第三ファイル
歌舞伎町一番街から少し奥まった路地に入ったビルの二階、そこに真吾の事務所はある。こじんまりとした室内は、真吾の事務所兼自宅といった感じだ。名を、「喜多川探偵事務所」。築年数はかなり経っており、あまり人は寄り付こうとは思わない。
事務所の表には手紙受けがあるものの、大抵入っているのは物件紹介のチラシや、寿司やピザの広告ばかり。依頼内容が入った警察からの封筒は入っていない。それを見て落胆するまでが一つのルーティン。メビウスの箱から煙草を一本取り、火をつけふかしながら日頃あった嫌なことを思い返しながら陰鬱な気分になるのもセットである。
対代協定を月額三千円で結んで、月一確定で依頼が来るものの、ほとんどが先程のような大したことの無い依頼や、もっと酷い依頼だ。先ほどの事件だって、五万入るんだからまだまともな気がしてならない。
もっと酷い時は、たった依頼金一万円の探し物だったり、ペット探しだったり。ピンからキリが酷すぎる。
基本大きな依頼は、もっと実力のある事務所に優先して送られている。対代協定に属している探偵事務所の中でもランクが決められており、真吾の「喜多川探偵事務所」は悲しくも最下位である。収入は安定せず、今より酷い時の方が多い。日々贅沢なんて到底できないために、常に空腹との闘いだ。
ふと、表の手紙受けの中に入っていた、寿司のチラシを手に取る。不発の爆竹をテーブルの上に置き、力なく室内のソファに座る。
「……寿司、食べたいなあ」
しかしそんな金はもちろんあるわけない。間抜けな腹の音が事務所内に力なく響く。この音をあのハンチング帽の男に聞かれなくて本当に良かったと思った瞬間だった。
思えば、真吾自身が探偵になったのも、あのハンチング帽の男のような奴を目にした時からだろうか――――。
遡ること三年前、真吾は一人の警察官として様々な事件を担当していた。
そのまま警察官として仕事を続けていって、ゆくゆくそこそこの大きさの一軒家を都内某所に構えて、そこそこの収入を稼いで、そこそこの幸せを築くものだと思っていた。
しかし、そんな日々は早くも崩れ去る。
それはある殺人事件の捜査をした時の事だった。事件の通称は、「現代のジャック・ザ・リッパー事件」。それは犯人が刃渡り二十センチのナイフによって人の腹を割り裂いて中に胎児を模した人形を置く、という奇妙なルーティンが存在する、既に数十人が犯人の手にかかった事件である。
猟奇的、そして特徴的な犯行でありながら、証拠があまり残されていないために、「最悪の快楽殺人犯」と呼ばれていた。しかし、かつて世を賑わせていたジャックとは、全くもって被害者の特徴が異なり、被害者はかつて大なり小なり「前科(マエ)」がある人間ばかりだった。
その一部ではあったが、真吾は容疑者を捜査していくこととなった。「犯人が捕まらない」という事実は警視庁内でも重くのしかかり、世間的なバッシングによって、真吾を含む、警視庁内部の精神は摩耗していった。
当時の警視庁は早々に解決したということにして、真相をそう調べることなく、その事件の捜査を突如打ち切りにし、犯人と思われる大学生を検挙した。勿論、その事実は伏せて。
警察の面子のためだろうか。大勢の人を死なせて、これ以上事件が続くならば、世間のバッシングはより酷くなると思った為であろう。
しかしそんな中でも、大学生の容疑者は「自分は無実だ」と真吾に伝え続けた。
その言葉を発する大学生の必死さに、どこか引っかかるものを感じた真吾は、その事件の真犯人を見つけようとした。
真吾は真犯人の証拠を集める中で、警視庁上層部の大きな穴に気づいてしまった。本当の「現代のジャック・ザ・リッパー」は秘密裏に死んでおり、今検挙されている大学生の男を「現代のジャック・ザ・リッパー」として処理する、というものだった。
真吾はそれが許せなかった。いつだって、「正しく立件する」はずの警察の頂点に君臨する警視庁が、「腐りきった不正義」へと変質していたのだから。
その録音テープを上の人間に対して証拠として提出しようにも、一通り聞いた後、目の前でそのテープを修復不可能なレベルまで破壊されたのだ。
「君……まぐれでの検挙率が少し高いからと言っていい気になっていると、足元を掬われるよ」
そう言い残して、真吾の目の前から上層部の人間は去っていった。
決定的な証拠すら握りつぶされ、結果冤罪を許してしまった。それが真吾の心の中で影を落とし、結果真吾は警察官を辞めた。勿論、真吾の意志によるものだけでなく、裏から手を回されたのもある。
