愛人の靴


「繭子、ここへはよく来るのか」

「ええ、たまに」

 そう言ったあと、繭子は急ぎ訂正するように、

「来ると言っても、もちろん一人で来るのよ。誰とも来たことはないわ」

「亭主ともか」

「よしてよ。来るはずないわ。もう完全に切れちゃってるんだから」

「ふうん」

「あたし、嬉しい」

 そう言って、繭子はより一層、私に密着してくる。

 ここは、高原のアウトレットモールである。遠くには富士山が見えた。早春の澄んだ空気は、まだ肌寒かった。

 コンコースを歩いていると、繭子が、

「あら」

「ん?」

 振り返ると、

「その靴、変えたほうがいいわ」

 私の革靴を指さし、繭子は言った。

「え」

「右の靴、踵の皮が擦れちゃってるわ」

「あれ、本当だ。いつ擦れたんだろう」

「さあ、今朝までは何ともなかったと思うけど」

「クリームを塗ってもだめかな」

「だめよ。皮ごとえぐれたような感じよ」

「本当だ。いつこんなになっちゃったんだろう。どこかでこすったのかな」

 繭子はまた私に寄り添って、

「ねえ、買い替えましょう」

「え」

「買い替えましょうよ」

「今日替えるわけにはいかないよ。妻に怪しまれる」

「そうかしら」

「そうだよ」

「それなら、いっそヒールを割ったらどう」

「は」

「ヒールが割れたから、仕方なく出先で買い替えたと言えばいいじゃない。ね、一緒に、新しい靴を選びましょうよ。あなたと買い物をするの、あたし愉しみに来たのだもの」

 繭子は、そう言って上目づかいに私を見る。

 たぶん、この靴、妻と選んで買ったものなんだろうな。

 どこだろう。多分、デパートの紳士服売り場だろう。五年や六年は履いたのかな。

 私は内心ため息をつき、それから、ある紳士服店を指さした。

「なら、あそこはどうだ」

「だめよ、あんなところ」

 繭子はかぶりを振り、

「だめだめ。部長さんになったんだから、もっと良いものを履かなきゃ格が落ちるわ。あそこにしましょう」

 そう言って指さしたのは、グッチの店舗である。わざわざそんなところで靴を買うだなんて。

 待て。

 繭子のやつ、どさくさに紛れて、バッグでも与えてもらえると期待しているのではあるまいか?

「あそこのは要らないよ」

「どうして。いいじゃないの」

「さすがに妻が不審がるよ。グッチなんか持ったことないんだから」

「でも、昇進祝いにどう?」

「だから要らないって。ああいう高級品を身につけるのは、下手すると営業ではマイナスになるんだよ。反感を買うから。何か欲しければ、君にだけ買ってやる」

 と試すように言うと、

「あたしにだけ? ほんとに?」

 と満更でもなさそうな顔をする。

 さすが三谷物産の営業部長さん、と首に回した腕が、こんな季節に、妙に暑苦しい。

「ふふ、うれしいわ」

 と言ったその甘えた声が、まるで香水のように周囲にじっとりと広がって、不快さはなかなか消えなかった。

 そうして、グッチの店舗へ向かっているときだった。

 突然、

「泥棒!」

 叫び声が上がった。

 見れば、近くのスポーツショップから男が飛び出し、全速力で逃げ去るところだ。

「捕まえて! だれか!」

 女性店員の首が店舗からのぞく。

 泥棒は、アウトレットモールのコンコースを猛然と走ってくる。ああいうのを脱兎というのだなと思っていると、泥棒は、まっすぐにこちらへ向かってくる。

「え、え」

 繭子は私の顔を見る。

 見たって仕方がない。私も、こういう場合どうしたらいいかなんて、考えたこともなかった。

 コンコースの客は、みな泥棒をよける。

 取り押さえようとする人はいない。

「逃げましょう」

「いや」

「早く逃げましょうよ。厄介事はたくさん」

 遠くから警備員が走ってくるが、泥棒がこちらへ到達するほうがずっと早い。

 私は覚悟を決めて、

「こら」

 と走ってくる泥棒を取り押さえにかかった。

 私は大学時代にラグビーをやっていて、体力と忍耐力だけを買われて、過酷で知られる三谷物産の営業マンに採用された男なのだ。

 体勢を低めて、うまく泥棒の懐にもぐりこんだ。

「うわ」 

 タックルは成功し、泥棒はポン、と跳ね飛ばされた。

 私はすぐに起き上がり、すかさず泥棒を制圧する。盗んだスポーツシューズは、コンコースの上に放り出されている。泥棒に四方固めをかけると、

「こんにゃろ、こんにゃろ」

 としばらく足だけバタバタさせていたが、とうとうあきらめた。

「鮮やかなもんだな!」

 だれかが言った。

「お見事!」

「よくやった!」

「すごいわ!」

 自分は手を下さず傍観していた客たちが、私を賞賛する声はしばらく絶えなかった。やがて泥棒は警備員に取り押さえられ、私と繭子とは、ショッピングモールの事務室へ慇懃に案内された。



「そういうのは、ちょっと勘弁してください」

 警察官が、私と繭子の氏名や間柄を訊いてくるので慌てた。

「あれ、ご夫婦では」

「ないんです」

 それから、私は少し声を落とし、

「あの、これです」

 と小指を突き立てた。

「ああ、そうですか。道理で体力がおありで」

 警察官は笑った。

「それでしたら、我々も深く立ち入りませんから」

「ねえ、そろそろいいでしょう」

 繭子が、急にじれたような声を出した。

「あたしたちだって暇じゃないんだから、用が済んだなら帰してよ」

「繭子」

「あなたも無駄話なんかしていないで、さっさと帰りましょうよ」

「はいはい、用事はこれで全部ですから」

 警察官が制帽をとり、

「いやほんとに、この度はご協力どうもありがとうございました」

「いえいえ」

「あと、今回のことで、もしもあなたがたの身に何かあるようでしたら、どんな些細なことでもすぐにおっしゃってくださいよ」

「まあこわい」

「ハッハ、ふつう、まずそんなことは有り得ませんよ。万が一ということでね、万が一」

「わかりました」

「はい、じゃ、以上になりますんで。逮捕のご協力、本当にありがとうございました」

 そう、私たちを帰そうとしたときだった。

 事務室のドアが開き、モールの従業員がちらっと顔をのぞかせたかと思うと、警察官を呼んだ。

 彼はそのまま廊下へ出ていった。

 どうも、廊下で立ち話を始めたらしい。

「行きましょう、早く」

 繭子は、もう椅子から立ち上がっていた。

「せっかくあなたと過ごしているのに、これじゃ何も愉しくないわ」

「帰っていいのかな」

「いいのよ」

 繭子は、いま警察官が出ていったドアとは別に、遠くにも事務室を出るドアがあることをめざとく見つけ、さ、あそこから出ましょうと私をせっつく。

「さ、出ましょう」

「あ、ちょっと待ってください」

 ドアが開き、そこから警察官が上半身をのぞかせる。

「申し訳ない、まだ帰らないでください。ちょっとお連れの方にお訊きしたいことがある」

「え」

 私は目を丸くして、

「なんなんですか、お訊きしたいことって」

「いえ、グッチの従業員から、ちょっと」

 警察官は、うやうやしく、

「半年前に、あそこで靴が万引きされてるんです。女性物のね。監視カメラに犯人の姿は映っていたんだが……いえ、すぐに済みます。どうか、お掛け直しください」






 了

 

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