第十話 どん底、そして(その三)

 町はずれのスナック街で爆発が起きて、町の見回りに出向いていた若い衆はその場にある程度集まっていた。集まっていない若い衆たちからは、メッセージアプリで急いで向かう旨の連絡が来ていた。

 現場は、大惨事としか言いようがなかった。燃え盛るスナック街の炎は、少し離れた位置でも熱を感じているほど。じっとりと、汗が滲み始める。

 ある程度密集しているスナック街のために、前から火事が起こった時の危険性は指摘されてきた。しかし、土地に愛着を持っていた店主などは、移転する気は毛頭なかったのだ。

 それが災いしてか、そのスナック街の五割が今まさに燃えている。現在進行形で消防隊が消火活動をしているものの、ごうごうと燃え盛る炎の様子からして、八割は全焼だろう。たとえ店が残ったとして、その場所でやれるかどうか。

「……こりゃあ、この町で一体何が起きとるんや……? ただの殺人犯ではないんか……?」

 ふと、そう呟いてしまうほどに、理解が追い付かなかった。

 すると、堅一郎の肩を叩く人物がいた。潜入用だと語っていた黒コートに身を包んだ、郎介だった。

「堅一郎様……郷馬組事務所に集まりましょう」

 声音からして、重大な情報を握ったのだろう。そう確信した俺は、若い衆にある程度警戒態勢のレベルを上げておけとだけ言い残して、速足で郷馬組事務所へと戻った。


 事務所にいるのは堅一郎と郎介だけとなった。

 勿論、鍵がかかっているために、誰かが……それこそ、爆弾でも使って強行突破でもしてこない限り、ここには入って来られないようになっている。

「……よし、とりあえず事務所内はだぁれもいないな、そのコート、脱いでええで」

 そう郎介に言うと、郎介は脱ぐことをためらっていた。

「……何や、見せられない事情でもあるんか?」

「……いえ、特に言うことはありません」

 そう言って、郎介はコートを脱ぐと、そこにあったのは、生々しい傷だった。

痛々しい背中の火傷の跡と、現在も滔々と流れ続けている血。爆弾の破片だろうか、数か所に深く突き刺さり、取るにも一苦労と言えるほどの傷を負っていた。郎介の足元に、血だまりができ始めていた。脂汗も書いており、顔の血の気も完全に引いていた。

「……! どうして、そないな重要なことを……!? はよ言わんか!!」

「……いえ、これでも少しは止血したのです。それでも血が溢れているために、少々危機感を抱いているのですよ、堅一郎様」

 確かに自力で止血したような跡が残っているものの、血はとめどなく溢れだしている。まるで、水で満タンになったコップに、ゆっくりと水を注ぎ続けているかのよう。高そうな黒のスラックスが赤黒くなっていく。

 すると、急に郎介はせき込み、喀血した。

「……この状態から考えられることがあるのですよ、堅一郎さん」

「ど、どういうことや?」

 郎介は堅一郎に許可を取って、適当な座椅子に深く座り込む。しかしその表情は、あまり苦しそうではなかった。

「どうやら……あの爆発によって多少の毒物が混じっていたのかもしれません」

「毒物!? そんなん周囲にいた人間なんか……!」

 風に流されて、なんてことになったら、多くの歌舞伎町の人々が犠牲となる。それだけは何としてでも避けたかった。文司は、何より歌舞伎町の人々の平和を気にかけていた。その意志を継ぐためにも、そう犠牲は出していられなかった。

 しかし郎介は、焦る堅一郎を宥めた。

「いえ……これは非常に短時間しか機能しない出血毒と言えます。……それこそ気化がとても早い物です。まともに被害を受けるのは、おそらく私以外いないでしょう」

「でも、その……大丈夫なんか? 明智のおっちゃん」

 郎介は、少し笑って見せる。

「ええ、出血が止まりにくいものではあるのですが、出血量からしたら爆発の衝撃以外はまともには受けていないようです。殺すなら殺すで、私は今この場にいないでしょう。私ほどの具合でしたら、輸血などを欠かさず行っていれば回復は容易です」

