第十三ファイル
動画が終わった後のその場は、静寂に包まれていた。聞こえていたのは、真吾と堅一郎の鼻をすする音だけだった。
「……なるほどな、だから、あの寿司屋での反応がおかしかったのか。……全く……」
一二三はそう言いながら、どこか真吾に対して顔を見せないようにしていた。しかし、その肩は震えていた。
血縁関係者であることを明かされた元他人同士は、空気感からそう簡単に顔を合わせることはできないもの。
「組長が……私の……父親……?」
真吾は、その場に泣き崩れた。
誰もかれも、真吾と一二三を気にかけることはできず、気の利いた言葉をかけることもできなかった。
喪失感というものは、人の心を容易に支配できる。
現に、真吾の心はそれに支配されていた。しかも、それは恩人の死ではなく、肉親の死に成り代わって。元々弱かった真吾の心は、今日未明に一二三と夢の中の文司の優しさがあって、立ち直ることができた。
真吾は、どこか混乱していた。今までの真吾へのアクションは、全て不器用な父親によるもの。封筒に入った三百万は、真吾に対しての、親でありながら第三者の立場であり続けた果てであり、よく分からなかった寿司屋での文司の表情も、全ては、幸せそうな一二三の表情を見たためであった。
今思えば、符合する行動ばかりだった。
郷馬文司という男は、本当は生魚が苦手で、ましてや寿司屋など普段はいかないような人間であった。それなのに、なぜわざわざ慰労会を寿司屋で行ったか。それは、何よりも一二三と真吾の笑顔が見たかったから。三百万を渡していたのも、何不自由のない、生活をさせてあげたかったから。
真吾は、毎月その三百万に対して、最低限必要な分だけを、毎回毎回差し引いて差額を返していたために、本来の意図とは異なるようなものだった。しかし、真吾の人となりを分かっていた文司は、差額の二百数十万を何も言わず、いらないのなら、としっかり懐に戻していた。
しかしいつだって、その表情は暗かった。それは、間違いなく第三者でありながら子を心配する、親の気持ちが混ざっていての事だった。
真吾と一二三は、それぞれ異なる場所へふらふらと行ってしまった。それを止めることは、堅一郎も郎介も、誠もできやしなかった。
大宅家の豪邸のバルコニー。珍しく空気が澄んだ日であったために、鳥たちが空に飛び去って行くのがはっきりと分かった。
あの衝撃の事実が、画面の中の組長から明かされて、泣いたり呆けているうちに、朝を過ぎていた。真吾は、どうするにも力が出ずに、バルコニーから外を眺めるくらいの事しかできずにいた。
「…………」
真吾の頭の中には、ずっと文司の言葉が反響している。
「真吾と一二三、二人を愛している」。その言葉は、真吾の心に足りないものを補うものでありながら、真吾の心を重くしたもの。
尊敬していた、文司からの真実。自分と一二三と文司は、そして自分と一二三は、家族であった。そして文司の、最後の願い。「歌舞伎町の平和」を望んで、文司はいなくなってしまった。
悲しみ、怒り、そして重圧。真吾は今正に、苦しみの渦中にいた。
「…………私は、どうすれば」
涙も枯れ、残るはだしがらのようになってしまった真吾だけ。華美かつ大きめな、コンクリートのバルコニーの柵に寄り掛かるように、力なく座り込む。
真吾は、煙草を一本取って火をつける。いつもならある程度心が落ち着くメビウスの味が、余計に重圧を生む味へと変貌していた。
力なく、バルコニーの床を殴る。血は出ることなく、ただじんわりとコンクリートの感触を感じるだけ。
真吾はどんどんと、自分に対する怒りの感情が湧いてきた。
情けない、弱い、脆い。
コンクリートの床を殴る力を、徐々に強めていってしまう。次第に音も激しくなり、拳から出血しだした。最初こそ微々たるものであったが、殴る力が強まるごとに、加減を知らないほどに溢れ出してきていた。
弱いことは一二三に肯定してもらったものの、本当にそれでいいのだろうか?
