美術館の像
ある高原の美術館に、ぼくとフリーライターのYはやって来た。美術館の所蔵する写真の原板を貸してもらうためだ。
用件は、すぐに終わった。
せっかく来たからと、ぼくらは館内展示を観て回りはじめた。
その中でぼくとYの目をとめたのは、ある、グリーンの銅像だった。
シルクハットを被り、モーニングを着た、一八〇センチくらいの男性の立像である。
「不思議な像――」
Yが言った。
「暗いところで見たら、ちょっと不気味かも」
「ふむ」
Yの言うとおりであった。
銅像には、肩とか、左胸とか、右の太腿とか、左のふくらはぎがなかった。虫にかじられた木の葉のように、その部分が空白になっているのだ。
ぼくは台座の名札を指し、
「<紳士>だそうだ」
「<紳士>ねえ。あ、あれ」
壁に、プレートが掛かっていた。
読むと、作者は市内の生まれで、ある美大の名誉教授だ。かなり高齢だが、存命だそうだである。
「きっと、自分は着飾った紳士のつもりでも、本人の知らない未熟さとか至らなさがある、というメタファーじゃないかな」
安直で、説教くさい解釈だが、ぼくが言ったことにYも頷いて、
「そんな感じかしら。なんだか、変わった作品があるのね。遠くまで来て良かったわ」
ぼくとYは、また歩きだした。
すると、少し進んだところにテーブルがあって、その上に、アンケート用紙と回収箱が載っている。
見ると、
「さきほどの彫像〈紳士〉につきまして、貴方は像の欠損部分にどのような〈色〉を与えますか。ご記入の上投函願います」
とだけあった。
「なんだこりゃ」
後出しでそんな質問をされたことがないから、びっくりしてしまった。
「きっとあれじゃない?」
Yは言った。
「作品の延長なんじゃない?」
「え」
「この問いも、作品の一部なんじゃないかしら。少し時間をおいて、あの銅像を思い出したとき、あなたの頭の中にある、欠損を埋める部分の色はなんですか、みたいな。作品はまだ終わっていなかったのよ」
そう言われてもよくわからないが、面白そうなので、回答することにした。
「きみは何色と思う」
「あたしは、そうね」
Yは少し考えたあと、
「赤かしら」
「赤?」
「そう。赤。だって血の色だもの。欠損を埋めるのは肉なんだから、赤だとすぐに思ったわ」
「なるほど、ぼくと同じだ」
「でも、肉の中には骨があるわよね。そうしたら、白って答えてもいいのかしら」
「正解のある問いではないから、なにを答えてもいいだろう」
「そう。――なら、赤って書きましょうか。最初に思いついた色だから」
「そうしよう」
鉛筆を走らせながら、グリーンの銅像なのだから、欠損を埋めることだけを考えれば緑系色がいいはずなのに、どうして二人とも赤を選んだのか不思議に思った。
しかし、そんな安易な答えを返す人は、あまりいないだろうとも思った。クイズじゃあるまいし、作者からすれば、そういうことを訊いてるんじゃありません、となるだろう。
用紙を投函したとき、箱の中にかさっと手ごたえを感じたから、割とたくさん紙が投じられているようだった。
それから、一カ月ほどして。
ぼくは、写真の原板を返却しに、また美術館を訪れた。
今日はYがいないが、せっかく来たから、また展示を観て帰ろうと思った。
そうして、例の<紳士>のあった場所へ来てみると……
銅像がない。
台座もない。
プレートもなかった。
銅像があった場所には何もなく、つるつる磨かれた、フロアの床があるだけだ。
あれは、特別展示だったのだろうか。
むろん、アンケート用紙も、箱もなかった。
アンケートの結果を見た作者に、なにか心境の変化が起こったのだろうか?
わからない。
わからないが――
学芸員がこちらをちらちら見て、ぼくが顔を向けると、ふいとそっぽを向いたのは事実である。
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