錆びた蜃気楼


 地元の人が言う「ジョンテン岬」からは、群青の海がよく見下ろせた。白い波がしらが、ちらちらと雪の粒のように見えた。太陽の高い時間だが、降り注ぐ早春の陽射しは、あくまで穏やかだった。

 ジョンテン岬には、人がいた。 

 老夫婦と、学生風の、若い女性がひとり。

 三人は、ぼくが来たのにもまるで気が付かず、それぞれ、腰を下ろして、のんびりと海を眺めている。

「あら」

 だいぶ経ったとき、女性のほうが、こちらを振り返って言った。

「お巡りさん?」

「はい」

 曖昧な笑みを浮かべた。

 お巡りさんという言葉が聞こえたのか、老夫婦も、こちらを振り返った。

「ありゃ、警察じゃ……警察」

「あの、どうかされたんですか」

 と奥さんが言うので、

「いえ、パトロールです」

 ぼくは制帽を取り、会釈をし、

「ところで、蜃気楼は見えましたか。ジョンテン岬からは、蜃気楼がよく見えるそうじゃありませんか」

「そりゃ見えるよ。しかし、いまは見えませんな」

 老人が言った。

「なんせ時間が悪い。日暮れどき、太陽が沈むころに、またお越しなさい。蜃気楼で、太陽の足が伸びるんだ」

「太陽が楕円になるんです」

 女子学生が補足した。

「ああ、半円でなくてね」

「そう。ちょうど、水平線の上に卵を立てたような太陽が浮かぶんです」

「へえ」

 女子学生は続けた。

「ここから見えるのは、そのくらいかしら。海の向こうになにかあれば、日中でも蜃気楼が見られるんですけどね。水平線だけだから、歪むものがないんです」

「そうなんですか」

 三人は、やがて、また海に向き直った。

 ぼくも、適当な岩にもたれかかって、ぽかんと海を眺めた。

 ちょうど昼めしどきというのに、三人は、いつまでものんびりと岬に腰を下ろしている。すっかり心をあそばせているようすで、警ら中のぼくには、なんだかとても羨ましく思えた。

 さて。

 油を売るのはこのくらいにして、そろそろ帰らねば。

「それでは」

 ぼくは、三人に会釈をした。

 三人は振り返り、会釈を返した。

「なあ、あんた」

 遠ざかろうとすると、老人が言った。

「どこの駐在所にいなさる」

「恵比寿浜です」

「は」

「恵比寿浜」

「ああ、そうかい。少し遠いな。どうやって帰るんだい」

「あれがありますから」

 遠くに停めた自転車を指さすと、老人は頷いた。

「おほう、そうか。じゃ、気をつけてな」

「ええ、みなさんも」

「はいよ」

「さよなら、また」

「また」

 三人は、ぼくが見えなくなるまで手を振った。ぼくも、手を振り返し……駐在所へ、自転車を走らせたのであった。



「え、ジョンテン岬へ行った?」

 休憩室でコーヒーを淹れていた海上保安官が、驚いたように振り返った。

「ジョンテン岬……お前、着任早々変わったところへ行ったな」

「ええ。地元の人が言うには、ジョンテン岬からは、蜃気楼がよく見えるって」

「そりゃ見えるけどよ」

 彼はそこで、一瞬ためらうように押し黙った。

「……どうしたんです」

「見えるけど、あんまり行かないほうがいいよ、あそこは」

 そこで、しばらく二人は黙った。

 やがて、保安官が重たい口を開き、

「だれかいなかったか?」

「岬にですか」

「ああ」

「いました。老夫婦と、若い女の人」

 すると、彼は肩を落とし、ハア、と息をついた。

「どうしました」

「自殺者なんだ」

「は」

「ありゃ、みんな自殺者なんだ。お前は幽霊を見たんだよ」

 彼は、気つけをするようにコーヒーをぐいとあおると、

「ジョンテンってのは、昇天が訛ってそう呼んでるんだよ。自殺者が多いから昇天岬なのさ。ジョンテン岬からは、たしかに蜃気楼が見える。だが、望まないまぼろしが見えることもしょっちゅうなのさ」






 了




 

 

 

 

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