アイの二乗
七戸寧子 / 栗饅頭
虚数単位
あなたは神を信じますか?
宗教勧誘での決まり文句だ。好きな人に交際を迫って「好きです付き合ってください」と言うのと同じくらいにはお決まりの言葉だろう。もっとも、言葉をそんなストレートに使わずとも問題はない。むしろ、別の言葉や仕草でカーブを投げる方が粋だろう。
ところで、神を信じるか否かの話だが。結論から言うと、私は信じない。どうにも、そういうファンタジックで「あるかも」と「ないかも」の境目であぐらをかいているような話題は苦手なのだ。私は「ある」か「ない」で白黒をハッキリした物事の方が好みだし、曖昧なものより信頼できると考えている。神などは科学的な根拠がない以上、現時点では「ない」と言い切ってしまう方が楽なのだ。だから、私は神や幽霊などを信じないことにしている。
しかし、当然ながら私と考え方の違う人間はいくらでもいる。特に、目の前の男なんかはそうだ。
「なあ、ハニー。アイってこの世にあるかな?」
彼は数学の教科書とまっさらなノートを広げた上に頬杖をつきながら、そんなことを呟いた。私と彼しかいない放課後の図書室でその言葉はよく響き、向かいに座る私の耳の穴にグッサリと刺さった。
「ハニーと呼ぶな阿呆。勉強はどうした」
「いや、勉強してたら気になってさ」
白いノートのせいで説得力は皆無だ。それでも、共に広げている教科書の虚数のページは丁寧に質問の意図を解説してくれた。
「アイって、数学の
「虚数単位……だっけ? 実在しないらしいけど、マジでないの?」
「ああ。この世にある数字は全て数直線上に表せるらしいが、虚数はそれができない」
「難しいな。噛み砕いてよ」
この阿呆、質問する立場でこの態度である。腹立たしい。男というのは皆こうなのだろうか。腹立たしい。数学を教えてほしいと頭を下げてきたコイツの頼みを了承した私にも責任はある。ただ、放課後にわざわざ付き合ってやっているのだから多少の敬意を払っていただきたい。具体的には、ハニーと呼ぶのをやめてほしい。
仕方ない。ざっくり説明してやることにする。阿呆と言ったが、勉強がわからないのは何も悪くない。そんな彼に教えるのも復習の一環だと思って、私は彼の白いノートの上でペンを滑らせる。
「問題だ。2の二乗と-2の二乗を答えろ」
「どっちも4だろ、だから何?」
「数字、正確には実数を二乗すると、絶対に正の数になるって話だ」
「んなことわかってるよ」
やはり腹立たしい男だ。勉学の才はなさそうだが、私をイラつかせる才能はあるらしい。
「でもな、二乗したらマイナスになる数があった方が便利なんだ」
「はぁ? そんなもんないだろ」
「だから、人間は勝手に作ったんだよ。二乗して負になる数字を」
ノートの上にiを書いてやる。それを目で追っていた彼は、瞬きを一、二回してから私に疑問符を投げた。
「……それが、i? 虚数?」
「簡単に言えばそうだな。わかったか?」
「つまり、アイはこの世に存在しないと」
「そう言ってるだろう。iを掛け合わせれば実数として存在できるけどな」
ストレートな疑問符を華麗にキャッチし、ストレートで投げ返してやる。私は運動はからきしだが。
「マジマジのマジでない?」
「マジマジうるさいぞ阿呆」
またお互いのストレートで一往復したところで、彼がため息をついた。ぼーっと遠いところを見つめながら、へなへなと頼りない声色を投げてよこす。
「こう言ってると、愛が存在しないみたいで悲しくなるな」
「アイってあれか、恋愛のアイか」
この阿呆、勉強中にそんなくだらないことを考えているのか。愛なんてふわふわした物の話題を私に振るのはやめてほしいものだ。せっかく上手くできていた会話のキャッチボールもどうしていいかわからなくなる。
「恋愛の愛だよ。俺がハニーに抱く気持ちも本当は存在しないのかな」
「だからハニーと呼ぶな阿呆」
またストレートを投げてきやがる。キャッチボールをするにしろ、高くあげたり転がしたりあるだろう。もっと粋な表現を期待したいが、この阿呆はそんなものは投げれないだろう。
もっとも、このストレートを受け止める技量がない私は変化球なんかもっと無理かもしれないが。変な言葉を投げてくるせいで、余計に上手く投げ返せない。
「なあ、俺の気持ちって偽物?」
「知らん知らん」
「やっぱ気持ち伝わってない? だからハニーって呼ぶの嫌がるのか」
「ハニー呼びは普通にやめろ」
「ハニーへの愛も虚構なのか……」
「そんなに愛が虚構なのが嫌か」
阿呆が真面目くさった顔をしているのがなんだかおかしくてついニヤけそうになる。他意はない。
そんな私とは対照的に、彼は真剣そうだった。その横顔が沈みかけの夕陽に照らされて幻想的に見えるのが無性に腹立たしい。頭は悪い癖に顔は悪くない。勉学の才能はないくせに、私の口角を上げたり下げたりする才能は尖っている。全く、この男は。
柄にもなく、変化球でも投げてやるか。
「なら、私のアイでも使うか?」
彼のノートを指先でつまんで、私と彼が挟む机の中央に引っ張る。一枚だけページをめくって、真っ白なページに直線を一本引く。それと交差するように、もう一本分ペン先でノートを撫でる。
「ほら、こうすれば虚が実になるだろう」
私と彼の間に置かれたノートを、阿呆が覗き込む。阿呆と呼びすぎてアダ名みたいになってしまったが、これからは下の名前で呼ぶようになるのかもしれない。そうしたら、私もハニーじゃなくて名前で呼んでもらえるだろうか。一瞬口が緩みそうになったが、それを誤魔化すのは慣れたものだ。
さて、どんな反応を見せてくれるだろうか。これこそ、我ながら粋な表現。きっちりそのグローブで受け取るがよい。そして、小っ恥ずかしいストレートでも投げてこい。きっちり受け取ってやる。
と、思っていたのに。
「なにこのバッテン」
何を言っているのかこの阿呆は。照れ隠しか。私らしくないロマンチックな投球に度肝を抜かれたか。むふふ。
「今更照れるな阿呆」
「いやだから、このバッテン。なにこれ」
「え? 乗算符号に決まっているだろう」
「じょーさんふごー? なんだそりゃ」
「え、いや、だから、iとiを掛けたら実数になるから、愛と愛……え、その、え、伝わってない?」
せっかく、私から歩み寄ってやったというのに。彼のアイを、実数にしてやろうと思ったのに。私のアイも、これでやっと実を結ぶと思ったのに。全く。まったく。
「こ……このアホっ!」
こんな阿呆、トーストのちくちくが口内に刺さって悶えてればいい。呪詛を吐きながら、私は図書室を飛び出した。日はすっかり沈み、空は綺麗な藍色をしていた。
アイの二乗 七戸寧子 / 栗饅頭 @kurimanzyuu
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