3日目 開花

 ピピピ、というけたたましいアラームの音で私は目覚めた。

 私は朝が弱いから、普段ならその後も布団で蹲ってるのだが、今日はすぐに覚醒状態に入った。

 いつもより早めの時間なのに、だ。


 あの後、私も警察の事情聴取を終えて病院に向かったものの、治療の甲斐なく少年は事切れていた。私が通報した時には既に助からない状態にあったらしい。両親らしき人達が泣き叫び、現場に居合わせていた女子高生達も病院の中でずっと無言で立ち尽くしていた。きっとあの光景は、私の人生において最低レベルの負の記憶となるだろう。


 そんな中でも彼女は笑っていた。

 人の生死が関わっているのに、彼女は面白いと言ったのだ。


 泥水に濡れた時やお昼ご飯を落とした時は、自分の不幸をポジティブに解釈してるって思えたけれど、今回はそうじゃない。


 誰だって絶句し、戦慄に思考が止まってしまうあの状況で、心の底から楽しいと思える人なんていやしない。

 念のため病院で検査させたけど、特に異常は見当たらなかった。でも誰が見てもアカネの様子がおかしいことは分かるはずだ。


 今の私の恐怖の対象はアカネとなっていた。


「ねぇ、アカネは何を考えてるの?」


 大学までの道にひとり、私はここにいないアカネに尋ねる。それに応えるように冷たい風が私の頬を撫でた。


 今日は土曜日。授業も休みな上に早朝から登校する学生なんて、余程研究や部活動に熱心な人か私くらいだろう。


 アカネは今何してるのだろうか。まだ眠ってるのかな。それとももう起きて遊んでたり勉強してたりしてるのかな。


 何にせよ、アカネは笑っているに違いない。

 アカネの笑顔は大好きだけど、それはアカネが嬉しそうだったからだ。なのに今のアカネは変わってしまって、彼女の心が分からない。


 けれどアカネは何か大変なことに巻き込まれてしまったのだという確信めいたものはあった。


 誰だ、この子に毒を飲ませたのは。

 誰だ、この子を歪ませたのは。


 私にはその心当たりがあった。


「……着いた」


 大学に入ってすぐの棟の1階、誰もいない廊下の少し歩いた左手、私は目的の場所に辿り着いた。

 ドアの横には『小田研究室』と書かれてあり、その下には『お悩み相談受付中』という張り紙がテープでペタリと貼られていた。


 教授の名前までは覚えてなかったけれども、きっとこの研究室であっているはず。

 なるべく早く来たつもりなのだが、そういえばそもそもこの時間に誰かいるだろうか。部屋の中からは声が聞こえず少し心配になる。でもアカネのことも考えれば、無駄に終わらせるわけにはいかない。


 できればこの予想は外れて欲しいのだが……。


「やめやめ。それ以上醜くなるな、私」


 邪な展開が目に浮かんで頭を振る。私がここを教えたけど、それは私が彼女をおかしくさせたこととは等しくない。

 まあそれは原因が私の方にないことが前提なのだが、どちらにせよここでウジウジと悩んでいても仕方ない。


 意を決して、私はドアをノックした。


「はーい」と、程なく返事がして、ガチャリとドアが開く。


「おや、何か御用かい?」


 出てきたのは女の人だった。

 大体20代後半くらいだろうか。目の下の隈が気になるけど、化粧もほとんどしていないようなのに肌が綺麗で、端正な顔立ちに女の私でもちょっとだけドキリとしてしまった。そのすらりとした身体には白衣を身に纏わせていて、ボサボサとした黒い髪は整えればより綺麗になるに違いないのだが、むしろこちらの方が似合っているようにも思える。

