第13話 〜絶望と悲しみの狭間で〜

 だだっ広い通りが広がっている。

 辺りは薄暗く、建物はとばりを垂らしたかのように影が落ち、曖昧な境界線を作り出している。


 勇理は終わりの見えない通りを、ただひたすら走っていた。


 足は地面を踏みしめるも、朽ちかけた吊り橋を渡るかのように、その感触は心許ない。今にも足元から崩れ落ちそうだ。

 

 暗闇から時折り聞こえてくる、叫び声、悲鳴、絶望に満ちた呻き声──それを腹の底から嘲笑うかのような、醜くもおぞましい笑い声。


 永遠に続くかと思われた通りの先に、一人の影が見えた。

 小柄な背中に栗色の長い髪──天を仰ぐように広げられた両腕……。


『リズ──!!』


 勇理は声にならない声を上げる。

 発声したつもりが、まるで水中にでもいるように、音もなく、口がパクパクと虚しい動きを繰り返す。

 その背中に触れようと、必死に手を伸ばし、懸命に走るも、距離は縮まるどころか遠ざかる。

 

『リズ!! 今行くから──待ってくれ!!』


 叫び声も虚しく、足元をヘドロのような滑りのある液体がまとわりつく。

 一歩一歩が、鉛をつけたように重く、もはや歩くことさえままならない。

 

『くそ──リズ!!』


 食いしばった口の中を、錆びた鉄の味が広がる。

 リズの背中は今にも消えそうに儚く、曖昧な輪郭を辛うじて保っている。

 それでも勇理は、一歩を踏み出そうと、千切れそうな足を動かすも、思うように動かない。


 ──……!?


 全身を貫く剣が、煤のように黒い無数の手が、身体を楔のように押さえつける。

 立っていることは困難だった──。耐え難い痛みが全身を蝕んでいく。


 勇理は絶望という魔物に平伏し、膝から無様に崩れ落ちた。

 身体がヘドロの中に沈みゆく。

 ドロドロと粘り気のある液体が、服を通して勇理の自由と自我を奪い去っていく。


 狂気が渦巻く混沌とした世界で、一条の光が闇を照らした──。

 その光に導かれたように、煌めく粒子が辺りに立ち込める。

 あまりの眩しさに、目が眩む。

 かろうじて開けた視界の隙間から、黄金の鎧を纏った騎士の姿が垣間見えた。


 騎士は兜をしていなかった──。


 薄く茶色がかった長い髪。

 垂らした前髪から隠れ見える形の良い眉の下に、長い睫毛を伏せがちに、憂いを含んだ黒い瞳がこちらを見つめている。


 その顔は勇理がよく知った顔だった。


『聖奈……なのか?』


 聖奈の顔をした黄金の騎士は、沈みゆく勇理をただ黙って見下ろしている。


『聖奈なんだろ!? 無事だったんだな!! お願いだ、早くここから助け出してくれ!』

 

 勇理の声が届いていないのか、はたまた声が出せていないのか、返事はない。

 聖奈は瞳の奥に悲しみを宿したまま、腰に差した剣を滑らかに引き抜くと、剣先を勇理に向けた。

 

