深夜

 夜が更けても眠れないのはアリヤにとって初めてのことだった。

 ハンナさんの前では、自分の瞳がひどく作りもののように思えてならなかった。


 往時は用具室だった場所を清潔に掃除し、マットレスを運び込んだだけの居室で、アリヤは体を横たえていた。


 こうして次の日を待つのは、自分の修繕が終わったその日から今日までずっと続いてきたことだ。

 修繕が完了するまでは作業場の片隅に寝かされていたのが、空き部屋をてがわれ、にわかに人間扱いされるようになった。


「おまえはここに残りなさい。

 もとの家には言っておいてあげるから。

 おまえもわたしも、もう戻れない者どうしうまくやれると思うわ」


 ずっと昔にかけられた言葉を今の今まで忘れていたことに、アリヤは気が付いていた。


 アリヤが壊れたことで、大量生産された一人息子を迎えて表面上はうまくやってきた家庭は崩壊した。

 ひとりで生きていくだけの技量も精神もない中で放置され、路上をさまよい歩くアリヤを救い上げてくれたのは工場長にほかならなかった。


 そして、あのとき工場長があのように言ったのはたぶん……。アリヤは冷静に考えを巡らせる。


 完全に修復したところで、私を受け入れる生家はなかったのだ。

 私が先に壊れたことがきっかけだったにせよ、自分はあの家で必要とされない存在に成り下がってしまった。


 私にとって、もう帰る場所はここしかないのだ。

 とうに時刻は深夜を回っていたが、意識は生きてきた中でもっとも明瞭と言ってもよいほどだった。


 こんな夜には、工場の昔の機材を磨こう。

 そう思い立ったアリヤは、ほかの部屋に物音が伝わらないよう気を付けて寝具を抜け出た。


 寝間着の上から作業着を羽織ってファスナーを閉め、ホールにせり出した通路を進む。

 中央に設けられた一階への階段まで静かに歩けば、対極の奥にある工場長室まで足音は響かないだろう。


「子供を修繕することの意義が、おまえならきっとわかるでしょう」


 遠い日の工場長の声が頭の中でこだまする。

 えぇ、もちろんです。今の自分の気持ちと、過去の自分の返答が重なり合って弾け消えた。

 続きの言葉が、後からやってくる。


「おまえにはわたしの片腕になってほしいの。

 わたしの信念の裏にある消えない罪を、わたしが忘れてしまわないように」


 そうだ、あの人は罪という言葉を使っていた。


 自分が犯す罪の証人として、その始まりだったおまえを近くに置いておきたい。

 これはただの情けではないのだと。


 数時間前にハンナさんから聞いた「子供を連れてくる合意」という堅苦しい言葉がぐるぐると渦巻いていた。


 そのとき、何かが落ちるようなタンっという音が聞こえてきた。物音を立てぬよう気を付けていたアリヤは、思わず身を震わせた。


 続いてなにかを擦るような音。タタンっという小刻みの物音は一定のリズムを刻んでいた。


 明かり取りの天窓からは満月の光が降り注いでいた。昼間降り続いていた雪は晩になって止んだようだ。


 音のする一階を通路から覗き込むと、昼間は子供たちの作業場となっているホールで、工場長が手足をいっぱいに伸ばして踊っていた。


 肩から羽織った深紅色のショールが、優雅に回転する彼女の周りで浮き立っていた。


 月光だけで照らされる体のラインの移り変わりが、アリヤを惑わせた。


 それは美しいばかりではなく、贖罪しょくざいの色を含んでいることがアリヤにはわかった。

 憂いに満ちた女王の舞に、長年の答え合わせを見たかのような思いだった。


 かつては純粋に子供を製造していたこの工場で、工場長がやっていること、そしてアリヤも加担していること――子供を人為的に修繕する仕事は、世に認められぬ所業なのだ。

 こんなにも社会に必要なのだと私たちが確信していても。


 だって、あの子も、あの子も、あの子も、みんな出会ったころよりもずっと良くなったのだ、という思いがアリヤの中でみるみる膨らんでいく。



 受け入れた初日から、なにを尋ねても、どう話しかけても、「はぁ?」としか返してこない子供に頭を悩ませたことがあった。


「困ったことはない? 毛布は足りてるかい?」


「はぁ? 大丈夫だし」


「作業、上達してきたね。ほかの子の手本にしたいぐらいだ」


「はぁ?」


 ここに来るまでの境遇の中で編み出した虚勢なのかもしれないし、自分がされた大人からの仕打ちを真似た口癖なのかもしれなかった。


 好きなものを好きとも言えない状態に陥れられた子供もいた。

 好きだと言えば、主導権を握っている大人に取り上げられてしまうから本心を表明できなくなったのだ。

 そのことを、修繕が終わる間際に打ち明けられたアリヤは、状況を想像して気分が悪くなった。


「これ好き?」


「うん! 大好き!」


「あっそ、じゃあ没収ね。ざまぁみやがれ」


 思っているよりも、子供の耐久性は小さい。

 ちょっと押したぐらいではびくともしないように見える、命が板についてきた年頃の子供でも、ほんの少しのとげが精神を壊滅させることもある。


 余裕のない大人にはそのことがなかなか思い当たらないし、明日になればどうせ忘れていると高をくくってしまう。


 そんな傷ついた子供を強制的に直してやることのなにが悪いのか。

 私と工場長が続けてきた「修繕」を、現実を知らぬ外の人間に糾弾されるいわれはない。


 アリヤは口を固く結んで、身動きもせず、静かに心を決めていた。


 通路の下では、変わらず工場長が無心になって舞い踊っていた。

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