 なんだかイメージ通りの、いかにも研究者って感じの恰好だ。


「えっと、ここってお悩み相談を受けてるって聞いたんですけど」


 ひとまず徒労に終わらなくて良かったと安堵しながら、私は確認を取ってみる。


「あぁ、相談に来たのかな。良いよ、入って——」


「あ、そうじゃなくて」


 私が見た通り、お悩み相談の希望者はそれなりにいるらしい。私もそのひとりだと思われ、慌てて否定する。


「一昨日の4限目の終わり頃に、髪の長い、私と同じくらいの歳の女の子が来ませんでしたか?」


「一昨日の4限目か」


 ふむと女の人は数秒の思案の後、


「もしかしてあの子のことかな。元彼への想いを引き摺ってる、みたいな」


「そう、その子です!」


 やっぱり私の勧めでアカネはここに来たんだ。じゃあこの人はアカネのことについて知ってるはず。

 それかあるいは——。


「その子とどんな話をしました?」


「どうもこうも、元彼への想いをどうやったら断ち切れるか、教えてあげただけだよ」


「具体的にはどういう」


「それはプライバシーに関わることだ。教えることはできないね」


「そこをどうか」


 ここで「はいそうですか」と引き下がるわけにはいかない。今はアカネを救うためにも僅かな情報でも必要だ。


「なんとか教えてくれませんか?」


「どうしたの、彼女に何かあった?」


「えっ、いや、その……」


 女の人と目が合う。薄紅の瞳が美しくて、思わず中に引き込まれてしまいそうだ。


 でも何だろう。この人を見てると落ち着かない。瞳に引き込まれてしまったら最後、とんでもない目に遭ってしまいそうな気がする。


「——フフッ」


 私がどんな顔をしていたのか、女の人は薄く笑みを浮かべて、


「こんな朝早くから友達のためにと、ここに来たのだろう。中に入って少しお茶でもしないかい?」


「で、でも」


「別に遠慮することはないよ。ほら、入って」


 そう言って、女の人は扉の奥へと消えた。


 朝の日差しが廊下にひとり立つ私を冷たく照らしている。


 正直、ここに入るのはものすごく怖い。私の予想が正しければ、ここにアカネの原因があるはずだから。だけど、胸の内の恐怖に従ってしまえば、それこそここに来た意味がなくなってしまう。


 私に与えられた選択肢はひとつしかなかった。


「……失礼します」


 中は思ったより広く、20人は余裕で入れそうだった。入って左手は壁で、右手には壁の半分を占める大きな棚があって、下半分くらいは本で埋まっている。目線を少し落とすと、すぐ近くに向かい合わせのソファとクッキーが入った籠が置かれてある小さなテーブルがある。おそらく客人兼休憩用スペースといったところだろう。奥の方を見ると、何台ものパソコンが真っ黒なスクリーンに私を映していた。