「勇理──あなたには誰も救えない。誰も守れない」


『聖奈──なにを言って……』


「なんであのとき私を守ってくれなかったの? 痛かった、寂しかった、辛かったのに……」


 勇理は聖奈のことを直視しできなかった。

 暗く濁った感情が、濁流となり胸に流れ込んでくる。

 耐え切れずに、逃げるように、勇理は視線を下げた──足元には底なしの闇が広がっている。


「ねえ勇理──なんで私を見捨てたの?」


『見捨ててなんてない──!!』


 ──違うんだ……出来ることなら助けたかった……見捨ててなど……。


 言い訳だった──やり切れない罪悪感が込み上げてくる。

 勇理はそれでも、聖奈にだけは分かってもらいたかった。

 聖奈なら、彼女なら、きっと自分の気持ちを理解してくれるはずだ──。

 そう思い、顔を上げ、勇理は驚愕した。


 いつの間にか、聖奈の顔がリズにすり替わっていた──。

 リズの顔は血で染まり、瞳は闇が渦巻くように暗く窪んでいる。


「……どうして……どうして見捨てたの……」


『やめろ──やめてくれーーー!!!』


 勇理のなかで、何かが音を立てて崩れた。

 思考は止まり、もぬけの殻と化した身体は、糸が切れた人形のようにだらし無く垂れ下がる。


 ──……もう十分だ……楽にさせてくれ……。


 諍う気力も、力も、希望も失くし、勇理は底なしの闇に飲まれた……。



 テントの屋根に激しく降り注ぐ雨が、ボタボタと太鼓のような、くぐもった音を奏でている。

 

