240.会えませんか?


 姫子が慌てて文句と共にリビングに飛び込めば、朝食を食べている隼人と目が合った。

 隼人は気まずそうな顔で食パンを飲みこみ、「あー」「えー」と母音を転がし、そして少し困った顔で言う。


「その姫子、今日の寝癖は一段と酷いぞ……?」

「ぎゃーーーーっ!?」


 指摘され頭に手を当てれば、鏡を見なくても大爆発しているのがよくわかった。経験上、これはかなり手ごわそう。しかも寝坊している。姫子は矢も盾もたまらず洗面所に駆け込んだ。

 姫子がブォォォォォとドライヤーを片手に寝癖と格闘していると、キッチンから背中に声を掛けられる。


「あら姫子、朝ご飯はー?」

「いらない! 時間ない!」

「母さん、こういう時はフルーツヨーグルトサラダだと食べるよ。姫子、いるよな?」

「いるっ!」

「それ、どうやって作るの?」

「バナナとかリンゴとか缶詰とか、冷蔵庫とかにある適当に切った果物に、水気を切ったヨーグルトとマヨネーズで和えるだけ」

「あら、簡単なのね。こんなのどこで知ったの?」

「ネット。スマホで」

「へぇ」


 そんな、かつて月野瀬でも繰り広げられていた家族の会話が聞こえてくる。

 鏡に映る姫子の顔は、随分と眉間に皺が寄っていた。



 その後、用意されたフルーツヨーグルトサラダを掻きこみ家を出た。

 少々寝坊したものの朝食の時間をショートカットしたおかげで、いつもよりちょっと遅いくらいの時間だ。

 姫子はぷりぷりと頬を膨らませながら、足早に通学路を歩く。

 隣の兄は少しバツの悪い顔をしている。

 普段ならどうして起こしてくれなかったのと文句を言ってるところだが、昨日の自分の態度を考えれば口を噤む。だけど顔には出てしまっている。

 はぁ、と悩ましいため息を吐く。

 頭では大丈夫だとは理解している。でも不安がぬぐえない。

 空気を悪くしている自覚もある。だから何とかしなければと思い巡らし、ふと春希の顔が脳裏を過ぎり、「ぁ」と声を上げた。

 

「どうした、姫子?」

「……ん、別に」


 隼人が気遣わし気に声を掛けるも、ついそっけなく顔を逸らす。

 そんな子供じみたことをする自分じゃどうすればいいかを思い浮かばずとも、春希ならどうだろうか?

 昨夜のこともあり、春希になら相談しやすい。

 今日会ったら、放課後時間を作ってもらって話を聞いてもらおう。

 そうこう考えているうちに、いつもの待ち合わせ場所に着く。

 既に沙紀が待っており、こちらに気付くとにぱっと笑顔を咲かせて軽く手を上げた。


「おはようございます姫ちゃん、お兄さん」

「おはよ、沙紀さん」

「……おはよ」

「あれ、春希は?」

「まだです」

「うーん、特に遅れるとかの連絡も来てないよな?」


 キョロキョロと周囲を窺うも、春希の姿は見えない。今日は寝坊したこともあって最後だと思っていたから、意外に思う。

 隼人が首を捻りながらスマホを取り出し連絡をしようとすれば、近くの物陰からおずおずと春希が姿を現す。どうやら隠れていたらしい。


「あーその、おはよう」

「いたのか春希……って、どうしたんだ、その頬?」

「春希さん、それどうしたんですか……?」

「あ、あはは。やっぱりちょっと目立っちゃってる?」


 どうしたわけか、春希の左頬はうっすらと赤くなっていた。

 もう片方はいつも通りなので、それはよく目立つ。春希になにかしらあったのは明白だ。

 春希は困った様に眉を寄せ、皆の間に視線を泳がせる。

 隼人、沙紀、そして姫子の顔が心配の色に染まっていく。

 そしてジッと隼人に見つめられた春希は、やがて「うん」と言って頷き何かを呑み下し、少し躊躇いながらもしかし努めておどけた調子を装い口を開いた。


「昨日さ、帰ったらお母さんがいたんだ。ほら、こないだ浴衣買いに行った時のMOMOの動画を見つけちゃったみたいで、それで」

「っ!」

「春希……っ」

「えっと、それって……」


 春希の口から母――田倉真央の話題が飛び出せば、たちまち皆の顔に緊張が走る。


「あ、大丈夫だから! 良い子・・・にしとけって釘を刺されただけだし!」


 そんな皆の顔を見た春希はしきりに何でもないよと強調するものの、未だ赤い頬が異を唱えているかのよう。

 姫子は後頭部をガツンと殴られたような衝撃を受けていた。

 一軒家での1人暮らし。

 頬に残る暴力の痕。

 表沙汰にされていない大女優田倉真央の娘。

 春希の母子関係は上手くいっていないを通り越して歪、破綻の一歩手前。

 ズキリと痛みが走った胸を、ぎゅっと握りしめる。

 春希の事情を、もしかしたら姫子以上に知っているかもしれない兄は、険しい目で彼女を見つめている。

 姫子がはらはらと見守っていると、やがて隼人は「ふぅぅ」と」大きなため息を吐き、しかし一転明るい笑みを浮かべて軽い調子で口を開く。


「そっか。けどその頬結構目立つから、学校でツッコまれるかもよ?」

「う、どうしよう……」

「あ、ニキビとかで赤くなった時、コンシーラーで隠すとか聞いたことあります!」

「コンシーラー?」

「肌荒れ隠しだよ。生憎持ってないなぁ。コンビニでも買えるけど、ガチャ数回分はしちゃうし」

「おい、例え方!」

「あはは、私も持ってないです。姫ちゃん、持ってる?」

「っ! あ、あるっ」


 話の水を向けられた姫子は慌てて鞄のポーチから取り出し、春希に手渡す。


「ありがと、ひめちゃん。ちょっと借りるね」

「うん……」

「……あ、ほんとに消えた」

「化粧って凄いな」

「隼人もしてみる?」

「しねぇよ」

「えっ!?」

「沙紀さん!?」


 姫子は目の前でわいわいと普段を装う春希を見ながら、呆然としていた。

 春希のことを思えば、母のことを相談なんて出来ようはずがないではないか。そんなことも気付かなかった自分が恥ずかしい。

 その時、鞄の中でスマホが震え通知に気付く。半ば無意識で操作し、確認する。


『返事が遅れてごめん。よく考えてみたんだけど、好きなタイプとか意識したことなかったから、よくわからなかったよ』


 一輝からだった。

 一昨日、沙紀と共に愛梨の恋愛相談を受けた時に送ったものの返事だ。

 ふと秋祭りの時、真摯な顔で友達になりたいと言ってくれたことを思い返し、はたと閃く。

 秋祭りの一件で悩みが晴れ、スッキリした顔も記憶に新しい。

 それだけでなく、有名モデルMOMO家族に持つともなれば――気付けば姫子は、衝動のままにメッセージを送っていた。


『今日の放課後、会えませんか?』

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