 一見して特段他の研究室と変わってるところはない。ただ床がかなり散らかっていて足の踏み場が見当たらないくらいだ。


「あー、ごめんね。今の時期忙しくてね、あまりこういうのに手が回っていないんだ」


 そんな私を見て女の人はソファまでのゴミや資料を適当に退かして道を作った。


 恐る恐るソファに座ると、「はい、どうぞ」とお茶を私の前に置いて、同じく私の正面のソファに腰かけた。

 とても美味しそうな香りがする。でも差し出されたものを迂闊に飲んでしまって良いものか。

 流石に毒とかは入ってないと思うけど、相手が何者でアカネの何を知っているのかを見極める必要があるのではないか。


「そういえばまだ自己紹介していなかったね。私は小田マキ、一応ここの教授をやらせてもらってる」


「え、教授だったんですか!?」


「ははは、よく驚かれるよ」


 まさかこの人が教授だったなんて。てっきり研究生のひとりだとばかり。

 でもこういうのって大抵40代とか50代になってからじゃないの? どう見てもそんな風には見えないのだけど。


「幼い頃から心理学に興味があってね。その分就くのが早まっただけだよ」


 私の疑念を察して女の人——教授は謙虚にそう言うけれど、それはもはや天才の域だろう。何かにずっと打ち込み続けることさえ物凄く難しいというのに。


「ところで、キミの名前を聞かせてもらっても良いかな」


「……向井です」


「下は?」


「ア、アオイです」


「向井アオイさん、ね。良い名前じゃないか。前に相談に来た子は確か、鳳アカネさんだったかな。アオイさんとアカネさんはどういう関係なんだい?」


「ただの友達ですよ。中学からの付き合いで」


「中学から? 仲良しだね」


「はい。あの、それでアカネとは——」


「落ち着いて。まずは状況を教えて貰わないと」


 早まる心臓の鼓動に釣られるように、一昨日のことを聞いてみるものの、返ってくるのは私の望むものではないものばかり。


 焦っていては見つかる物も見つからない。私はゆっくりと深呼吸した。


「それで、アカネさんに一体何があったの?」


 私が息を吐き切るのを見届けてから、教授は尋ねた。


「……分からないんです。一昨日、一緒に帰った時から変で、ずっと笑ってるんです」


「笑ってる?」


 教授の眉がぴくりと動いた。


 私は「えぇ」と続ける。


「何を言われても、何をされても、ずっとニコニコしていて、もう何考えてるのか分からなくて」


「別に笑うことの何がダメなんだい? 笑顔が悪い人なんていないよ」


「いや、笑うこと自体は良いんです」


 アカネの笑顔も最高に可愛いし。


 ——でも。


「でも、私にはアカネが無理して笑っているように見えるんです。最初は悩みが晴れて気分が良いのかなって思ってたんですけど、明らかに様子がおかしいというか」


「というと?」


「……昨日、帰り道で事故を目撃しました」


 たった1日だけで忘れられるはずがない。


 平和な帰り道に唐突に訪れた破壊の音。幼い子どもの命が潰える音を聞く機会なんてあって欲しくなかった。

 どうしようもない絶望に襲われて、誰もが時が止まったかのように動けなくなって。真っ赤な血がアスファルトを濡らすのを見守るしかできなかったあの時間は、思い出すだけでも震えが止まらない。


「何が起きたかも理解できなくて、怖くて怖くて仕方なかったんです。なのに」


 そんな恐怖を塗り替えてしまうくらいの狂気が、あの場を支配した。

 私の親友の皮を被った、残酷なくらい甘ったるい狂気が。


『あははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは——』


 あの笑い声が頭にこびりついて離れない。愛おしさを微塵も感じない、おぞましく黒い声が、あの子から出たとは信じたくない。

 信じたくないのに、夢であって欲しいのに、それが現実だった。


「どう考えてもおかしいですよね。しかもあの子、『面白い』って言ったんですよ? 人が死にかけてて、というか実際に死んで、それでもなお笑い続けて、どこが面白いんでしょうか? そんなことアカネが言うわけないし、何より」


「何より?」


「……人間じゃない」


 自然と声が震える。


 大好きなアカネがいつの間にかアカネじゃなくなっていた。

 それどころか、今のアカネは化け物そのものだ。


 ——どうしてこうなった?


「アカネはずっと元彼のことを悩んでた。何日も私に電話かけて愚痴吐いて。だからここを勧めたんです。そしたらあんなことになってた」


 心の奥底から沸々と何かが湧き上がり、無意識に口調が強くなる。多分表情もあまり人に見せるようなものじゃなくなってる。


 ——ああそうだ。私がここに来た理由は。


「つまり、アオイさんはこう言いたいと」


 教授は静かにお茶を一口啜って言った。


「『お前、アカネに何かしただろ』とね。あと『アカネを戻せ』も付け足すのかな」


 静寂が研究室を包み込む。


 張り詰めた空気に私の本能が危険信号を最大に示し、逃げろ逃げろと叫んでいる。が、当然ながら今ここから出るつもりは毛頭ない。


 私が言わんとしたことは教授が汲んだ通りだ。学生の分際で教授相手に失礼極まりない発言だけど、私にはこれしか考えられない。単なる勘違いなら誠心誠意の謝罪で済むと思うし、それでも済まないなら済まないで何とでもなる。問題は教授が何を知っていて、何をしたかだ。


