文句あるまい」

「そっちの話じゃねえよ」

「何のことだ?」

「さあてな。それより買収の方だ。オリオンスターの探偵には会社の御曹司もいたはずだが」

「トーマス坊やか。あやつには接触しておらん。エリーウィンズに近すぎる。なあに、自分の会社から放り出されるような放蕩息子だ。一人では何もできんさ」

「だが〈オリオンスター〉号が今あるのは、あのお坊ちゃんが船の建造をゴリ押ししてくれたおかげだぜ?」

「あやつが何をしようとしまいと、〈オリオンスター〉号は進水していたさ。他ならぬ我々の手でな」

 大男は、とっくにぬるくなった紅茶をまずそうに飲み干すと、

「じゃあ、おまえが隠した『マザーエバレスの聖書』は? 結局見つけられちまったぞ」

「それは相手がブルーリボン級の客船怪盗だったからだ」

 髭の男は、テラスに集う人々が出航してゆく〈オリオンスター〉号に夢中なのをひんやりとした目で盗み見ながら、

「状況も悪かった。『あれ』については、英国海軍の介入を見越して、すぐ持ち出せるようにと外へ出してあったのだ。それをあやつ、〈ニック・ザ・グレート〉に見つけられたのは確かに痛恨事ではあったが」

 髭の男は大男をじろりと見て、

「だが今は、『あれ』が我々の手元にないということの方がずっと問題である」

「『聖書』をあぶり出すために怪盗の船を襲ったのはいいが、今頃は海の底だったりしてな」

「客船怪盗がそんなヘマをするものか」

 大男がふん、と胸を張った。その拍子にスーツのボタンがひとつはじけ飛ぶ。

「まあいいさ、どうせ行き先はわかってる。この計画が成功すれば、いやでも返ってくるぜ」

「〈ブルークライム〉のときもそう聞いたが。しかしやつはまだ生きているぞ」

「『聖書』には気づいてないようだったからな。後回しにしていただけだ」

「それがあやつの欺瞞だとは考えなかったのか」

「次は確実にあの世に送ってやる」

「二度も襲撃に失敗した男のセリフとは思えんが」

「二度目はてめえも一緒だったじゃねえか。だいたい先の船には探偵しか乗ってなかったぞ!」

「……」

「……」

 二人が沈黙するのを待っていたかのように、〈オリオンスター〉号が見送り客に向けて長い長い汽笛を鳴らした。

「ふふん、あのまま帰ってこなかったりしてな?」

 大男は意地の悪そうな笑みを浮かべて、

「船体はバラバラに切り刻まれ、その秘密が白日の下に晒されて、おれとおまえはめでたく監獄行きってわけだ──その前に体中穴だらけにされて、大西洋に捨てられてなけりゃの話だがな!」 

「口が過ぎるぞ。少しは静かに出来んのか」

 髭の男はうんざりしたように、

「軍や警察にもとっくに手を回しておるよ。まったく、こういうときにお互いの仲が悪いというのは助かるな」

「軍と警察ってのは、どこの国でも仲が悪いもんだ」

「そしてときに衝突し、負けた方が国を追われることになる――諸君らのようにな」

「いくら雇い主だからって、それ以上言ったら、てめえ――!」

 髭の男は、再び激高しかけた大男の眼前にさっと手を上げて、

「だから間違えるな。わたしも現在は主人に仕える一介の冒険飛行家にすぎん。まあ確かに、諸君らへの報酬はわたしのポケットから出てはいるがね、はっはっは――ぐお!」

 大男の爪先が、テーブルの下で髭の男の向こうずねにヒットした。

「へん! 船の秘密がバレちまえば、てめえら一族、全員まとめてダウンダウンで野垂れ死にだ! 大事な大事なお姫さまだって、明日からブルーリボンキッズの仲間入りだぜ!」

「はっはー! 何を隠そう我が姫君は、とっくにブルーリボンキッズであったのだ!」

 目のふちに涙をためつつ、髭の男がヤケ気味に笑う。

「何を自慢してるのかわかってんのかてめえは? ――っておい、今なんて言った!? じゃあ『お姫さん』が見つかったのか!?」

「うむ」

 一転して髭の男は重々しくうなずいてみせる。

「メイドとして送り込んだスパイから、さっそく連絡があった。あの家に出入りしていた子供の一人が『聖書の言葉』に反応したそうだ。さっそく回収班が向かっておるよ」

「しかし、よくそのガキだとわかったな?」

「ガキなどと呼ぶでない。リヌエット・フォアウイル・グリューフィウスさまである!」

 髭の男がすっと姿勢を正す。

「グリューフィウス家万歳! とはいえ見つけられたのは、まさに幸運であったよ。スパイが『あの言葉』を練習していたところをそのガキ、いやリヌエットさまに盗み聞きされたのだ」

「何だそりゃ、まったくたいしたスパイだぜ!」

「おほん! とにかくだ、これであとは『聖書』さえ戻れば……ふっふっふ」

「そいつは任せな……へっへっへ!」

「ふーっふっふっふ!」

「がーっはっはっは!」

 つんつん、つんつん。

「ひーっひっひ! うん? 何だ、さっきの子供ではないか。悪いが、クッキーならもうないのである――うおお!?」

 男たちのテーブルの周りは、いつのまにか似たような年格好の子供たち──ブルーリボンキッズでいっぱいになっていた。

「な、なんじゃこりゃーっ!?」

 髭の男が思わず声を上げる。一方の大男は、その分厚い唇に得意げな笑みを浮かべて、

「だから言ったろ、知らねえぞって!」


     6


 夜になっても未だにお祭り騒ぎの続く客船専用埠頭。

 その期待に応えるかのように、空と海が一体となった闇の中から、船上のライトを全て点灯して煌々と輝く〈ブルーエアリアス〉号が姿を見せるや、人々の声はいよいよ大きくなってゆく。

「──どうも、教授」

 埠頭にある建物の中で最も背の高い一等客用ラウンジの屋上。

 眼下の喧騒から一人離れて立っていた祭蔵が、その声でゆっくりと振り返る。

「おう、ミスタートーマス。おぬしも〈オリオンスター〉号から締め出されたようじゃな」

「客船を調べるのに客船探偵を除け者にするなんて、警察も軍も何を考えてるんでしょうね」

 祭蔵の横に並んだライトスター客船探偵社筆頭探偵は、鼻息も荒く、

「海軍はまだしも、警察の方は船に関しては素人ばかりです。スターボードと聞いて、いっせいに空を見上げるような連中ですよ?」

「連中の目的が、船を沈めるための仕掛けや爆弾の類ではないっちゅうことだ」

 さらりという祭蔵に、トーマスも当然といった風にうなずく。

「おれもそう思います。連中の関心はもっと別のところにある」

 そこでトーマスの声が一段低くなった。

「実は今回の件で〈オリオンスター〉号の周辺を調べていたら、面白いものを見つけまして」

「どうやらきわどい話になりそうじゃな」

 祭蔵は、一服つけようと思っていたパイプを懐にしまうと、

「よかろ。わしらの船に行こう」

 ポーツマスで戦時並みの突貫工事で応急修理を施した〈エリーウィンズ〉号は今、客船埠頭から歩いて一〇分ほどの大型ヨット専用桟橋に係留されている。

 できればちゃんとした修理ドックへ入れたいところだが、現状で自前の足を失うのは痛い。

「代船はまだ都合つかないんですか?」

「客船探偵に貸すとなると、保険屋が黙っておらんからな──じゃがまあ、明日中には何とかなるじゃろ」

 人でいっぱいの客船埠頭を一歩出ると、それまでの騒ぎがうそのように静かな夜だった。

「そういえば教授、あの『聖書』はどうなってます?」

「今はサウスサイド銀行の特別保管室にある。じゃがすぐ移すことになるわさ」

「やはりアメリカが? 連邦捜査局がついに重い腰を上げましたか」

 うむ、と祭蔵。

「まあ仕方あるまいて。『あれ』が盗まれた先の船は、一応まだアメリカ国籍でもあるしの」

「では真贋の鑑定は? アメリカさん待ちですか?」

「とっくにマリナ経由でサウザンライト教会に照会中じゃ。もっとも表沙汰にはできんから、専門家の詳しい鑑定はまだ少し先になりそうじゃが……」

 のんびり歩いていた祭蔵の足が、そこで止まった。

 遅れて立ち止まったトーマスへ手を上げて、その口と、懐へ入れた彼の手を制する。

 すぐ先に、停泊灯だけを灯した〈エリーウィンズ〉号の暗いシルエットが静かに横たわっていた。

「待て――わかっとるな?」

「はい。拳銃は最後の武器だってのがエリーウインズ流でしょう」

「『はい』だけでええ。おしゃべりめ」

 祭蔵は〈エリーウィンズ〉号の船首側、トーマスは船尾側へ回り、祭蔵の合図で明かりの消えた船室内へ突入した。

 海図台兼用のテーブルでのびをしていた猫が、一転、爪の出た足をしゃかしゃかと滑らせつつ、最後は船室の隅でうずくまっている小さな女の子へ決死の大ジャンプを敢行した。

「……シェリイか?」

 探るような祭蔵の声に、スカートの中へ頭を突っ込んだ黒っぽい猫の、その背中から尻尾にかけて優しくなでてやっていた女の子が、こくんとうなずいた。

「ひのふの、三日ぶりか。元気にしとったか?」

 シェリイがまたこくん、とうなずく。

 でもすぐにぱたぱたと頭を横に振って、うつむいてしまう。

「寒かったろ。まだまだ夜は冷えるからな──おれ、お茶を入れてきます」

 船室の明かりをつけたトーマスが、そのまま後部にあるギャレー(簡易台所)へと向かう。

 祭蔵も、シェリイに「ちょっと待っちょれ」と言って操舵室に上がり、エンジンを始動させた。

 暖機がてら船内の暖房を入れ、船室へ戻る。

 室内が温かくなっても、シェリイはまだ同じ場所で猫を抱えてうずくまっていた。

「ここ数日おまえさんが顔を見せんかったおかげで、わしの車はカモメのフンまみれじゃい」

「……ごめんなさい」

 それからシェリイは、やっと顔を上げて、

「でもね、でも……」

「いいから。言ってみなさい」 

「ミス・ペインニーズが」

「ペインニーズ? ああ、新しいメイドか。だが彼女には、おまえさんのことはきちんと話をしておいたはずじゃがな」

 上流階級に仕えるメイドの中には、その立場をかさにきて、実質的な身分には大して差のないダウンダウンの連中や、特にその象徴たるブルーリボンキッズを毛嫌いする者がいた。

「違うの」

 シェリイがまた首を横に振る。

「わたしね、あの人の声を聞いてると、おかしくなっちゃうの」

「声?」

「あの人、たまに変な声で歌うの。台所とか洗濯室とかで。わたし、その歌をしってるような気がする。けど思いだせないの。それでしっかり聞こうとして耳をすませてるとまわりが暗くなっちゃって、それから明るくなると別のとこにいるの。ヨウヘイの部屋とか」

 船尾側のギャレーから、しゅんしゅんという蒸気の上がる音と、トーマスの鼻歌が聞こえきた。

 シェリイはちょっと身を固くして、

「うそだって思ってる?」

「いいや、いいや!」

 祭蔵は強い声で言うと、

「その歌だがな、歌詞とかはあるんか?」

「わかんない。英語でもニホン語でもないし、スペイン語とかイタリア語とかとも違うし、もしかしたらドイツ語に近いのかも。でもわかんない」

 むろん、シェリイがそれらの言葉を全て話せるわけではない。

 けれどさまざまな言語の飛び交う港町で生きる彼女の耳は確かだ。

「そのおまえさんがわからないっちゅうんだから、もしかしたら、普通の意味での言葉ではないのかもしれんな」

「うん。言葉っていうより、ただうなってるだけみたい。気持ち悪いの」

「まるで催眠術の呪文じゃな」

「――どうしました?」

 しっかり温めた人数分のカップと、いい匂いのするポットを持って、トーマスが船室に入ってきた。

「極上のダージリンですよ、こいつ。ああだめです、あと三分待ってください。それで?」

「うむ、ちょいとばかり難問かもな」

「……ねえ、わたし、今夜はここにいちゃだめ?」

 かすれるような声で、シェリイが聞いた。

「マリナはおでかけしてるし、アパートにはフローリアも、ヨウヘイもいないし……」

「洋平もか?」

「ミス・ペインニーズが電話を受けてたわ。車がこしょーして、レティとロンドンだって」

「何じゃい、またかいな」

 水陸両用車「探偵二号」は、運河に落ちて以来ずっと故障続きで、その度にロンドンまで修理に出向いていた。

 ちなみにシェリイは最近、マリナのまねをしてレイテルのことはレティと呼んでいる。

「だとすると今頃は、二人仲良くベイカー街で探偵ごっこかな──よし、時間だ」

 腕時計から目を離したトーマスが、三人分のカップに紅茶を注ぎ始める。

「わかったシェリイ。今晩はここに泊まっておいき。少し狭いが船首側の寝室を使うとええ」

「ほんと!?」

「うむ。で、早速で悪いが、そのお茶を持って寝室へ行っててくれんか。わしらはちょっと話すことがあるんでな」

「オトナの話ね。りょーかい! おいで、ケレナディレウス!」

 すっかり元気な声になったシェリイが、自分のカップを持って、しゃなりしゃなりと歩いてゆく――が、操舵室の下にある客用寝室へ続く小さな階段の前で立ち止まると、

「そうだ、ラジオ聞いてもいい? ちょうど時間なの、『客船探偵物語』!」

「ええよ。ただし音は小さくしてな」

「はーい!」

 だがシェリイの姿が寝室に消えるや、大音量で連続ラジオドラマ『客船探偵物語』のメインスポンサーのテーマ曲が流れ始めた。

『……ラーイ、ライライ、イラッシャーイ! みなさまのヨウコソフーズがお届けするヨウコソ探偵劇場、今宵も華々しくカイテンで~す――!』

 ヨウコソフーズは、先の大戦で少しだけ欧州で株を上げた日本が、その勢いで仕掛けた日本食ブームに乗って急成長した外食チェーンだった。

 ちなみに『客船探偵物語』の主人公マイクルも日本食通という設定で、好物は秋刀魚の塩焼きとニンニク抜き餃子。

「いつものことながら、こんな日本語まる出しのフレーズなぞ、わからんやつの方が多いんじゃないか?」

「ずっと疑問でしたけど、日本語だったんですか、これ」

 感心しきりといった風にトーマスがうなずく。

「主人公の元ネタは晴海公平氏だそうですし、言われてみれば納得です」

「好物の日本食が餃子、しかもニンニク抜きっちゅうのは、大いに意見のあるところじゃが……確かにあやつも餃子は大好物だったがな」

 祭蔵は、ラジオの音量に少し顔をしかめつつも、

「まあええ。いいカムフラージュじゃい」

「ですね。それでは」

 カップを置いたトーマスが、懐から厚手の封筒を取り出した。

「まずは、これを見てください」

 受け取った封筒の中にあった三つ折りの書類束を、祭蔵はテーブルの上に順番に広げて並べていった。

 書類はみな同じ位置に二つの穴が開いていて、さらに細かい数字がびっしり書き込まれてあった。

 どうやら帳簿綴りから直接抜き出したものらしい。

 加えて一枚残らず、グランドスターラインの極秘扱いスタンプが押されてあった。

「――五年前、我がグランドスターラインの経営危機からくる資金不足で〈オリオンスター〉号の建造計画が一時中断したとき、アメリカの投資市場を通して貸し付けに応じた人物の名前とその金額、および具体的な金の出入りを記録したものです」

「マイク、クリス、スミス、ショーン――何だこりゃ、しりとりゲームかいな」

「記録上は別人ですが、それらは全て同一人物です」

 トーマスは味わうように一口、紅茶を含んでから、

「それもどうやら『グリューフィウス』がらみの人間らしいんです、これが」

「グリューフィウス、だと?」

 祭蔵の問いに、紅茶に口をつけたままトーマスがうなずく。

 ――かつて欧州全土にその栄華を誇っていた旧ハプスブルク王家。

 その一翼に連なっていたグリューフィウス家は、当時のオーストリアで、本家に劣らず贅の限りを尽くしていた大貴族だった。

 しかし先の世界大戦以降、敗戦国となったオーストリアの貴族社会は壊滅的な打撃を受け、ハプスブルク王朝もついに歴史上からその姿を消すこととなる。

 しかしグリューフィウスはそれをよしとせず、貯えた財産の没収を逃れるべく地下へ潜り、生き残りのために今度は欧州屈指の犯罪組織となった。

 母国オーストリアを始め各国警察の厳しい追及を横目に、芸術家や音楽家の代わりに怪盗や贋作絵師といった連中のパトロンとなり、一時はかの客船怪盗〈ブルークライム〉もそこに名を連ねていたとも言われている。

 もっともグリューフィウスに言わせれば、「彼らだって立派な芸術家さ」ということになるのだが。

 しかし去年起きた新生ドイツ帝国のオーストリア侵攻によって、その状況は一変する。

 同国の併合と同時に、SS(ナチス親衛隊)、ゲシュタポ(ドイツ国家秘密警察)、および旧オーストリア秘密警察の合同部隊による本格的かつ大々的なグリューフィウス撲滅作戦が展開され、その結果、グリューフィウス家は現在、ほぼ壊滅状態にあるとされている。

 蛇足ながら、この作戦の顛末を描いたドイツ映画省制作、宣伝省および情報省監修の自称完全ドキュメンタリー映画『フォアウイル城は燃えているか!』は、現在もなお、ドイツ領内でのみ大人気絶賛上映中である。

「じゃが、なぜそうだとわかる? 五年前と言えば、グランドスターラインとブルーアクアンラインの合併交渉が始まったころじゃ。目ざとい投資家が、そのあたりの情報を耳にして、人生を賭けた先行投資に出たのかもしれんぞ?」

「あの『聖書』がグリューフィウスの重要な秘密コレクションであることは、あなたもご存じでしょう?」

『マザーエバレスの聖書』――それはグリューフィウスの身分を捨て、とある小王国で孤児たちのためにその身を尽くした若き修道女、シスターエバレスが持っていたとされる聖書だった。