 ほっと、胸をなでおろす。安心は全くできない状況であるが。

 郎介は、一つ咳ばらいをすると、一瞬で張り詰めた空気に戻した。

「ですが一つ、気がかりな事がありました、堅一郎様」

「気がかりな、事?」

 郎介は、懐からボイスレコーダーを取り出して、堅一郎の目の前で再生した。そこでは、老人のような声と、郎介の声が聞こえていた。

「これは、あの爆発前の一部始終を録音した物です。大体の場合、万事に備えて録音しているというのがほとんどなのですが、その老人による自爆が起こる、ほんの少し前の事なのです。私が気にかけていた『ダイイング・メッセージ』は」

「ダイイング・メッセージぃ? んなもんあったんか?」

 そこの、郎介が指定した場所をしっかりと聞き耳を立てると、確かに聞こえる言葉があった。しかし、死に際だったために、言語として聞き取ることはあまりできなかった。

「……よく聞こえんかったが、これがその気がかりな事、か?」

「そうです、実際にあの場にいた私だからこそ分かるのですが、あれは自身の上の立場にいる人間を表すものだったと推測します」

 最期に遺した言葉が、何を伝えたかったのか。真犯人に対する反逆か、それとも真犯人に対する忠誠か、もしくはそれ以外か。

 それが考え付く範囲内ではあるのだが、現代のジャック・ザ・リッパーという、頭がいかれた殺人鬼が考えることはよく分からない。堅一郎自身は精神科医でもない上に、メンタリストでもない。

「しかし、明確に明智のおっちゃんを狙っていた、ってことやな? それってことは、ワシらがここにいるのは少し……不味くないんか?」

「確かに不味いですね、貴方も命を狙われる可能性は、無い方が有り得ない」

 堅一郎は、危機感を確かに抱いていた。しかし、それと同時に楽しくなっていたのだ。同業相手だとしたらマンネリ化こそあったものの、それが今まで相手にしてなかった敵だとしたら、子供のような心が疼いてしまう。

 全てひっくるめてどこか薄ら笑っていた堅一郎の表情を見て、完全に白眼視していた。

「……貴方、まさか薬物に手を出しているんじゃないですか……?」

「出しとらんわボケ! ワシと一緒で組長は何より薬物を嫌っとったんじゃ! 」

 そう堅一郎が言い放つと、急に郎介は何かひらめいた様子を見せた。

「? どないしたんや明智のおっちゃん?」

「いや、そもそも郷馬組組長、文司様はなぜ殺されたのかとふと思ったのですよ。彼には、殺されるような理由は他の被害者と比べても薄かったはずです。私は昔から文司様を知っているのですが、貴方がそう語るように文司様は汚れたことを嫌っていました」

 ふと、真吾から伝え聞いた被害者や、犯行の特徴を思い出す。

 死体には、必ずと言っていいほど傷によるナンバリングが施されること。

 割り裂いて臓器を取り除いた腹部に、必ず胎児を模した人形を入れること。

 そして、これは現代のジャック・ザ・リッパーのポリシーなのか、歪んだ正義感により、必ず「前科あり」が殺されること。

 勿論、文司は犯罪を何より嫌っていたために、犯罪に手を染めたことは一度たりともなかった。警察からも一目置かれる、文字通り「義に生きる極道」だった。

 麻薬はもってのほか、銃刀法をしっかりと順守してドスや銃(ハジキ)も持ち歩くことはせず、拳一つで生き残ってきた。しかもその拳は強くあったものの、誰かを傷つけることは無かった。