 息が詰まりそうなほど緊迫とした部屋の中で、今、私は教授の次の行動を決して見逃すまいと、両目で彼女を捉えている。


 教授は何をしてくる? 怒るか? それとも知らないと適当に流すのだろうか。あるいは最悪の可能性として口封じに——。


「フフッ」


 そうやって私があれこれ想像している最中、変化は起こった。


「フフフフ……あっはっはっはっは!」


 堪えきれず大声で笑う教授。サッと血の気が引いていく私に構わず、楽しそうに笑っている。


「い、一体何がおかしいんですか!」


「あっはっはっはっは……はぁ、笑った、笑った。突然ごめんよ。あまりにも嬉しくてつい」


 一頻り笑ってようやく私を見た教授の目には涙を浮かべていた。


「いやぁ、苦節20年。ようやく悲願を成就できそうなところまで来たよ。教えてくれてありがとう」


「え、は? ど、どういうことですか?」


 20年? 悲願? わけの分からないことばかりで理解が追い付かない。


 しかしこれではっきりした。この人がアカネの狂わせた張本人だ。


「うっ……」

 

 がくん、と頭を抑えつけられる感覚に、私はそのまま机に突っ伏した。唐突なことで混乱し、急激に頭が重くなってくる。

 誰かに殴られたとかではない。痛みもない。でも、脳内で何かがグラグラと揺れている。脳味噌ではない何かが。


「——少しだけ、昔話をしようか」


 頭を押さえる私を見ながら、教授は高揚感に浸ってお茶をごくごくと飲んでいる。


「むか、し、ばな、し」


 たった6文字を復唱することさえ困難なほどに、私の頭はガンガンと音のない音を響かせている。


 苦しい。辛い。怖い。嫌い。悲しい。恨めしい。憎い。妬ましい。恥ずかしい。痛い。寂しい。気持ち悪い。不味い。酷い。きつい、汚い——。


 その音に紛れて様々な不快感が巡るように襲い掛かってくる。一体何が起きているんだ。


「私が幼少期から心理学に興味があったことは、ちょっとだけ話したかな。誰に何と思われようが、何と言われようが、一切構わずにずっとそれを勉強してきたんだ」


 視界がぐるぐると回る。身体が思うように動かない。ここから出なければならないのに。どうして?


「何でだと思う? 私と、そして私の両親が辛い目に合ってたからさ。私の父は恥ずかしながら立派とはいえない人間でね。仕事のストレスを酒と暴力で解消するような哀れな男だったんだ」


 私に構わず教授は続ける。


「何度も殴られたよ。『俺の仕事が上手くいかないのは全部お前の所為だ』とかなんとかで理不尽を叩きつけられて。母もその巻き添えを喰らっていた」


「だが、そんな生活の中でも幸せはあったんだ。一緒にテレビを観てる時とか、休日に家族でお出かけに行った時とか。楽しくて楽しくて仕方なかった」


「ある日は地獄のように辛く、ある日は天国のような幸せに感じる。そんな極端な繰り返しの日々の中で幼い私は思ったんだ。『何で楽しくない日があるんだろう。楽しい日と楽しくない日ってどう違うんだろう』ってね」


「その答えはすぐに分かった。楽しくない日は誰かが怒ったり、悲しんだりしている。だけど楽しい日というのは、みんな笑ってるんだ。母も、父も、もちろん私も、『笑顔が楽しい』を作ってるんだ」


「楽しい日と楽しくない日の違いは分かった。なら次に私が『楽しい日をもっと増やしたい』と考えるのも当然の成り行きだろう。誰だって、嫌な目になんか遭いたくないしね。子どもなら尚更だ」


「そのためにはどうする? 楽しくない日を無くすには? 答えは簡単。笑顔を増やせばいい。じゃあどうすれば笑顔を増やせる? 人はどういう時に笑顔になる? 何が人を楽しくさせる?」


「そういう疑問から心理学の勉強を始めたわけさ。でも当時はまだ漢字も読めないくらい幼かったからね。本を読んでも、ネットを見ても全然分からなくて、母に手伝ってもらいながら、少しずつ必要な知識を取り入れていった」


