7.「歪」
命がけの鬼ごっことやらが始まって、二日目の朝――
相変わらず夏の太陽は容赦がなく、坂道のキツい徒歩通学には一生慣れる気がしない。
学校の昇降口。ゴールにたどり着いた俺は膝に両手をつきながら肩で息をしていた。
「……はぁっ、はぁっ――」
呼吸を整えて、浮き出た汗をぬぐって――
ヨロヨロの足取りで、錆びついた靴ロッカーの扉をガチャリと開け放つ。
――はっ……?
――声を、失った。
グルグルと、視界が定まらない。
火照っていた身体が急速に冷めていく感覚だけが巡る。
買ったばかりで、新品同様の上靴。
――の、上。
見覚えのある一枚のノートの切れ端と、得体のしれない小さな紙袋。
ピタリと、完全に思考停止してしまった俺の耳に――
「――おはようございます」
無機質な声が、無遠慮に飛びこんで。
「――うおっ!?」
思わずガバッと後ろを振り向くと、少し紫がかったショートヘアが遠慮がちに揺れた。
「……お前は、忍者の末裔か」
「いえ、しがない公務員の娘です」
ソイツ――、月影あざみが周囲を遠慮がちに見まわした後、ジトっとした目つきで俺のコトを真正面から捉えなおす。
「ソレ、誰か来る前に早くかばんにしまってください」
――ハッとなった俺は……、言われるがまま、慌ててノートの切れ端と紙袋をスクールバッグにつっこみ、ふぅっと短い呼吸を漏らす。
「……お前は、見たのかよ、中」
「ええ」
「何が入ってた。何なんだよ、この袋」
口元に指をあてたアザミが、何かを考えるようなそぶりを見せて、
「おそらく、直接見た方が早いかと。ただ、人がいるところでは避けた方が賢明ですね」
「……あっ、そう」
ボソリと呟いた俺が、新品同様の上靴をポイッと地面に放る。
「一条さん、昼休み、また屋上で待っています」
トントンと、かかとの帳尻を合わせていた俺の耳に、そんな台詞が飛び込み、
「……状況が変わりました。『例の提案』をさせてください」
「――はっ……?」
バカみたいな声をあげたのは『俺』で――
台詞を置き去りにした彼女がくるっと背を向けた。
アンドロイドロボットみたいな足音だけが、等間隔に響く。
※
男子トイレの個室。壁を背もたれにした俺は、広げたノートの切れ端を眺めていた。
『鬼の両眼が潰れるまであと六日。人間チームの脱落者0名』
昨日と同じ、無機質な筆跡。
……なんのことはない、ただの業務連絡だ。浮彫になった事実は、例のゲームとやらが一日限定のイタズラではなかったってことくらい。
見事な肩透かしをくらった俺は、片足に体重をかけながらダルンとやる気の無い目つきで、ビリッと乱暴に破いた白い紙袋を逆さにひっくり返して――
ぴちゃっ。
『ナニカ』がこぼれおちて、俺の掌が濡れる。
……はっ?