 大戦中彼女は、大勢の身寄りのない子供たちをを連れて英国経由でアメリカへの脱出を試みるも、乗っていた客船がドイツ潜水艦の雷撃を受けて沈没。彼女と子供たちは船と共に大西洋に沈んだが、その後奇跡的にこの『聖書』だけが海上に戻ってきたという。

 以来彼女の『聖書』は、特に客船の礼拝所でお勤めをしているシスターたちの間では、半ば神格化されたアイテムとなっていた。

 だがそれだけでは、シスターならぬ身の客船怪盗たちが追い求めるには役不足である。

 一説には、実はこの聖書には、オーストリアへ侵攻したドイツの軍警察がいまなお血眼になって探している、グリューフィウス家の隠し財宝のありかが記されていると言われていた。

「現在はグリューフィウスの残党たちが所有しているとされるその『聖書』が、客船怪盗〈ニック・ザ・グレート〉の手によって、なぜか〈オリオンスター〉号から盗み出された。ということは──」

「待て待て、結論を焦るでないわ」

 ぐぐっ顔を寄せてくるトーマスに、祭蔵はそのぶん身を引きながら、

「まだあれが本物と決まったわけじゃない。たとえ本物だったとしても、『それ』が最初から〈オリオンスター〉号に隠されていたという証拠はどこにもない」

「それはまあ、そうですが……」

「仮におまえさんの知らんところで、会社とグリューフィウスが絡んでいたとしてもだ、こんないわくつきの、ましてや沈んだ船がらみの遺品なんぞを、会社を──いや国を代表するブルーリボンライナーに載せておくと思うか?」

 いい加減ぬるくなった紅茶にやっと手を伸ばしつつ、さらに祭蔵は、

「実のところは、会社の知らないところで誰かが持ち込んだものを、〈やつ〉が盗んだだけかも知れん」

「ですが――!」

「わかっとるわい」

 いきり立つトーマスを前に、祭蔵は、わざとゆっくり紅茶を啜ってから、

「じゃが最初から決めてかかれば、それだけ視野が狭くなってまうぞ」

 黙り込むトーマスを横目に、祭蔵は、客用寝室から聞こえてくるラジオにちょっと耳を傾けてから、

「まあそう考え込むな。どんな形であれ、〈オリオンスター〉号には確かに何か秘密がある……それを探ろうとする連中を殺してまで守ろうとする秘密が、な」

「は──はい!」

「ところでおまえさん、自分の車は今どこにある?」

 ふと祭蔵が聞いた。

「客船埠頭の社員用駐車場ですが。前のやつが不調なんで、ちょうど新しいのに買い換えたところです。今度のやつはエンジンにこだわってコスワースの──」

「だから余計なことは言わんでええ。ちと遠いな。仕方ない、船ごと行くか」

「どこへです?」

 船室の明かりを消して歩く祭蔵を追って頭を巡らせつつ、トーマスが聞く。

「決まっとる。安全なところだ」

 船室の出入口に立った祭蔵は、自分の左胸のあたりを指差しながら、

「もやい綱をといてくる――わかっちょるな?」

「――はい」

 トーマスが、今度は返事一つで口を閉じる。

「念のため聞いておくが、船は扱えるな?」

「帆のない船はあまり好みじゃありませんが」

「文句は明日聞いてやる」

 祭蔵はもう一度だけ、ラジオの音が響く寝室の方へ目をやってから、

「一分、いや三〇秒たってもわしが戻らなかったらかまわん、全速で脱出しろ──だめだ絶対出て来るな。シェリイを守って、海上巡察局の専用桟橋まで突っ走れい」

「……アイアイ・キャプテン!」

「頼んだぞ」


     7


「だから、こいつの設計水上最高速度は六・五ノット(時速約一二キロ)、実際には三ノットも出れば御の字なんだ。海へ出るより、パンクを修理して走った方が全然速いんだって」

 青からオレンジへと変わりつつある空の下。

 上半身シャツ一枚という姿で、こきこきこきとその車体をジャッキアップさせがら、洋平が言った。

「えっえー、これってそんなに遅いの!?」

 エンブレム付きの紺ブレザーにチェックのスカートという、いつものスタイルで後席に座ったままのレイテルが、車外で作業する少年の顔を二度見する。

「水の抵抗とか、スクリューとタイヤの効率の違いとか、いろいろあってね――ふう」

「もう、役立たず!」

「ほんとにな。大した車だよ、この探偵二号は!」

「あなたにも言ってるのよ、ヨーヘイ?」

 洋平は、エリーウインズ客船探偵クラブのマークの上に載せてあった予備タイヤを下ろしながら、

「ぼくがいったい何をしたって?」

「エンジンを壊したし、タイヤをパンクさせたし、待ち合わせに一四分も遅れたし、通り雨にも降られたし、試験範囲のヤマだって外したし――」

「ちょっと待った。全部に対していちいち反論はあるけれど、特にその最後のやつは何だ!」

「わわっと、何でもない。忘れなさい、部長命令よ!」

「今はプライベートだ。そして仕事を外れれば社会的身分がモノをいうのだ」

「何よ? 何が言いたいの?」

 洋平はタイヤの前にしゃがんだまま、おっほんと一つ咳払いをして、

「第一に、ぼくは高等商船学校の学生だ。これは、この国でいえばパブリックスクールの上、カレッジスクールのスチューデントってことだ。つまり大学生なのだ。要するにエリーウィンズ客船学校生徒の君よりも上なのだ。おまけにぼくは海軍予備生徒でもある。早い話が士官候補生ということで、つまり――」

「つまり、まだ船乗りでも軍人でも本物の客船探偵でもない、ヨウヘイ・ハルミという少年以外の何者でもない――ってことでしょ?」

「あ~……」

 しかし洋平は、結局反論を断念してタイヤの修理へと戻ったのだった。

「君、ヘリクツの試験があれば楽に首席になれるよ」

「そんな試験のある学校なんてお断り。学生はきっと変人ばかりだもの」

「ぴったりじゃないか」

「何か言ったかしら? そんなことより修理は終わったの?」

「ええと、もう少しお待ちをお嬢さま」

「早くしないと、またわたしが運転するわよ。いいの?」

 エンジンの故障も、このパンクも、元はといえば全て彼女の運転中に起こったことだった。

「うりゃうりゃ、うりゃ! ほい終わった! あとはサウサンプトンまで一気に突っ走るだけだ!」

「そうしてくれるとわたしも嬉しいわ」

 だが二人がサウサンプトンへと戻ったときには、しかしやっぱり、町はすっかり夜の装いとなっていた。

「……ま、こんなとこだろうと思ったけどね」

 ようやく客船専用埠頭を示す標識までたどりついた「探偵二号」の後部座席で、レイテルがそれでもほっと息をつく。

 彼女の手は、町に入る直前に落こっちかけたスクリューユニットをくくりつけているロープを握っていた。

「もういい加減、限界よ。腕は疲れたし手の皮がむけて痛いし。ねえヨーヘイ?」

「だめ。運転は譲らない。まだほんの一〇分くらいじゃないか。あと少しだけ頑張ってくれ」

「いや。頑張れない。だから先に〈エリーウィンズ〉号へ寄ってちょうだい」

「今ちょうど〈ブルーエアリアス〉号が入港中のはずなんだ。ちょっとだけでも見学に──」

「うっさい! いいから進路変更! 一秒でも早く着替えしたい! シャワー浴びたい!」

 バックミラーの中で、今や後部座席に膝立ちしてスクリューユニットを支えているレイテルが、汗だくの顔で洋平をにらんでいた。

 その背中で、長い金髪が破れた帆のようにはためいている。

「……納得」

 洋平はロータリーに入ると、客船埠頭へと続く自動車の群れを横目に、ヨット用桟橋へとハンドルを切った。

 埠頭へ向かいたいのをようやくこらえて、桟橋への最後の角を曲がる。

 星空を背景に、枯れた木々のように林立するヨットのマストが見えてきた──と、その直後。

 きききーっ! がっくん!

「ちょ、ちょっと何よ! 止まるときはそう言ってくれないと!」

 しかし洋平からの返事はない。

 その視線の先、自動車の頼りないライトが一人の女性の背中を照ら出していた。

 ゆったりとはためく長い黒髪。

 まるでプリマドンナを思わせる、ふわりと広がった極端に短いスカート──そしてちょっとだけ高いヒール。

「〈ブルークライム〉──こんなに早く再会できるとは思いませんでした」

 わたしもね、と〈彼女〉。

「できれば大西洋を渡る〈ブルーエアリアス〉号の上で会いたかったわ」

「ちょっとヨウヘイ、再会って何の話よ!? あんたいつの間に〈ブルークライム〉とそんな仲に──!」

 ひとり声を上げるレイテルを無視するように横顔だけを向けた〈ブルークライム〉は、さらに静かな声で、

「悪いけれど、ここから先は行き止まりよ」

 洋平はまだ文句を言っているレイテルを腕を上げて制すると、

「……どういうことですか?」

「悔しいけれど、今回は先を越されちゃったわ」

 次の瞬間、桟橋の方が急激に明るくなり、次いで重い爆発音が空気を震わせた。

 林立するヨットの帆柱がゆさゆさとゆらめく。

「ヨーヘイ見て、あの船! 爆発した船って、まさか!?」

 だがその問いに答えたのは洋平ではなく、目の前の〈ブルークライム〉だった。

「そう……〈エリーウインズ〉号よ」


    第三章


     1


『一分、いや三〇秒たってもわしが戻らなかったら、かまわん、全速で脱出しろ』

 ――アイアイ、キャプテン!

『ねえ、どうしたの?』

 ――何でもないよ。ラジオはそのままでいいから、毛布にくるまっているんだ。いいね?

 がたん! どた! みしみし!

『どうしたの? なんの音? きょーじゅは?』

 ――(くそ、三〇秒か!)大丈夫。心配ないよ、すぐに戻ってくるから……

 ぱんぱん、ぱん! どたどたどた! ばたーん!

『何やっとる、早く船を……!(ぱん、ぱん!)うおっ!』

 ――教授!? くそくそ、くっそう!(ばあーん!)うわ……っ!


「――シェリイ! はっ!?」

 夢から覚めたのはわかっていた。

 しかし何も見えない。

「はあっ、はあっ、はあっ……?」

 ゆっくりと頭を左右に振ってみる。痛みはない。

 しかし熱くて重い。凪の中でヨットを回頭させているかのように反応が鈍い。

「お目覚めですか、トーマスさん。具合の方はいかがです?」

 声のする方へ頭を傾ける。と、額の上で何かかずるりと動いた。

 何だろう? 包帯にしてはやけにふわふわしているが。

 さておき、声の主は女性のようだった。質問の内容からすると看護婦ナースらしい。

 とするとここは病院なのか?

「また無茶をされましたね。かわいいフィアンセを置いて、一人で死ぬ気だったんですか?」

「フィアンセ……ああ、レイテルのことですか? 彼女はまだ全然若い。これからいくらでも出会いはありますよ」

「あの日本人の男の子みたいな?」

「ええ──ええ、そうですね。彼はきっといい客船探偵になる……父上のように」

「この先もそんな彼に見合う立派な客船があればの話、ですけれどね」

「……努力します」

 トーマスは苦労して笑うと、

「それより、ええと、頭がちょっと重いんですが。あと、目がまだよく見えないような……」

「それはあなたの顔の上に猫が乗っているからですわ」

「は? 何ですと?」

「うな~おん」

 話していた女性の代わりに、顔の上で猫が鳴いた――何ですとお?

「ええと、看護婦さん?」

「はい、何でしょう」

「あなた、本当に看護婦さん?」

「もちろんですわ。第一期メイド時代、ニア・ソーリーでトレインドナース(訓練看護婦)の免状をいただきましたから」

 猫の白い腹毛越しに目を凝らす。

 確かに女性は看護婦の制服を着ていた。

 白のワンピースに白いエプロン。

 頭をすっぽりと覆う、料理人ような大きめの白いキャップ。

 そして顔には青いマスク──え?

「え?」

「ほうら、お注射だってできますわよ。ほっほっほ!」

 そこでやっと猫がどいて、トーマスも完全に意識を取り戻した。

「やめないか、〈ブルークライム〉!」

「あら残念。ひのふの五年振りに生きた人間に注射するチャンスだったのに」

 看護婦姿の客船怪盗〈ブルークライム〉が、手にした凶悪にぶっとい注射器から、何かの液体をぴゅーっと飛び出させた。

「その凶器でおれにいったい何を注射するつもりだったんだ!」

「それは打ってからのお楽しみ」

「……」

 トーマスは逃げるように窓の方へ頭を向けた。

 空は曇っていて、朝とも夕方ともつかない暗い色をしていた。

「あれから何日たった?」

「二日、今日も含めれば三日ね──はい、ちょっとごめんなさいね」

「今は何時だ?」

「モスクワあたりではそろそろ朝食どきかしら――はい、袖をまくりますよ」

「客船レースは?」

「予定通り。明後日のお昼にスタートよ――はい、消毒しますから腕を動かさないで」

「あれからどうなった? 教授は? あの子は?」

「教授は下の階よ。警官二人と看護婦が三人、付き添ってる。シェリイの方は行方不明。孤児だし脱走の常習犯だから、警察もまともに扱ってくれないの――はい、かなりちくっとしますけど、死ぬほど痛くても歯を食いしばってガマンしてくださいねえ~」

「だからやめんかい! それで教授の容態は? 重傷なのか?」

「ちっ、あと少しだったのに──そうね。右腕と左足に銃創、鎖骨も折れてるしおまけに多量の出血。それでも病院を出ようと暴れるものだから、看護婦が三人がかりで押さえてるわ」

「それで、君はなぜここに?」

「ひまつぶしの世間話をしに?」

 トーマスは力の限り眉間にしわを寄せてにらみつけてやった。

「ええそれと、あなたが病院を脱走するためのお手伝いとかしてあげよっかな、なんてね」

「君の助けなどいらん。おれ一人でじゅうぶ――あたた!」

「言い忘れてたけど、あなたも腕に一発食らってるの」

〈ブルークライム〉は自分の右腕を指差しながら、

「これでわたしとおそろいね。他にも体じゅう打撲症だらけ。相手はボクサー?」

 トーマスはしかし、〈ブルークライム〉の腕を見て、

「あのときの傷か。もういいのか?」

「おかげさまで。そんなことよりいい? 今あなたたちが相手をしているのは、ドイツ突撃隊上がりの傭兵部隊よ」

「ドイツ突撃隊?」

「SS(ナチス親衛隊)の前身組織。政争のごたごたで上層部は粛正されちゃったけど、生き残った下級将校が、欧州のあちこちで自分の部隊を率いて傭兵をやってるの。あなたの会社から〈オリオンスター〉号への送金記録の中に、彼らが報酬の受け取りに使っているローデシア銀行の口座番号があったわ」

「なぜそんなことを知っている?」

「〈オリオンスター〉号での半年、わたしが何をしていたと思って?」

 トーマスは、〈ブルークライム〉の手助けを断り自力で何とか半身を起こすと、

「だがそれが本当だとして、どうして民間の一船会社が傭兵なんて雇う? たかが客船探偵を襲わせるにしちゃ大げさすぎるし、それ以前におれたちを襲う理由がわからん」

「真の狙いはあなたたちじゃないわ。わたしたち客船怪盗よ」

「それにしたって、戦闘機まで持ち出すか? だいたい、そんな金がどこに……あっ!」

「どうしたの?」

「金は、ある! あるんだ!」

 トーマスは、国際犯罪組織グリューフィウスの資金が、グランドスターラインに流れ込んでいることを話した。

「証拠の書類は〈エリーウインズ〉号ごと灰になっちまったがな」

 体を起こしているせいか、体の痛みがきつくなってきた。だがトーマスは歯を食いしばり、

「あとはシェリイか。もし連中に誘拐されたんだとしたら、その理由は何だ」

「わからない。あの子に関しては何も出てこなかった。でも今考えると確かに不自然よね。最初は孤児だから情報が少ないと思っていたけれど、それにしてもきれいすぎ。まるで誰かが裏でこっそりその記録を消したみたい」

「それも傭兵連中の仕業だと思うかい?」

「どうかしら。戦闘機で襲撃するのと比べて手際が正反対だし。それに気づいてる?」

〈ブルークライム〉は、トーマスの包帯で巻かれた右腕を指差して、

「わたしの方は偶然だとしても、実は教授も同じところを──右の二の腕を撃たれてるの」

「わざわざ利き腕を狙ったって? つまり殺すつもりはなかったってことか?」

 もしそうなら、確かに飛行機から機関銃をぶっ放すのとは正反対の仕事ぶりである。

「だが今回だって船ごと吹っ飛ばされたぜ?」

「それだけが目的なら、シェリイを確保してさっさと爆破していたはずよ」

「でもしなかった。おれたちがシェリイと接触するのを待っていたのか?」

 でっかい注射器で肩を叩きつつ〈ブルークライム〉がうなずく。

「たぶんあなたたちが、彼女のことや今回の件でどれだけ情報を得ているか確認したかったんでしょうね」

「戦闘機の連中はそんな悠長なことはしなかった──つまりシェリイやおれたちのことについて、それなりの情報はもう得ていたってことか……」

 どうやら「敵側」には、ある程度事情を知っている勢力と、それを知らない勢力があるらしい。

「なるほどね。二つのグループか。いっそ仲間割れでもしてくれないかな」

「二つとは限らないし、今のところは推測にすぎない。それよりもシェリイよ」

「そうだったな」

「あなたの方は? あの子のことで何か心当たりはないの?」

 言われてトーマスは、祭蔵とシェリイが、〈エリーウインズ〉号の船室で何か話をしていたのを思い出した。

「ちくしょう、下手に気をきかせるんじゃなかった!」

「残念だったわね。だからあなたはいつまでたってもトーマスなのよ。海の船よりも陸で機関車に乗っていた方がお似合いだわ。顔つきとか機関車に似てるって言われない?」

「何のこっちゃい」

「さあね──それで? これからどうする気?」

「決まってるだろう。〈オリオンスター〉号に戻る。答えは必ずそこに――ぐあ!」

 ベッドから起き上がろうとしたものの、しかしそのままエビ反って固まってしまう。

「うわあ、すっごく痛そう。つんつん」

「い、痛くなんかない! ……ないが、ふうふう、ちょっとだけきついかな」

「ほらほら頑張れ。注射してあげるから」

「いらんわ! でもおまえ、教授と違って、おれの方は止めないんだな」

「最初から言ってるじゃない。わたしはあなたが病院を抜け出すのに手を貸しに来たのよ」

「怪盗に頼られても嬉しくはないがな」

「そこまで期待してないわ。わたしが動きやすいよう、せいぜいじたばたもがいて敵の目を引き付けてちょうだい」

「いや、もう少し期待してくれ。やる気がそがれる。これでも命懸けのつもりなんだ」

「客船探偵でしょ? 自分の船の上で死ねるなら本望じゃない」

「そうだ、そうだったな」

 トーマスは、毛布の上で丸くなっている黒赤の錆びトーティーから、薄暗い病室に立つ看護婦姿の〈ブルークライム〉に目を移すと、ふっと笑って、

「病院のベッドで、モグリの看護婦に妙な注射を打たれて毒殺されるよりは、全然いい」

「本当に打っちゃうぞコラ!」


     2


 洋平が祭蔵の書斎に入るのは、実はこれが初めてだった。

 綺麗に装丁された蔵書が整然と並ぶ書架を見上げて、思わずため息がもれる。

 同じ本でありがなら、貸し本屋にあるくたびれた雑記本とはまるで別物だった。

 無言で居並ぶ膨大な知識の群れに圧倒され、いったいここにある本を全て読みきるにはどれだけの時間が必要だろうと思わず考えてしまい、いや自分にはそもそもこんなことを考えているような時間はないのだと、頭を振って改めて気合を入れ直す。

