10.「狽」


「――で、あるから、オキシドールと二酸化マンガンが触れると、酸素が発生します」


 全国津々浦々。どうやらどこの学校も理科室の机はヒンヤリと冷たいらしい。

 命がけの鬼ごっことやらが始まって、二日目の午後――

 頬杖ついて、ボーッと黒板に目を向けて……、隣に座っている名前も知らないクラスメートが、チラチラと俺に目を向ける。それなりにウザッたいが、いちいちウザがるのも面倒だった。


 ――クラスにいる色眼族の両眼を『全て』狩ればいい――


 頭の中で、機械みてーに淡々とした声が反響する。


「――ちっ素だけのビーカーでは、このようにろうそくの火は消えてしまいます。ちっ素には、ものを燃やす力がないんですねぇ~」

 ……もし俺が『鬼』だったとしたら、どうしてたんだろうな。必死こいて他の色眼族を探して、両眼を潰して回るのかな……。


「――水に溶けにくい性質を活かして、水の中で酸素だけを取り出すこともできます」

 ……いや、考えるだけ無駄か。


「――先ほど申したように、少量の二酸化マンガンの中にオキシドールを入れると……、ブクブクと、泡が発生しますねぇ~、これが、酸素なんですねぇ~」

 ……俺は『鬼』じゃないんだ。『鬼』じゃない俺が、『鬼』だったらなんて考えられるワケがない。――というか、そんなこと考える必要がない。


「――酸素にはモノを燃やす力があります。アルコールと一緒ですねぇ~。……ちなみに、ワンちゃんはアルコールの匂いが苦手だって知ってました? 嗅覚が鋭いから鼻がヒン曲がっちゃうんです。……あ、コレ理科の授業と関係ないですねぇ~」


 ――『他人を犠牲にしてでも、生きていたいと思う?』


 …………。



 ……雪村、それ、どういう意味なんだよ――



 ――ビチャビチャビチャビチャッ……


「――このように、机の上にアルコールをぶちまけた後に」


 ……ん?


 ――シュボッ。


「――このように、火のついたマッチを、アルコールの海にポイッと放りますと」


 ――ゴォォォォォォォォォォォォッ!


「――このように、ゴウゴウと燃え盛る火が発生するんですねぇ~」



 ――はっ……?



 気づいた時には、視界の端から端まで、橙色の光に染まりあがっていた。



 ――悲鳴、絶叫、驚嘆、焦燥。

 数秒遅れて、音が耳になだれこむ。

 顔面が燃えるように熱い。俺の意志とは裏腹に全身から汗が噴き出る。


 目に飛び込むは、業火、それと――

 炎の裏側、ニコニコと。

 娘を愛でるような表情で笑っている、初老の理科教師で――


 ……何が、起きた?


 状況に、脳の理解が追い付かない。



「――お、おい! 逃げないとヤバイぞ!」


 誰かの叫び声が聞こえ、ハッとなる。

 弾かれたように、隣りに座っていた男子生徒が飛び上がって――

 ――ガタッ、ガタタッ、ガタッ、ガタガタッ……

 隣りの奴だけじゃない。理科室にいたクラスメートたちが我先と立ち上がり、教室の出口に一斉に向かい始めた。


「――早くしろ! ボーッとしてんじゃねぇ!」

「――あ、アンタ! 転んでんじゃないわよっ! 早くどいてよっ!」

「――イヤァァァァッ、死にたくないぃぃぃぃっ!」



 阿鼻叫喚、地獄絵図、有象無象、滑稽奇怪。

 約三十名の若人たちが、齢十七年の人生を終わらせるにはまだ早すぎると、

 必死に、一目散に、

 自らの命を、守ろうとしていて――



「……きゃっ――」



 聞き覚えのある声。か細い悲鳴。ふと、目を向けて、


 ……雪村ッ!


 心の中で、その名を叫んだ。思わず立ち上がっていた。

 理由は、自分でもわからない。


 誰かに突き飛ばされ、地面に倒れ込んでいた雪村が、俺の声に気づいてコチラに眼を向け――、


 ――向けられることなく、彼女は俺から視線を逸らした。


 ……えっ?


 線の細いロングヘアを纏った後ろ頭を、俺はボーッとした頭でただ眺める。



 ドンッ。



 誰かの身体が俺の肩にぶつかり、少しばかりよろけながら意識を取り戻す。

 教室の入り口近くは有象無象の黒アリたちがなだれ込んでおり、すし詰め状態になったその場所は地獄の交通渋滞を巻き起こしていた。

 後ろを振り返ると、すぐそこまで差し迫っている炎がジリジリと俺の顔を焦がす。


 ……やべぇな。

 文字通り、四面楚歌。退路は絶たれ、唯一の脱出口は人込みで塞がれちまっている。

 ……『異能』を使って――、いや、意味ねぇな……。『念導』が活躍できるようなシチュエーションじゃない。それに、パニック状態とはいえこんな大勢の前で赤眼を晒すワケには――


 思考が手詰まりになったところで……、でも俺は何故だか存外冷静だった。

 なんか、バカみたいに必死になって逃げようとしている『コイツら』を遠巻きに眺めていたら、

 ――あまりにも滑稽な惨状が、まるで深夜に観ているB級映画のように映って――



 バリンッ。


 ふいに、音。何かが派手に砕かれた。


「――オラァッ! 消防士サマのお出ましだぜ~!」


 ――声。緊張感が張りつめる空間に、およそ似つかわしくないほどに気の抜けた。


 ――ブシュ―ッ!



 ――噴射。そして、白。白。白――

 一瞬の間。視界が白い煙に支配される。

 呼吸の仕方を奪われ、思わず口を両手で覆った俺は条件反射で地面に身を伏せた。

 状況が把握できない。俺はたぐりよせるように手を動かし、身を屈めさせながら火の元と反対側――、教室の端へと移動した。


 ゴンッ――、と頭をぶつけた俺は壁に到達したのだと理解する。そのままくるっと教室の中央に向き直り、壁を背もたれにしながら、薄ぼんやりとした視界の中、必死に眼をこらして――


 理科室の『外廊下』。割れた窓ガラスの向こう側から、

 消火器を手にした陽介が、ケラケラと笑いながら白い煙を噴射しているのを発見する。

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