ひげに歴史あり


 自分がいつから剃刀でひげを剃るようになったか、記憶は定かではない。少なくとも、高校二年生のころには剃っていたはずである。そのころには、既に三日も剃らなければ、いっぱしのひげ面になったのだ。夏休みに神輿を担ぐアルバイトをやったときに、大人の輪の中に子どもとして加わりたくなくて、毛むくじゃらの顔をつくって担いだ記憶がある。となると、急にひげが濃くなることもないだろうから、遅くとも高校の一年、いや中学三年のころには、毎朝ひげを剃っていたのではあるまいか。毎朝というのは、当時のぼくは朝晩二回風呂に入っていたからだ。家を出る前にしっかり髪を洗い、ひげを剃るという習慣は、結婚するまで続いた。それをやめたのは、夜に加えて朝風呂まで入るのは不経済だと妻が怒るからだが、もっともだと思う。

 最近、ひげを抜いてみたらどう、と妻が提案した。

 逆剃りするせいでいつも肌が荒れており、そのくせ半日もすれば青髭がぽつぽつ浮かんでくる惨状を見兼ねたのである。

 だが、抜けばいっときはきれいになるだろうが、長い目で見れば、確実にひげは濃くなる。毛を抜けば毛穴が広がるし、また毛根に刺激がいって、毛根からすれば外傷を受けたと誤認識するために、次回のひげを、さらに太くたくましくするのだ。

 これは巷間よく言われることであり、また実体験からもそうであろうと信じて疑わないが、いざチクリ、チクリと毛抜きでひげを抜いてみると、その快さが癖になってしまった。ぼくは、カラいとわかっていてにんにくを生でかじったり、山椒の実を噛んでみたりするのが好きだが、どうもピリッとした刺激を好むところがあるようだ。毛抜きの痛みも、これらとそんなに距離があるとは思えない。チクリ、チクリとした痛みが癖になるという感じで、そう言えば、生け花の剣山にふわっと手のひらを乗せると、痛さとともに、どこか快さを感じはしないか?

 ひげを全て抜くには、半日かかった。

 ばかな話である。

 たまたま仕事が休みだったからよかったが、これだってわざわざ申請をして休んでいたわけであり、我ながらばかとしか言いようがない。なんせ、髭に、鬚に、髯に、喉元のひげに、全部引っこ抜いたのだ。いったい何万本抜いたかわからない。手鏡を見ながら毛抜きをおこなうため、両手がふさがっているから、暇つぶしに音楽を流した。吉田美奈子、しばたはつみ、ストロベリー・パス、石川セリ、高円寺百景、佐野元春のアルバムを聴いた(佐野元春は二枚)。

 抜いてすぐは血が集まるのか、肌がぷっくらして、赤くなった。鼻下など、まるでニホンザルみたいに膨れていたのだが、ほどなくそれも引いて、赤ちゃんのような、つるつるの肌が残った。表皮の下の毛も一時的になくなったわけだから、青髭もすっかり解消されたのである。

 帰宅した妻は、すぐに気がついた。

「あんた、その顔どうしたの」

「わかるか?」

「そりゃわかるわよ、いっつも汚いひげが浮いていたんだから。とうとうやったのね」

「よくなったか?」

「よくなったけど、なんか、中性的に見えなくもないわ」

「中性的? 気持ち悪いな」

「それは素材があんただからでしょう」

「…………」

「でも、だいぶよくなったわ。これでしばらく生えてこないわよ」

 妻はそれきり、ぱたぱたとキッチンへ向かってしまった。

 ぼくはひとり、自分の頬をなでながら……

 いつもならじょりじょりした感覚があるのに、いまはまるでないことを、妙に心もとなく思った。まるで自分の肌でなく、他人の肌を撫でている感触なのだ。

「ほら、食べるわよ」

 促されついた食卓に、コロッケとメンチカツがある。妻は、味噌汁に火をかけて……さ、食べましょうと言う。

 ぼくは、コロッケで白米を食べ……

 おかわりした。

 食が進むのだ。

 夜に二膳食べるなどめったにないことだが、ぼくは二膳目も食べ終わり、それでもなおメンチカツが残っているので、三膳目をよそおうとした。

「日中、食べなかったの?」

「え」

 怪訝な顔で、妻が訊いた。

「お昼。食べなかったの?」

「食べた。やきそば」

「何玉?」

「三玉」

「それだけ食べて、どうしてそんなにお腹がすくのよ」

「知らないよ」

 ぼくはジャーの蓋を閉め、

「別に、日中体を動かしたわけじゃないし……。ひげを抜いたくらいだ」

 三膳目も食べ終わり、それでもまだ足りない。

 ぼくは、四膳目をよそい、味噌汁で猫まんまを作り、がつがつ、むしゃむしゃやりはじめた。

 それでも足りなかった。

 ぼくは、冷蔵庫から生卵を取り出した。

「お腹こわすわよ」

 妻がさすがにたしなめた。

「おまけに生卵だなんて。いきなりそんなに食べたら下すわよ」

「でも、腹が減ったんだから」

「こんばんは」

 声がした。

 玄関だ。

「だれかしら」

「見てくるよ」

 少し重たい腹をさすりながら、玄関へ向かうと、子どもが何人かたむろしている。

「こんばんは」

 その少年たちは……

 藤井だ。栗田だ。重原だ。荻野だ。

 みんな、ぼくの中学時代の同級生なのである。

「早く行こうぜ!」

 よく見ると、連中は、バットとグローブを手にしていて……

 あのころのまま、坊主頭の、マルコメなのだ。

「なにぐずぐずしてんだよ! 早くしろよ!」

「早く行こうぜ!」

「お前ら、なんだ?」

 わけがわからない。

 あの当時の藤井たちが家にやってくるはずがないから、よく似てはいるが、別人なのだ。別人に決まっている。だが、そんな子どもたちが、何の用でわが家にやってきたのだ?

「お前ら、なにしに来たんだ?」

「なんだと?」

「なんだとじゃないだろ。なんでこんな夜に、中学生が人のうちに上がり込むんだよ」

「早くしな!」

 振り返ったぼくは、のけぞった。

 妻も若返っているのだ。

 妻もやはり、中学生くらいの……

 にきびづらに、頬の赤い、少女の姿なのである。

「ほら、早くしなよ! 待ってるじゃん!」

「どうしたんだ」

「どうしたじゃないって。ほら!」

 妻はそう言い、両手でぼくの背中を押した。

 あのころの、マルコメたち……独特の、青臭い匂いのする中学生たちの群れの中に、ぼくは転がった。

 マルコメたちは、ぼくを見下ろし……

 ほら、行こうぜ、とあごで外をしゃくった。

「三年生に、場所とられちまうぜ!」



 下唇の下にみっちり生えたひげを、ぷつぷつと抜く。

 もう少しで終わりそうだ。

 ぷつ。

 ぷつ。

 こんなくだらない話を夢想することができたんだから、半日をひげ抜きに費やした甲斐も、少しはあるというものだ。

 妻のやつ、この顔を見たら、どう言うだろう。

 ぼくはひそかに期待しているが、実際は、平然とスルーされるかもしれない。現実の妻は、別にぼくのひげをうるさがったり、逆剃りの傷を見兼ねていたりもしないし……

 作中の妻ほど、ぼくの顔に興味はないのだろう。

 ぼくは、佐野元春のCDをしまうと、かまやつひろしを聴こうとしたのをやめ、乱魔堂を聴こうとしたのをやめ、安全バンドを聴こうとしたのをやめ、ため息をついて、今度は耳たぶの毛を抜き始めたのであった。





 了



 

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