「ええと旅券と身分証、あとは医療保険の証明書だっけか」

 祭蔵は、着替えなどはミス・ペインニーズに用意をさせていたが、書類関係は全て洋平に頼んでいた。

 その祭蔵から預かった鍵で、どっしりとした、いかにも外国風の机の引き出しを開ける。

「あったあった――うん?」

 目的の書類のほかに、文具やら手帳やら計算尺やらが詰め込まれたその引き出しの中には、さらに一挺の拳銃が無造作に放り込まれてあった。

 自動拳銃ではなく、シリンダー式の弾倉を持つリボルバー。

 携帯のしやすさを重視してか、銃身がかなり短い。

 前に見たレイテルの銃と似ていた。というか同じメーカーなのだろう。

「客船探偵なんだから、銃の一挺くらいはあるよな、そりゃ」

 さらに拳銃の下には、古びた一枚の写真があった。

 迷いは一瞬。好奇心に負けた手で拳銃を脇へどかす。

 どこかの船の上で撮ったものらしい。色あせてセピア色になった世界の中で、大きな花束を抱えた長い髪の女の子が笑っていた。

「シェリイ? ……じゃないよな」

 洋平は写真をひっくり返してみた。

 裏面には流れるような筆記体で、『FlowerGirl/1928』と書かれてあった。

「フラワー、ガール? フラワー……ま、まさか!?」

 洋平は再び写真をひっくり返すと、

「フローリア、さん?」


    3


『……というわけで世紀の、そう! まさに世紀の大レースの出発が目前に迫ってまいりました! 大西洋という、母なる地球が何億年もかけて作り出した最高の舞台で、もう間もなく、こちらも我が人類がその英知を結集して作り上げた、史上最大の乗り物同士による一騎打ちが始まろうとしております!

 今わたくしの眼下に見えます客船専用埠頭には、向かって左に漆黒の〈ブルーエアリアス〉号、右に純白の〈オリオンスター〉号が、その美しくも巨大な船体を浮かべております。両船共に蒸気を上げつつ、気合充分でその瞬間を待ち構えております!

 なお、この大西洋横断客船レースの模様は、ラーイライライ、イラッシャーイでみなさまおなじみ、ヨウコソフーズ所有の万能飛行船〈ヨウコソプリンス号〉より、海のように青く晴れ渡ったサウサンプトン港の上空からの無線中継放送でお届けしております!』


「……うちらの船は競馬馬かっての」

 花と万国旗で飾られたオープンカー――「探偵二号」の助手席。

 胸に大きな青いリボンをつけたドレス姿のレイテルが、青空に漂う銀色の飛行船を見上げつつ、周囲の喧騒に途絶えがちなラジオの音声に大きく顔をしかめる。

「勝利船を当てる賭けはすごい人気らしいし、競走馬扱いされても仕方ないさ」

 その運転席。純白の詰襟姿に身を固めてハンドルを握る洋平が、大きく肩をすくめてみせる。

 今回のレースについては、単純に勝利船を当てるものから、その時間差まで当てるもの、さらにブルーリボン記録を更新できるかどうかまで予測するもの──などなど、さまざまな種類の賭けが売り出されていた。

 ただしブルーリボン記録については、仮に新記録が出たとしても、今回は定期便ではないので正式な記録とは認められないが。

「でもほんと、みんな賭博好きよね。非公認の闇賭博まで含めたら、きっと船会社がまるごと買えるくらいのお金が動いてるわよ。ああもったいない!」

 沿道へ向けて、それでも肘まで覆う白手袋をはめた手を振りふり、レイテルがぼやく。

 客船埠頭へ向かう道の左右は、英国中から集まった老若男女でびっしり埋まっていた。

 みながみな、レース船へと向かう招待客を乗せた車列に向けて盛大な歓声を送っている。

 洋平たちを乗せた自動車もそのパレードの中にあった。

 彼らの前後にも、同じような満艦飾で飾られた自動車がずっと続いている。

「ところで。今さらだけど社長令嬢のわたしが、どうしてあんたの運転する車に乗ってるわけ?」

 洋平は、心の中でどうかラジオの真空管が爆発しませんようにと祈りつつ、

「だからさ、イベントのマネージャーさんから、誰でもいいから横に乗せる女性のパートナーを連れてきてくれって言われたもんだから」

「誰でもいいから?」

「いやその、若くて美しくて豪華客船にも負けない素晴らしい女性なら、誰でもってことで」

「ああら、日本人もけっこう口がうまいのね」

「実は、この前の『客船探偵物語』のセリフそのままだったりして」

「そんなところだろうと思いました!」

 ちなみに洋平自身は、伝説の客船探偵、故晴海公平氏の子息ということで正式な招待を受けていた。

「――それで〈エリーウインズ〉号のこと、何かわかった?」

 ちょっとだけ顔を寄せて聞いてくるレイテルに、洋平は、ちらりと前後に続く車列を見て、

「表向きは、船底に溜まったメタンガスが引火して爆発したってことにするらしい」

 パレードの歓声に包まれる中、その声はどうしても大きくなってしまう。

 内容が内容だけに、できればこっそり話をしたかったが仕方がない。

「でも実際には、機関銃の弾薬庫と燃料タンクに爆薬を仕掛けて爆発させた可能性が高いって。ただし今のところ証拠は何もなし。けど手際からみても、軍レベルの爆破のプロであることに間違いはないってさ。一応警察的には、脅迫電話の主が、自分たちの計画の邪魔になる客船探偵を狙ったと考えてるみたいだけど」

 実は今も、洋平たちの前後を走る自動車には、招待客に扮した警察官たちが乗り込んでいる。

「素人のくせに、よくそこまでわかったわね」

「父さんのおかげ、かな。警察でも、ぼくが晴海公平の息子だとわかると、かなり詳しい資料も見せてくれたし」

 なんとなく照れくさくなって、洋平は鼻の頭をかきながら、

「それでそっちは? 教授やトーマスさんの容態は?」

 先の事件について、二人は今朝ぎりぎりまで手分けして情報収集をしていた。

「二人とも命に別状はないそうよ」

 さすがにほっとしたようすで、レイテル。

「教授の方が重傷らしいけど。トムおじさまも含めて、あと二、三日は絶対安静だって」

「でもまあ、とりあえず無事でよかったじゃないか」

「まったくね、残念だったわ。死んでいれば後腐れなく婚約破棄できたのに」

「トーマスさんて、そんな悪い人には見えないけど」

「──おじさまとは、うちと同じ船会社の御曹司ってこともあって、幼い頃から顔を合わせる機会が多かったの。今にして思えば、それも会社合併に到る伏線だったわけだけど」

 洋平から顔を背けるように、レイテルは沿道の観衆たちへ笑顔を振りまきつつ、

「あの人は最初からあんな人だった。本人はいたって真面目なのに、そこにいるだけでみんなが笑っちゃうような──でもそれって、実はすごい才能だと思わない?」

「ええと、ほめてるんだよね?」

「わたしだって社長令嬢だし、だから小さい頃からわかってた。将来は自分の意思とは関係なく、どこぞの大会社の御曹司と結婚させられるってことくらいは。でも」

 レイテルはちょっと言葉をためてから、

「でもそうね。どうせならあんな人が、あの人がいいかな──って思ったこともあったかもね」

 それからやっと洋平の方を向き、「おじさまには言わないでね」と片目を閉じてみせる。

 洋平も笑ってうなずく。でもすぐに表情を引き締めて、

「とすると残るは……」

「シェリイ、ね」

「マリナさんにはもう伝えた?」

 彼女は聖書の件でずっと別行動をしていた。

「がーっくり……なんかしてられないわ! って、昨日の電話では息巻いていたけど」

「きっと無事だよ。あの子なら」

 まったく根拠のないまま、ただ期待だけを言葉にする。

「そうね、そうよね」

 小さなバックミラーの中で、輝くような金髪をアップにした頭をわずかに傾げて小さくレイテルがうなずく。

 パレードの車列が最後の角を曲がった。

 周囲の建物で巧妙に隠されていた巨大な二隻の客船が、突然目の前に出現する。

 たとえそうとわかっていても、毎回この演出に驚かされる洋平だった。

「それで、どっちの船に乗るかは決めたの?」

「うん」

 パレードを歓迎する軍楽隊の演奏が始まる中、洋平は、まるで人の海に浮かんでいるように見える二隻のブルーリボンライナーへ、交互に目をやった。

 パレードの最後で、招待客たちはみな、どちらの船に乗るかを選択することになっていた。

 どちらの船にも彼ら専用の客室が用意されてあり、すでにデッキ上で鈴なりになっている一般船客の間では、「こっちへおいでコール」の大合唱の応酬が始まっていた。

〈ブルーエアリアス〉号との因縁も深い洋平たちを乗せた車が姿を見せるや、同号からいっそう大きな歓声が上がる。 

 洋平はしばしの間、両船を見比べるように見ていたが、

「〈オリオンスター〉号に乗ろうと思う」

「やっぱりそうきたか」

 振っていた手を下ろして、レイテルも〈オリオンスター〉号の方を見上げる。

 洋平のパートナーとして、彼女は洋平と同じ船に乗ることになっている。

 どちらの船であれ、一度乗り込んでしまえば、そこはもう絶海の孤島と同じだ。

 ニューヨークまでの四日間、ブルーリボン記録の計測距離に含まれない部分を加えれば五日弱の間は、もう一方の船で何が起こっても手を出すことはできない。

 だがこれまでの経緯からみて、このレース中に「何か」が起こることは、まず間違いない。

 たとえばシェリイの一件だけをみても、彼女が〈ブルーエアリアス〉号ないしは〈オリオンスター〉号、そのどちらかに乗せられている可能性は充分に考えられる。

 だが祭蔵もトーマスも入院中で、両船共に戦力不足の感は否めなかった。

 加えて〈オリオンスター〉号の客船探偵たちは、ここに至るも〈ブルーエアリアス〉号の客船探偵は関係ない、本船への手出しは無用、との一点張りで話にならない。

 言外にまだ学生のレイテルを見下していることは明らかで、洋平など眼中にすらない。

 確かに〈ブルーエアリアス〉号の正規の客船探偵は祭蔵一人であり、レイテルを始めとするクラブの面々は、祭蔵の監督下においてのみ、その活動を認められているに過ぎない。

 だからといって、トーマス抜きの彼らに〈オリオンスター〉号を任せるのは、やはり気が進まなかった。

 このあたりはレイテルも同意見で、半人前扱いされたのとは別に(むろんすでに洋平はその怒りのとばっちりを存分に受けていたが)、彼らの態度からは、最後まで客船探偵としてのやる気を見出すことができなかったのだ。

 要するに一言でいえば、洋平もレイテルも、彼らをこれっぽっちも信用できなかったのだ。

 シェリイについても、レース中に船内を捜してくれるとの約束はついに得られなかった。

 たかが学生の不確かな「推理」など、一考にも価しないというわけだ。

「でもそうね。ゲストとして乗船するなら、ライトスターの連中だって文句は言えないわ!」

〈オリオンスター〉号を見上げたまま、レイテルが大きくうなずいてくれる。

 現状でも〈ブルーエアリアス〉号にはマリナがいるし、何より〈ブルークライム〉がいる。

 誰よりも同船を知り、同船を愛する客船怪盗が。

 対して〈オリオンスター〉号には、未だ同号を心から愛してくれる怪盗は存在しない。

 もしかしたら、と洋平は思う──〈オリオンスター〉号の客船探偵たちは、そのことを一番根に持っているのかもしれない。

 とそのとき、未だ奇蹟的に流れ続けているラジオの声がその調子を一転させて、 

『み、みなさま大変です! 大変な情報が飛び込んでまいりました! たった今、我がラジオ局の報道デスクの手元に、あの〈ブルークライム〉からの犯行予告状が届いたとのことであります! で、では報道デスク、どうぞ!』

『これか、これを読めばいいんだな! ──え? もう本番? あわわ! えー、ああ、みみ、みなさまこんにちは! こちらは、ほほほ、報道デスクであります! 本日はお日柄もよく、ああいや、ではさっそく、予告状の内容を読み上げさせていただきます! ――親愛なる〈ブルーエアリアス〉号の皆様。マザーエバレスの聖書はわたしがいただくわ。取り急ぎ用件のみにて。追伸、貴船の航海の安全を祈る。ってわたしの船だけどね! 客船怪盗〈ブルークライム〉──ええ、ああ、い、以上であります!』

 瞬間、埠頭や船内のスピーカーを通じて同じラジオを聞いていたらしい観衆や乗船客たちの間から、うお~っ! というどよめきが上がった。

〈ブルーエアリアス〉号上の客たちにいたっては、まるでレースに勝ったかのような大騒ぎだ。

『えーなお、当予告状は、本日未明、本ラジオ局に出現した〈ブルークライム〉が、受付にあったメモに直接走り書きして残していったとのことであります。さらに目撃者によりますと、〈彼女〉は相当急いでいた模様で、またその服装も、あの有名なメイドルックではなく、まるで看護婦のような質素なドレスであったため、最初はそうとは気づかなかったとのことで、予告状の真偽を確かめるのにも相応の時間が──』

「ここでそうきたか……」

 洋平は思わずハンドルに突っ伏すと、

「意外と目立ちたがり屋さんなんだな、フローリアさん」

「何か言った?」

 訊ねるレイテルに「別に」と首を振る。その彼女もまた、半ば呆れるように、

「まあねえ。せっかく自分の縄張りに『マザーエバレスの聖書』があるんだものね。客船怪盗としては、そりゃ予告状の一つも出したくなるわよね」

『マザーエバレスの聖書』は、表向きはサウザンライト・ホーリー教会の聖堂で、つい先日マリナが偶然見つけたことになっていた。

 さらにアメリカへの航海半ばで命を落とした彼女を偲び、せめてその『聖書』だけでもアメリカへ送ろう──という建前で、マリナの乗る〈ブルーエアリアス〉号で運ばれることになったのだった。 

 未だ理由は不明だが、この聖書が、〈オリオンスター〉号に端を発する一連の事件の鍵であることは間違いないと思われた。

 その最重要アイテムを、一般に公表した上、沈没予告の出ている当のレース船に乗せることには、当然警察から相当の反対があった。だが捜査協力中の米連邦捜査局より、「こちらでも聖書の現物を調査したい」との強い要請があり、さらに「大事な『鍵』を忘れて旅に出るバカもおるまい」との祭蔵の一言がきいて、結局このような形になったという。

「でもどうする? 〈ブルーエアリアス〉号の客船探偵としては、ちょっと見過ごせないわ」

「だからって〈オリオンスター〉号も放っておけないし。ここは我がエリーウィンズ客船探偵部を代表してマリナさんに頑張ってもらうしか……あれ?」

「そうね、って何? ──え?」

 真っ赤な絨毯の前に停車した「探偵ニ号」を待っていた両社の社長(一方はレイテル父)や重役たち、さらに両船の船長や機関長らに交ざって、そこには、この場にいるはずのないライトスター客船探偵社社長兼筆頭客船探偵、トーマスの姿があった。


    4


 一九三九年五月七日、日曜日。GMT(グリニッジ標準時)午後一二時〇二分――

 ひときわ高まる歓声を受けて、まず〈ブルーエアリアス〉号がサウサンプトン港の客船専用埠頭を離れた。

 次いで遅れること一時間、〈オリオンスター〉号も無事出航。

 ここに、史上初のブルーリボン級超豪華客船同士による大西洋横断マッチレースがスタートしたのだった。

 もっとも正式なレース開始地点は、そのさらに先、大ブリテン島西端部リザード岬沖に浮かぶ「ビショップロック灯台船」である。

 同日夕刻、ディナーをかねたウエルカムパーティーの時間に合わせてその場所へ到達した両船は、その速度差のハンデぶん、三時間四〇分の間隔を開けて再度、そして本当のスタートを切った。

 速度に優る〈オリオンスター〉号の出発は午前〇時を回ってしまったが、船に乗った者にしか体験できないそのスタートシーンを逃すまいと、船客たちのほとんどがデッキ上に出て、この世紀の瞬間を見届けたのだった。