「……どうでしょう、念には念を入れて事前調査もしてはいたのですが、文司様に殺されるような理由など、普通はないはずです」

「……つまりは、組長が殺されるんは、普通やったらありえへんっちゅう事か」

 その通りです、と郎介は静かに頷いた。

「私と同様に『犯人に近づきすぎて殺された』、もしくは『この町で起こる事件に顔を突っ込み過ぎた』、と考えるのが妥当でしょう。私もまた、前科はないわけですから」

「事件……」

 そう言って、記憶が戻ってきた。あまり物覚えが良くない堅一郎だったが、時折文司から警戒態勢を取るように指示されていた時期があった。

 それは街に蔓延る麻薬犯罪についてだった。これは遡ること、およそ二週間前。

 文司が一通り組の仕事を終えて、誰にも、特に、何も言うことなくぼやけた用事にて組事務所を出ていくことが多くなったのも、およそ二週間前のこと。同一の事柄だとか考えるな、という方が些か無理がある。

「……なるほど。それが、組長が殺された原因になったのかもしれません」

「まさか、麻薬犯罪と現代のジャック・ザ・リッパーっちゅうのは……!」

 頭の中で、次々にパズルのピースが埋まっていく。そしてすべてが一致する、その瞬間が脳内に衝撃を与える。

「この歌舞伎町で横行している麻薬犯罪と長きにわたる猟奇殺人、この二つの事件は核となる同一犯によって繋がっている、ということです」

「……なるほどなあ」

 今までに、文司が明確な理由を話すことなく、どこかへと向かって行ったことについても合点がいく。文司は、この町の平和を守るために麻薬犯罪を独自で調査していたのだろう。

「そこでなんですが、堅一郎様。どこか文司様の自室、というものはこの組にはありませんか?」

「ああ、あるで。今は誰も入らないようにしているんやけど、鍵は関係者として俺が預かっとる」

 堅一郎は郎介に鍵を渡すと、郎介は即座に文司の部屋の鍵を開ける。

 堅一郎が常日頃掃除しているおかげか、文司が亡くなった後も埃一つもない、黒を基調とした書斎のような空間。

 壁に地震対策付きで取り付けられた本棚の中身は、それぞれ長編小説だったり、各地の郷土資料だったり、堅一郎と真吾が昔、文司に読み聞かせしてもらった絵本など、懐かしいものまである。

 少し高めのキャスター付きの椅子と、引き出しがいくつもついている机が部屋中央にどっしりと置かれていて、少しばかり圧迫感を感じる。

 郎介は、その机の引き出しを開けようとするも、鍵がかかっていて開かない様子だった。

「そこは組長が持っている鍵やないと開かなくなっとる。開けるにはこじ開けるしかなさそうやが……」

「大丈夫です、私は現役の『怪盗』ですよ?」

 郎介は懐から工具のようなものを取り出し、鍵穴に入れて探り出した。

「まさか……ピッキングか?」

「その通りでございます、堅一郎様。格好良いでございましょう」

「わーったから、かっこええからはよしてくれ」

 そう堅一郎が言うと、郎介は集中の奥地に入ったのか、鍵穴と睨み合いながらじっくりと特殊な工具をいじっていく。

 少しして、郎介は鍵穴を探る行為をやめ、工具を鍵穴から引き抜く。手ごたえのあるような表情をしており、成功したのだと無意識に感じた。

 郎介は静かに引き出しを開けると、その中には、見た目がシンプルなノートパソコンが置かれていた。そのそばには、真っ白なUSBメモリが置かれていた。見た目に装飾など一切ない、無機質なものだった。

「恐らく、これが文司様の遺した資料でしょう。おあつらえ向きに、メモリまでありますし」

「……これで、全てが分かるんやな?」

 郎介は静かに首を横に振る。

「いえ、それはまだわかりません。しかし、その可能性は高い、というだけですね」

 郎介は少し笑って見せると、そのノートパソコンとUSBメモリを持って、事務所を後にする。メッセージアプリによって、組員には警戒を怠らないように伝え、事務所を開ける。

