警告


 出張の折、ホテルのラウンジ・バーで相席を求めてきたのは、四〇がらみの女性だった。賢介は、彼女が結婚指輪をしているのを見咎めたが、彼が何かを言う前に、彼女は賢介の脇へ滑りこんできた。それから、いたずらのように彼の薬指を眺めて、いい指環ね、と言った。賢介は、あれよあれよと、彼女のペースに引き込まれてしまった。

 会話には、思いもかけず愉しい花が咲いた。

 彼女は通訳者だと言った。

 明日、市内で行なわれる国際コンベンションでロシア語の通訳をするため、前入りしたのだという。ロシアに留学した経験があるのか、酒には強く、ウオッカやテキーラを、ショットグラスで何杯も飲んだ。若い賢介もそれなりにいける口だが、彼女のペースには付いていけなかった。

 ラウンジ・バーは、午前一二時で閉まるという。

 それじゃ出ましょうかと賢介が言うと、彼女は彼にもたれかかるようにして立ち上がり、ボーイを呼んで、手早くカードで精算をした。

 賢介が慌てて財布をまさぐると、彼女は人差し指を口に当て、いいのよ、と割合しっかりした声で言った。こういう何でもない心意気によろめきやすいのが、賢介には悔しかった。

 バーを出て、フロントのコンコースを歩く賢介の肩には、いつしか女性が寄りかかっていた。

 彼女は、化粧を直したり髪を整えたりしたいから、わたしの部屋にしましょう、と言った。

 賢介は生唾をのみこみ、頷いた。

 呆気なく駆け引きが終わったところで緊張が解け、ふいと、手洗いに行きたくなった。冷たいものを、女性を追いかけるように立て続けに飲んだから、腹が冷えたのだ。

 女性の部屋番号を聞いて、いったん別れた。

 彼は踵を返し、ひとつ上の階の、自分の部屋へ戻った。

 用を足し、シャワーを浴び……髭をきれいに剃って、頭にトニックを振りかけた。

 それから服を着て廊下へ出た、そのときだった。

 ぎょっとした。

 ――子どもだ。

 廊下に、四、五人のこどもが、おもちゃを広げて遊んでいるのだ。

 こんな夜中になんだ?

 親は何をしているのだ?

 とは思ったが、はやる賢介は、構わず脇を通って、廊下を進もうとした。

 ところが。

「来ないでよ!」

 子どもたちはわめいた。

「通らないで! ぼくたちの遊びの邪魔をしないで」

「だって、こんな場所で遊んじゃだめだろう」

「じゃ、どこで遊ぶんだよ。うちが狭くて、遊ぶ場所がないから、こんなところで遊ぶほかないんじゃないか」

 同じことを、幼い娘もいつか言うようになるのだろうか。賢介は、少しげんなりした。

「あたしたちのおうち、狭いのよ」

「ぼくらのうちが貧乏だって言うのか?」

「そんなことは言ってないよ」

「うわああん」

 挙句、泣きはじめた。

 するうちに、部屋べやのノブがカチャリと回り、なんだなんだと人の顔が廊下をのぞく。いたたまれなくなった賢介は、廊下を進むのを諦め、反対方向へ進んだ。

 反対に進めば、じきに、従業員用の階段につながるのだ。

 重たい扉をギイ、と開けると、薄暗い中に階段があった。

 踊り場の非常灯の、緑色の光が、ぼうっと灯っている。ジー、ジー、という蛍光灯の音。この階段を降りた先には、彼女の部屋へ行ける。彼女が自分を待っている。

 カンカンカン、と階段を降りた。

 カンカンカン、カンカンカン……

 だが、賢介は悲鳴を上げた。

 ――鶏だ。

 ニワトリなのだ。

 体高三メートル近い、巨大なニワトリ……金鳥の意匠のようなニワトリが……踊り場で、くっくっく、と首を動かしているのだ。

 クチバシが、ガンガンガン、と階段を突ついた。

 ガンガンガン、ガンガンガン。

 とんでもなく大きな音だ。

 耳がじんじんする。

 ニワトリは、怒っているのか、執拗にクチバシで階段を突っつく。

 ガンガンガン、ガンガンガン!

 賢介は、一目散に階段を駆け上がった。

 こんなところを降りてはいけない。やはり、さっきの子どもたちの前を通らせてもらい、エレベーターで下階へ降りよう。

 ところが、賢介は、へなへなとその場にくずおれてしまった。

 廊下には、さっきの子どもたちの姿はなかった。

 その代わり、布団が敷いてあり……それは明らかに、賢介の妻子が寝室で使っているものと同じものだが……その布団の上で、賢介の妻と娘が、すやすやと眠っているのであった。



「なによ、こんな時間に。は? 寝てたわよ。当たり前じゃないの。その確認だ? ふざけないでよ、みどりが起きちゃったじゃないの」

 賢介は電話越しにさんざん怒られたあと、すっかり精気も萎えしぼみ……

 結局、悶々としたまま、夜明けを迎えたのであった。




 了

 

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