結果、真吾は「不正義」に敗北した。それが、真吾にとってとても悔しくて。
真吾は、世の中において真の正義が何なのか、分からなくなってしまった。それが真吾自身抱いている正義なのか、はたまたあの汚れ切った警視庁上層部が抱いている、歪んだ正義なのか、もしくは真吾のそれとも、警視庁上層部のそれとも異なる正義か。
ある種の不信感が、真吾の心の中に巣くってしまった。元の真吾は半分死に、探偵として真吾の正義を貫く半面、燻る真吾自身を正当化しようとする、腐った真吾が生まれた。
元の真吾はもう戻らないのかもしれないと、心の中で諦めきっていたのだった。
ふと、真吾の意識はなくなっていた。その間に、嫌な夢を見た気がしたが、あまり考えないことにした。そうしないと、また変なことを考えかねなかったから。
真吾は寝ていたソファからゆっくりと立ち上がり、かろうじて動いている冷蔵庫の上にある、インスタントコーヒーの粉を取り、乱雑にコップの中に入れる。これまたかろうじて通っている水道水を注ぎ一気飲みする。配分をミスったせいか、少し不味い。元より、東京の水道水は不味いが。
少し低めのテーブルの上にコップを静かに置き、真吾はまた力なく座る。そばにある別の案件の資料を手に取り、それを何も考えず眺める。
今日の依頼は少しばかり重労働だった。まず逃げることは予想できても、戦うなんて考えてもいなかった。たとえそれが格闘の心得のない人間相手だったとしても。
チノパンのポケットに入ったままのスマホのスリープを解除する。
「午後七時、かぁ……まだ寝付くには早いし、少し街をうろつきでもするかな」
ふと、真吾の頭の中にいい場所を思いついた。それは、真吾と深い関係のある場所だった。
「折角だから……郷馬(ごうば)組、少し寄ってみるか」
真吾の探偵事務所から少し離れた、花道通り。そこから少し路地に入るとある、郷馬工業。見た目は少し古びた町の事務所、といった感じではあるが、それでも少し前にリフォームしたために前よりは小綺麗になった。よく言ってレトロ、悪く言ってボロい、といったものだ。
以前は正直悪い意味でレトロだった。もう記憶はおぼろげではあるが、真吾が子供だった時、事務所を見た瞬間、古い&ボロいの二要素によってギャン泣きした。
それでもここが真吾の第二の故郷、と言っても過言ではない。実際ここが育った場所である。
世の中の極道者の立場は、やはり狭い。バブル景気時代が極道者の全盛期だとしたら今はリーマン・ショックが起きて間もない頃と同等である。郷馬組をはじめとして、郷馬組の大元である東桜会の系列の組織は完全に今の時代において没落している。世の中に与える影響も今となってはたかが知れている。
入り口には相変わらず、顔がいかついお兄さんが二人ほど常駐している。真吾が軽く二人に会釈すると、読んでいた雑誌をすぐに置き、「お疲れ様です!」と元気よく九十度の、お手本のようなお辞儀をして来た。そこまでしなくていいって何度も言っているのに、毎回こうである。
事務所は二階にあるのだが、階段を上る途中も組員は真吾を見るなり、ここの組長相当の扱いをしてくれる。先ほどと同じ九十度お辞儀はデフォ。彼がなけなしの千円全てを使って道中で和菓子を見つけて購入していたために、それを持っていると「お持ちしますよ!」と元気よく言われ……傍から見たら、この組の若である。
案外短いはずの階段で時間を喰って、ようやく事務所内に到達。その事務所内でも手厚い歓迎をされる。本当に申し訳ないために、真吾はそそくさと奥にいる組長の元へと向かう。
「組長(おやじ)、お久しぶりです」
「ははは、そう畏まるなって」
快活に笑い、いかにも高い漆黒のスーツを着て組長室の椅子に座っているのが、郷馬組組長、そして真吾の育ての親であり恩人その一、郷馬文司(ごうば もんじ)。文司は自分の代で郷馬組を関東最大のヤクザ組織、東桜会の直参にまで昇格させ、しかし荒っぽいことは好まない、かなり漢らしい性格の持ち主。ガタイも良いために、余計に若く見える。
トレードマークは少し残る無精髭。本歳六十。皺が非常に少なく、五十代と見ても若く見えるほど。
「いや、私を育ててくれた親ですから、組長には頭が上がりませんよ」
「おいおいよしてくれよ、俺はお前さんの可能性に投資しただけだよ。可能性とガッツがある奴は大好きだ」