 堅一郎と郎介は、真犯人に怪しまれないように、歌舞伎町の入り口まで戻り、大宅家のリムジンを遣わせて、大宅家の大豪邸へと戻った。



 そのころ、大宅家。真吾は明確にすることがなかったために、ただひたすらに準備運動しかしていなかった。というより、するほかなかった。

 そんな真吾の様子を見て、一二三は不思議がっていた。

「……真吾よ、まだ朝にはなっていないぞ? 眠らないのか?」

「いや、何だろうね……目が覚めちゃうというか、単純に、眠れないというか」

 あまり考えないようにしてはいたものの、目を閉じると、文司が亡くなった事実が霧のように真吾を包み始める。少しでも目を閉じてしまうと、その事実が自身を殴りつけてくることが、とても嫌だったのだ。

 こういった理由を話したとしても、あまり理解はされないだろう。しかし、この背にある「置き土産」が、真吾自身をそうさせる。どこまで行っても、真吾は郷馬組関係者であり、そして元警察官であり、そして歌舞伎町の平和を守る一探偵でもある。

「……真吾よ、その……貴様が気を負うことは無いのだ。確かに、犯人に対しての復讐心を抱くのは当然のことだ。しかし……今の真吾は……少し、自分を嫌いになりすぎている」

「自分を、嫌いに――――か」

 自己嫌悪。

 それは常に真吾が抱いている感情の一つ。真吾自身はいつだって、文司の荷物。いつまでも、まともに生きるほどの稼ぎを一二三が来るまで得られなかった、ただの穀潰し。

 いつだって、誰かの足手まとい。今回のジャックの第一第二、第三の事件だって、犯罪を解決したのは実質的に一二三、もしくは佐麓。真吾は、最後の暗号しか解くことのできなかった、ただの無能。

 黒い感情が心を支配することは、以前からあった。それこそ、冤罪を許した時から。真吾はいつだって「喜多川真吾」という存在が大嫌いであり、真吾が今ここにいる意味だって分からない。ただの、一二三の腰巾着のようであった。

「……確かに、私は私が嫌いだよ。組長を守れなかったし、私には一二三ちゃんのような推理力だってないし、ろくに日々生きるためのお金すら稼げないし、人の心の闇も見抜くこともできないし、何にしたって出来が悪い。そんな私が、いつだって大嫌いだよ」

 一二三は、悲しそうに真吾を見つめる。

 慈しむような瞳を向けないでくれ。

 そんなのは、もったいない。

「一二三ちゃんは、私についてきてくれることを選んでくれた。それはとてもありがたいことだし、心強いものだよ。しかし、これが逆だったらどうだろう。一二三ちゃんに対して、私がついていくことを選択したら、どう思う?」

 ここまでネガティブな感情を誰かに打ち明けたのは数えるほどしかない。誠にも、一度もしてこなかった。

 嫌われたっていい。真吾自身を明確に否定してくれれば、真吾は一人で罪をいくらかぶろうとも犯人を殺しに向かう。一二三の足手まといであることは確実だろう。だから、他人に迷惑をかけたくない。だからこそ、一人の道を選択することも間違いでないはずだ。

 しかし、一二三はあっさりと、それこそ、簡単な謎を瞬時に解くかのように、言い放った。

「足手まといなわけがあるか、真吾。確かに、最初は推理力の欠片もない探偵を目にして、少々呆れはしたが、貴様の肉体は……正直あの佐麓を超えている。持久力も、体力も、何もかも超えている。最初にも言ったが、貴様は肉体労働担当だ。その肉体労働に頭を使わせて余分なエネルギーを遣わせるのは愚策だろう?」

