約束

7.朝の時間は貴重です


「ぎゃー、寝坊したーっ!」


 早朝の霧島家に、絹を裂くというには程遠い、姫子の叫び声が響き渡る。

 隼人はその声を聞きながら「またか……」と呟き、呆れた顔のまま長方形の卵焼き用フライパンで、器用に卵をひっくり返していた。


 作っているのはだし巻きたまご。かつおぶしがしっかり効いた、隼人の得意料理の一つである。もちろん宴会でのお墨付きだ。冷蔵庫の掃除がてらに刻んだ水菜が入れられているのはご愛敬。しかしこれはこれで食感が楽しくなるので、隼人本人は気に入っていた。


「もー、どうして起こしてくれなかったの!」

「いやだってほれ、時計」

「もう7時半回ってんじゃん!」

「余裕だろ?」

「ダッシュしても……って、そっか。そうだった」

「向こうと違って、学校近いだろ?」


 寝癖がまだ付いたままの姫子は、テヘリと小さく舌を出す。

 急な引っ越しに思う所はある。しかし登校時間が大幅に削減されたのは、素直に喜ばしいところだった。


「おにぃ、それなに?」

「弁当だよ。昨日の残りにだし巻きを加えただけだけど。昨日、購買や食堂を見てちょっとな……」

「あーうん、そういう事。で、時におにぃ様?」

「はいはい、姫子の分もあるぞ」

「さっすが、わかってる!」


 隼人は昨日の人だかりに薄ら寒いものを感じていた。

 全員が食べ物に向かって殺到する様はさながら合戦である。

 それは都会の学生にとっては慣れたものだろう。しかし田舎者の隼人はそんな訓練を積んでいない。たまにならともかく、隼人は毎日あの戦場に突撃する勇気は持ち合わせていなかった。それはきっと妹も同じだろうと思い、あらかじめ2人分用意していたのである。

 隼人は割と、世話焼きなところがあった。


 時間に余裕があるとはいえ、さほどゆっくりしていられる程でもない。

 手早く朝食と準備を済ませ、隼人と姫子は同時に家を出てカギをかける。


「暑い……」

「あっつ……」


 そして外に出た瞬間、兄妹そろって同じセリフを吐き出した。

 田舎と違って剥き出しの地面は無く、敷き詰められたアスファルトが熱をたくわえている。日差しを遮る木立も皆無で、初夏の太陽がこれでもかと肌を焼く。

 月野瀬と違い、この街は体感温度がやたらと高い。兄妹は朝からげんなりした気分のまま通学路を歩く。


「じゃ、あたしこっちだから」

「おぅ」


 途中で姫子と別れた隼人は、田舎の涼しさを恋しく思う。

 人の多さと緑の少なさが、否応にも新天地に来たことを意識させる。

 望んで来たわけではない。馴染むには、まだまだ時間が掛かりそうだった。


(あ、そういえば)


 田舎の事を考えていたのか、気になることを思い出す。

 昨日、月野瀬の事を連想させられた、校舎の裏手にある畝の作られた花壇である。


 ズッキーニの花は朝に咲く。そして昼過ぎにはもう萎れてしまう。

 だから、朝の内に受粉させなければならない。

 脳裏に浮かぶのは、一所懸命だけどあわあわしてばかりの女の子。


(大丈夫かな……)


 校門を通り過ぎた隼人は、気付けば足が花壇へと向かっていた。

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