まぼろしの波間(抄)

冒険の報酬


 最終レースまで粘ったものの、軍資金を完全にスってしまったぼくは、はたから見ても明らかに落ち込んでいることがわかったらしい。

 ウインズを出て、最寄りの地下鉄の駅に乗ろうとするぼくを、身なりのしっかりした老人が呼びとめた。

「そこのあなた」

「なんです」

「楽にお金を稼ぎたくありませんか?」

 ああ、キャッチか。

 無視しようとするのを、

「お待ちなさい。たとえば、大声を出すだけでお金が貰えるとしたら、あなたどうします」

「は」

「具体的に言いましょう。あなたの家はアパートですか。持ち家ですか」

「持ち家ですが。父の……」

 いまだに独身のぼくは、両親と三人暮らしだ。

「なるほど。では、家は住宅街にありますな」

「そうですが」

「では、夜中に、そこの住宅街の道路に立って、こう叫んでください」

「…………」

「火事だァ!!」

「は」

「そう、大声でね。いいですか。火事だァ! 火事だァ! ですよ」

「ちょ、ちょっと待って」

 意味がわからない。

「そんなことしたら、近所の人がびっくりしますよ」

「だから面白いんです」

 老人は、くすくす笑い、

「ピンポンダッシュなんか目じゃないね。きっと大笑いしちゃいます」

「…………」

「あなたがそれをやってくれるなら、それなりのお金は出します。もっとも、その後、お宅がそこに住みづらくなったとしても責任は負えませんが」

 なにを言っているのだ?

 ちょっとおかしいのではあるまいか?

「これは娯楽なんですよ」

 老人は言った。

「この年齢になると、生きていても、面白いことなんてほとんどありません。若いころのように、美食に美女にスポーツカーにと追いまくる気もありませんし、小説を読んでも嘘くさくて辟易し、テレビをつければつまらない番組ばかりやっていますからね。自分でお金を払うから、ばか、と言ってはなんだが、ばかなことを代わりにやってくれる人を探しているんですよ。私はそれを見たいんだ」

 老人の意図はわかった。

 酔狂な人ではあるが、それなりの考えをもって話しているらしい。

「ほかにもありますよ」

「え」

「たとえば、その住宅街、夜の車通りはどうですか」

「車通りですか? ほとんどないですね」

 つい、真面目に答えてしまった。

「通りから入った狭い市道なので、夜は滅多に通りません」

「では」

 と老人はにやりと笑い、

「あなた、夜中の二時から一〇分間、その道路に仰向けに寝てくれませんか」

「は」

「なにがあっても、その一〇分間は起き上がっちゃだめです。寝たままです」

「それじゃ、車が来たら轢かれますよ」

「ですから面白いのです」

 老人は、くくく、と肩を揺らして笑い、

「車通りのほとんどない道路だが、もしかしたら、車が通るかもしれない。通らないかもしれない。そのスリルが面白いのですよ。あなたがもしもやってくれるなら、五〇万円出しましょう。いえ、もっと出してもいい」

 五〇万円だと?

 道路に一〇分間寝転ぶだけで?

 だが、いっかな車通りのない市道といっても、なにかの拍子で車が通るかもしれない。

 五○万円のために命を賭けるだなんて……

「仮に車が来たって、ふつう気が付きますよ。だって狭い市道なんでしたら、そんなにスピードを出して進入できないでしょう。それならライトで充分わかると思います。ですから、まず轢かれるなんてことはないんじゃないですか」

 他人事のように老人は言う。いや、他人事には違いあるまい。

「といって、もしも亡くなられたらごめんなさい」

「…………」

「そのほかにも、まだまだありますよ。あなたの家の、隣の隣の隣の隣の隣の隣の家へ、全裸で、回覧板を届けてきてください。昼でも夜でも結構です。郵便ポストに投函するだけで構いません。その間、だれかからキャアと叫ばれたり、全裸であることを糺されたり、警察に通報されたりしなければ、二〇万円差し上げます」

「しかし、捕まっちゃいますよ」

「それはそうでしょう。失敗したらね。だけど成功すれば、何も起こらない。二〇万円はあなたのものだ。おめでとう」

 老人は続けた。

「あるいは、真冬に湖へ飛び込んで、般若心経を、どんなに早口でもよいから頭からお尻まで唱えてください。成功したら、三〇万円差し上げます。心臓が止まったら、そのときは申し訳ない」

 老人は、おそろしいほど屈託のない笑みを浮かべ、

「最近のテレビは無難なことばかりやりますからね。あなたの姿を見ながら、大いに愉しませてもらいますよ。この、退屈な老人がね」





 了

 

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