「だけど本当に助かったよ。あの予告状に加えて、君たちまで〈ブルーエアリアス〉号に取られてしまったら、〈オリオンスター〉号の雰囲気はガタ落ちになっていたところだ」

「別にこの船のために来たわけじゃないわ」

 杖をつきながらも一歩先を歩くトーマスにだけに聞こえる声で、レイテルが言った。

 彼女たちのいる〈オリオンスター〉号の後部デッキでは、レース開始初日の余韻を楽しもうと、深夜にもかかわらず大勢の船客たちが歓談を続けていた。

「じゃあやっぱりおれを心配して来てくれたのかい、マイスイーツ? ──うおっちゃあ!」

 レイテルへ向けてにやりと笑ってみせたトーマスだったが、お留守になった足元が分厚い絨毯の縁にひっかかって倒れそうになる。

 二人から少し離れて歩く洋平の方を見る振りをしていたレイテルは、トーマスが態勢を立て直すのを待ってから、はあっと一つため息をついて、

「〈ブルークライム〉の予告状も届いたし、できればわたしだって〈ブルーエアリアス〉号で行きたかったわよ──あなたも元気そうだしね!」

 元気そう、という部分を強調して、レイテル。

「でもこちらにも事情ってものがあるの」

「よくわからんが、その事情ってやつに感謝だな」

 レイテルはふん、と鼻を鳴らして、再びトーマスから顔を背けるようにデッキを見下ろす。

 その中央部には仮設の台が急きょ仕立てられ、そこには「探偵二号」が鎮座していた。

〈ブルークライム〉の予告状に対抗するには役不足の感は否めないが、少しでも船内の雰囲気を盛り上げたいという船側のたっての希望で、レイテルも渋々それを認めたのだった。 

 その仮設台を囲むようにしてガーデンテーブルが並べられ、深夜にもかかわらず一等食堂の調理場から直に運ばれてきた出来立ての料理が、それを証明するかのように盛大な湯気を立てていた。

 そして一方──

「いやあ、豪華だなあ!」

 レイテルたちから一人離れた洋平は、ふらふらと酔ったような足取りでデッキをさ迷い歩いては、見るもの触るもの全てに感嘆の声を上げ、周囲の人間たちを不気味がらせていた。

 実は〈オリオンスター〉号へと乗船してからこっち、洋平はずっとこんな調子で、パートナーという立場上、彼のそばを離れられないレイテルをドン引きさせていた。

「うんうん、よしよし、豪華だ!」

 今も洋平は、デッキの端から、臨時の噴水広場に仕立てられた一段下のプールデッキを見下ろしては、一人納得したように何度もうなずいてた。

「いやいや〈オリオンスター〉号、侮りがたし!」

 まるで飛び込まんばかりに身を乗り出しては豪華豪華と連発している洋平の横へ、船の速度を感じさせない緩やかな夜風にドレスの裾を遊ばせつつやって来たレイテルは、

「そりゃ豪華でしょ、豪華客船だもの」

「ああ、そっか……豪華客船だっけ」

 聞き方によってはどうしようもなく間の抜けた会話を交わしつつ、二人一緒に顔を上げる。

 夜空とひと続きになった夜の大西洋。

 その前方約二〇〇キロ先には、全速力で逃げる〈ブルーエアリアス〉号が航行しているはずだった。

 洋平の顔がさらに上を向く。つられてレイテルも、ライトアップされた煙突を見上げる。

 巨大な四本煙突が豪華客船の証だったのは、遠く一九〇〇年代初頭に活躍した客船たちの話。

 当時の客船は総じて石炭焚きの蒸気ボイラー船であり、煙突の数イコール船の速さでもあった。だからエンジンの性能が上がって実質的に三本煙突でよくなっても、見栄えを優先して、わざわざ四本目の煙突を立てる船まであったのだ。

 サウサンプトンを出航後、氷山に衝突して沈没した悲劇の豪華客船〈タイタイニック〉号も、実は四本目の煙突は本来必要のない張りぼてだった――というのは、レイテルでも知っている有名な話。

 ちなみに同号は、全長二七〇メートル弱、総トン数約四六〇〇〇トン。

 当時最大の巨大客船も、この全長三〇〇メートル越え、八万トン級の〈オリオンスター〉号と比べたら、ふた周りも小さな中型級の船になってしまう。

 さておき。船の燃料が石炭から重油へと代わるにつれて、煙突の数はさらに減ってゆく。

 現在就航しているブルーリボンライナーでは、〈ブルーエアリアス〉号こそ三本煙突だったが、〈ライナ・クリスティーヌ〉号は二本。最新鋭船たるこの〈オリオンスター〉号では、もはやずんぐりした煙突が一本しかない。

 もっとも、煙突の役割は煙や熱を排出することだけではない。

 船の煙突ファンネルは、各船会社ごとに「ファンネルマーク」と呼ばれる固有の色で塗られていて、船の所属を見分けるための重要な目印となっていた。

 たとえば〈オリオンスター〉号の煙突は、上部が緑色で下部は白色だが、これは同号に限らずグランドスターラインの所有する全ての船に共通している色だった。

 一方〈ブルーエアリアス〉号の煙突は、その名の通り青く塗り上げられていて、さらに蹴立てられた波を象徴する白い三本ラインが入っていた。

 ──などという話を、頼まれもしないのに延々と語り続けていた洋平は、けれど最後に、

「大丈夫だよ──シェリイは必ず見つかるって!」

 それまでずっと洋平の話を聞き飛ばしていたレイテルは、やっと彼の方を向いて、

「……そうよね。あの子がおとなしく捕まってるはずがない。それに王立海軍やアメリカの軍艦だってあちこちにいるんだし!」

「そうさ! とはいえ現実には、全速力で大西洋横断レースを戦う豪華客船に追いつける軍艦なんて、小さな駆逐艦を除けば、どこの国にもないんだけどね──って、何?」

「……べっつにー」

 柵に肘をついてじっと洋平を見つめていたレイテルはしかし、さらに彼女の背後で火のつかないマッチと格闘しているトーマスをもちらりと見やると、心の底から、諦めたように大きくため息をついたのだった。

 まったく、男ってやつは──!


    5


 身を隠せる場所も方法も覚えきれないくらい知っているはずなのに、今のシェリイは、まるでガラス張りの廊下を逃げ回っているような気持ちだった。 

 曲がり角という曲がり角の全てにマリナがいそうな気がする。

 今のところ他のメンバーは見かけていないが、それはつまり、彼らが今どこにいるかわからないということだ。

 とにかく何がなんでも絶対、彼らに見つかってはならない。

 出航してから二日目の、おなかの空き具合からしてそろそろお昼どきという時間。

 着慣れていない──というか初めて着せられたドレスにも、もはや飽き飽きしていた。

 フリルやレースのいっぱいついた真っ白なエプロンに、ペチコートで大きく膨らませた水色のワンピース。

 とどめとばかりに、頭の上にはおっきなリボン(青色なところは気に入ったけれど)。

 最初は嬉しかったが、逃亡中の今はとにかく目立つし、何より広がったスカートが邪魔で脱ぎたくてたまらない。

 そんなシェリイ自身の立場はさておき、航海自体は順調のようだった。

〈ブルークライム〉さまが狙っているという『なんとか聖書』も、今のところ盗まれたという話は聞こえてこなかった。

 ううん、そんなことより――シェリイはぶんぶん首を振った。

 今はとにかく、絶対マリナたちに見つからないようにしなくっちゃ!

 リネンのシーツを満載して埠頭へと向かうトラックの荷室の中で、彼女の目の前でトーマスを撃った男が言っていた。

「もしおまえがこの船にいることが客船探偵や〈ブルークライム〉たちにバレたら、彼らも〈エリーウインズ〉号にいた二人と同じ運命をたどることになるぞ」――と。

 そうして荷物扱いで〈ブルーエアリアス〉号へと運び込まれたシェリイは、今度は専用エレベータで一等船室へ連れて行かれた。そこにはミス・ペインニーズそっくりの、ひっつめ髪に眼鏡をしたメイドさんたちが大勢いて、よってたかって服を脱がされ、猫脚付きのバスで徹底的に洗い磨かれ、上から下までピカピカになったところで、これまた新品のドレスを着せられた。

「おまえがおとなしくしていれば誰も死なずにすむ。いいな」

 最後に現れた黒服に黒眼鏡の男はそう言うと、シェリイを豪華な寝室に閉じ込めた。

 それから少しして、誰か別の人間がやって来てそこで口論となった。どうやらシェリイの扱いを巡ってのことらしい。

 我々の姫である、こちらで預かる。いいやだめだ。「上」はもうお前たちを信用していない。あの子は人質だ。ふざけるな、あの子が全ての鍵なのだぞ。だからこそ渡すわけにはいかない。なんだとてめえ。おいコラやめないか、暴力はいかん暴力は──!

 大人たちがそうしていがみ合っているのを後目に、当のシェリイはといえば、まんまと寝室からの脱出に成功していた。

 彼らがシェリイを連れ込んだ一等船室は、実は〈ブルークライム〉が改造した隠れ家の一つだったのだ。

 連中はもちろんシェリイもそんなことは知らなかったが、暇つぶしにあちこちいじっている間に、コート用衣装ケースに偽装した抜け道を見つけてしまったのだ。

 考えるよりも先に体が動いて寝室を抜け出し(最終的に出た先は児童要遊戯室のトイレだった)、そこで初めて「あれ、ちょっとやばかったかな?」と思ったものの、今さら戻っても怒られるだけだろうし、「おとなしくしていろ」とは言われたが「逃げるな」とは言われていなかったことを思い出し、いいことにした。

 要するに、ニューヨークへ着くまでマリナたちに見つからなければいいのだ。うん。

「って、あわわわ!」

 そんなことを考えているそばからマリナがやってきた。

 三等船室の、こんな奥まったところに他に用があるわけがない。

 間違いなく誰かを――シェリイを探しているのだ。

「どうしよ、どうしよ?」

 船首に近いこの付近では、左右方向への逃げ道はほとんどない。

 だからといって船首側へ後退しても、さらに幅は狭くなる一方だ。

 あとは上下に移動するしかないのだが、マリナはその階段からやってきたのである。

『きょーじゅ』や、あのキザで優しい客船探偵さんが死んだのはとても悲しい。けれど、だからこそマリナには絶対に死んでほしくなかった。

 そこでシェリイは「いつもの手」を使うことにした。

 隠れんぼをしているふりをして、適当な部屋に隠れさせてもらうのだ。

 船首側の三等船室は主に家族連れが割り当てられることになっているから、よほどのことがない限りつまみ出されることはない。

 マリナが清掃用具入れに顔をつっこんだ瞬間、目をつけておいたドアへダッシュする。

「ごめんなさい、いま隠れんぼしてるの! ちょっとだけ隠れさせて――ね?」

 窓もなく簡素な二段ベッドが左右にあるだけのその部屋の中では、背が高くてがっしりとした体格の男が七人、きゅうくつそうに缶詰の食事をとっていた。

 スプーンをくわえた七人の男と、豪奢なエプロンドレスを着て頭にリボンをつけた女の子の目が合う。

「ええと、あの……おじさ――おにいさんたち、兄弟?」

 本当は「おじさんたち」と言いたかったが、それはやめておいた。

「何だ、ガキの遊びなら他でやれ!」

「だからせめて鍵つき窓つきの二等船室を寄こせと言ったんだ!」

「おれに言うな。他に空きがなかったんだ──いや待て、待て! このガキは確か……」

 男たちの視線がシェリイに集まる。と直後、コンコンとドアをたたく音がして、

「あの、すみません。わたくしシスターマリナと申しますが、ちょっとよろしいでしょうか」

 男たちとシェリイの動きがピタリと止まる。

 直後、近くを船が通ったのか、短い汽笛が二度鳴るのが聞こえた。

 その音ではっと我に返った男たちとシェリイが再び顔を見合わせる。

 男の一人がドアの方を指さしたのを見て、シェリイがこくこくとうなずく。

 男もうなずき返すと、別の男にあごをしゃくって合図をする。

 一番ドアの近くにいたその男が、こほん、と一つ咳払いをしてから、

「あー悪いが、うちは牛乳配達と宗教の勧誘はお断りしてるんでね!」

 彼の言葉に、残りの男たちとシェリイが同時に、あちゃ~、という顔でがっくり肩を下げた。


    6


〈ブルーエアリアス〉号の船内礼拝堂は、プロムナード(遊歩)デッキの上、陽光に輝く真っ白な救命ボートがずらりと並ぶボートデッキにあった。

 小走りにやって来たマリナは、礼拝堂入口の両側に立っている警官たちへ一礼すると、弾む息もそのままに、それでもさっと十字を切ってから誰もいない礼拝堂内へと歩を進めた。

 風を切る音と共に、海の歌う賛美歌のような潮の音だけが静かに流れる小さな礼拝堂。その正面奥には司祭の立つ説教台があり、通常は何もないその前に、今は儀礼用にしては頑丈そうな祈り台が置かれてあった。

 マリナは大きく深呼吸をしてどうにか息を整えつつ、祈り台の上にあるガラスケースをのぞき込んだ。

 二重になったそのケースの内側には、一冊の本が置かれてあった。

 色褪せて波打つ赤い革製の表紙にうっすらと残る「THE BIBLE」の箔押文字。

 一見何の変哲もない、ごくありきたりの聖書──だがマリナにとってはかけがえのない大切なもの。

 祈り台には金製の、けれど申し訳程度に小さなネームプレートがついていた。

 刻まれた文字を指先でなぞる──『マザーエバレスの聖書』。

 さっき鳴った短い汽笛は、『これ』に何かあったときの合図だった。

 ただし連続二回は「未遂」の合図なので、無事であることは最初からわかっていたけれど。

 それでも合図の汽笛があれば、マリナは何を置いてもすぐここへ来ることになっていた。

 ちなみに『聖書』を封じたそのケースは軍用の特殊な強化ガラス製で、船の建造にも使われている強力な接着剤で直接台座に接着してあった。むろん台座自体も、ボルトと接着剤でがっちり床に固定ずみ。他に中身を出し入れできるような蓋や仕掛けは何もない。最初からこの航海の途中で取り出すことなど考えていない。実際、ニューヨークに着いたらその分厚いガラスを力尽くで叩き割って中の『聖書』を取り出すことになっていた。

 とてつもなく乱暴だが、出航までの短い時間では、他に有効な盗難防止措置を講じることができなかったのだ。

 念には念を入れてマリナは祈り台を揺すってみた──異常なし。

 だが戻した手の指には、何か黒っぽい汚れがついていた。

 慎重に匂いを嗅ぐと、灰のような煤けた匂いがした。

「これは……」

 その手を握り締めて一つうなずくと、踵を返してマリナは急ぎ礼拝堂を出た。


「──遅かったわね」

 ボードデッキ直上、第一、第二煙突の間にあるオープンデッキ。

 甲板に固定されたテーブルに置かれたティーカップをまるで親の敵のように見つめたまま、銀髪の見知らぬ青年神父が、その見た目とは裏腹に聞き慣れた女性の声で言った。

「『聖書』を確認していたんです。無事のようですね?」

 マリナも神父の前に座ると、ざっと周囲を見回した。

 見晴らしは良いものの、前後に屹立する煙突や、その巻き込み風に漂う煤煙の匂いのせいで、周囲の人影はまばらだった。

 長い銀髪に青のリボンを絡めて三つ編みにした細身の神父──客船怪盗〈ブルークライム〉は、その間もじっとティーカップを見つめ続けていた。

「……まだご機嫌斜めなんですか?」

「決まってるでしょ!」

 神父姿の女怪盗はやっと顔を上げて、

「いくら時間がなくて代わりの用紙を調達できなかったからって、よりにもよってメモ書きの予告状なんて!」

〈ブルークライム〉の予告状は、初代の頃より、メイナン兄弟商会の上質紙で作った専用品と決まっていた。

 この店の主は代々口の固いことと腕のいいことで有名で、他にも名のある客船怪盗たちが、ここに予告状の作成を依頼していた。ところが最近、この商会が倒産してしまったため(警察の介入があったと伝えられている)、その代替品を捜している最中だったのだ。

「それもこれもどこぞの極悪シスターが、この船に『聖書』を載せるのを黙っていたせいよ!」

 マリナは、『極悪シスター』のところでぴくり、と眉を持ち上げたが、

「積み荷の内容をいちいち客船怪盗に報告する客船探偵がどこにいますか」

「それだけじゃないわ」

「まだあるんですか?」

「大ありよ! いくら走り書きとはいえ、仮にもこの〈ブルークライム〉が予告状を出したのよ? なのにこの警備状況はいったい何!?」

 細面ながらまるで映画俳優のような美形の神父へ、マリナはちょこんと首をかしげると、

「急造とはいえ特注の保管ケース、二四時間常駐の警察官、さらに航海中は礼拝堂への立ち入りも原則禁止にしてありますし――何かご不満でも?」

「ガラスってのはね、たとえどれだけ頑丈に作っても材質的に致命的な弱点があって、音を立てずに割る方法なんていくらでもある。常駐の警官がいるといってもたった二人だけ。礼拝堂への立ち入りも、ちょっと気取った神父面してお祈りしたいと言えば、ほらその通り!」

〈ブルークライム〉は、灰で煤けたマリナの指先へと、その細いあごをしゃくってみせた。

 それは神父に変装した〈彼女〉が、この会合場所の手がかりも兼ねて祈り台へと擦り付けたものだった。

「あんたも港での大歓声を聞いたでしょ。みんな〈ブルークライム〉には期待してるのよ? 確かに、船とあのおちびさんの安全が確認されるまで手は出さないって約束したけどね。それでもこの程度の警備しかしてないなんて、もうめちゃくちゃバカにされた気分!」

