第四話 喜多川探偵事務所(その四)

 朝の九時。一通り朝食を終えた後、昨日の夜ごろまで、酷く冷え切った空気だった喜多川探偵事務所内を、ゆったりとした空気が包む。

 真吾は奥のアンティークデスクの椅子に座ったまま、体力を温存するイグアナのように、日差しを浴びながら脱力していた。

 それを見た一二三は、不思議がっていた。

「……なあ喜多川よ、いつもこの調子なのか?」

「ある意味そうだね。しかし依頼は数個ある」

 真吾は自分のデスクの上に置かれている三つほどのファイルを指し示す。

「これらは……まあ自分が馬鹿だっていうのは重々承知してはいるけど、少々解決に難があってね。依頼金に見合った仕事を提供したいけど……ね」

 何となく真吾は自身で卑下しておいて勝手に落ち込んでいった。

 それは昨日一二三から言われた罵倒(?)や世間一般の真吾への反応、その他諸々がのしかかっている状況で、彼自身のノンフォローが刺さってしまうと、全くもって救いがなかった。

 しかしその時だった。そのナーバスになった真吾を一転させてくれる一言が発せられた。

「それ、恐らくではあるが私が秒で解決できるぞ」

 急な一言に、思わず素っ頓狂な声が出てしまう。

「その資料、私に貸してみてくれ」

 少しためらう一瞬の時が生まれたものの、真吾はおそるおそるその三つの資料を一二三に手渡す。

 一二三はその資料を速読でパラパラと目を通し、即座に閉じる。

「喜多川よ、歌舞伎町全体の地図はあるか?」

 その言葉のままに、歌舞伎町の詳細な地図を少し低めのテーブルの上に広げる。

こうして広げたことはしばらくなかったために、少し埃っぽくて咳込んでしまう。

 一二三は決して眉一つ動かさず、その地図をじっと見つめ続けている。しかしそれもたった数秒の話で、即座に点在する三か所を指さす。

「一つはこの場所で、一つはここより少し離れたこの場所、最後はこの場所だ」

 一瞬、何を言っているか理解できなかったが、一二三の一言によって我に返る。

「何をしている、この現場に向かえ。そうしたら、この三人の失くし物はすぐに見つかる」

 そう言われると真吾は事務所をすぐに飛び出し、町を駆けた。

 昨日の夜のような、それこそ借金取りのような気持ちで駆けているわけではない。なんせ朝だったために、町は仕事の準備を始める人間ばかり。駆ける真吾を少し奇妙な目で見てはいたものの、疎外感はあまり感じていなかった。

 胸中に少しばかりの不安こそあったものの、その依頼人の失くし物はすぐに見つかった。一か所目の時点で、真吾は大宅一二三という少女のイレギュラーさを理解していた。

 三か所をぐるっと回り、少し息を切らしながら事務所内に飛び込む。一二三は優雅にも昨日真吾が作ったココアを自分だけで作って飲んでいた。

「ああ、遅かったじゃないか。で、お望みのものは?」

「……しっかりあったよ、一二三ちゃん」

 依頼人が求めていたキーホルダー類は真吾の手に握られていた。

 その後、依頼を出していた依頼人にキーホルダーを返し、依頼金をしっかりと受け取る。

 そうして依頼が三件同時に解決した後、真吾たちはまた先程のような、ゆったりとした時間が流れていた。

「……ねえ、一二三ちゃん、あれはいかようにして全てを瞬時に解決したんだい? まさか漫画やアニメ顔負けの超能力があるとか、そんなのではないよね?」

「そんなわけ……が何となくあり得るのだな、これが」

 一瞬言葉を疑いこそしたものの、何となく頷けてしまうのが不思議な話である。

「私は幼い頃から、警視庁のキャリア組である母上に、秘匿事件の詳細などを大量に教えてもらってな。ある種、それが良い脳のトレーニングになったのか、いつしか私の推理力はかなりのものとなっていた。普通なら機密情報漏洩だ、と言われてしまうかもしれないが、まあそこは目をつぶってくれたまえ」

「かなりのもの、って、正直あの失くし物探しに関しては、それが生かせるかどうか怪しいんだけど……?」

 「それの事か」というと、一二三は再び語り始めた。

「私はな、生まれつき体が弱い。病床の上で、何かできるかを探した結果、脳のトレーニングの続行を決めたのだ。まあ、つまるところ、事件を趣味で解決するようになった、ということかな」

「趣味で、って……」

 軽く引いてしまう真吾。それでここまでの卓越した能力が得られるものなのだろうか。

「しかし、だ。趣味で解決していく中で、一つばかり解けないある事件があった。私もその事件に関しては、かれこれ一年は調査しているのだがね」

 ある事件とは何か、と聞こうとした真吾は口をつぐんだ。

 今の世の中で最も不可解な事件は、そう今の現代にはない。森永事件や、足利事件など、かつて未解決となった奇妙な事件があるものの、今騒がれている、「神童」が解決しなければならない事件は、たった一つ。