 ──……。


 勇理はゆっくりと目を開けた。


 頭は靄がかかったように重く、視界はボヤけている。

 天井でゆらゆらとアンバランスに揺れるランプの光を朧げに見つめる。


「……起きたか?」


 声に反応して顔を傾けると、隣のベッドでちょこんと座るウサギ──いや、ムタリオンの姿があった。


「……ムタリオン?」


 勇理は起きあがろうと半身を起こすも、目眩が襲い頭をふらつかせる。

 身体が気怠さと酷い倦怠感で悲鳴を上げている。


「無理すんな。お前は血を流し過ぎだ。言っただろ、身体の再生がはえーってだけで、不死身なわけじゃねーんだ」


 血はすぐには生成されないということだろうか……勇理は使い物にならなくなった頭を必死に働かせる。


「おれは……おれは死んだかと思った……」


 全身を串刺しにされて、あのとき確かに死を覚悟した。

 怠さはあるものの、痛みは感じられない。

 ムタリオンは不死身ではないと言うが、勇理は再生能力の凄さを改めて実感する。


「こうして話してるってことは生きてるってことだろーが。お前は聖痕者によってここに運ばれたんだ」


「……聖痕者」


「ああ、金色の鎧を身につけたやつだ」


 ──あの騎士だ。


 勇理は消えゆく意識のなかで目にした、騎士の姿を思い出す。

 身に覚えのある声と、今まさに見た悪夢での顔──。


「その聖痕者は……名前は言ってた?」


「いや、名前は言ってねーな。お前を置いてさっさとどっか行っちまったしな」


「……そうなんだ」


 あの騎士は聖奈なのだろうか……だとしたら話したい。話さなくては──。

 だが、今はそれよりも気掛かりなことがあった。


「……ムタリオン」


「うん? なんだ?」


 勇理は聞くのが怖かった。リズがどうなったのか、彼女の生死を聞くのが。


「リズは……リズはどうなったんだ?」


 ムタリオンは黙り込んだ。

 そのまま真っ直ぐ勇理の顔を見つめると、顔を上げて天を仰いだ。


「あのねーちゃんは……ダメだった。詳しいことはゲルラから聞くといい」


 勇理は目の前が暗くなる。天井で揺らめくランプの灯りが異常に眩しく感じられる。


 可能性は低かった。でも、心のどこかで、胸の奥底で、もしかしたらリズは助かったんじゃないかと、淡い希望が燻っていた。

 それが、跡形もなく消えた瞬間だった──。


「……サーシャとリルは……子供たち無事なの……?」


 せめてサーシャとリルには無事であって欲しかった。でないと、そうでないと、リズの死はあまりにも無念だ。


「ああ、ガキたちは無事に保護された。安心しろ」


 ──よかった……。


 勇理は、リズと自分がしたことが決して無駄ではなかったと──そう思うことで、今にも崩れそうな心をなんとか保つ。


 リズは、リズは本当に死んでしまったのだろうか……。

 この期に及んで、勇理は認めたくなかった。  ムタリオンが嘘をつくとは思えない。それでも尚、脆い希望に縋ろうとする──。

 消えたローソクの火が、あたかもまだ灯ってるかのように、そう信じ込むことによって、崩壊しそうな自我を守るかのように。


「……ゲルラはどこに?」


「あいつなら、難民地区の後片付けに追われてる。ここも襲撃されたんだ。かなりの被害と死者が出てる。それにこの雨だ、作業は難航してるだろーな」


 ──ここも襲われたのか……。


 外壁に囲まれた街中でさえあの騒ぎだ。ここも相当な被害があったのだろう。

 勇理はやるせない気持ちと同時に、闇憑きに対する憎しみが沸々と込み上げてくる。


「とりあえず、お前はまだ休んでろ。そのうちゲルラも顔出すだろーよ」


 ムタリオンはそう言うと、前脚を器用に折り畳んで丸くなった。


 呑気に休んでなどいたくなかったが、気持ちに反して身体と脳は休息を欲していた。

 勇理は悶々とした感情を抱きながら、再び目を閉じた。



 カツカツと床を歩く音が響いている。それに追従するような小さな足音。

 薄暗く広い廊下を、大小の影が壁に設置されたランプの灯に照らされて揺れ動く。


「セーナ、よかったの?」


 小さい影が消えそうな声を漏らした。

 

「なにが?」


 セーナと呼ばれた大きい方の影は歩みを止めず、無機質な返事を返す。

 

「あの彼……セーナと親しい仲だったんでしょ?」


「……」


 またもや返事はなかった。静寂のなかで、足音だけが虚しく響き渡る。

 廊下を抜けて、二つの影は開けた場所に出た。中庭だろうか、きちんと手入れされた草花が夜風に揺れている。


 雲が切れ、月が顔を覗かせた。

 月明かりに照らされて、影の姿が浮かび上がる。


 一人は、細身の女だった。

 あどけなさが微かに残るものの、その表情は凛として大人びている。

 金色の刺繍が施された膝丈ほどの白いスカート──そこから伸びる、すらっとした白い脚。それをガードするように、足底に蹄鉄が埋め込まれた編み上げのロングブーツ。

 上半身は薄めの白いブラウスの上から、太陽の意匠がされた白いレザーアーマーを着込んでいる。ベルトのチェーンから、細い鞘に収まったロングソードが垂れ下がり、茶色がかった長い髪が、月の光を帯びて艶やかな輪を作り出している。


 女の傍らには小さな幼女。歳は十歳前後だろうか──おかっぱに切り揃えられた白銀の髪が、サラサラと風に揺れる。

 幼女は小さな手で、なんの変哲もない白いワンピースの裾をもじもじと気まずそうにいじっている。


「勇理は……」


 細身の女は長い睫毛を伏せがちに、足元の白い花を摘んだ──不思議なことに、花はぼんやりと微細な光を放っている。

 

「彼は大切なひとよ……いや、だった──が、正しいのかしら」


 女は愛でるように、手の平に置いた花を転がす。


「かつての私は勇理にただ守られるだけの、弱い存在だった。力もなく、生きる気力もなく……まるで屍ね」


 女が「フフフ」と、複雑な表情を浮かべながら笑う。悲しくも、嬉しくもある、相反する感情が入り混じった笑み。

 傍で女を見上げる幼女の目には、不安と怯えが交差する。


「でもね……今は違う。私は力を手に入れた。そう──あなたという存在」


 女は視線の下で縮こまる幼女に、慈愛のこもった眼を向ける。まるで我が子を見つめる母親のように。


「そう、私は変わったの。もう以前の、誰かに守られているか弱い少女とは違う──」


 語尾を強め、女は胸元で広げていた手の平を固く閉じた。

 華奢な手に潰された花から、煌めく粒子が最後の光を放ち、目尻からこぼれ落ちた涙のように儚く風に舞う。

 

「だから、私はもう過去に囚われない。天野聖奈としてあった存在を殺して、セーナとして生きていくことに決めたから」


『殺して』というワードに、幼女が身体をびくつかせる。

 女は奥歯でなにかを噛み締めるように口を閉じ、射るような目つきで夜空を見上げた。


 淡い月明かりに照らされながら、その足元には、無惨に揉み潰された白い花が小さな命を散らした。

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