事件を追うごとに、自分の存在意義を考えてしまう。これなら、まだ燻っていたころの方がマシだと、歪んだ思考に陥ってしまう。
「私は……弱い……ッ……!」
床を這う血液は、バルコニーの床から、バルコニー入り口まで静かに伸びていく。夕方ごろの人の影のように。
入り口に立つ人物に、真吾は気付いた。あまりこの表情を今見せたくない相手であった、一二三だった。
「……真吾……いや、お兄様……? なんと呼べば……いいんだろうな」
一二三は、どこか自虐じみたような笑みを見せた。今まで真吾をなじるような妖しい笑みを浮かべたことはあっても、ここまで弱り切った笑顔を見るのは、初めての事だった。
一二三は、真吾の血の流れていない左側に座り込み、持ってきた簡単な飲み物を真吾に手渡す。
そうすると、一二三は語りかける訳でもなく、独白のように語り始めた。
「……正直な、私は今でも思考が纏まらない。今まで、事件を解決するときはいつだってすっきりとしているんだ……それこそ、今憎たらしいほど晴れ渡っている空のようにな」
「……」
「郷馬文司……もとい、私たちの父上が、私たち二人残された郷馬家に『残った希望』として託した物の重圧は、計り知れないさ。今まで、ある程度の人間を救ってきたことは自負しているが、町一つを救う、なんて依頼を背負うなんてな」
真吾は、一二三の弱音に重ねるように、自分の脆い心の内をさらけ出す。
「……それが、組長の、父さんのして来たことだと感じると、ただひたすらに怖くてさ。当人になれないことは私が一番よく分かってる。だけど、期待されている以上……それなりの事をしなければならない。佐麓先輩の疑いも晴らさなきゃいけない、そしてこの一連の事件の幕を引かなきゃいけない、なんてマルチタスク……感じるよ、重圧」
一二三が持ってきた、アイスのブラックコーヒーを飲みながら、真吾は地面を殴る拳をかばっていた。数分前の自分を、酷く恨みながら。
「……真吾よ、私は不安だ。私と真吾と、そして郎介や物部の力でこの事件を解決しきれるか。もしかしたら、犯人に逃げられてしまうのではないか……なんて、思考してしまう自分がいる。私も、以前より心が弱くなったものだよ」
逃げられるかどうか。警視庁とグルであることが確認されている以上、この日本中に警察の味方は誠しかいない状況にある。逃げ場所が用意されてしまえば、スムーズに逃げられてしまい、真吾は自分が一番嫌い、忌むべき概念である冤罪を被ることとなる。
文司に対して、恩を返すどころか、恩を返すことなく牢屋で朽ち果てる未来も容易に想像できる。最悪司法すらも味方につけていることも考えられるからだった。
「……真吾よ。私は、思うんだ。文司が、今生きているのならどうするのかを。決して、あの男のようにはなれはしないだろうが、弱いなりにどうするべきか、をな。重圧がこうしてかかっている中、父上がどうするか、だな」
「……父さんが……どうするか……か――――――」
文司がどうするか。今まで、多くの時間を文司と共に過ごしてきた真吾は思考する。
もし自分がその状況に立たされていたとしたら、多くの命を背負って戦っていた。
事実、それを示したのはあのUSBの写真だった。確かに命こそ失ってしまったものの、残したものは大きかった。
息子として、重圧に押しつぶされている現状、その重圧に耐えながら数多の命を背負うしかないのだ。
文司が重圧に潰されていたかは、もう今は分からない。しかし、真吾は真吾なりに、そして一二三は一二三なりに、文司と異なる手段が取れるはずであった。
「……多分、父さんは私にやり方を任せてくれる。強い人でありながら、優しい人でもあった。少なくとも、生きることを人任せにしているような人間は嫌っていた。自画自賛するつもりはないけど、私は私なりの生き方をしていた。選択をしていた。だから、父さんは私を応援してくれた」
「……つまるところ、私たちが頑張るかで、文司が喜ぶかどうかは変わってしまうのか、難儀な話だな。文司が望んだとおりの事が百パーセントできるかどうかは分からないが、やるしかないのだろうな。自分で道を選択して、な」
その時、真吾と一二三と文司の意志が繋がったような確信があった。
その後、郎介に右手を治療してもらった真吾は、次の一手を打つための会議をしていた。
真吾たちの目の前には、組長室から見つかった黒のノートパソコン。その画面に映るは、USBの沢山の画像。
「これらの画像の場所に、今度は私たち……私と真吾の二人で向かう。物部と伊達は休んでいてくれ。明智も休んでいて欲しいが……私が行くとなったらついてくるのだろう?」
「ええ、お嬢様にもしもの事があったら、心が張り裂けそうで」
真吾は、静かに支度を進めていた。右手には軽いバンテージを巻いて、その上からフィンガーレスグローブをつけていた。郎介の潜入用黒コートなど、闇に紛れるための装備は万全だった。
「正直、今も信じられないよ。でも……父さんの残した希望の名に恥じない、働きをしないとね」
真吾のその一言によって、場の空気が一気に引き締まっていた。
「真吾様……覚悟が決まったのですね。頼もしい限りです」
「郷馬組の若として……らしくなったやないの」
「真吾……俺も、協力するぜ」
郎介、堅一郎、誠も真吾に賛同するような姿勢だったために、この連合に一体感が生まれていた。一二三は、不敵に笑うと、号令を発する。