「それはそれはすみませんでしたね。けれどこちらも時間がなかった上に、そもそも防護策を講じただ段階では〈あなた〉からの予告状も届いていませんでしたし」

「だからといって『こういうもの』まで見逃すのは、職務怠慢以前の問題じゃない?」

 椅子の背もたれに立てかけてあった楽器ケースを開きながら、〈ブルークライム〉。

 その中で黒光りする拳銃よりも遥かに物騒な『モノ』の姿に、さすがにマリナも表情を固くする。

「まさかこれ──ライフル銃、ですか?」

「こういった船の中ではもっと危険なもの。マシンガンよ」

〈ブルークライム〉は、銃身にも木製グリップのついた銃から円盤型の弾倉を引き抜きつつ、

「狭い船内で銃身の長いライフル銃なんか振り回してどうするの――わお、実弾も装填ずみ」

「どこでそれを見つけたんですか?」

「冷蔵室にぶら下がってたマグロの腹の中」

「マグロって、あのマグロですか?」

 いくら日本食が広まりつつあるとはいえ、大西洋を行く第一級の豪華客船で出すにしては、かなり思いきった選択である。

「当初のメニューにはなかったし、冷凍庫の中でこの一匹だけが妙に目立ってたから、おかしいとは思ったのよ」

「至急メニューの再確認が必要ですね……でも魚の中に入っていたというのは本当ですか?」

「本当よ。匂いをかいでみたら、ほら?」

 好奇心半分、ケースの中に鼻を突っ込むマリナ。

「うわ生ぐさ――じゃなくて、さっきの汽笛は、これを見つけたという合図だったんですね?」

〈ブルークライム〉が、返事の代わりに弾倉をがしゃん! と戻した。

「別名塹壕箒トレンチブルーム。その名の通り、塹壕並みに狭い船の廊下で撃ちまくられたらかなり厄介よ」

「でもいつの間に、こんなものを持ち込んだのかしら?」

 頭の中で五日分の料理メニューと食料の搬入予定をさらうマリナへ、〈ブルークライム〉が、

「魚の積み込みは出航前日。ただし入っていたのはこの銃だけで、弾倉は別の場所にあったわ」

「それって、他の方法でも銃や弾が持ち込まれているってことですか?」

「それもたぶん、一挺二挺の話じゃないわね」

 そこでマリナははっとして、

「――先日の船内調査!」

〈ブルークライム〉は、ぐいっとあごを引くようにうなずくと、

「調査が終わった先から隠していったのよ」

「で、ですが、銃だけでは船は沈められませんよ」

「確かにね。でもこいつの使い道なんて他にいくらでもある」

 さらに〈ブルークライム〉は、神父に変装した顔をぐいとマリナへ寄せて、

「この件も問題だけど、おちびさんの方は? 乗っていそうな痕跡はあったんでしょ?」

「え、ええ……」

 自信なさげにマリナがうなずく。

 確かに、シェリイの気配はいたるところにあった。

 乗員用通路を猫のように駆け去ってゆく子供の影を見たという証言。

 たまに行方不明になったと思ったら、思いがけない場所で見つかるケレナディレウス。

 その前後には、必ずといっていいほど『彼』と一緒に遊んでいた黒い髪の女の子が目撃されている。

 ただし目撃証言によれば、その女の子は「まるで不思議の国のアリスのようなドレス」を身に纏っていたという。

 もしかしたら別人かもしれない──けれどマリナには、他にも気になることがあった。

 エリーウインズ客船探偵事務所のドアにかかっているネームプレートだ。

 マリナが見回りや礼拝を終えて戻ってくる度、それが同じ方向へひん曲がっていた。

 他の子供のいたずらという可能性も否定できない。だがマリナは、それがシェリイからの「SOS」であることに絶対の確信があった。 

「あの子は絶対、この船にいます。でもどうして、ずっと隠れ続けているのかしら?」

「やっぱり何か、面と向かって会えない理由があるんでしょうねえ」

 テーブル上の楽器ケースを閉じた〈ブルークライム〉は、一転して明るい声で、

「でもあの子、まだ二日とはいえこのわたしからも逃げ回ってるなんて、大した才能だわ!」

「何の才能ですって?」

 ちょっと怒ったような声で、マリナ。

「客船怪盗の、に決まってるじゃない」

 いたずらっぽい声で、〈ブルークライム〉。しかしすぐに口調を戻して、

「この船に乗っている理由もわからない。わたしたちから逃げ回っている理由もわからない。一つだけ確かなのは、わたしたちに残された時間はほとんどないってことだけ」

「どういうことですか?」

「調理室を調べててわかったけれど、あのマグロ、今晩のびっくりディナーを飾るメインディッシュよ?」

「えっ!?」

 マリナは慌てたようにあちこち見回し始めた。

「ちょうど午後のティータイムってとこかしら。ロンドン時間でね」

 先回りするように、ティーカップをちょこんと持ち上げて〈ブルークライム〉が言った。

「ディナーの仕込みって、もう始まってますよね? ああでも、これからでも食料庫への出入りを制限するなり、監視するなりして――」

「だめね」

「どうしてですか!?」

〈ブルークライム〉は、魚くさいマシンガン入りのケースをちょこんとつつきながら、

「隠したやつがよっぽどの間抜けでもない限り、自分の武器が無くなってることにはもう気づいてるはず。その時点でとっくに逃げてるわよ」

「ひょっとして、よっぽどの間抜けだったりして? ついでにこの一件もその人の単独犯行だったとか」

「却下。それ本気で言ってるなら、ライバルから赤の他人に格下げよ、客船探偵さん?」

 もちろんマリナにもわかっていた。この一連の事件の結末が、そんなものですむわけがない。

「動くとしたら遅くとも今夜中……ですか?」

「こんなものとベッドで一晩過ごしたいなんて人間が、そうそういるとも思えないけど?」

 さらに匂いを払うように手を振って、「体中が魚くさくなっちゃうし!」と笑う。

 しかしマリナの方は真剣な声で、

「つまり、いよいよ大詰めってことですね?」

「ええ――やっとね!」

 ぱたぱた振っていた手を止めて、〈ブルークライム〉がうなずく。

 マリナも決意を込めてうなずき返す。

「誰が何を企んでいようと、他の銃が火を吐く前に何としても阻止しなくては!」

「同感。となれば、ここは先手必勝しかないわね?」

 席を立ちつつ、むしろ嬉しげな声で〈ブルークライム〉が言った。

「何を考えているんですか?」

 期待半分、不安倍掛けでマリナが聞く。

 どこか二代目〈ブルークライム〉を思わせる神父姿の〈彼女〉──神父は二代目が得意としていた変装だった──は、背中の長い三つ編みをぶん、と振って、

「わたしを誰だと思ってるの? 客船怪盗〈ブルークライム〉よ?」

 いつの間にか手にしていた青いマスクを顔に掲げて、にやりと笑う。

「もちろん悪いことに決まってるじゃない!」


    7


「では君の予測だと、六分差で〈ブルーエアリアス〉号が勝つというわけだね?」

 洋平の前でワイングラスを傾けていた〈オリオンスター〉号の船長が、わははと笑う。

「いえその、あの――」

 しどろもどろになりながら、洋平は助けを求めるようにレイテルを見た。

 しかし彼女は、隣にいる同年代らしい少女と一緒に、まるでドレッサーのすき間に挟まってもがいているケレナディレウスを見るような目で彼を見ているだけだった。

「ええ、まあ……はい」

 とにかく洋平はそう返事をして、手近にあったグラスの中のものをぐいっとあおった。

「う、げほげほ」

 年代ものの赤ワインということだったが、洋平にはただ渋くてすっぱいだけだった。

「では、我がテーブルでは八対二で〈オリオンスター〉号の勝利というわけですな?」

 その結果に満足したように、船長が自分のワイングラスをかかげた。

「あら、まだ船長のご意見をうかがっておりませんわ?」

 レイテルの隣にいる少女が澄ました声で言った。

 レイテルが彼女の脇を軽くこづき、それから二人一緒にくすくすと笑う。

 そんなレイテルの姿を見て、洋平はむしろほっと息をついた。

〈オリオンスター〉号に乗り込んで以来、彼女と洋平は、暇を見つけては手分けしてシェリイを捜し続けていた。

 そしてそれ以外のときは、レイテルはずっとマリナや〈ブルーエアリアス〉号の心配をしていた。

 そんなわけで洋平は、残る彼女の心配をしていたというわけだった。

 とはいえ午後の定時連絡で、シェリイが〈ブルーエアリアス〉号にいるらしいとの報告がマリナからあってからは、レイテルの表情もだいぶ明るくなっていた。

 ただし発見できたわけではないので、まだまだ安心はできない。

 だがこの航海だってまだ先は長い。ここらで少しくらい笑って息抜きをしても、誰も文句は言わないだろう。

 ──いや、やっぱりシェリイなら文句を言うかな? あと〈ブルークライム〉も。

 そんな洋平たちのテーブルへ、ゆっくりとした足取りで三等航海士がやって来た。

 彼はそのまま船長の背後に立つと、体を折って何やら耳打ちを始めた。

「わたしの予想かね? これは難しい質問だ! しかしまあ、〈ブルーエアリアス〉号の客船探偵諸君には悪いが、ここはやはり……うん? 救助要請?」

 もったいつけてしゃべっていた船長は、三等航海士の報告に思わずそう言葉をもらした。

「よし。では君の方は、もう一度通信室へ行って最新の情報を集めてきてくれたまえ」

「アイアイ、キャプテン」

 三等航海士は姿勢を正して船長へ敬礼し、次いでテーブル客たちへ会釈をすると、きびきびとした足取りで食堂を後にしていった。

 彼を見送った船長は、自分のテーブルにいた紳士淑女の面々をさっと見回しながら、

「急用でブリッジ(船橋)へ戻らねばなりません。中座する失礼をお許し願いたい。以降はブルース一等航海士がお相手を。皆様はどうかこのまま、レース記念のびっくりディナーをお楽しみ頂きますよう」

 船長はそこでいったん言葉を切ると、ワインの最後の一口を飲み干して、

「わっはっは。こんな上物を捨て置くなど許されませんからな! ……ああ、ミスレイテル、ヨウヘイ候補生、それからミスタートーマス。申し訳ないが、諸君らにはブリッジまで同行をお願いできないだろうか?」

 三人はほとんど同時に席を立つと、それでもやはり遅れがちになるトーマスに合わせて、のんびりといっていい歩調で歩き始めた。

 宴もたけなわの一等食堂を出る直前、洋平はもう一度その食堂内をぐるりと見渡した。

 大西洋航路を行く高速豪華客船にとって、二日目のディナーは特別だ。

 初日はボートドリル(救命ボートの割り当ておよび避難訓練)や部屋の片付け、初対面の乗客たちとの挨拶やらで落ち着かないし、三日目ともなれば、早くも下船後の準備や仕事の手配を始めなくてはならない。仕事や政界から引退したお歴々はさておき、食事中の会話も腹を割った生臭い仕事の話が中心となり、あまりゆったりとした気分にはなれない。

 船の性能が向上して大西洋横断の時間が短くなるのはいいことだが、その分、船旅ならではの落ち着いた時間が持てるのは、事実上この二日目のディナーくらいとなってしまっていたのだった。

 洋平は、本や人伝で得たそんな知識が本当だったことに奇妙な感動を覚えつつ、今夜が別の意味で「特別」にならなきゃいいけどな──と思わずにはいられなかった。

 船体の揺れと一等船室からの距離を考慮して、一等食堂はプロムナードデッキの一階下、Cデッキの中央付近にある。そこから巨大な船体の最上部にあるブリッジまでは、ちょっとした散歩コースなみの距離があった。

「客船探偵諸君、心して聞いてくれたまえ」

 近道でもある乗員用通路に入るや、船長はそれを待ちかねたように口を開いた。

「――〈ブルーエアリアス〉号が、乗っ取られた」


    8


「前代未聞の非常識だわ!」

〈ブルーエアリアス〉号Aデッキ──通称ボートデッキ。

 救命胴衣を着て集まった乗客たちの誘導を手伝いつつ、思わずマリナはそう悪態をついてしまった。

 デッキでは、きちんと制服を着こんだ一等航海士の指示の下、甲板員たちの手によって未だペンキの匂いがする真新しい救命ボートが用意されている。

「はいそうです、船室番号二八のCまでの方は右舷前部の六号ボートです! ――まったくもう、よりにもよって客船怪盗が自分の船を乗っ取るなんて!」

 マリナの知る限り、客船怪盗史上、自分が縄張りとしている客船を乗っ取ったのは〈彼女〉が初めてだった。

 何より歴代〈ブルークライム〉たちの言葉を借りれば、客船怪盗にとって船とは舞台なのだ。

〈彼ら〉はそこで怪盗という「役」を演じているにすぎない。

 トラベラーズクラスや人生でただ一度の航海に臨む三等船室の客たちは、一等客のみを相手にする〈彼ら〉の姿に溜飲を下げ、〈彼ら〉と出会えたことを生涯の自慢とする。

 ゴージャスだがワンパターンの船旅に飽きた一等客にとっても、〈彼ら〉に狙われるのは、他では味わえない最高のスペクタクルだ。盗まれる金品は、そんな彼らへのいわばチップなのだった。

 中には自ら宝石や芸術品の類をどっさり持ち込んで、「盗めるものなら盗んでみろ」と挑戦してくる客もいたりするが、そこまでくればもはや自業自得。けれどだからといって、〈彼ら〉が決して容認される存在ではないことに変わりはない。

 法を犯しているのは事実だし、警察への被害届けだってしっかり出ているのだから(でなければ盗品に掛けられた保険が下りない)。

 しかし「客船を乗っ取る」というのは、それらの行為とはまったく次元が違う。

 確かに残された時間を考えれば、今のマリナたちにできることはほとんどない。「真犯人」たちが本当に船を沈める気なのかすら今もって不明なのだし。とはいえ、

「そうなってからじゃ遅いのよ!」

 という〈ブルークライム〉の言葉は、そっくりそのままマリナ自身の言葉でもあった。

 だが客船の乗っ取りは、〈彼女〉自身の怪盗生命をも断ちかねない文字通りの自殺行為だ。

 それでも〈彼女〉はやると言った。マリナにはもう、うなずくことしかできなかった。

 乗客たちは現状、整然とマリナたちの誘導に従っている。心配されたパニックは見られない。

 何たって、乗っ取り犯はあの〈ブルークライム〉なのだ。

 つまり乗客たちにとって、これは客船レースに優るとも劣らない「大イベント」なのである。

 これがもし、まったく別の──「本物」の乗っ取り犯による行為だったら。救命ボートへの移乗を命じるのが〈ブルークライム〉の言葉ではなく、謎の真犯人たちが持つマシンガンの銃声だったとしたら──

 ひきつりそうになる顔を必死にこらえて、マリナは乗客の誘導を続ける。

 気がつけば、もうすっかり日は暮れていた。

 デッキや舷窓からもれ出る光に照らし出された救命ボートからひとつ目を離せば、そこは漆黒といっていい夜の大西洋だ。

 乗客たちは、この全長三〇〇メートル、八万トンの〈ブルーエアリアス〉号から、たかだか一〇メートル、一トンに満たない手こぎボートへと乗り換えてその海へと降ろされてゆく。

 わずかなパニックでも重大な事故を引き起こしかねない、とても危険な状況だっだ。

 やっと順番の回ってきた老紳士の救命胴衣を直しているマリナの頭上で、夜空へ向かって次々と打ち上げられる照明弾の光が、幾筋もの軌跡を描いて飛び去ってゆく。

 ふと顔を上げた先、青色の煙突の向こうにあるブリッジが目に入った。

 客船怪盗として史上初の客船乗っ取り犯となった〈ブルークライム〉は、そこにいた。

 あと少し、もう少しの間、このまま何も起こりませんように。

 頼みましたよ──〈ブルークライム〉。

 シスターになって初めてマリナは、主と聖フィセラ以外の「人間」へ祈りの言葉を捧げた。


「乗客の下船作業は順調かね?」

「はい、トライバル船長!」

 たった今ボートデッキから戻ってきた年かさの次席航海士が、ブリッジ奥の海図台で海図をにらんでいた白髭の船長へ敬礼する。

 その船長に代わってブリッジの中央に立つのは、青いマスクに派手なメイド服姿の女性。

 敬礼を解いた次席航海士は、くるりと踵を返すと、その〈彼女〉へと歩み寄ってゆく。

「どうやら最悪の事態だけは避けられそうだな」

「『敵』さんも、無関係の乗客までは巻き込みたくないと思ってるんでしょ」

 気安げな次席航海士の言葉に、〈ブルークライム〉がこともなげに答える。

「要するに君は、より穏やかな方法で、『彼ら』のしたかったことを代わりにやっているわけだ」

「かもね」

 どう見ても船長より年上の次席航海士は、にやりと笑って、

「だがこれで、奇跡的に実現した史上初の客船レースもおじゃんというわけか」

「心情お察ししますわ、マクバーン船長――いえ、マクバーン次席航海士」

 じっと前を向いたまま、ほとんど感情のない声で〈ブルークライム〉が答える。

「いいさ。この船も、そしてこのわたしも、〈君ら〉には借りがあるのだから」

「わたしが船長を『説得』するのに協力してくれたのは、その借りを返すためかしら?」

「そう受け取ってもらってもかまわない」

「だったら、もう少し早くお願いしたかったわね。そうすれば、日が残っているうちに全員を下船させられたのに」

「決断の遅さは五年前と変わらずか。すまない」

 五年前――当時の〈ブルーエアリアス〉号客船怪盗、二代目〈ブルークライム〉は、本船の筆頭客船探偵である祭蔵との大活劇中、英雄気取りで割り込んできた酔っ払い紳士に銃で撃たれて船から転落した。銃弾は当たらなかったが、銃を撃った反動で船から落ちそうになった某紳士を助ける代わりに、〈彼〉自身が海へ落ちてしまったのだ。

 祭蔵から連絡を受けた当時のマクバーン船長は、即座に停船を命じようとした。

 だが〈ブルーエアリアス〉号はこのとき、ブルーリボン記録の更新を目前にしていた。

 同乗していた会社の重鎮は、『乗船名簿にも載っていない犯罪者』の命よりも、ブルーリボン記録の優先を船長へ「提言」した。

 絶対の権限を持つ船長として船を止めるべきか、それとも会社の一員として上司に従うべきか彼は迷い──結局〈ブルーエアリアス〉号が停止したときには、祭蔵の連絡から一時間が経過していた。

〈ブルークライム〉が落船した場所からは、すでに三五マイル(約六〇キロ)以上離れていた。

 陽もすっかり落ち、今さら引き返しても彼を見つけられる見込みはまずなかった。

 もっとも、数十メートルの高さから三〇ノット以上──時速約六〇キロで海面に叩きつけられれば、そこはもう石畳の上と変わらない。現在にいたるも二代目〈ブルークライム〉の遺体は発見されていないが、しかしほどんど即死だっただろうというのが大方の見方だった。