「でも……それだけじゃないか。私は……」

 そううなだれる真吾を、そっと、抱きしめる。軽い力でありながら、しかししっかりと、子供の力の全力で、真吾の体を包む。

「そんなことを言ったら、私は頭脳だけではないか。俗にいうブーメラン、という奴だ」

 真吾は、何も言えなかった。寧ろ、真吾も一二三を片腕で抱き寄せた。本当はそうする意志はなかったものの、自然と体が動いていた。

「貴様は、貴様だけの能力がある。他の探偵にはない『熱』がある。最初、あの集会で見たほとんどの探偵は、体を特に鍛えることは無く、ただ得た金で肥えているだけであった。真にこの町で探偵と言えるのは、正義感と『熱』を持った真吾だよ」

「…………」

「それと、先ほどもしも付いていく立場が逆であったら、という話があったな? 勿論、私は貴様が付いてくると言ったら快諾しよう。私が寝起きの姿を見せるのは、それこそ心を許した証なのだぞ? 人というものは、寝ている間が一番無防備なのだよ」

 何も言えない。しかし、一二三を抱きしめる手は強くなる。

「ふふ、少し痛いぞ。貴様、女子にそう触れたことがない、というのは、あの時ほとんど冗談でいたものだったが、図星だったか?」

 その声は、最初の様な真吾をなじる声ではなく、どこか母のような、温かさを感じた。

「……一二三ちゃんは、私と違って、強いね」

「何を言う。頼りになる相棒が転んだのなら、手を差し伸べる。当然であろう」

 真吾の心の傷は決して癒えることは無いし、いつだって血は溢れている。どれだけ時が経とうとも生傷のままだ。しかしその生傷すら、傷跡に変えてくれる存在というものが真吾には必要だった。何となく、そう思えた。

 弱いなら、助け合えばいい。

 強いなら、助けてあげればいい。

 「傷の舐めあい」と言いたければ、それでいい。やっていることは正にそれだ。しかし、その舐めあいは、人を強くする。たった一人でいた真吾たちは、気付きづらいことであった。

 真吾たちは明日に備えるべく、ベッドの中に入った。勿論、真吾は一二三にもしもの事があったら、ということで何だかんだ眠気に襲われながらも少しの間起きてはいたものの、一二三を寝かせた後、真吾はその一二三の寝顔に誘われてか、眠りについた。

 なるべく邪魔しないように、少し縮こまりながら、しかしゆったりと出来るように。

「んふふ……ドンペリ……ぱーりない…………だ…………」

 そんな間抜けな寝言を聞きながら、真吾の意識を夢の世界へと落としていった。


 ふと、ある夢を見た。

 そこは、随分前、それこそ真吾が小学校卒業くらいの頃の、郷馬組の縁側。まだ、郷馬組のほか、東桜会に所属する組のほとんどが、現代になって没落する前の頃のような。

 春の陽気が軽い眠気を誘い、モンシロチョウやモンキチョウが庭を飛び回る中で、どこか現実感のないほどの巨大な桜の木。有名な花見スポットであっても、ここまでの大物はない、と確実に言えるほどの、そしてこんな都会に映えることはとても珍しいほどの巨大さに、心を奪われる。

 真吾が小学校卒業するときに、庭に植えられた木は、街路樹として元気にやっている頃ではあるだろうが、そんな感傷はさておき。

 その縁側に座る人物は、未だ真吾以外いなかった。

 すると、後ろからどこか聞き覚えのある声がした。

「よう、お前さん。元気しているか?」

 その場で振り返ると、そこにはけらけらと笑う、真っ黒なスーツ姿の文司がいた。文司自らお茶受けとお茶を持ってきたらしく、真吾の隣にどっかりと座りこむ。

「いやー、今日のお茶の入り具合は我ながら最高だぞ! いい具合にお茶のうまみが出た感じだな!」

 文司の変わらない姿を見て、どこか涙が溢れそうだった。いくら夢であったとしても、この今真吾が見ている光景は、真吾がもう一度見たかった風景であった。

「お前さん……そう泣くなって? 俺がまずい料理をいつも作っていると思うか?」

「思いますよ、だからいつも外食だったじゃないですか」

「あちゃあ、言われちまったか!」

 いつもと同じように、文司は快活かつ豪快に笑ってみせた。自然と、流れていた涙は笑いに変わっていた。


 縁側で、茶を啜りながら様々なことを文司と語っているうちに、ここから出たくない、夢から覚めたくない気持ちが少しばかり芽生えてきていた。この空間に酔っていたい、この空間で過ごしていたい、と、自分の意志でその考えを否定しても、甘い考えが潰せど潰せど増殖を繰り返していく。