「心理学といってもいろんな分野がある。臨床心理学や社会心理学などなど、ね。その中で私は特に感情心理学という分野を勉強し続けた。子ども特有のスポンジみたいな脳のお陰か、初めは大人になるまでに自然と理解するような、状況に応じた感情の変化を学び、小学校を卒業する頃には学者達と議論を交わせる程度には成長していたよ。代償として友達に巡り合うことはなかったけどね」


「だけど、どれだけ調べても、笑顔を増やす方法を見つけられなかった。もちろんそれっぽいものはかなり見つかるんだよ? でもそういうのはデマだったり、曖昧というか、100%笑顔になるっていうものはなかった」


「そりゃそうだ。人はほぼ常に外部から何かしらの影響を受けるが、その際に感情が生じるかどうか、あるいはその感情を発露するかどうかは当人次第なんだから。他の誰かがどうこうしたところで、当人が変わらなければ何の意味もない。そんな当たり前のことに気付いたのが15の時だったかな」


「その頃には既に両親は離婚していて、苦しみからは解放されていたのだが……それでも諦めなかった。諦めたくなかった」


「たとえば学校の中、ちょっとした行き違いで友達と喧嘩することがあるだろう。たとえば下校中の道の中、肩がぶつかったくらいで噛みついてくるおっさんがいるだろう。電車の中、周りのことなんか気にせず恨み辛みを吐く人も少ないがいないこともないはずだ。そんな状況に出くわして、その日1日嫌な気分で過ごしてしまった、なんてことアオイさんもあるんじゃないかい?」


「……さっきも言った通り、私には友達と呼べる存在はいなかったから、最初のはただ見聞きしたけなんだけどね。ただたまにそういうところ見たり実際に体験する度に思うんだ。『あぁ、もっとみんな笑えば良いのに』って」


「笑顔はすべての人間が持っている、世界一美しくて、世界一平和的な力だ。みんな笑えばどれだけ衝突しても丸く収まるし、そもそも衝突なんて起こらない。人と肩がぶつかっても怒鳴られることもない。電車のケースだって、そういう人がいなければみんな快適に乗れるだろう」


「嫌なことは全て嫌な感情から引き起こされるものだ。なら、それがなくなれば、世界中が笑顔で溢れたら、誰もが幸せに日々を過ごせる『優しい世界』になるんじゃないかい? その世界では誰かと争うことも、虐げることもない素晴らしい世界になると思わないかい? 父が、また母と私と手を取り合って幸せに暮らしていけると思わないかい?」


「幸不幸の問題は私の家族の中だけに留まっていなかった。だから私は笑顔を増やす方法を求め続けたんだ。求めて求めて、その先に何もなかったとしても、また別の道を模索する、そんな選択をしたんだ」


「何度も挫折しかけて、どうすることもできないのではないか、と半ばそう思いながら研究を続けていた。だがある日、私はある考えに至った。笑顔を増やす、そのためには万人が確実に笑顔になる物を見つける、そんなものは果たして存在するのか。もっと単純な方法を試してみるべきではないか。たとえば個人が発露する負の感情そのものを笑顔に変えてみたらどうか、とね」


「我ながら素晴らしいアイデアだよ、他者から介入されない感情そのものを操る手段として他にないからね。実際に脳神経に電気信号を与えることで、重度の鬱病患者の症状が大きく改善されたという事例もある。不可能じゃないのさ。ともかくその天啓ともいえるような閃きによって私の研究は飛躍的に進み、——そして遂に完成したのだ」


「……なに、を」


 ぺらぺらと長話をする教授を睨んで私は喉の奥から精一杯の声を絞りだした。


 さっきまで視界がぐるぐると回り、身体を上手く動かせず、教授の言葉もほとんど聞き取れなかったが、少しずつ楽になってきた気がする。さっきのあれは一体——?