「だがやはり、あれはわたしの判断ミスだった。たとえ船客名簿に載っていなくとも、犯罪者であろうとも、わたしは即座に船を停めるべきだったのだ」

 結局、この航海ではブルーリボン記録を打ち立てることができなかった。さらにマクバーン船長も、船の到着を「故意に遅らせた」として船長資格を剥脱されてしまった。

 だが会社のこの処分に対し、世論は猛反発した。客船怪盗を見捨てた同社の人気は低迷し、それがグランドスターラインとの会社合併を決断させた一因ともなった。

 さておき事態に慌てた会社側は、休職中のマクバーンに船長復帰を打診。だが理由はどうあれ自分の船で死亡事故を起こした彼はそれを固辞。一時は〈ブルーエアリアス〉号の存続まで危ぶまれた。

 この窮地を救ったのは、他でもない〈彼女〉――三代目〈ブルークライム〉だった。

〈彼女〉が〈ブルーエアリアス〉号に現われたことで、世間の批判は潮を引くように消えていった。

 マクバーン自身も〈彼女〉に説得される形で、次席航海士として復帰することになった。

「二代目は、本当にこの〈ブルーエアリアス〉号を愛していたわ……」

 ひとりごとのような〈ブルークライム〉の言葉に、マクバーンもそれを引き継ぐように、

「『これほど素晴らしい客船は他にない。この船はきっと客船史にその名を残すだろう。我が〈ブルークライム〉の名と共にね!』――彼の口癖だったな」

 当代〈ブルークライム〉は、ブリッジの中央にある黄金色の羅針盤にそっと手を置いて、

「その意志は、この舞台は、わたしが引き継ぐ。この三代目〈ブルークライム〉がね!」

 マクバーンはもう何も言えず、ただ顔に手をやって肩を震わせていた。

〈ブルークライム〉は、少しの間黙って彼の隣に立っていたが、やがてその場でくるりと回れ右をして歩き始めた。

「どちらへ、〈ブルークライム〉?」

 それまで沈黙していた船長が聞く。

「そろそろ表舞台へ上がる時間ですので。この辺で失礼いたしますわ」

 ブリッジの出口で、青いマスク姿の客船怪盗は、その横顔へにやりと笑みを浮かべて見せる。

「さあて。〈ブルークライム〉劇場、第二幕のスタートよ!」


     9


「方位〇二〇、約一五マイル前方に照明弾多数。〈ブルーエアリアス〉号らしき明かりも見えます。停船している模様!」

「通信室より報告! 依然として〈ブルーエアリアス〉号より応答なし。ただし同号からは、頻繁にに現在位置を知らせる無線が発信されているそうです!」

〈オリオンスター〉号のブリッジでは、さまざな部署からの報告が乱れ飛んでいた。

「よろしい。マーカスくん、スターボード・イーズィー。両舷全速」

「はい船長。レイドくん、舵を頼む。機関室、フルアヘッド!」

「フルアヘッド・サー!」

 洋平の横で、機関室へ命令を転送する指示器がキンキンキン! と小気味いい音を立てた。

「到着まであと二〇分というところか。後は現在位置を打電し続けているという無線の問題だが――ヨウヘイ候補生」

「あ、はい船長!?」

 目の前で展開されている光景にすっかり見入っていた洋平が、慌てて船長の方へ向き直る。

「無線の件だが、君はどう思うかね?」

「は、はあ……救助要請、ではないです、よね?」

 直立したまま、洋平はやっとそれだけ言った。

 客船怪盗〈ブルークライム〉による〈ブルーエアリアス〉号乗っ取りを告げる第一報が届いてから、およそ二時間が経過していた。

〈ブルークライム〉がらみということで呼ばれた〈ブルーエアリアス〉号客船探偵――洋平、レイテル、さらにトーマスといった面々は、しかし同号の状況がまったくつかめないので、少々時間をもてあましていた。

 レイテルとトーマスは奥の船長室で待機中。ブリッジ内には商船学校生徒として船の仕事に興味のあった洋平だけが残り、おかげで船長から、まるで試験のような質問ぜめにあっていた。

「わたしも単なる救助要請ではないと思うよ。急行中の我々の姿は向こうからも見えているだろうしね。ではなぜ、その我々を無視して位置情報を流し続けているのだろうか?」

「ええっと……待機中の軍艦に知らせている、とか」

 米英海軍合同の随行艦隊(高速駆逐艦三隻)は現在、〈ブルークライム〉の指示で、〈ブルーエアリアス〉号の周囲二〇マイル以内には近づけないことになっていた。

「そうだろうか? 同船はもうとっくに停船していて、その位置は変わっていないのだよ?」

「ええと、では、我々の知らない別の船に知らせている? でもその相手は我々や護衛の艦隊に自分の存在を知られたくないので返事ができず、なので〈ブルーエアリアス〉号側も、無線の相手に確実に位置情報が届いているか確かめる術がなく、ゆえに発信を続けるしかない……」

「なかなかいいぞ。だがそうだとしたら、この状況で誰が誰を呼んでいるのだろうか?」

「〈ブルークライム〉が……ではないですよね」

 自分の船を乗っ取った〈彼女〉が何を考えているのかはわからない。だが最初の乗っ取り宣言とそれに続く軍艦への接近を禁じる無線があって以降、こちらからの問いかけにまったく答えないというのは、やはり〈彼女〉らしくないと洋平は思った。

 けれど今現在無線を発信しているのが〈彼女〉ではないとしたら、ではいったい誰が──?

「どうやら〈ブルーエアリアス〉号には、〈ブルークライム〉以外にも、何か悪さを考えている連中がまぎれ込んでいるようだな」

「その連中こそが、今回の事件の真犯人だとお考えですか?」

 うむ、と船長がうなずく。とそのとき、

「見張りより報告! 〈ブルーエアリアス〉号の周囲に救命ボート多数!」

 報告を受けた船長がブリッジの外にある張り出し部分へと出た。

 洋平も急いでその後を追う。

 夜の闇の中に、自ら発する光の中に浮かび上がっている〈ブルーエアリアス〉号の姿があった。まだよく見えないが、確かにその周囲で、蛍火のような小さい光が多数漂っていた。

「マーカスくん、全乗組員へ緊急通達! 全船要救助態勢! 両舷半速、舵を戻せ!」

 ブリッジへ頭だけつっ込んで船長が怒鳴った。

 すぐにマーカス首席航海士の復唱が返ってきて、さらに各部署へより細かい指示が飛ぶ。

「ヨウヘイ候補生」

「は、はい船長!」

「救助訓練の経験は?」

「あります!」

 ただし座学だけですが――の部分を日本語で付つけ加えつつ、洋平。

「では先にプロムナードデッキへ行ってくれ。行き方はわかるな――よし! 後からマーカスくんが行くから、彼の指揮下に入ってくれたまえ」

「はい船長!」

 敬礼もそこそこにブリッジ内へと駆け戻った洋平に、船長室から顔を出したレイテルが、

「わたしも行くわ!」

「だめだ! そんなドレスじゃ足手まといになるだけだ!」

「だってボートにはシェリイが乗ってるかも! マリイだって――!」

 レイテルの言葉が詰まる。

 洋平にはもう考える時間すら惜しかった。トーマスを見た。彼がこくりとうなずく。

「よし来い!」

「はい!」


     9


「船が停まったぞ? どうなっておる?」

 豪奢な船室で、左右にピンと髭を生やした黒いスーツ姿の男が言った。

「おれが知るかよ。ドアの前にいるその男に聞くんだな」

 まったく似合わない三つ揃いを着た、いかにも船員風の大男が答える。

「黙れ。そのままじっとしていろ」

 精巧な彫刻で飾られたドアの前に陣取った男が、胸ポケットから垂らしたライトスター客船探偵社のバッジと、手に持った拳銃をちらつかせながら命じた。

「まあよい、聞かなくてもだいたい判る。要するに英国政府が裏切ったということだろう?」

「何だってえ!?」

 船員風大男が怒鳴る。

「おぬしもいい加減気づけ。きっと我らが姫は〈ブルーエアリアス〉号の方だ。『マザーエバレスの聖書』共々、我々からあの船を守るための人質というわけだ」

「つまり、てめえの買収工作はまったくの無駄足だったってことだな」

 けけけと笑う大男に、黒スーツの男は自慢の髭をすすっとなでながら、

「だがそれは、英国政府も同じことであるよ。彼らは姫と『聖書』さえ手に入れば、この〈オリオンスター〉号の秘密を暴けると思っておるらしい。何ともおめでたいことだ!」

 髭の男が笑ってみせる。だがライトスターのバッジをつけた男は何も言わなかった。

 さらに髭の男は、文机とセットになった緞子張りの椅子からゆっくりと立ち上がると、

「軍への移籍に備えて〈ブルーエアリアス〉号の改良までしたというのに、突然の方針転換とは。いやはや、戦争も近いというのに、たいした散財であったな!」

 船員風大男も、寝そべっていた華奢なカウチからのっそりと立ち上がる。

「まったくだ! こんな出来レースに大枚はたいて賭けをやってる連中の身にもなれってんだ」

「待てきさまら、おとなしく座っていろ。この銃が見えないのか」

「おぬしこそ、肩の上の毒フナムシが見えないのかね?」

「何が――ぐあ!」

 ライトスターの男がちらりと肩へ目をやった瞬間、髭の男が文机の上にあったガラス製の灰皿を投げつけた。

 それは見事にドア前に立つ彼の頭に命中、さらに大男が体当たりしてその体を背後のドアとサンドイッチにする。

 くずおれた男を足先でどかしつつ、髭の男はドアを開けて廊下へ出た。

「まさか当たるとは思わなかった」

「ってお前、外れたらどうするつもりだったんだ!」

 ライトスターの男が持っていた拳銃を拾い上げた船員風大男が、あきれた顔を向ける。

「少しでも隙を作れば、元突撃隊員のきさまが何とかすると思ってな」

「おれさまの体を見ろ。そんなすばしっこいマネができるように見えるか? おれっちは重火器専門の鉄砲屋だ! そっちこそ、あのグリューフィウスのメンバーなら、暗殺手段の一つや二つ持ってねえのか」

「今のわたしはただの飛行機屋だ。それ以前に我が一族は、元々体を使った荒事は専門外なのだ」

「何でそんなやつがこんな実戦部隊にいる」

「話せば長いことながら。うおっほん──あー我が一族は代々、特殊な催眠術による人心掌握術に長けておってな。その術を使って、本家繁栄の裏で秘密の政治工作や暗殺を司ってきた、いわば影の存在だったのだよ」

 そんな家業に嫌気して、わたしは飛行機に熱中したのだが、まあそれは余談だな──と髭の男。

「一〇年ほど前のことだ。大戦後に吹き荒れたグリューフィウス粛清の嵐の中、とある計画を進めていた我ら一族に、御誕生間もない一人の姫が託された」

 ふと立ち止まった髭の男は、何かを思い出すように軽く目を閉じると、

「東洋人の母君から生まれた、本来なら傍系もいいところの姫であったよ──だが本家の血統が次々と絶たれてゆく中にあっては、もとより選り好みなど許されるはずもない」

「ひでえ言いようだな」

「それが当時の現実だったのだ!」

 珍しく感情に髭を震わせた男は、しかしすぐ元の調子に戻って、

「世が世なら、たとえ傍系であれこんな扱いが許されるはずもない。ああ、おいたわしやリヌエット姫……」

「よく言うぜ。その姫さんにとんでもねえ秘密を──負担を押し付けた一族の人間が」

「否定はせんよ。だが他に道はなかったのだ。姫さまにも、我々にもな」

 今回は大男の挑発に乗ることもなく、廊下の先にあった階段を淡々と下ってゆく髭の男。

「しかし五年前──良くも悪くも計画が順調に進んで、この船の建造にもめどがつき、いよいよ拠点を合衆国へと移さんとした矢先にドイツ帝国秘密部隊の襲撃があってな。仕方なく姫さまの記憶を封じた上で、ちょうど当時わたしの家の客人だった〈ブルークライム〉に姫さまの身を託したのだ」

「〈ブルークライム〉だって!? 何だあの女、見かけによらずけっこう年食ってやがったんだな。ちょいとがっかりだぜ!」

「慌てるな。二代目だ――しかしその彼も、英国へと戻る途上の大西洋で死んでしまい、以降姫さまの行方はようとして知れなかったのだ」

「てえことはだ。要するにお前さんは、最終的には大事な姫さまを託した客船怪盗の弟子まで殺そうとしたわけか? いくらこの船とあのガキ――とと、お姫さまの秘密を守るためとはいえ、因果な商売だな」

「貴族は商売ではない! ……だからこそ、せめてこのわたし自身の手で、と思ったのだ」

「それが今、あんたがこの場にいる理由ってわけか」

 本当に長い話だったぜ、と大男。

「とはいえ実際に機関銃の引き金を引いたのはおれだったがな」

「おかげで三代目はまだ生きていられるというわけだ――着いたぞ」

 そこは船の最後部、船尾デッキだった。

「ボートデッキがやけに騒がしいが? おい見ろ、〈ブルーエアリアス〉号だ!」

「わかっている。我々はこれからあの船へ行くのだ。姫さまをお迎えにな」

「それと『聖書』だな。だが髭の冒険家さんよ、どうやってあっちまで行く? 自慢の飛行機はここにはねえぜ? 救命ボートでもお借りするのか?」

「もっといいものがある――あれだ!」

 髭の男が指差した先にあったのは、急造の台座に飾られている「探偵二号」だった。


    10


 すぐ先の曲がり角から、かなり派手な撃ち合いの音が聞こえていた。

 壁にはりついた〈ブルークライム〉が、嫌々ながら魚くさいマシンガンを構える。

「やっぱり通信室はもうだめね」

「ここを突破するのは危険です。仕方ありません、戻りましょう」

 続くマリナも、エリーウインズのマークの入った手提げから拳銃を取り出す。

 先に洋平に返した形見の銃よりも一回り小さい、ワルサー社製の小型自動拳銃だった。

「あの子はいいの? できるだけ船内を捜しながら行こうって言ったのはそっちでしょ?」

「計画変更。プロムナードデッキに上がって、児童遊戯室へ直行します」

 きっぱりとマリナが言った。

〈ブルークライム〉は、マリナの手にある拳銃をうさんくさそうにながめながら、

「言っておくけど、銃ってのはね、弾を入れないと役に立たないのよ」

「大丈夫です。今回は容赦なしですから」

〈ブルークライム〉は、あらそ、と小さく肩をすくめて、

「あとその『聖書』もね。今度は途中で落っことさないように気をつけなさいよ」

「わかってます──って〈ブルークライム〉、あなたいつから『これ』に気づいて……」

 いつも自分の聖書と拳銃を入れている手提げ袋──けれど今その中には、こちらも銃撃戦真っただ中の礼拝堂にあるはずの『マザーエバレスの聖書』が入っていた。

 ちなみに聖書と拳銃を一緒にしておくのは、もちろんマリナの好みではない。

 だが銃を直に身に着けるわけにもいかないし、といって持っていないとレイテルにどやされるので、仕方なくそうしていたのだった。

 さておき〈ブルークライム〉は、マリナの言葉など聞こえなかったかのように、

「あら、マシンガン男の中に一人、あなたと同じ拳銃を持ってる給仕男がいるわ。きっと『これ』の正当な持ち主ね!」

 曲がり角の先をうかがいながら、〈ブルークライム〉。それからまたマリナを見て、

「さて。行くのはいいけど、おちびさんがそこにいるかはわからないんでしょ?」

 乗客たちの下船はすでに完了しており、もう乗組員たちも必要最小限しか残っていない。

 あとこの〈ブルーエアリアス〉号内にいるのは、彼女たち以外には、乗客がいなくなったとたん行動を開始した謎のマシンガン男たちと、同様に通信室を占拠しているこちらも謎の一団と――それに(この船にいるとすれば)シェリイだけだった。

「確かに、ひょっとしたらもう、ちゃっかり救命ボートに乗り込んでいるかも知れません」

 マリナはそうあってほしいと思いながら、

「けれどもしまだこの船内にいるとしたら。そしてわたしがあの子なら。最後はやっぱり、あそこへ行きます……遊戯室の隣にある、客船探偵事務所のプレートをひんまげに、ね!」

 マリナの言葉に、〈ブルークライム〉はふっと笑って、

「了解。でもね、最後なんて言葉は今は禁句! いい?」

「了解です!」


     11


「ではヨウヘイ候補生、君は右舷ボートデッキだ。ボートダビットを使った救助手順はわかってるね? よろしい。船に上げた要救助者はトレーニングジム室へ案内してくれ。具合が悪そうならダンスフロアへ。すでに船医が待機している。ミスレイテル、君もジム室だ。やって来た人たちに片っ端から毛布とコーヒーかブランデーを配るんだ。一等食堂が片付き次第、一等客はそちらへ移っていただく。他はプロムナードデッキだ。あとはボースン(甲板長)のアレンくんから指示を受けるように。いいね? じゃあよろしく!」