文司に救われた人はそう少なくない。世の中でも、著名人の大体は文司が支援し、見事大成しているものばかりである。
別に裏から圧力をかけているわけではない。文司はそういった手段の中で汚いことを一番嫌っている。「正攻法の勝利こそ、真の勝利」が座右の銘であるためである。
「組事務所、新しくしないんですね」
「ああ、俺にはこん位が丁度いいのさ、昔みてぇに下手にデケェと落ち着かねえや」
しかし自分に投資することはどうもむず痒く思うらしく、事務所のリフォームも自分のためでなく、組員のためであった。「今時和式トイレはねえだろ」の一声で、トイレや壁、その他諸々の設備が一新された。
「あ、そう言えば組の人にお菓子を持たせたままだった」
「ああいいんだ、若衆が食ってこそだ。お前さんの食べ盛りの時も俺ぁ驚いたがな!」
この談笑の時間が、真吾の中で少しばかり楽しかった。何分、入る仕事が先程のようなもののために、こういった明るい空間は真吾にとっても、癒しだった。
「そういや……お前さん、またなんか警察(サツ)から依頼あったのか」
文司が指差した場所を見ると、真吾の服のシミを見つけたようで。しかも、あのハンチング帽の男の血のシミ。
「そうですね、今日も対代協定から依頼が入って遂行してました。けれどその対象が途中で逃げて、大分抵抗しまして。最初は攻撃を捌くだけで済むと思ったんですが……」
「なるほどなぁ、お前さんも苦労してんだな」
また快活に笑うと、すっくと立ちあがって、漆黒のコートを羽織る。
「組長、どこか向かうんですか」
「ああ、久々にお前さんと会えたからな、回らねえ寿司屋に連れてってやる」
「もう食べられない……この満腹感だけで一か月は暮らしていける気がする」
「馬鹿言え、お前さんは二十代半ばとはいえまだ食べ盛りだ。ウチの若衆と年齢がそう変わらねえんだからな」
回らない寿司屋にて、満腹になった真吾とさして食べていない文司の二人。いつも文司は小食で、自分の食事を昔から若衆や幹部に回していた。それにあやかったために、真吾の体格はそこそこにいい。太っているわけでなく、筋肉質である。
常に貧困生活を送っているため贅肉はない。体つきだけで言ったら女性にモテるほど。境遇が境遇なためにモテはしないが。
しかし文司も、少し身長が縮んだとはいえ、ほぼ真吾と同じ体格をキープし続けている。小食なのに、謎である。
「しかし、毎月こうして高級な店に連れて行ってもらえるのはありがたいです、組長」
「なぁに、金が有り余ってんだ。遺産はお前さんと組に半々ずつ分けるつもりではあるが、しかし昔稼いだ額もかなりのものでな。今のうちに人生を謳歌しておこうと思ってな」
「何言っているんですか、組長はこれからですよ」
そう真吾が抹茶をすすりながら言うと、また文司は快活に笑った。
「全く、お前さんも世渡りってえのが上手くなった。育ての親として、満足だよ」
真吾は文司に笑って見せるも、どこかぎこちない不自然な笑顔になっていた。
真吾は文司を組事務所まで送り届け、事務所前で組長と別れた。その際に受け取ってしまった、そこそこの厚みを持った茶封筒。
その中身を見ると、中には現ナマ三つ、つまるところ三百万円が入っていた。
毎度文司と会うたびにこの茶封筒を何だかんだ貰うも、そんな真吾自身は、とても惨めに思えてしまうのだ。
真吾は、探偵業で最低限の生活をしていくうえで、必要になってくる金を稼ぐことはままならず、大抵文司から貰う三百万で日々暮らしている。それを諸々、家賃などに当てて過剰な分は申し訳なく思って返しているものの、本業で稼ぐことのできない真吾自身は、本当に嫌になっていた。
ただ格闘術が強いだけでは、探偵は仕事にならない。その先の思考力、閃き、頭脳が必要とされるも、真吾には足りない。
それが満ち足りているほかの探偵は、少なくとも一つの案件で四苦八苦している真吾の、何倍も、何十倍もいい思いをしている。
それこそ、真吾の探偵事務所のようなこじんまりとしたものでなく、一軒家丸々事務所だったり、毎食まともなものを食べていたり。
真吾は、自己嫌悪の感情を抱く。正義感ばかりで腕っ節ばかり強く、大したことを考えられない単純な自分が、本当に嫌になるのだ。
真吾は、郷馬組からの帰り道、いらつく感情を少しでも発散するべく転がる空き缶をゴミ収集所に蹴り飛ばし、酷く暗いことを考えながら事務所へと歩いていく。