「それでは、大郷喜連合、反撃の時だ! 文司の、父上の仇を取るぞ!!」
大宅家のリムジンによって、歌舞伎町に久しく訪れた真吾と一二三。場を見渡し、対代連合の人間がいないことを確認する。
「よし、では郎介と私は一番街やメインストリートを中心に捜索する。真吾はラブホテル街を中心に、麻薬犯罪の証拠を掴みに行こう。くれぐれも、騒ぎは無いようにな」
フードを被った真吾と郎介は静かに頷くと、三人はリムジンを出て即座に行動を開始する。
真吾の足だったら、歌舞伎町の入り口からラブホテル街まで行くのに、そう時間はかからない。普通だったら十五分はかかるところだが、足に怪我を負っていないために、以前からの健脚は健在であった。
ただひたすらに、無心で駆ける真吾。
数多のビールケースだったり、停止ブロックだったり。
様々な障害物を軽々と跳び越して、人の波を越えて。
少しの傷なんてものともせずに、真吾は文司の遺言を叶えるために、町を駆けた。
ラブホテル街に着くと、プリントアウトした写真を元に要所を探していき、その建物内に入っていく。ほとんどが廃墟かテナント募集中であったために、入るのにそう苦労はなかった。
テナントの方は昔少しだけ慣らしたピッキングを使わざるをえないために、多少の罪悪感はあった。しかし、どうにか犯人を追い詰めるためにも、なりふり構ってはいられなかった。
「ここも違う……か、じゃあ次だな」
それぞれの写真にチェックマークを付け、別の場所へ向かって行く。
それはメインストリート側も同じことが言えて、一二三と郎介は互いに協力しながら空き部屋や工事が休止している工事現場などを捜索していた。
「ここも違う……か。明智、次の場所へ向かおう」
「御意」
三人は、町を駆けていく。隠密行動を心掛けながら、しかし計画遂行のために、まっすぐに進んでいった。
真吾がラブホ街をいくつか回っていた時、ある空きビルに辿り着いた。ドアを開けるとそこには、むせかえるほどの「色」の臭い。思わず鼻を塞いでしまうほど強烈なにおいを発していた。
しかし、そこには得体のしれない小袋の切れ端があった。それをよく見ると、白い粉が付着していた。真吾は捜査用の手袋をはめて、それを拾い上げ、自分の指紋がつかないように大きめの袋に保管する。
それと、別のものとして部屋の隅に「ある物」を発見した。これは自分ではどうしようもないために、これは大宅家の使用人に任せることは、確定次項であった。ナンバリングを見る限り、あと数個はありそうな代物であった。
一方、一二三、郎介側でも「それ」は発見された。
二人のうち、「それ」に対しての技術がある者は郎介だったために、脅威である「それ」を即座に無効化する。
「……おっと、お嬢様、真吾様から電話でございます」
「恐らく、『これ』と同じものだろうな」
一二三と郎介は真吾の元に急いで向かい、同様に「それ」を物言わぬただの置物にする。残りの場所もくまなく探し回り、合計十数個を同じようにした。
「……何の思惑があったか分からんが、これは厄介なことを企んでいた可能性があったな」
「でも、先もってこいつをどうにかしておけば、苦労は減りますからね。ありがとうございます明智さん」
「いえ……それよりも、真吾様が入手したその小袋、何かありそうですね。私共使用人が調査いたしますので、預かりましょう」
「ありがとうございます、明智さん」
明確な手掛かりを手にした真吾たちはリムジンを呼んですぐさま歌舞伎町を後にした。
検査結果、MDMAが入っていた小袋だと判明。「それ」は、ちょっとしたエリアの機能を奪えるほど凶悪なものだった。
真吾は一二三の部屋で、静かに情報を整理していた。確かに、真吾は頭こそそこまで褒められたものではないのだが、管理、整理能力は長けていたのだ。かつての事件をまとめたファイルこそが、正にそれを裏付けている。
犯人に近づいている喜びが、真吾自身から溢れ出していたその時だった。
「真吾様!!」
何やら、慌てふためいた様子だった郎介。真吾は次の計画のために、歌舞伎町を辿る道筋をホワイトボードにメモしながら頭の中に叩き込んでいる最中であった。
「明智さん、どうかしましたか?」
真吾は、流石に郎介の様子から、ただならぬ状況に置かれていることくらいは、理解できた。しかし、郎介の口から出た言葉は、真吾の予想の範疇を超えていた。
それはあまり聞きたくない事柄でありながら、この状況を考える限り最悪の状況に置かれることとなる。
「お嬢様が……何者かに誘拐されてしまいました!!」
一二三を探して、町を駆ける。今までにないほどの全速力で。勿論、顔は周りにばれないように、郎介の黒いコートを纏いながら。
「何で……誘拐されたんですか……?」
真吾がそう言うと、郎介は苦しい表情のまま答えた。
「……お嬢様はこの豪邸内の植物園で気分転換をなさっていたのですが……屋敷内に侵入した者がいる、と警備室に情報が入って……そこからお嬢様が誘拐されたのはほんの少しだけの時間でした。その間に犯人は……お嬢様を……」
真吾の表情は、一気に青ざめていった。
「……明智さん、リムジンを出してください」
「御意」
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