「恐らく喜多川、君でもわかるだろう? 過去あった『現代のジャック・ザ・リッパー事件』さ」

「……まさか、それを見越して?」

「ご明察。理由もなしに万年金欠、万年童貞の色々と危なっかしい人間の元に近寄るかい? じゃなきゃ情報をチラつかせない」

 確かに、と言いかけたものの、それに同意してしまえば真吾自身の尊厳すら崩れ去ってしまうと、難しい表情をしていた真吾を見ながら、一二三はほくそ笑んでいた。

「まあ、いろいろと意地悪をしてしまうのは私の悪い癖さ。……許してくれとは言わないが」

「いやそこ『許してくれ』って言うべきだよね!?」

 そう真吾が突っ込むと、いかにも楽し気に一二三は笑った。先ほどの上品な笑いではなく、心の底から笑っているような。

 一通り一二三は笑い終えると、先ほどのような糸を張り詰めたような空気へと一瞬で戻した。

「まあ、ある程度の冗談はさておきだ。君は、現代のジャック・ザ・リッパーに対してある程度の恨みは持ち合わせているはずだ。それこそ、君自身が担当していた事件でもあるうえに、罪なき一般市民の冤罪を許してしまったのだから」

「……まあね。そりゃあ恨みは持っているさ。犯人に対してもだし、それこそ私の上の人間に対してもだし」

 一二三は、マグの中に残った少ないココアを一気飲みすると、空のマグを真吾に渡した。

「そんな喜多川に朗報だ。対代協定全体に現代のジャック模倣犯による事件……まあ昨日の死体も含めるだろうが、事件調査のお触れが出る。汚名返上と共にある程度名が売れるぞ」

 しかし真吾の反応は、乗り気とは言い難いものだった。一二三が疑問の表情を浮かべると、真吾はその質問に答えた。

「別に私は、名前のためにやっているわけじゃないさ。今まで育ててくれた恩人の顔に泥を塗りたくないだけだよ。それと、昔のあの時から悪人に対して特段恨みが強いだけ。一部からは逆恨みだ、なんて言われそうだけど」

 小窓を開けて、雪がちらつく町を眺める真吾。

 平和な大通り。それは幸せな人々をよく映す。対代協定ができる前からこれらの人々はすべて、郷馬組が守ってきたものであったのだ。

 そして今、この町は頭のおかしい殺人鬼の危機に瀕している。ならば、真吾自身に多大な影響を与えてくれた文司への恩返しとして、やるべき仕事なのだろう。

 一二三は、嘆息した。目の前にいるのは、決して復讐心だけにかられただけの男ではなく、信念が入り混じったものなのだと、確信したのだ。

「……喜多川よ、今貴様の心の内が何となくではあるが、読めた気がするよ」

「別に、大したことじゃあないさ。それが当然だと、心得ているだけ」

 真吾がらしくもなく、意地を着飾った時だった。事務所内のしんとした空気が解き放たれるように、事務所のドアが何者かの足によって豪快に開かれる。爆薬でも使ったのかと言わんばかりの勢いで、事務所内に入ってきた、たった一人の男。こんなことをする人なんて、そうはいない。

 真吾にとって非常に聞き覚えのある、快活な関西弁が聞こえた。

「おう真吾ちゃん! 茶飲みに来たんと、遊びに来たで!」

「……誰だ? この『非常識』をそのまま体現しきった男は」

 この際、初めて会ったばかりの赤の他人に対する心無い罵倒は聞かなかったことにする。

 今こうして事務所に入ってきた男は、東桜会直参郷馬組若頭、物部堅一郎(ものべけんいちろう)。

 胸元を大きく開けた黒のジャケットに、同じく黒のスラックス。しかしジャケットの中は冬場であるのに何も着ないという、東京の真冬に攻めたファッションをしており、その胸元には刺青が顔をのぞかせている。そのため、いかにも「暴力団」という空気を醸し出している。

