1日目 違和感

「そろそろ時間ですね。では今回の授業はこれまでとしましょう」


 今日受ける授業が全て終わり、私はペンケースとノートを鞄にしまった。

 寝不足からか、何度も意識が飛んでしまったが、なんとか今日の前半は乗り越えられた。後半があるかはこの後次第だ。


「さてと」


 教室を出て校門前でしばらく待っていると、「お待たせ〜」とアカネが駆け足でやってきた。


「行ってきたの? どうだった?」


「うん! すごく良かった!」


 おや、これは効果覿面か?

 アカネの顔は晴れ晴れとしていて、昨日まで泣きそうだったのが嘘のようだ。心が明るくなったからか、顔だけじゃなく、私に駆け寄ってくる姿やこうして話してる時の声色も、不自然に思えるくらい楽しそうに感じられた。


「向こうはなんて答えてくれたの?」


「うーん、何だったかなぁ。忘れちゃった!」


「忘れたって……」


「でもお陰で悩みが晴れたよ。ごめんね、アオイ。毎日毎日長電話して。もうあたし大丈夫だから!」


「そ、そう。なら良かった」


 何だかよく分からないけど、どうやら無事に解決したらしい。


 しかし昨日までああだったのに、ここまで変わるものか。やはり心理学の研究者達の力は恐ろしくもありがたい。


「どうしたの、早く帰ろ?」


 アカネは首を傾げて私を待っている。その長い髪は靡いてさわさわと揺れていた。


「何でもないよ。今行く」


 あぁ、やっぱりアカネは可愛いな。


 アカネの笑顔はお日様のように暖かくて、優しくて、そして愛らしい。

 アカネは知らないだけで、その笑顔に惹かれた人は数知れない。かくいう私もそのひとりだ。

 暗雲のようにどんよりとした表情よりも、今こうして笑ってくれている方がずっと良い。勧めたきっかけの半分は自分の為だったけれども、相談に行かせて正解だった。


「……でね、アオイに勧められたあの漫画読んだんだけど、もう涙が止まらなくて」


「でしょ! あの絵めっちゃ綺麗で惹き込まれちゃうよね。私は特にヒロインが好きなんだけど、アカネは?」


「あたしはやっぱり主人公かな。かっこよくて大好き!」


「だと思った。あれ、これからもっと人気になるはずだから、注目しておいて損はないよ」


 数日振りの楽しい時間に自然と会話が弾む。

 夜に降っていた雨もすっかり止んで、今は橙色の美しい夕焼けが空を覆っていた。


 大学から電車までの徒歩20分と少し長い道の中、もうすぐ駅が見えてくるというところまで来たのだが、未だ彼女の口からアキトの名前は出ていない。

 私は、最初はアカネが意識的にそうしてるのかと思っていた。しかしアカネのあまりに楽しそうな表情を見ていると、単にアキトへの脳内評価が、路傍の石の如く気にも留めないどうでも良い男へと大きく降格したからにも思える。


 どちらにせよ、私が知るべきところではない以上、わざわざ会話の流れをぶった切ってまで持ち出す必要もないだろう。それで楽しい会話が終わってしまうならば尚更だ。


 でも何か、見逃してはいけない何かを見逃しているような——。


「アオイ、あれ見て」


 アカネの声に思考を一旦止めて、彼女の視線の先に目を向けると、一台の白い車が走っていた。


 明らかに法定速度を無視した速さで。


 その車はブォォンと大きな音を上げながら、赤信号を突っ走り、横断歩道を歩くおばあさんを危うく轢きかけながらも、それでも何事もなかったかのように走り続けている。


 そして危ないな、と思うまもなく、歩道を歩く私達とすれ違って、


「——きゃっ」


 バシャンという音と共に、昨日の雨でできた水溜りを盛大に飛び散らして、車道側にいたアカネに思い切り汚水をぶち撒けた。


「アカネ!」


 彼女の服はびしょ濡れになっていて、水は顔にまで飛んでいた。長い髪は輝きを失って闇のように黒い。まるでちょっとしたウォーターアトラクションに乗ったかのようで、提げていた鞄の中にも水が溜まっているように見える。


 これが綺麗な水だったなら多少はマシだったかもしれない。

 しかし彼女から漂う仄かな泥の臭いが、さっきまでの心弾む時間をぐちゃぐちゃにぶっ潰した。


「待てよその車!」


 怒りに声を荒げて後ろを振り返っても、もう既にあの憎たらしい程に真っ白な車は見えなくなっていた。


「……クソッ」


 親からはそんな言葉を使ってはいけません、と何度も窘められたが、どうしても吐かずにはいられない。

 帰りがけとはいえ、折角のアカネの可愛い服が台無しになったし、綺麗な髪もべったりとして、地面に落ちた雨水の嫌な臭いを纏う羽目になった。

 今日ようやく私に笑顔を見せてくれたのに、その直後にこんな目に遭ってしまった彼女が不憫で仕方ない。

 このやり場のない怒りを抑えられる程、私は大人ではなかった。


「アオイ、大丈夫だから」


 そんな私を見かねてアカネが声をかけてきた。


「でも」


 私の言葉にアカネは「大丈夫だって」と重ねて言った。


「ちょっと今日は冬にしては気温が高いし、ひんやりしたいな〜って思ってたの」


 アカネはポケットからハンカチを取り出して、顔に滴る水を拭った。

 そのハンカチも拭く前から汚れていた。


「それに、これだけ水跳ねられることって滅多にないでしょ? 面白くない?」


「……どこがよ」


「ちょっと、アオイってばあたしが無理してるって思ってるでしょ」


「そりゃそうでしょ」


 これだけ泥だらけになった彼女を見て面白がるような奴なんてまずいないだろう。もしいるとするなら、それはさっきの車の運転手やアキトと肩を並べる程のクソ野郎に違いない。


「本当に大丈夫だって。ほら、行こ? もうすぐ電車来ちゃうよ」


 そう言ってアカネはスタスタと歩き始めた。

 まるでそれで怒るのが馬鹿らしい、とでも言わんばかりに。


 呆然として、燃え上がっていた私の心の炎が大水に呑まれたように消える一方で、アカネの姿はどんどんと遠くなっていく。


「あっ、待ってよ!」


 いつの間にかその距離は大きく開いていて、私は慌てて駆け出した。


 ——あれくらいの事故は何ともないくらい気分が良いのかな。


 虚勢を張っているとも思えなかったし、アカネ自身が良いと言うならきっと良いのだろう。それに、アカネは大人しいけど私よりも感情の起伏が激しい子だし、本当に嫌だったならすぐに表に出していたはずだ。


「でもなあ」


 多少は拭ったとはいえ、アカネの服は汚れたままだ。私としては安物で良いから服屋にでも寄りたいところだが、アカネはこのまま帰っても別に良いというのだろうか。


『本当に大丈夫だって』


 その時のアカネが、不自然なまでに可愛らしい笑顔を見せていたのが気がかりだった。

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