「おや、ようやく話せるくらいには回復したようだね。ほら、上を見てごらん?」


 未だ机から離れられない私を見下ろしながら教授は言った。


 言われるまま首を上げると、そこには天井があった。

 白い壁の延長線上にあるかのように天井も白く、見る人に清潔感を抱かせる。そしてそれが結果としてコレの存在感をより強めることとなっていた。


「スピー、カー?」


 私の真上にあるソレは床に設置でもしていたら何の違和感も感じなかっただろう。疑問に思うとしても、せいぜい、何故研究室にあるのだろう、くらいの代物。しかしこうして天井に不自然に付けられていると、今までどうして気付かなかったのかと疑うほどに、圧倒的な不気味さを漂わせていた。


「人っていうのはね、案外見ないものなんだよ。上は特にね。まぁ、アオイさんのように警戒する人も今後増えていくだろうなって予想して、下に注意を引かせるように仕向けてたってのもあるけど」


「何で、そんなことを。私に、アカネに一体何をしたっていうの!?」


「そろそろまともに話せるようになってきたかな。そうだね。もうすぐでアオイさんも分かると思うけど……適切な言葉が見当たらないから、ここでは『次のステージに進ませた』とでも言っておこう」


「次の、ステージ……?」


 教授は「あぁ」と頷き、


「上の装置こそ、負の感情を笑顔に変える最高の発明品だ。人は感情によって異なる脳波を発する。というより、脳波の違いから感情が表れると言ったほうが正しいか。だから笑顔を増やすためには、負の感情を示す脳波を、笑顔にする脳波に変えれば良いというわけだ。どんなに嫌なことがあっても笑顔で、他者に当たらない人間。それが私が、全人類が行き着くべき理想の姿だと、そう思わないかい?」


「そんなこと、できるわけ」


 ない、そう言おうとして、


「この装置は」


 と教授の言葉に遮られる。というより、もはや私の言葉は耳に入っていないようだった。

 教授の顔は心の底から嬉しそうに見えた。


「特殊な電磁波によって脳波を乱し、感情の操作に成功している。アオイさんも聞いたことあるんじゃないかな。携帯電話の近くで寝たら電磁波の影響で身体に不調をきたす、的なやつ。結局関係なかったらしいけどね。その程度でどうこうできるほど、人の脳は弱くはないのだと。そりゃまあ実際にそうだったらもっと問題になってるだろうしね。——しかしこの装置は別だ」


 教授の講義を受けたことがないから分からないけど、講義中もこんな感じなのだろうなと、私は呑気に思う。今すぐに離れたいという思いとは裏腹に私の身体はソファから立ち上がろうともしない。


 どうしてだろう。どうして離れられないのだろう。どうして今そんなどうでも良いことを考えたのだろう。


 ——どうして離れなくてはいけないのだろう。


「この装置の面白いところは、電磁波によって変えられた脳波は固定化されることだ。上書きと言っても良い。アオイさんも体験したはずだよ。負の感情の脳波を恒常的に幸福の波形にセーブしたんだ。今はまだ脳がそれに慣れてないだろうけど、安心して。もうすぐで最高の幸せを手にできるから」


「——」


「おっと、安心して、というのはおかしな話か。アオイさんにはもう感情はないのだからね。それにしてもアオイさん、キミには感謝してもし足りないよ。お悩み相談といってもわざわざここまで来てくれる学生さんってかなり少ないから、アカネさんが来てくれなかったら、理論だけで実践まで行けなかったんだ。研究生も何故かみんな離れてしまったし」


「——狂ってる」


 精一杯に出した声は、掠れて教授の耳には届かない。


「本当に勿体ないよね、折角人間の理想形になれるというのに。まだアオイさんとアカネさんだけだよ、次のステージへと踏み込めた人間は。ただこれは言うなればまだ実験段階。改善点はたくさんある。完成次第再度キミ達の脳もアップデートしなくてはね」


「お前は、狂ってる」


 再度言っても効果はない。弱々しい言葉は直後に霧散する。


 そうか。私の、せいなんだ。

 私がアカネにちゃんと向き合っていれば、あんな風におかしくならなかったんだ。私が面倒臭がらずに話を聞いていれば、この狂人と会うことはなかったんだ。


 あんなにおかしくなって……おかしく?