 そこまで一気にまくし立てると、マーカス首席航海士は足早に〈オリオンスター〉号の船首側へと歩き去って行った。

「よし、こっちもさっさと始めるか。って君、いきなりどこ行くのさ!」

 レイテルが船尾デッキの方へ歩いて行くのを見て、洋平は慌ててその後を追う。

「ジムの入り口はここだってば、おい……!」

「静かに! わたしたちの車の近くに誰かいるみたいなの」

 とうとうプロムナードデッキ最後方まで来たレイテルが、デッキの柵越しに、一段低くなっている船尾デッキを指差す。

 洋平たちがパレードで乗っていた水陸両用自動車「探偵二号」は、物珍しさも手伝って、船尾デッキに急造した台の上で見せ物となっていた。

「あ、ほんとた。二人いるな」

 洋平にもその姿が見えた。細身の男と、それとは対照的な太めの大男。

「一般の乗客は、みんな客室に戻ってもらってるはずなのに……何してるんだろ」

「車体に縄をつけてるわ。ひょっとしてデリック(起重機)で吊り上げるつもりかも」

「何のために?」

「海に降ろして乗るつもりだったりして?」

「こんな大西洋のどまんなかで、いったいどこへ行くんだよ」

 着ているドレスも何のその、さっと柵を越えて船尾デッキへと降り立ったレイテルへ、洋平は柵の上から手をのばして、

「いいから早く戻ってこいって! ぼくたちには他にやることがあるだろ!」

「だから静かに! あれはわたしたちの車よ、勝手なことされて黙ってられないわ!」

「まったくもう、ちょっと待てったら!」

 仕方なく洋平も柵をまたぎ越え、船尾デッキへ降りて彼女の後を追い始めた。

 間もなく、ラッパ状になった吸気塔の向こうから、レイテルの声が聞こえてきた。

「ちょっとあんたたち、そんなとこで何をしてるの!?」

「――あん? 何だ姉ちゃん、どっから来た?」

 答えたのは、洋平にはどこか見覚えのある、いかにも力仕事専門の下級船員といった感じの大男だった。

「お嬢さん、悪いことは言わない。自分の船室へ戻りたまえ」

 口元に生やした髭をさっとなでつけた細身の男は、さらに、

「ところで、そこに隠れているのは誰かね?」

「何、まだいやがったか? おいそこの! さっさと出てきやがれ!」

 黙ったままあっさりと姿を現した洋平の、その白い詰襟姿を見た大男が、

「おまえ、どっかで会ったか? まあいい、こいつに車を降ろさせようぜ!」

「あんたたち、それで何をするつもりなんだ?」

「おまえには関係ねえ。さっさとやれ! おれたちを乗せて海に降ろすんだ!」

 大男が、まったく似合わない三つ揃いの懐から銃を抜き出してレイテルにつきつけた。

「妙なマネしやがったら、このお嬢さんの命はねえぜ?」

 洋平は不安や恐れ、怒りといった感情よりも先に、「だから言わんこっちゃない」という思いを瞳に込めてレイテルを見た。

 真剣そのもの、といったレイテルの瞳が、不退転の決意を込めて「わかった!」という風に見返してくる。

 二人のアイコンタクトは、どうやらすれ違いに終わってしまったらしい。

 というわけで洋平は、素直にデリックを操作して、大男と髭の男、それにレイテルを乗せた「探偵二号」を海上へ降ろした。それから、

「ふう。まあ、これも我が人生It’s my lifeか――」

 などと達観しつつ柵の上へとよじ登る。

 目測で約二〇メートル下の海では、案の定、男たちがスクリューユニットをセットできずにもたついていた。

「ちょっと高いかな? 水もまだ冷たいだろうし。けどまあ停船中だし、何とかなるだろ」

 躊躇は一瞬。柵の外に出た洋平は、黒い波間に浮かぶ白い車へ向かってばっしゃーん! と飛び込んだ。

「何だてめえ! 殺されにきたのか!?」

 海上に浮き出た洋平は、ちらりとレイテルを見てから、

「あんたたち、もしかして〈ブルーエアリアス〉号へ行くつもり?」

「な、何でそれを知ってやがる! まさかてめえも英国情報部の――!」

「落ち着くのだ相棒。そんなこと、現状を見れば誰にでもわかるわい」

 洋平に銃をつきつけながらわめく大男へ、落ち着いた声で髭の男が言った。

「それより君、我々が〈ブルーエアリアス〉号へ行くというなら、何なのだ?」

 洋平はレイテルを見た。レイテルが小さくうなずく。

 今度のアイコンタクトは成功したようだった。

「ぼくたちも一緒に行く。この車の扱いにも慣れてるし」

 洋平は、運転席へ身を乗り出してハンドル下のステッキ状のバーをぐいっと引いた。直後、後部トランク上のスクリューユニットが、がしゃん! と音を立てて水面に降りる。

 それを見た髭の男が揺れる車内で危なっかしげに席を譲り、洋平は頭から運転席へと乗り込んだ。

「ねえねえ、あんな装置、いつくっつけたの?」

「誰かさんの苦労を見て、水上でも簡単にスクリューを降ろせるように改造したんだ。うお、さむさむ! やっぱりまだ海の水は冷たいや!」

「何だ、わたしのおかげじゃない。よおし、とにもかくにもさっさとしゅっぱーつ!」

 こちらも助手席に収まったレイテルが拳を突き上げる。

「コラ待て、船長はおれさまだ! そら操舵手、そこのぼうず! さっさ出さねえか!」

 後席でだんまりを決め込んでいる髭の男の隣で、船員風大男が怒鳴った。

 洋平は、どっちもどっちじゃんか、と日本語でつぶやいてから、

「では船長のみなさま、当船はこれより〈ブルーエアリアス〉号へ向け、出発します!」


     12


「――船長。トライバル船長」

「何だね、マクバーンくん」

 マクバーンは、〈ブルーエアリアス〉号ブリッジ左舷側の窓を示して、

「〈オリオンスター〉号以外の船が一隻、近づいてきます」

「何だって? もう別の船が救助に来たのかね?」 

「いえ、軍艦のようです」

 確かにそれは、闇に紛れるような暗灰色をしていた。暗い色をしているだけなら貨物船だって同様だが、それにしては船体の幅が異様に細く、夜間航行用の標識灯さえつけていない。

「しかし随伴艦は、〈ブルークライム〉の命令で二〇マイル以内には近づけないはずだ」

「無線室を乗っ取った集団が呼び寄せたのかも知れません」

「何のために? ……まさか!」

 マクバーンが無言でうなずく。

「まさか、この〈ブルーエアリアス〉号を沈めにきたのか!?」


 救命ボート用のロープを伝って〈ブルーエアリアス〉号のプロムナードデッキに降り立った洋平は、そのまま船尾デッキへと走り、〈オリオンスター〉号のときと同じ要領で残り三人の乗った「探偵二号」を海上から引き揚げた。

「では君らはあのとき、あのボートに乗っていたというわけか」

「探偵二号」のボンネットに描かれたエリーウインズのマークを横目に、髭の男が言った。

「〈エリーウインズ〉号よ! もしくは探偵一号!」

 レイテルが声を張り上げる。

「あんたたちだったのね! 二度も船を襲ったり、おじさまや教授を殺そうとしたり、それからシェリイを誘拐したりしたのは!」

「さあな。だが〈オリオンスター〉号の秘密を探ろうとするやつは、誰であろうと生かしてはおけねえのが性分でね」

 船員風大男が、改めてレイテルの背中に銃をつきつける。

「わかったら歩け、エリーウィンズの生き残りさんよ! あんたが生きているうちに、まずはこの船の礼拝堂へ案内してもらおうか」

「おいおい、レディはもっと丁重に扱わんか」

 大男をたしなめる髭の男の手にも、洋平が車に置いておいた日本製の軍用拳銃があった。

「礼拝堂? もしかして『マザーエバレスの聖書』が目的なのか」

 父の形見に小突かれて、洋平もレイテルと並ぶようにして歩き始めた。

「まだあればいいがな!」

 船員風大男の、その吐き捨てるような声に応じるかのように、ボートデッキのあたりから散発的な銃声が聞こえてくる。

「礼拝堂はあのあたりか? まあ銃声がしているってことは、まだ無事ってことか」

 大男のつぶやきをよそに、洋平は、髭の男の持つ父の銃を横目にしながら、

「あんたたち、あの『聖書』に何の用があるんだ?」

「知らねえ方が身のためだぜ?」

 髭の男の代わりに、船員風大男が言った。

「さっきも言ったろ。おれたちの秘密を探るやつは誰だって容赦しねえ」

「でも〈ブルークライム〉は生きてるわ!」

 背中に銃をつきつけられて歩かされながらも、果敢にレイテルが言い返す。

「教授も、ミスタートーマスもね」

 だらしなく両手を上げて歩きながら、ぼそっと洋平がつけ加える。

「ちょっとした方針の転換でい!」

 突きつけた銃はそのままに、船員風大男が苦しまぎれに怒鳴った。

「裏切りがあったのだよ。君らのボートで二人の客船探偵を撃ったのは我々ではない。英国情報部員だ」

 さらっとした口調で髭の男が真相を明かした。

「情報部? 英国の?」

 髭の男は、海の方へ目をやりながら、

「さよう――彼らは、我々がグリューフィウス家再興のために〈オリオンスター〉号へと隠した財宝を横取りしようと企てたのだ」

 その声は、どこか笑っているようにも聞こえた。

「戦争も近い。おおかた金に困った海軍あたりからの突き上げでもあったのだろうさ」

「そんな証拠がどこにあるってのよ」

「証拠か。よし二人共、そこで止まってちょっと海の方を見てみるのである」

 髭の男にうながされて、洋平たちは星空の浮かぶ海の上に目をやった。

「え――!?」

 レイテルが驚きの声を上げた。

 実際はともかく、感覚的にはほとんど目と鼻の先といっていいくらいの場所に、明らかに軍艦と思われる灰色の船が浮いていた。

 前部甲板にある主砲――〈エリーウインズ〉号のそれとはケタの違う本物――は、しっかりとこちら側を指向している。

「へっへっへ、来たな」

 船員風大男が笑う。

「これでやっと役者がそろったってわけだ!」


     13



 児童遊戯室の隣にあるエリーウインズ客船探偵事務所のネームプレートは、最後にマリナが見たときのままだった。つまり、きちんと真っすぐにかかっていた。

「まだ来てないのかしら? それともやっぱり、とっくにこの船から降りているのかも……」

 それでもマリナは、その金色のドアノブに手をかけた。

 かすかに震える彼女の手に、〈ブルークライム〉のそれが重なる。

〈彼女〉はもう一方の手の人差し指を立てて、その赤い唇に当てていた。

 マリナはこくこくとうなずき、より慎重にドアノブを回してゆっくりとドアを開けた。

 ――いた!

 マリナはもう少しで声を上げるところだった。

 シェリイがいた――明かりの消えた部屋の真ん中で、頭の上に大きなリボンをつけて、膝の上にケレナディレウスを乗せたまま、泣きそうな顔をしてマリナたちを見上げていた。

「ケレナディレウスが……」

 やっと、シェリイが言った。

「ケレナディレウスがおひざの上で寝ちゃったから、わたし……」

 シェリイの膝の上で、黒白の猫が耳を震わせて大きくあくびをした。

 大きな目がきょとんと開き、新たな、でも見慣れた二人の人間を見上げている。

「シェリイ――!」

「だめ、こないで!」

 シェリイがすくっと立ち上がる。うにゃん、と鳴いてケレナディレウスが逃げる。

「わたしを見つけちゃったら、マリナも、〈ブルークライム〉さまも、殺されちゃう!」

「大丈夫よ」

 頭に浮かんだ他の言葉たちをとりあえずわきに置いて、マリナはそれだけ言った。

「その通り」

〈ブルークライム〉も請け合う。

「だって『きょーじゅ』も、あのキザな探偵さんも……」

「生きてるわよ、二人共。ピンピンしてる、とまでは言わないけどね」

「……」

「シェリイ?」

 マリナが声をかけた――瞬間、その手の中にたたた、とシェリイが駆け込んできた。

 泣き声すら上げられず、ただひたすらマリナにしがみついている。

「シェリイ」

 マリナの震える手が、青いリボン越しに、シェリイのまったくクセのないまっすぐな黒髪を何度もなでた。

 自分の涙が、彼女の頭にかからないよう、その手の甲で受けとめようとするかのように。

「ああ、シェリイ。一体誰が、あなたにこんなひどい命令をしたのかしら」

「たぶん英国情報部ね」

〈ブルークライム〉の、魚くさいマシンガンを握る手に力がこもる。

「間違いなく連中が動いてる。最初から変だと思ったのよ。同じようにわたしたちやシェリイを襲いながら、そのやり方が正反対なんだもの。この件もそう。たぶん連中は、この子が乗っている限り、少なくとも〈ブルーエアリアス〉号が沈められることはないって考えて、」

 ふと言葉を切った〈ブルークライム〉が、指先だけで、静かにと合図を送ってくる。

 マリナは、まだ涙でいっぱいの瞳を、海側の壁に並ぶ丸型の舷窓へ向けた。

「――!」

 体へ押しつけるようにシェリイを抱いている腕に思わず力が入る。

 大きすぎて胸元しか見えない大男と、髭面の男につつかれるようにして、洋平とレイテルがその窓の外を歩いていた。

 四人は、事務所の端ぎりぎりのところで立ち止まると、何やら話を始めた。

〈ブルークライム〉が、こっそりと部屋の換気窓を開ける。

『へっへっへ……、これでやっと役者がそろったってわけだ!』

 新鮮な潮の匂いに混ざって、彼らの話し声が聞こえてきた。


「──うむ。そういうことだな」

 船員風大男に向かって髭の男がうなずく。

「あの軍艦の大砲で、〈ブルーエアリアス〉号を沈めるつもり?」

「それはまだわからんな」

 髭の男は、レイテルから隣に浮かぶ〈オリオンスター〉号へと目を移して、

「状況次第では、あちらの船が沈むことになる」

 くしゃみを我慢するかのように鼻をひくつかせていたレイテルが、その言葉にはっとなって、

「待って、待って! こちらと違って、向こうには大勢の人が乗っているのよ!」

「わかっている。だがここまで来たら、残念だが仕方がない──どうしたのかね、少年?」

 洋平は、まさかレイテルの鼻の穴を見ていました、とは言えなかったので、

「あ、いえ。随伴艦に見つからず、この客船に追いつける大型軍艦なんてあるわけないと思って」

「それがあるのだよ。そもそも公表されている軍艦の最大船速など、なんの参考にもならない。ちなみにあの軍艦は、ドイツによるオーストリア侵攻の際に脱出した、旧オーストリア海軍の高速巡洋艦である」

 髭の男は、自分の髭をぴんとはね上げながら、

「われわれの支援でエンジンを改良し、三八ノット(時速約七〇キロ超)で航走できる。たとえ大西洋最速を誇るブルーリボンライナーとて逃れることはできまいさ」

「それにしても、なぜこの二隻を沈めなくちゃいけないんです?」

「この二隻はもともと、我々グリューフィウスのものだからだ」

「どういうことですか?」

「知れば、この船と運命を共にしてもらうことになるが」

「ぼくの父さんは、お姫さまを守ってこの船で死んだんです。死に場所としては悪くない」

「やはりそうか。君は、あのコウヘイ・ハルミのご子息だね?」

「晴海洋平。ちなみにあなたの持っている銃は、その形見です」

 髭の男は、洋平の顔を覗き込むように見つめてから、やっと体を起こして、

「この銃、ナンブモデル一四といい、どこか見覚えがあると思ったよ。では君には知る権利がある。いや、ぜひとも知っておいてもらいたい」

 そして彼は、そもそも〈ブルーエアリアス〉号を建造した旧ヘルゼリカ小王国こそが、オーストリアの大貴族、グリューフィウス家のもうひとつの顔であることを明かした。

「先の大戦で勝ち目のない戦いに巻き込まれた小王国は、秘密裏に英国王室へ助けを求めた。見返りに彼らは、小王国とグリューフィウス本家、二つの王公家に伝わる財貨の大半を要求してきおったよ」

 他に選択肢はなかった。英国の命じるまま、グリューフィウス家はその莫大な財貨の入れ物として〈フィセラプリンセス〉号──後の〈ブルーエアリアス〉号の建造を決断した。

「さよう。同号の英国への譲渡は、最初から決まっていたことだったのだ」

 だが実際には、〈ブルーエアリアス〉号に彼らの「遺産」は載せられなかった。

「同号の建造は、我がグリューフィウスが地下へ潜るための時間稼ぎだったのだよ」

 戦争による混乱のどさくさでまんまと地下組織へと鞍替えを果たしたグリューフィウスは、しかし英国はもちろん、新生ドイツ帝国や母国オーストリアからも狙われる存在となった。

「つまり最初に裏切ったのは、英国じゃなくてあんたたちの方じゃない!」

 そのレイテルの抗議も、髭の男は「よくあることであるよ」と受け流すと、改めて話を再開した。

「多大な犠牲を払いつつもどうにか体勢を立て直した我々は、そこで再び、我らの遺産を託すのにふさわしい船を建造することにした」

 それが〈オリオンスター〉号だった。

 同船には、グリューフィウスの門外不出の財宝が慎重に『封印』された。

 それらは同号を解体しない限り取り出せないよう、その建造の当初から、船体のあらゆる部位に──下手に取り出そうとすれば逆にそれらを傷つけ、破壊してしまうことになるような場所へ──埋め込まれた。

「そして我が姫、リヌエット・フォアウイル・グリューフィウスさまは、設計図にも記載されていないそれら財宝の隠し場所を、我が一族秘伝の特殊な催眠術によって全て記憶しておられる。そしてその記憶は、催眠術で使用した言葉──『歌』と言った方がよいかな? それを唱えつつ、『マザーエバレスの聖書』に描かれた挿し絵を見せることで呼び覚ますことができるのだ」

「あんな小さな女の子に何てことを! ひどいわ!」

 たまらずに声を上げるレイテルへ、しかし髭の男は、

「それこそひどい誤解である――何だ? ああ、わかっている」

 さかんにめくばせしている船員風大男へ小さくうなずくと、改めてレイテルへ向けて、

「よいかね? その記憶こそが、我が姫さまのお命を守る最後の盾なのだ。先のドイツ帝国によるオーストリア併合の際、グリューフィウスに連なる者たちは容赦なく狩り殺されていった。だが姫さまと、姫さまの秘密を知る我が一族だけは別だった。生かして捕らえねば意味がないからな。おかげで我々は、しつこいドイツ野郎どもの隙をついて、最終的には合衆国へと逃がれることができたのだ。もっとも──」

