第28話
なぜ、そんなに慌てているのかと不思議に思ってヒースクリフさんを見やる。執務室の絨毯の上に降ろしたクリスは既にどこかに行ってしまったようだ。
「クリス様が行ってしまいました。アンジェリカお嬢様にはクリス様を引き留めていただきたかったのですが……。」
「まあ、そうだったの?ごめんなさい。クリスになにか用事があったのかしら?でも、執務室のドアは閉められているから、執務室の中にいるのではないかしら?」
ヒースクリフさんがなぜ、そこまでクリスを引き留めたかったかわからないが、私たちが入ってきた執務室のドアはしっかりと閉まっている。ドアが閉まっているので、クリスが自由に動けるのは執務室の中だけのはずだ。
つまり、執務室という限られた空間の中だけを探せば、クリスはすぐに見つかるはずである。そこまで慌てる必要はないと思うのだけれども……。
「このお屋敷にはクリス様が各部屋を自由に行き来できるように、ドアの下の方にクリス様専用の小さい入り口がついているのです。クリス様の頭で押せば簡単に開きます。」
「そうですのね。ということは……。」
「はい。クリス様は執務室から出て行ってしまった可能性があります。」
どうやら侯爵家ではクリスが家の中を自由に動けるように、クリス用のドアが備え付けられているらしい。確かに、よくドアを観察すると、一番下に小さなドアがついている。
「はあ……。クリス様は今日こそ観念してくださるとお約束をしていたのですが逃げられてしまいましたね。」
「ご、ごめんなさい。私がクリスを放したからですね。」
ヒースクリフさんは大きなため息をついた。
「いいえ。アンジェリカお嬢様のせいではございません。私がちゃんとに説明しなかったのと、土壇場で逃げ出したクリス様のせいでございます。」
ヒースクリフさんはそう言ってクリスが出て行ったであろう執務室のドアを軽く睨んだ。
それにしても、土壇場でクリスが逃げ出したというのはどういうことだろうか?この後、クリスに何か大切な用事でもあったのだろうか。
「あの、クリスに重要な用事でもあったのでしょうか?」
「ええ。ええ。あれほど言い聞かせたのですが……。罰としてしばらくの間、アンジェリカお嬢様に会えないようにしてしまいましょうか。」
そう言ってヒースクリフさんは暗い笑みを浮かべた。これは、相当頭に来ているようだ。でも、クリスに会えないのは、私だって困ってしまう。これは、クリスではなく私への罰なのだろうか。
「……探してまいります。」
「いいえ。結構です。もう日が完全に落ちました。今日はもうクリスの姿を見ることはないでしょう。」
クリスを放してしまった責任を感じて、探してくると告げれば、ヒースクリフさんは緩やかに首を横に振った。
そうして、
「もうすぐ旦那様がいらっしゃいます。準備をいたしますので、アンジェリカお嬢様はいったん応接室でお待ちになっていただいてもよろしいでしょうか。」
と、言った。
「え、ええ。構いませんわ。」
急に話題が変わったことに驚きはしたが、拒否するような内容でもなかったので素直に頷いた。それに、ヒースクリフさんの話だと、今日はもうクリスには会えないみたいだし。
「ありがとうございます。それでは、準備が整いましたらお呼びに参ります。」
ヒースクリフさんはそう言って私たちを執務室から応接室に案内をしようと、執務室のドアを開けた。
「ヒースクリフ。その必要はない。」
すると、私たちしかいなかったはずの執務室の中から若い男性の声が聞こえてきた。
この声は、以前も聞いたことがある。侯爵の声にとても似ている。
もしかして、侯爵なの?
「旦那様、こちらにいらっしゃいましたか。」
「ああ。」
ヒースクリフさんが声の主に「旦那様」と声掛けをした。そのため、やはりこの声の持ち主が侯爵だったという事実が判明した。
私は、侯爵に挨拶をするためにくるりと後ろを振り返る。その瞬間、侯爵がカチンと固まったのがわかった。
呪いを警戒してのことだろうか。
侯爵に襲われたとしても、ここにはヒースクリフさんがいる。ロザリーは同じ女性だから危ないかもしれないけれど、私の方に侯爵の気を引き付けておけばいいだけだ。
後ろでドアが開いて閉まる音がした。そうして、私の耳元にヒースクリフさんが耳打ちする。
「ロザリーさんは執務室の外に出しました。私、一人ではアンジェリカお嬢様お一人を守るのが精一杯ですので。ですが、旦那様もアンジェリカお嬢様のためなら精神でどうにかしてくださるでしょう。」
どうやら、ロザリーが侯爵の呪いの犠牲にならないようにとヒースクリフさんが配慮してくれたようだ。
「お初にお目にかかります。アンジェリカでございます。本日はお招きいただきありがとうございます。ご挨拶が遅くなり申し訳ございません。」
昨日、会話をしたときにはお互い姿を見ていなかった。だから、初めて目にすると言ってもいいだろう。そう思って無難に挨拶をする。
「あ、ああ。」
呪いを必死に抑え込んでいるのか、侯爵の苦痛そうな声が聞こえてくる。
私はゆっくりと視線を上げて侯爵の顔を見上げた。
すると、侯爵の私を射抜くような金色に輝く瞳と視線がばっちりと絡まった。
「っ!!」
私は思わず息を飲みこんでしまった。
侯爵はお父様が言っていたとおり、とても精巧なお人形のように整った顔をしていた。無表情であればいっそ美しすぎて怖いほどだ。
私を見ていた侯爵の眉に皺が寄る。
どうしたのだろうか、私が侯爵に嫌な思いでもさせてしまったのだろうか。
「……旦那様?どういたしましたか?」
ヒースクリフさんにとっても、侯爵の態度は想定していなかったのか、心配そうに問いかける。
「……アンジェリカに欲情しない。」
侯爵はそうポツリと呟いた。
「……呪いが解呪されたのでしょうか?」
「しかし、解呪の方法は未だなされていないままだ。」
「……ローゼリア嬢をお呼びいたします。ドアの隙間からそっと伺ってみてください。」
ヒースクリフさんと侯爵がなにやら神妙な顔で話し合っている。
っていうか、女性の顔を見るともれなくその女性に欲情するって呪いだったよね?それが私に対して発動しないということは、侯爵の呪いが解呪されていたのだろうか。
それならば、それはとても良いことなんだけど。
もし、違っていたとしたならば、それは私の女性としての魅力が足りないってこと!?
それってなんだかとっても癪に障るんだけれども。
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