 髪形もまた少し前衛的であり、変則的アシンメトリーモヒカンを大分極端にしたようなもので、真吾では一生真似できないものそのものであった。

 ちなみに見た目こそこれだが、真吾と同い年である。

「……堅一郎さん、また遊びに来たんですか?」

「遊びに来るぐらいええやないか、真吾ちゃんの顔を少しでも見たく……って……」

 いつもノンストップで喋り続けるはずの堅一郎の様子がどうもおかしかった。いつもの事務所にはいない存在である、一二三を凝視していた。

 一二三は、真吾の陰に隠れたまま一歩たりとも動かない。ここから動かないという強固な意志を、真吾は感じ取っていた。

「……真吾ちゃん、遂に小学生に手ぇ出すようになったんか……そうなる前に……何でワシに相談してくれへんかったんや……いいキャバとか、ソープとか紹介したで……」

「何か変な誤解してませんか堅一郎さん? あと小学生の女の子の前で話していいこととそうでないことありますからね?」

 言葉の中に静かな怒気を滲ませると、流石に分かってくれたのか堅一郎は普段のテンションに戻る。

「まま、冗談やって! 真吾ちゃん童貞やから、そないなことでけへんっちゅうのは分かっとる!」

「そういったデリケートな部分に土足で踏み入るのは、だいぶ心が傷つくからやめてほしいんですけど」


 堅一郎が事務所に来ることは、そう珍しいことではない。週に三回ほどは、この事務所内でくつろいでから本業の方に向かうのが、堅一郎のルーティンなのだ。

 しかし仕事と言っても、黒いことは何一つしていない。基本はホストやクラブ、キャバクラなどの店の管理である。風営法にのっとった商売をしているか、などのチェックを厳しく行い、クリーンな町にしようと奮闘している。

「今日も、各店舗のチェックに向かうんですか」

 どっかりとソファに座った堅一郎の、目の前のテーブルに、お気に入りの熱々のお茶入りのマグを置く。

「せやな。ちょっと前に店のオーナーが頭おかしゅうなった、なんてタレコミがキャバの女の子からあってな。今回はそのオーナーの様子の確認。ほんで治らんかったら、別のオーナー用意する……ちゅうのが今日の仕事やな」

 いかにも湯気が立っているお茶を、息つく間もなく一気飲みする堅一郎。

 その様子を見ていた一二三は、いかにも「こんな人間でも仕事しているぞ」と言わんばかりの目を向けてくる。その視線が非常に痛い。

 一気飲みし、空のマグを置いた堅一郎は、じっと一二三を見つめていた。その視線に気づいた様子の一二三は、少したじろいでいた。

「しっかし、こないな真っ白い別嬪さん、どこで拾ったんや」

「人を捨て猫のように言うな物部とやら」

 あからさまに一二三が堅一郎に対して敵意の目を向けていた。それを察した真吾は、慌てながら助け舟を出す。

「き、昨日この子にとある事情があって、それで安全を確保するために預かったんですよ」

 真吾がそう言うと、あからさまに嫌そうな表情をする一二三。

 今は堅一郎を納得させるために乗っかってくれ、と真吾が目線で訴えた結果、一二三に祈りが通じたのか、彼女は感づかれないようにため息を一つつくと、あることないことを騙り始めた。

「そうなんだ……私の親は酷いろくでなしで……何か気に入らないことがあるとすぐに……私を殴ってくるのだ……」

 話だけだと疑われると思ったのか、一二三はそこに泣く素振りを付け加えた。

非常に下手な演技で、涙一滴すら出ることはない。しかも棒読みであるために、これに騙される人間は余程純粋な人だけである。

 しかし、ここにいる堅一郎は違った。なぜなら。

「……随分……辛い思いしたんやなあ……うっ……」

 泣いていた。しかも鼻水だとか、よだれだとか、何もかもが大流出。流石にここまでは予想できなかった様子で、一二三はあからさまに困惑していた。

「……物部は、こういう奴なのか?」

「本当に情に厚い人だから、いい人だよ」


 堅一郎がいなくなった後の事務所は、非常に静かであった。いつもは全ての探偵事務所に依頼が入ることは絶対にない。自然と気が引き締まっていたのだ。

 真吾は、文司からの贈り物である高性能のスニーカーを久々に履き、拳を守るフィンガーレスグローブをしっかりとはめ、ある程度の一二三用の防寒具も揃えていた。

「随分とやる気だな、喜多川」

「まあね。久々の大仕事だから、やる気の一つでも見せないと格好付かないでしょ」

 実際、かつて追っていた事件を別の角度からもう一度関わることになるなんて、一二三が来る前は思ってもいなかった。いつだって真吾は、偽の犯人としてでっち上げられていたあの学生の濡れ衣を晴らすことのできないままに、このまま腐っていくのだと確信していたからだった。準備をするやる気もみなぎるものである。

「いくら違うかもしれないとはいえ、本気でやりきるまでさ」

 真吾の顔を見て、一二三は微笑んだ。

「何だ、貴様もそういうきっちりとした顔ができるのではないか」

「まあね」

 準備運動をしながらそう言うと、玄関のポストに、重たい音がした。

 すぐに向かうと、そこにはかなりの重さの封筒が入っていた。表には、しっかりと対代協定の印が入っていた。

「間違いない、これが先ほど言った、事件の書類だ」

 一通り封書の中身も確認し終え、ぐいと伸びをする。

「では行くか、喜多川」

「ああ、捜査開始だね」

 かくして、「『現代のジャック・ザ・リッパー』模倣犯による殺傷事件」が、捜査開始となった。

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