ぼくの恐怖体験(一)
恐怖体験といっても、交差点で右直事故を起こしそうになったとか、山で滑落したとか、就職試験の日に寝坊したとかいった体験も恐怖体験なわけだ。ここでいう恐怖とは、いわゆる心霊にかんするものと考えていただきたい。
そして、ぼくはあまり嘘をつかない人間であることを、ここに明記しておきたい。ぼくは割と嘘は言わないほうである。本当だ。これは意外と知られていませんが、割と根は正直なのである。
それから、もう一つつけ加えると、「ぼく」というのがすなわち松井を指しているかわかりませんよ。山本祐太とか、伊藤太一とか、鈴木のぼるとか、小田ゆたかとか、全然著者とは関係のない人物をこしらえて「ぼくの」と銘打っているだけかもしれないぜ。
――さて。
では、体験の時系列を無視して、ランダムに話していくこととしよう。
はじめは、大学時代の体験から。
ぼくはその日、自転車に乗って、大学の南門から公道へ出ようとしていた。
大学の附属病院の脇を通って、行き着く先が南門であり、南門を出てすぐに、横断歩道がある。
信号が青ならば、本当はいけないのだが、そのまま自転車に乗って横断する。ところが、そのときはたまたま赤信号だったのだ。
ぼくは横断歩道の手前で自転車を降りた。
ふと見ると、向こう側にもひとり、待ち人がいた。
当然、向こう側も赤信号だから待っているわけである。
待ち人は、女性だった。
どんな女性だったかと訊かれても、仔細は憶えていない。
通りで目にうつった人を、そうまじまじと観察することもないだろう。ただ、当時のぼくよりは年上、おそらく四〇がらみだったのではないか。ああ、いるなという一瞬の認識でくみとる情報など、その程度である。
信号は、まだ変わらない。
交通量のそれほど多くない道だ。
こうやって待っているのも、正直もどかしい。
手持ち無沙汰に、ぼくは、自転車の荷台の中をがさごそとまさぐった。すぐに使えるように、鞄から財布を取りだして、ポケットへ入れておくかと思ったのである。
それが、ほんの二秒か三秒である。
ピヨピヨ、ピヨピヨとメロディが鳴った。信号が変わったのだ。
――おや。
ぼくは首をかしげた。
ほんの今まで向こう側にいた女性の姿がない。
どこにもいないのだ。
おかしい。
信号から目を離していたのは、先述のとおり、二秒か三秒だ。その間に、仮に女性がどこか違う方向へ進んだのだとしても、目にはとまるはずである。
だが、どんなに遠くを探しても、女性の姿はない。
こんなことは考えられないが、もしもその女性が全速力で駆けだしたのだとしても、二秒や三秒なら、視界から消えることはないはずだ。
ぼくには、女性が消えたとしか思えなかった。
今もって、そうとしか思えない。
それから、女性がこちら側へ渡ってこようとしていたことにも、ぞっとせずにはいられない。こちら側には、病院があるのだから。
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