恩情の頂


「ああ、あの山ですか」

 と会社の同僚が言った。

 彼は苦笑を浮かべながら、

「あの山なら、お盆休みにぼくも登ったんですが、沢を渡渉する場所で引き返しました。たしか、サム沢とか言ったかな」

「引き返した? なにかあったの」

「それが、不思議なんですが」

 彼は首を傾げ、

「まず、異様に水が冷たかったんですよ。氷水みたいでした」

「水が冷たい?」

「ええ。いくら渓流といったって、真夏ですよ。有り得ないですよ」

 訊けば、冷たい水に膝まで浸かりながら渡渉している最中、突然、ずぼっと河床が低くなったところにはまり、ひどく体を濡らしてしまったという。

「カメラもリュックも濡れて、食料もみんな駄目になっちまいました。それで、なんだかやる気がなくなっちゃいましてね。結局、サム沢で引き返して、来た道を帰ったんですよ」



 予定どおり、秋晴れのある休日に、ぼくはその山へ登った。

 くだんのサム沢は、しかし、なんということもない沢だった。

 かがんで水に触れてみたが、特別、冷たすぎるということもない。

 ぼくは、トントントン、と石から石へとび、あっという間に沢を渡りきった。同僚は渡渉したと言っていたが、今日は、まるで水量がなかった。

 ところが、しばらく行った先で、ぼくは声を上げそうになった。

 登山道を、熊が横切ったのである。

 熊を見たのは初めてではないが、こんなに間近で見たのは初めてだ。

 大きさからすれば、小熊のようだ。したがって、近くに母熊がいるはずで、うかつに動いてあらぬ疑いをかけられると大変なことになる。

 ぼくは、その場で微動もせず、小熊の姿が見えなくなるのを待った。

 小熊は、登山道を左右に行ったり来たりして、なかなか立ち去らない。しばらく登山道の匂いを嗅いでいたが、やっと、脇の草わらへ消えてくれた。

 ぼくは、しばらくその場に立ちつくしたあと、なるべく足音を立てずに後ずさりし、あるところから、急いで来た道を引き返した。

 例の、サム沢を渡って……

 こりゃだめだと、登山口へ退却したのであった。



「あれ、ぼくも見ましたよ、その夢」

 同僚が目を丸くした。

「山頂に三角点があって、そうそう、その脇に、たしかに山百合の花が咲いていました。それに、お話のとおり小さな祠もあったけど、たしかにあそこは修験道の山ですからね」

 ぼくも同僚も、その山に敗退した日の夜に、山に登頂した夢を見た。

 彼の話す、その山の頂が、たしかにぼくの見たイメージと重なったのだ。

「そうだよ。きれいな山百合がいくつも咲いていて……南に山塊、西側に日本海が広がっていて、とてもきれいだった」

「そうですそうです」

「祠の中には、なにかの像があったな」

「仏像じゃなかったですか」

「そうかもしれない。木彫りだった」

「ああそうだ、木彫りでした。菩薩像だったかもしれません。いやしかし、どうも、ぼくらは同じ山頂に立ったようだ。ふしぎな話があるものですね」

 




 了


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