エピローグ ブドウの花

「はぁ。まだこんな時間なのにやけに疲れたよ」


 鮮血のように赤いワインを片手に、誰もいない研究室の中でひとり呟く。当然ながら反応はない。

 今日は朝からパーティだというのに、なんとも寂しいものだ。まあ、急遽決まったから仕方ないことではあるし、そもそもちゃんと告知したところで誰も祝いに来てくれないのは目に見えているのだが。


 それにひとりには慣れている。私のことを理解してくれる者はおらず、大抵理解できないと拒まれるか、若いから無知なのだと笑って相手にされなかったのどっちかだった。昔は『期待の十代心理学者』と持て囃されたものだが、結局はちょっと頭の良いただのガキだと評されていたらしい。老いとは恐ろしいものだ。


 誰からも共感を得られない研究というのはあまりにも辛く、あまりにも寂しい。学校なんて行くだけ無駄だし、仲の良かった学者仲間は相談に行けば離れていくばかりで、溜まる鬱憤を自室で晴らす日々が続いた。大学に通うことにしたのも、そうした日々に嫌気が差したからに他ならず、なのに結局状況は家から研究室に場所を移すだけ。


 何故、誰も分かってもらえないのか。分かろうともしないのか。

 愛想笑いを浮かべた裏で、未知のものでも見ているかのような奇怪と嫌悪の入り混じった視線を浴びる度、私の心は音を立てて折れ曲がった。


 だが、私は研究を続けた。それはもう執念だった。


 アオイさんには万人が幸せになってほしいから、なんて綺麗事を話したが、実際のところ焦燥感に駆られていたことが大きかった。

 もし研究を止めてしまったら、私は何のためにこの道を進んだのか、私のこの20数年は一体何だったのか、虚無に打ちひしがれることは目に見えていたからだ。

 自分という存在はこの研究があるから成り立っている。なのにそれがなくなれば、私は何者になってしまうのか。命の危機にも似た恐怖がそこにはあった。

 必死に道を探し、足掻き藻掻いて進んだ結果、後戻りするどころか、止まることさえ叶わないところにまで来てしまったのだ。私に与えられた選択肢は、たったひとつしかなかった。それだけのことだった。


「——しかし」


 しかし、それが今はどうだ。自分でも不可能だと半ばそう諦めかけていた目的に、あと数歩で手に届くところまで来ている。幼き私のささやかな疑問は、実現可能な大志へと成ったのだ。真っ暗だった私の未来がぱっと明るくなった気がした。


 これほど嬉しいニュースは、8歳の時に両親と一緒に行った誕生日パーティ以来だ。


「あとはバグを見つけないとね」


 パソコンの電源を点け、あの装置の仕様書を開く。


 素人ながらに作り上げたものとしては十分以上の出来といえるだろうが、サイズや効果が発動するまでの時間など、改善の余地は大いにある。目標は携帯できるくらいの大きさで、30秒以内にあらゆる処理が完了する程度にまでは縮小化・高速化すること。とはいえそれはまだ先の話として一旦保留にしておいても良いだろう。


 今考えるべきは効果の問題だ。現状、考えられる問題点は、負の感情を伴った記憶が消えてしまうことと、あとは当人にとって強烈な出来事に際して、正常な判断ができなくなってしまうことか。流石に事故現場で笑うことしかできないのは良くないな。緊急事態にも対応できる程度の思考はなくてはならない。


「他には正常時でも笑顔を絶やさないこと……は別に良いか。笑顔は何よりも勝るのだ。わざわざ真顔に戻す必要もない。というか、記憶が消えるのも問題視しなくて良いな。幸せにそんな記憶はいらないからね」


 カタカタと、思いついたことを適当に打ってみる。そうしていくうちに、次に私がすべきことが見えてきた。


 まだまだやらないといけないことがある。それが楽しくて仕方がない。この装置の開発こそが今の私の生きがい。

 暗闇を歩み、亡者のように僅かな光を求めていたあの頃と違って、視界が輝いていると錯覚するほど希望に満ち満ちている。


 私は生きている。この世界に意味を持って生きているのだ!


『お前は、狂ってる』


 興奮して我を忘れて喋っていた中で、微かに聞こえたアオイさんの言葉。


 まだ脳の処理が完了しておらず、おそらく悪意を持って言い放ったのだろうが、なるほど確かに、その通りかもしれない。

 しかしこの世はいつだって社会の常識から離れた人間が牽引していくものだ。人類の成長、科学の発展にはそうしたイカれた人物の存在が欠かせない。近いうちに私もそのひとりになるだろう。そういう意味では、狂ってるとは、私にとって無上の誉め言葉だ。


「人間の成長を、進化を促す、か。ふむ、なかなか気分が良いな」


 こうしちゃいられない。パーティは完成した後だ。


 私の生き方が、私の才能が、私という存在が、この世界に必要なのだ。無駄な時間は1秒たりともない。

 折角開けたワインもまだ一滴も飲んでないが、それはその時までお預け。来るべき時に、盛大にやろうじゃないか。


 もっとも、今飲んでも飲まなくても同じような状態なのかもしれないが。


「——おや」


 コンコンコン、という小気味良いノック音に思わず扉の方を見る。


 来客だろうか。メールじゃなくわざわざこちらに来るということは、面識がほとんどないか、あるいは急を要する用件ということか。いや、人との関係が希薄な私に頼ることなんて何がある。その自覚に何故だか胸が痛いが、そこは気にしない。


 となるとノックした人物は前者になるわけだが、ここに来たということはおそらく相談目的の学生だろう。まだ授業のない土曜日の、それもまだお昼にもなっていないという時間なのに、もう2人目が来るとは。随分と人気になったものだ。


 ……丁度良い。この子も救ってあげよう。 


 この子がどんな悩みを抱えているのか知らないが、あの装置を使えばすべてどうでも良くなるに違いない。私としても実験結果が多い方が改善点を見つけやすいし、WIN-WINってやつだ。


 私は立ち上がり、懐からリモコンを取り出して装置に向けた。


 ピッ、という音がした直後、静かに起動音が鳴り始める。こうしてあまり音を立てずに動くところも、この装置の優秀な点といえよう。


「そういえば、これに名前を付けていなかったね」


 ずっとこの装置、この装置というのも可哀想だ。後に世界中から注目を集める存在となるのに、名無しでは恰好付かない。


 ではどんな名前が良いだろう、と考えていると、まだ片付けていなかったワインボトルが目に入った。


 そういえばキリスト教の旧約聖書には、アダムとイブが禁断の果実を口にして楽園から追放される物語があるのだが、この果実をどこかの地域ではブドウとしているというのを聞いたことがある。


「グレープと名付けよう。うん、しっくりくるね」


 アダムとイブがブドウを食べて善悪の知識を得たように、この装置を使って人類を新たな存在へと昇華させる。本質的には正反対だし、確かアダムとイブの方は神の怒りを買った結果、人間を人間たらしめる存在に至らせたはずだが、細かいことは気にしない。それに物語になぞらえるならば、私もさながら蛇のように神か何かに罰せられる運命にあるわけだが、生憎私は神という名のご都合とは無縁の存在だ。


 ……おっと、そろそろ出なければ。誰もいないと思われて、わざわざ来てくれたお客さんが帰ってしまう。


 準備はオーケー。あとはさっきみたいにソファに座らせるだけ。


 私は扉を開けた。希望に溢れたその扉を。









「——いやぁ、お待たせて申し訳ない。私に何か御用かな?」

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ブドウの楽園 狛咲らき @Komasaki_Laki

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