――一瞬。
理解ができない。俺は『ソレ』を、うまく認識することができない。
『ソレ』はギョロリと、俺のことをただ見つめる。
「――う、うわぁぁぁぁっ!?」
条件反射で俺は手を引っ込めて、思わずガバッと後ろにのけ反った。
ガンッ――、と頭を派手にうちつける。けど、痛みを感じている余裕はなかった。
ポトリと、薄汚れた地面に転がっている。
ヒトのメダマが。
※
――キーン、コーン、カーン、コーン……
……。
……ん、なんか聞こえたな。
……ああ、チャイムか、授業、終わったのか――
……。
……今、何限目だっけ。
……確か、四限目――
「――アマリくん?」
「――ッ!?」
声なき声が狭い教室内に木霊し、俺はよほどマヌケなツラを晒しているのだろう。
眼前の雪村の肩がビクッと震え、彼女の口から「えっ」と驚愕したような声が漏れ出る。
「ご、ゴメン……、急に、声かけちゃって――」
「い、いや、俺の方こそ、ボーッとしてて……」
――真新しい記憶の断片。夕暮れの一本道。
イメージの中を漂う雪村は、消え入りそうな表情で、消え入るような声を漏らしていて――
「……はいっ、コレ!」
眼の前で屈託なく笑う少女と、およそ同一人物とは思えない。
「えっ?」
「『えっ?』……って、お弁当だよ! 作ってきてあげるって約束していたでしょう?」
「――あっ」
――果たして、忘れていた。……っていうか、社交辞令か何かの類だと思って本気にしていなかった。……まさか、マジで作ってきてくれるとは。
俺の腹が、思わずグゥッと鳴って。
「……本当に作ってきてくれたんだな、ありがとう、雪村様」
腹の虫に従うがまま、俺は眼の前の仏に向かって両手を合わせた。
「……だから、その呼び方はヤメテってば――」
「――えーっ!? なになに!? 愛妻弁当!? お前らまさか付き合ってんのー!?」
台風の襲来。俺の右耳から。
チラッと視線を向けると、言わずもがな……、何が面白いのかケラケラと無邪気に笑っているのは金髪の子猿。もとい、『志鎌 陽介』で――
「……ったく、すぐそういう発想に結び付けて……、お弁当作ってきただけで『付き合ってる』とかさ、じゃあアンタはお母さんが彼女なワケ?」
雪村のジト眼に――、しかし陽介は怯む様子を見せない。
「いや! そんなワケねーだろ! まぁ俺、母ちゃん好きだけど!」
陽介がニカリと白い歯を見せて、雪村がハァッと呆けたタメ息を漏らす。
……なんだ、この平和なやり取りは。
日常。
同じクラスメート同士、冗談を言い合い、談笑に耽る。
およそ当たり前の、およそ何の変哲もない光景なんだろうけど……。
眼の前のリアルが、俺の眼にはフィクションにしか映らない。
「アマリくん、せっかくだから、今日は三人でお昼ご飯たべない?」
ニッコリと、彼女が再び屈託のない笑顔を見せて、
「おおっ! そりゃいいな! ドコで食おうか。せっかく天気良いし『屋上』とか――」
陽介が発したその『言葉』。
俺の脳裏で、紫色のショートヘアがフワッと揺らぐ。
――昼休み、また屋上で待っています。
「――わり……」
視線を逸らした俺が、重力のかかった声を漏らす。
「……先約があってさ、今日は、無理なんだ」
「えっ?」と、陽介の驚いたような声が俺の耳に流れて。
「――ハハーン……」
フッ――、と顔を上げると、何故だか嫌らしく口角を上げているのは『雪村』だった。
「……もしかしてアマリくん……、転校一週間でもう他クラスの子に手をだしてるワケ? ……意外とやるねぇ~」
完全に何かを勘違いしている雪村が、ニヤニヤ笑いながら俺の肩をこづく。
「い、いや、そういうんじゃ――」
「おおっ、すげぇなアマリ! ええとこういうのなんて言うんだっけ、すけとうだら?」
……たぶんだけど、それは『すけこまし』だ。
「――まぁ、そういうコトなら仕方ないわね。でもまた今度、三人で食べましょう?」
ニコッと雪村が笑う。……気のせいかもしれないが、その顔が少し寂しそうに見える。
「すけとうだらなら仕方ないな! ……だったら雪村、俺と二人で食おうぜ!」
「いや、陽介と二人はいいや」
「えぇーっ!?」
ズコーッと――、陽介が椅子からずり落ちて。
雪村がくれた桃色の玉手箱。後生大事に抱えた俺がおもむろに立ち上がった。
「……またな」
力なく笑って、二人に背を向ける。
ぬるま湯を抜け出して、
非日常から日常へ。
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