「あぁ、楽しみだなぁ。世界が笑顔で溢れる美しい光景が、もうすぐそこまで来ているんだよ。誰もが暴力を振るわず、怒鳴り散らすこともない。虐げる者、虐げられる者が存在しない、平等な世界——ユートピアの体現者に私は成るのだ!」


 朝は空気が澄んでいて、教授の張り上げた声が良く響いた。


 研究室の中が妙に鮮やかに見える。大きな棚も、朝日に照らされ輝くパソコンも、入った時にはこんなに綺麗だったかと疑念を抱くほどに。


 でもきっと何も変わっていないのだろう。

 変わったのだとしたら、それは研究室ではなく私自身なのだから。


 どうやら、私もダメになったらしい。


『まだアオイさんとアカネさんだけだよ、次のステージへと踏み込めた人間は』


 諦観に力が抜け、脳内に再生される教授の言葉の数々。ぺらぺらとハイになって喋っていた中で、まるでダメではないとでも言うように、妙にこのセリフが引っかかった。


 次のステージとは一体、どういう意味だろうか。

 笑顔がそのステージとやらに必要なのだろうか。


 アカネは、そこに行けて嬉しいのかな。


「……違う」


 そこまで考えて、まどろんでいた意識がようやく覚醒した。


 そうだ。私はここで終わるわけにはいかないのだ。


 アカネをあんな風にした犯人を見つけ出す、犯人にアカネのことを治させる。まだ目的の半分しか果たしていないじゃないか。なのに私がこうでどうする。


「何が」


 胸中に渦巻く感情が、何か得体の知れないものに抑え込まれようとしている。

 甘くて、蕩けて、つい身を委ねてしまいそうになる何かに。耐えられる時間はそう長くはない。

 きっと私はそのままこの何かに呑まれてしまうだろう。けれど私のことは構わない。■な思いでも何でも受け入れる。でもそれまでに、アカネは、アカネだけは——!


「何がユートピアだ……」


 言ってやる。この狂人にどれだけ気味■いことをしているのか、どれだけ独りよがりな考えなのか、どれだけアカネを■しませてるのか、はっきり言ってやる。


「そんなの」


 血が滾り、全身から湯気が出ているような錯覚を覚える。この感情が一体何なのか、頭が疑問で埋めつくされているけど、そんなこと今はどうでも良い。

 ただただ目の前で恍惚とした表情を浮かべるこいつのすべてを■定してやりたくて堪らない。


 そんな情動と同時に一瞬だけ私の視界に映ったのは、満面の笑みを浮かべるアカネの姿。


 出会った時から大好きだった。あの子の幸せそうな顔を見ると、どれだけ■いことがあっても馬鹿らしく思えた。


『アオイ!』


 手を振り笑う彼女は、いつも笑っていたわけではなかった。

 自分に自信を持てなくて、何度も私に電話を掛けては■しみに涙を流していた。でもそうやって私を頼ってくれるのが本当に嬉しかった。


 どこへ行くのも、何をするのも一緒。たまにぶつかることもあったけど、後でお互いに謝ってもっと仲良くなれた気がした。


 そんな喜■■楽を共に過ごすことの愛おしさに今になってようやく気付く。

 大学を卒業して、社会人になっても、結婚して子どもができても、これからもずっと親友でいたい。いたかった。


 でも、きっともう叶わない。


 アカネ、■かったよね。■かったよね。■な目に遭っても、笑うことしかできなくて、心の奥の奥でたくさん■いてたんだね。


 アカネの■しみに気付けなくてごめんね。

 あの時、ちゃんと向き合えなくてごめんね。


「そんなのって……!」


 今、助けてあげるから。










「——とっても素敵な世界ですね!」




 あれ。私なんて言おうとしたんだっけ。

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