 そんな真吾の疚しい気持ちを察したのか、それとも無自覚なのか、真吾の肩を優しく叩く。

「お前さん……あいや、真吾。その……なんだ? なんか困っていること、あんだろう?」

 そう言われて、否定できない自分がいたのだった。一二三に、弱い自分も肯定してもらったばかりなのに、まだ真吾は揺らいでいた。

「正直な、今お前さんが置かれている状況だったり、何だったり……俺には漫画みてえな心を読む能力はねえし、ただ腕っぷしが強いだけの脳筋だ。だから詳しいことはよく分からん。だけど……俺はお前さんが、真吾が強いことは知っている。俺が心配しないほどにな」

 心は、とうに決まっている。ただ、体が言うことを聞かない。どこか、人の習性であるように、楽する方へと逃げてしまう。

「……組長。私は、正直……まだ弱いままです。どこか、組長の影が頭でちらついて……守れなかったことが尾を引いてしまって……」

 すると、文司は優しく真吾の頭を撫でる。まるで子供と接するかのように。少しくらい責められても仕方ないと思っていたのに。文司は真吾を撫でたのだ。

「なあに、そう気に病むことじゃあねえよ。ヒーローが敵地に突っ込んで死んだところで、そのヒーローに死んでほしくないと願った堅気の皆さんが悪いわけないだろう? それと一緒さ」

「でも、私は……」

「真吾、お前さんは昔から多くの物事を一人で抱え込みすぎる。そのまんまじゃ、万物の理がお前さんのせいだってことみたいになるぜ。自分の身に覚えのない出来事ですら、自分のせいだって考えかねないからな。真吾のせいなんかじゃあ無いんだぜ」

 文司の優しい声は、真吾の心の中のわだかまりをほどいていく。

 「真吾のせいじゃない」。

 どこか、本人のその言葉を望んでいたのかもしれない。

 本人の許しが、贖罪を行わなくていいことが、嘆き悲しむことが。

「ウチの組は、基本難しいことは考えることはせずに、人生を楽しんで、いつだって逆境を楽しむ、それが俺の人生のモットーであり、ウチの組の指標だからな。悲しむなとは言わない、そのあと大団円を迎えられるようにしておけ、ってことだ。流石に、俺たちより多くの事を知っているだろうから、これ以上俺みたいな馬鹿はとやかく言わないけどな」

 あの時のような、真吾の知っている最高の笑顔を見せて、文司はこの世界から光に包まれるようにしてゆっくりと去っていった。夢ももうじき、覚める頃なのだろう。

 どこか、真吾の顔は、そして気持ちは晴れ晴れとしていた。



 ふと、一二三は目を覚ます。何時間寝たのだか、探るために枕元の時計を見ると、午前四時。真吾が普段起きている時間だった。横を見ると真吾は一筋の涙を流し、しかし優しげな笑顔のまま眠っていた。呼吸も浅いために、あと少しで起きるのだろう。

「……全く、幸せな夢を見ているのだろうな、真吾」

 一二三は、真吾の頬に優しくキスをすると、パジャマから身支度を整える。一二三自身を傷一つない状態で、命を挺して助けてくれた真吾に、報いるときだろう。

「真吾、先に待っているぞ」

 眠る子供に微笑みかけるようにして、一二三は自室を出て、ダイニングルームへと向かう。

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