街の明かりが、真吾以外の幸せな人間を照らしていく。ハンチング帽の男を追いかけていた時も、ここまで鬱屈とした感情は真吾の中に渦巻いていなかった。
真吾は、周りの人間を見るたびに自分への否定が溢れかえる。
「……本当に、嫌になるな」
真吾はふらふらと、夜十時の歌舞伎町を彷徨い歩く。その姿はまるで、ジャングルで彷徨う探検隊のよう。しかも、武器も道具も一切持ち合わせていない、か弱い探検隊。
暗い思考が、さらに暗くなりかけた、まさにその時だった。
嫌な臭いがした。少なくとも、よくあるアンモニア臭などではない、人が忌避するであろう血の臭い。
それは、普段はごみ置き場となっている裏路地の、街灯一つない場所からした。思考が嫌がっていても無意識に体が反応し、その先へと向かっていってしまう。
誰も歩いていない暗い路地を、足音を立てないように歩いていく。嫌な臭いは次第に強くなっていき、凍えるほど寒いはずの歌舞伎町の冬なのに、じっとりと汗をかいていく。
そして、その嫌な予想は現実となる。
恍惚とした表情で息絶えた死体。しかしその体の状態は恍惚な表情を浮かべるものとは程遠く、腹は縦に割り裂かれ、手首にリストカットと思われる切り傷が一つ。
体内には生まれる前の胎児を模した人形が残されているばかりで、腹の中にあるはずの臓器の全て、そして被害者を殺した凶器は犯人が回収したようで、現場には乾き始めた血液ばかりが残っている。
「アイツが……いる……!?」
それと同時に思い出すのは、真吾の過去。昔終わったとされていた事件が、よみがえった瞬間。真吾の中で昔の因縁に対し、憎悪が燃え盛る瞬間でもあった。
しかしそんな時に、背後から声がした。
「おい、そこのでっかいの」
全く聞き覚えのない、しかし、かなり透き通った、年端のいかない若々しい声。
恐る恐る後ろを振り向くと、そこにいたのは、街灯がない場所でも眩しく思えるほどの長い銀髪に、雪の様に白い肌と、ゴシック調のロングドレス。見たところ十二歳の少女だった。
真吾は、不思議でならなかった。この町にそぐわない違和感を抱いたのだ。
しかしこれらは、決して悪い意味合いでのものではない。別に真吾に小児性愛癖があるわけではないのだが、少女が可愛らしくも美しかったのだ。さながら、アンティークドールのような儚くも美しい、触れたら壊れてしまいそうなものであった。
一見存在自体が矛盾しているようで一切の矛盾がない。それがその少女の特徴だった。
ふと、真吾は我に返り、その子の元に優しく歩み寄る。怒気を前面に出したままでは怯えてしまうだろうと考えた真吾は、大人らしく本当の表情を出さないように努力した。
「どうしたんだい? 迷子かな?」
「迷子な訳があるか馬鹿者、後ろの死体に用事があるのだ」
真吾は心無い罵倒に心を痛めながら、その少女を止めようとするも、少女はずかずかと事件現場に踏み込んでいた。鑑識用の手袋をつけた状態で。
「今はこの死体を調べるが先決だろう? 貴様対代協定に属しているのに、その程度の事もできないのか大馬鹿者め」
またかなり酷く罵られた。元々精神が擦り減っているところに、こういったストレートな罵倒は効く。
死体の調査を行う少女。丁度、鑑識用の手袋を持っていたために真吾も調査を開始する。
死体をまじまじと見て、特徴を記していく。そんな中、真吾はその少女に問いかける。
「……君って、一体?」
「まさか、元警官ではあったが私と面識はなかったか。これは驚いた」
少し意外な反応が少女から帰ってきた。しかし、元警官と真吾をしっかりととらえた言葉に引っ掛かりを覚える真吾。追及することにした。
「君は……警察関係者か何かかい?」
「その警察関係者さ。大宅一二三、名前くらいは知っているだろう?」
「大宅一二三……って、え? あの『神童』……?」
その通り、と頷くとすっくと立ちあがって電話をかけ始めた。聞こえてきた話の内容から、警察に直接電話をかけていた。死体の後処理を頼んでいた。
少し話し込んだ後、少女は真吾の耳元で呟く。
「貴様、『現代のジャック・ザ・リッパー事件』について深く知りたいだろう? どこか、話せる場所はないかな? 冤罪を許してしまった悲しき元警官、喜多川真吾」
不敵な笑みを浮かべた少女のその姿に、過去の事件の面影を奥底に感じとった真吾は、何も言わず自身の探偵事務所へと案内する。
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