 髭の男が持っていた形見の銃の先が、すっと二人から外れる。

「そのとき姫さまはもう、別の場所で、別の名前を持って生活されておられたが、な!」

 言うやその銃口をばっと背後へ向ける。

 さらに同時、洋平たちを狙い撃ちするかのように、軍艦の探照灯が照射された。

「ブルーリボンキッズとして、な! ――見つけたぜ、ちびすけ!」

 船員風大男も、ぶん! と音のしそうな勢いで銃を持った腕を回し、髭の男に続く。

「――ちっ」

 数キロ先まで届く強力な光の中で、青いマスクにメイド服の女性が舌を鳴らした。

「ごめん、ヨウヘイ、レティ」

 ふり返った二人に、おもちゃのラケットを構えたままのシェリイが言った。

「あの、どうしてわたしたちのことがわかっちゃったんです?」

 以前トーマスが使った非常扉の前で、マリナが聞く。

 大男が自慢げに鼻をひくつかせながら、「匂いさ」と言った。

「おれはこう見えて甘いものには目がなくてな!」

 レイテルも、再び鼻をひくひくさせて、

「これって、やっぱり児童遊戯室の匂いだったのね」

「この場所が、君らの事務所の近くなのはわかっていた」

 髭の男が、手にした銃でわずかに開かれた換気窓を指し示した。

「その前でこんな話をしていれば、そのうち反応があるだろうと踏んでいたのだ」

「そらそら、早く武器を捨てるんだ! すみませんなあお姫さま、あなたもですぜ?」

 むう、と頬を膨らませるシェリイに、船員風大男がにやにやと笑って、

「だがまさか、全員そろってお出ましになるとは! これで『聖書』がありゃ文句なしだが」

「『聖書』なら、たぶんそのシスターが持っておる」

 髭の男の言葉に、マリナがびくりと肩を震わせる。

「なぜわかる?」

「『それ』の正統な持ち主であるからな。ですね、マリネーテ姫?」

 返事のないマリナへ、だか髭の男は気にする風もなく、

「礼拝堂へ収める直前にすり替えたか、もしくは最初からそちらは偽物だったのだよ。もしかしたらテムズ川で失くしたというご自身の聖書かも──どちらの聖書も見つかってよかったですなあ、姫さま」

 マリナが渋々差し出した『聖書』を手に、髭の男がふっふ、と笑う。

「それにしましても、ヘルゼリカ小王国とグリューフィウス本家、今は亡き二つの公王家の姫君にそろって拝謁できるとは。これぞまさに最大級の栄誉──とはいえ、家臣としてはまことに申し訳ない。世が世なら、お二人そろって、贅を尽くした宮殿で何不自由なくお過ごしいただけましたものを」

 マリナは、シェリイを守るようにその前に立つと、

「わたしは、わたしたちはもう、あなた方の姫ではありません!」

「姫さま? わたしも? ほんとに? うっそ!」

 なんだか嬉しそうなシェリイを、マリナが小さく、めっと叱る。

 そんな二人の姫の姿に目を細めていた髭の男は、しかしふと〈ブルークライム〉へ目を戻すと、

「だが〈ブルークライム〉よ。きさまには大いに失望したぞ」

「あらあら。ご期待に沿えなかったかしら?」

「きさまがついていながら、こんな簡単に幕切れとはな……まったくひどいさまである。二代目が泣くぞ」

「かもね。でもいい加減、手が魚くさくっていやになってたところだったし」

 弾倉を引き抜いた魚くさいマシンガンを放り出しつつ、〈ブルークライム〉が笑う。

「おい、艦から発光信号だぞ!」

 その大男の声に、洋平も探照灯の光にまぎれて点滅している光を見た――通信室陥落、指示を乞う、貴船を沈める必要ありやなしや? 指示なきときは、沈める必要ありと判断す……

「この船を沈める? 本当に?」

「一時とはいえ、今は亡き先姫の名を冠した船を、敵国の軍艦になどにさせるものかね」

 発光信号を読んだ洋平の言葉に、当然のように髭の男が答える。

「もっとも『聖書』の奪還が叶わず、何よりリヌエット姫さまのお命に大事があれば、沈めるのは〈オリオンスター〉号の方であったがな」

「でも『聖書』はもうあなた方の手にあるし、シェリイだってぴんぴんしてる。これで〈ブルーエアリアス〉号がこのレースに勝てば──英国の軍艦にならなければ、どっちの船も沈める理由はなくなりますよね?」

「だとよいがな」

 肩をすくめる代わりにひょいと銃を持ち上げて見せた髭の男へ、それでも洋平は、

「仮に〈オリオンスター〉号が負けて英国海軍へ引き渡されることになっても、それならそれで、軍艦へ改造されるさいに手を回して遺産を回収すればいい。表に出た遺産を巡って、英国やドイツを始めとする各国がその裏で壮絶な争奪戦を演じることになるでしょうが、でもそれこそグリューフィウスの得意とする舞台。望むところでしょう」

「簡単に言ってくれるぜ。世界を敵に回してどんぱちやらかすこっちの身にもなれってんだ」

 大男が、洋平に向かって熊のような体を折ってぐいと顔を寄せてきた。さらに髭の男も、

「残念だがこのレースはもう終わったのだよ、少年。ブルーリボン級豪華客船同士による世紀の対決だと? フフン──全ては最初から仕組まれた茶番だったのだ」

「そうでしょうか?」

 洋平の言葉に、髭の男がついっと眉を上げた。さらに洋平を睨みつけていた大男もその顔を上げて、

「ボートデッキの銃声がやんだぜ。連中もやっと気づいたか。そろそろこっちへ来るぞ。早く姫さんたちを──」

 その言葉と同時、ぱぱっ! と銃声が響き、小さな爆発音と共に軍艦の探照灯が消えた。

 続いて上のデッキから何本ものロープが次々と流れ落ちてきて、給仕係やら、ウエイターやらの格好をした男たちが、マシンガンを手に次々とプロムナードデッキに降ってきた。

「全員動くな!」

 一人だけ小さな拳銃を持った給仕係が怒鳴る。

 しかし洋平は、

「全員注目!」

 声を上げると、いつの間にか手にしていたステッキを掲げるや、傘のようにぱっと開いた。

 瞬間ぽん! と煙が上がり、色とりどりのテープが舞う。

 一瞬動きの止まった男たちの隙をついて、髭の男と船員風大男がそろって海へ飛び込んだ。

 客室係の一団が一斉に海と洋平へ銃口を向ける。だがそこで、軍艦の主砲がどっかーん! と火を吹いた。

 しかしその砲弾は〈ブルーエアリアス〉号の遥か上空へ消え、髭の男たちは、この間に軍艦からやってきたボートに拾い上げられてしまった。

「どうして逃がした!?」

 全速で逃げるボートを背に、洋平に向かって給仕係が怒鳴る。

「あの二人の指示がなければ本船を沈める、という発光信号がありましたので」

「すでに本船は砲撃を受けているぞ!」

「あの女の子とシスターマリナがこの船にいることが軍艦に伝われば、すぐにやみます……たぶん」

 洋平の言葉どおり、全員の見ている前で軍艦はその場から後退を始めた。

「『ダック』! 『ベア』! ブリッジへ行って確認してこい! ――いいか日本人、候補生、もしその話に少しでもウソがあったら……!」

 しかし帰ってきたボーイの二人組は、ブリッジの次席航海士が同様の発光信号を見ていたと証言、それでリーダーらしい給仕係もようやく銃を下ろしたのだった。

「すまなかったな。自分の銃をなくしちまって、ちょっと気がたってたんだ」

 彼のその言葉に、マリナが振り返る。

 もちろんすでに〈ブルークライム〉の姿はなく、デッキの板張の床に、あの魚くさいマシンガンがあるだけだった。

「あの、その魚くさ……いえ、そのマシンガン、あなたのでは?」

「おお、なぜこんなところに!? いやあ、ありがとう! 君もだ、候補生。いまさらだが、いい判断だった。君がこの〈ブルーエアリアス〉号を救ったのだ!」

「はあ、どうも」

「ねえねえヨーヘイ! あんな手品、どこで覚えたの!?」

 脅しから一転、賛辞の言葉を並べ始めた給仕係を押しのけて、レイテルが聞いてきた。

「え? ああ、それは──」

 絶妙のタイミングで〈ブルークライム〉から投げ渡されたステッキを手にした洋平の頬に、〈彼女〉の唇の感触があざやかに甦ってくる。

「どうしたの? 顔、何かすっごく赤いけど?」

「いや、ええと――そう! ディナーの余興にと思って、こっそり練習してたんだ!」

「あのねヨーヘイ、正式なディナーの場に手品の余興なんていらないわよ?」

「へ、へえ、そうなんだ。知らなかったよ、はっはっは……」


    14


『アメリカのみなさま! そして大西洋を遥かに隔てた英国のみなさま! さらにこのラジオをお聞きになれる全てのみなさま! ――とうとうこの日が、この瞬間がやってまいりました! 史上初、ブルーリボンライナー級超豪華客船同士による大西洋横断レースの、本日がその最終日であります!

 ゴール地点となるここ、ニューヨーク港沖アンプローズ灯台船上空はまさに快晴! ブルーリボンの名にふさわしい大快晴であります!

 レース二日目に、こちらも史上初、客船怪盗〈ブルークライム〉による客船乗っ取り事件という衝撃的なニュースが飛び込んでまいりましたが、後にこれは〈ブルークライム〉流の余興だったことが判明、現在両船は順調に航行中とのことであります!

 というわけで本日は、英米両軍戦略無線軍団全面支援の下、ラーイライライ・イラッシャーイ! でアメリカのみなさまにももうお馴染み、ヨウコソフーズUSAの誇る飛行船〈ヨウコソプリンセス号〉より、世紀の大西洋横断レースのゴールシーンを完全実況中継でお送りしたいと思います!

 なお特別ゲストとして、飛行艇で一足先にニューヨーク入りした〈ブルーエアリアス〉号筆頭客船探偵、プロフェッサーことサー・サイゾウ・シオーにお越しいただきました。ようこそ、サー・シオー! それともプロフェッサーとお呼びしましょうか?』

『好きに呼べばええ――それよりこれ、日本では聞けんのか?』


「わあ、わあ、ちょっとヨーヘイ! 今の聞いた!? 教授がラジオに出てる!」

 ブリッジ横に張り出した見張り台で、エリーウインズ客船探偵部のブレザーを着たレイテルは、その輝くような金髪をブルーリボンならぬ『ゴールドリボン』のようになびかせていた。

「君のすぐ隣にいるんだ、聞こえてるって」

 こちらも客船探偵部のブレザーを身にまとい、その言葉通りレイテルの横に立った洋平は、しかし、ブリッジから聞こえてくるラジオに負けないくらいの大きなため息をついた。

「どうしたの? 元気ないわね?」

「君の方こそ、頭上の存在をわざと無視してるな?」

「あら、何のことかしら?」

 とそのとき、二人の頭上からシェリイのサイレンのような声が降ってきた。

「わーわー! 抜かれる、抜かれるうー!」

 さらに〈ブルークライム〉の声が続けて、

「ヨウヘイ! ブリッジへ伝令! ここで抜かれたら、この船は〈ピンキークライム〉に任せて、わたしは〈オリオンスター〉号へ鞍替えしちゃうわよ!」

「………………」

 洋平とレイテルは、無言のまま、そろって顔を上げた。

 ブリッジ直上の観望台に立つ客船怪盗たち――青いマスクにメイド服の〈ブルークライム〉と、その前にいるピンクのマスクにピンクのエプロンドレスを着た〈ピンキークライム〉ことシェリイが、二人に向かって、こちらもそろって手を突き出してVサインを作る。

 まさかこんなことになるとは──まさに後悔先に立たず。

 レース二日目の大騒動の後、洋平は船の無線で夜通し教授と相談した末、給仕係を装っていた英国情報部員──通称ギース中佐に対して、改めて髭の男からと称する「伝言」を伝えていた。

 いわく、姫(シェリイ)の「記憶」を残しておきたかったら、これ以上彼女に余計なショックを与えないこと。少なくとも一八歳になるまでは、彼女の好きにさせておくように──

 もちろんでっち上げだった。しかし話を聞き終えたギース中佐は、洋平の言葉の真偽を確かめるようなことは一切せず、迎えの飛行艇に乗って〈ブルーエアリアス〉号を後にしていった。

 そして翌日。ギース中佐経由で海軍局へ伝えられた洋平の「伝言」は、そっくりそのまま異例の速さで軍の公式記録となった──こうして史上初、前代未聞の王立海軍公式客船怪盗〈ピンキークライム〉が誕生し(てしまっ)たのだった。

 さらに洋平の「伝言」は、シェリイのみならず、二隻のブルーリボンライナーの未来をも変えてしまうことになった。

 まず〈ブルーエアリアス〉号だが、同船はシェリイが安心して「客船怪盗ごっご(公文書記載のまま)」ができるよう、レースの勝敗に関係なく同日付で海軍への編入計画が無期限延期された。

 お宝満載の〈オリオンスター〉号の方も同様で、シェリイの記憶に関する調査が完了するまでは「現状維持」ということにされた。

 結果として両船は、レースに勝っても負けても、その後は共に仲良く新会社「グランブルーライン」に所属することになったのだった。

 異例づくめで進む状況に実際の手続きが追い付かず、会社を補助するための新たな予算措置もまだ検討の段階ゆえ公式発表はもう少し先になるが、これらはすでに決定事項だ。水面下では、すでに国も軍もそして会社もこの方向で行動を始めていた。

 どうやら三者共々、それなりに事態を読んで下準備をしていたようで、今のところ現場レベルの混乱は最小限に抑えられている。おかげでレースも中止されることなく、こうして無事(?)に最終日を迎えることができた。

 なお教授経由でこっそり漏れてきた情報によると、今回の結末は、彼ら三者にとっては「最悪の想定から数えて二つ目にマシな結果」だったらしい。

 確かに船は二隻共沈められることなく残ったものの、英国(および王立海軍)からみれば、グリューフィウスの財宝はもちろん、当てにしていた船も手にできなかったわけで、まさに骨折り損といったところだろう。

 一方で風雲急を告げるのご時世、二隻のブルーリボンライナーを擁することとなった新生グランブルーラインにしても、それはそれで有難迷惑というか、くたびれ儲けというか。

 だが悪い話ばかりでもない。その新会社に対しては、(出どころはさておき)すでにアメリカの投資市場を通じて、相当な額の投資希望が集まっているという――

「でもさ、マリイはともかく、シェリイまでお姫さまだったなんてね……」

「言ってみれば、今は新旧の〈お姫さまの船〉同士でレースをしているわけか」

 感慨深げな洋平の言葉に、見張り台から身を乗り出すようにしたレイテルも、六〇〇メートルの間を置いて疾走する〈オリオンスター〉号へ向けて大きく手を振りつつ、

「それもわたしたちの目の前でね。何だか夢みたい!」

 レイテルの顔が、未だ水平線の向こうにある北米大陸の方へと向けられる。

「その夢も、ニューヨークの港に着いたらさめちゃうのかしらね」

「すぐにまた新しい夢が見られるさ。だって港っていうのは、世界中を巡る船たちが乗せてきた世界中の奇跡が──夢が集まるところだからね!」

「ヨーヘイ、あんたってやつは……」

 真顔で言ってのける洋平に、レイテルは諦めたような、でもどこか嬉しげ顔でふっと息をつく。

「ところで話は変わるけれど。ぼくが無線室で夜を明かした後で部屋に戻ると、寝台横のテーブルにエリーウィンズ客船学校の留学申請書一式が置いてあってね──」

 洋平はわざとらしく水平線の方を眺めるようにして、

「もちろんぼく自身、そんなもの用意した覚えはない。ところがさらに不思議なことには、全ての項目はすでにタイプ済みで、あとはぼくが直筆で署名するだけになっていたんだよ」

「それは不思議なお話ね? ──で、署名したの?」

「これって君の仕業だろ、レイテル」

 ぐいっとレイテルの方を向く。

 けれどレイテルは、元気いっぱいの〈ピンキークライム〉を見上げるようにして、

「あの子をこのままにして、一人だけ逃げようってもそうはいかないわ!」

 それからまた洋平へと顔を戻し、

「第一、これでわたしやマリイとさよならしてもいいっていうの?」

 ちなみにマリナは、あのシェリイの姿を目にした直後から船内礼拝堂に引きこもって頭を抱えていた。

「そうだね。それもちょっとさみしいかな」

「あらちょっとだけ? ──で、署名したの?」

 洋平は降参とばかりに両手を上げて、

「ああしたともさ! 何より君とトーマスさんの結婚式にぜひとも参列したくてね!」

「ふん、言うようになったじゃない!」

 とはいえ満更でもなさそうなレイテルだった。

「──そういえば、トーマスさんは?」

「怪我してるのに無理して〈ブルーエアリアス〉号へ乗り込もうとして、勝手に降ろしたボートの下敷きになって今は医務室で監禁中」

 もはや心配を通り越して笑うしかない。

「何だかもうあの人らしいというか、いやごめん」

「いいのよその通りだし。結婚式まで生きてたら奇跡よね」

「そこまで言わなくても──」

 思わず苦笑いを浮かべる洋平に、レイテルもぐっと顔を寄せると、にやりと笑って、

「ああそうそう、先に言っておくけど、式ではステッキの余興はなしよ。いいわね!」

「イエスメム! というわけで改めてよろしく、レイテル!」

「こちらこそ! 改めて歓迎するわ、ヨーヘイ! ようこそ我がエリーウィンズ客船学校客船探偵部へ!」


『――さあ、いよいよ両船のゴールが迫ってまいりました! ここから見る限り、両船の差はほとんどありません! 全長三〇〇メートルの超巨大客船が、わずか数百メートルという至近距離で、抜きつ抜かれつの大接戦を演じております! おおっと、ただ今ゴール位置にいる消防船より放水が始まりました!

 両船のデッキ上では、乗員乗客の方々が総出で手を振っております! 何とも感動的な光景であります!

 さらに乗客の中には、あの高名な客船怪盗〈ブルークライム〉の仮装をしている方もいるようです! 隣にはもう一人、小さな子供さんもいるようですが、親子でしょうか? ……ああ、違うようです! 何やらかなり怒っておられるようです。ひょっとしたら姉妹だったのかも知れま――ああ、そのようですね!』

『……やっとれ』

『は? サー・シオー、何か? っと、さあいよいよです! 消防船の放水によるアーチを先にくぐるのは〈ブルーエアリアス〉号か〈オリオンスター〉号か! わずかに〈ブルーエアリアス〉号先行か……いえ〈オリオンスター〉号も出てまいりました! 両船とも互角! まったくの互角であります! さあもうすぐです……もうすぐ……あと二〇〇メートル! 一〇〇メートル! 五〇メートル──ゴール! ゴオオーーーーーーーール!

 ゴールです! たった今、豪華客船史上初の大西洋横断レースが決着いたしました!

 この世紀の大レースの栄光ある勝利船! その名は――!』



                                           おわり

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ブルーリボンラプソディ ~お姫さまの船~ 水原タロ @mizuharataro

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