夏腐し


「思い出したわ。ひまわりよ、ひまわり!」

 居酒屋の一隅で、かおるが甲高い声を上げた。

「ああ、ひまわりか!」

 健二が頷いた。

「そう言えばそうだ。俺たち、ひまわり学年だったな」

「ひまわり学年のひまわりっ子。懐かしいわ」

 そう言ったのは今日子である。

 三人は、地元に残る同級生同士だった。

 久しぶりに一杯やろうと集まったわけである。

「それで、たしかあたしたちの一つ下がやまなみ学年よ。もう一つ下が、はねうま。はねうま学年。あたし妹がいたからわかるの」

 かおるは、一旦カクテルで口を湿してから、

「ん、そうだ。あたしたち、ひまわりを育てたじゃない。憶えてる? 藤ノ木先生が、ひまわり学年だからひまわりを育てましょうって。たしか四年生のときじゃないかしら。春に種を蒔いてさ。憶えてる?」

「あったわね」

「そんなこともあったな。あれ、一学期の終業式の日じゃないかな。ひまわりを切り花にしてさ、お家の方へお土産にしましょうってな」

「そうだったわね。あの藤ノ木先生がねえ……」

 かおるがしみじみ言った。

 一同は、それから、しばらく沈黙した。

 仕切り直すように、今日子が手を打った。

「ねえ、学校へ行ってみない?」

「学校?」

 健二は、半ば笑い、半ば呆れたような顔をした。

「おいおい、酔っ払いがこんな時間に学校の敷地をうろついてちゃ、通報されちまう」

「大丈夫よ。こんな田舎じゃない」

「そりゃそうだけど」

「いいじゃない。行きましょうよ」

 今日子も同調した。

「なんだ、今日子まで」

「だって、ちょっと見るだけじゃない。なにも校舎に忍びこもうってんじゃないのよ。車を停めて、その辺をぶらぶら歩くだけでも懐かしいじゃない」

 というわけで、三人は会計を済ませた。

 酒の飲めぬ今日子の車に乗りこんで、一行は小学校へ向かった。



 既に、夜も一〇時を回っている。

 車は校門をくぐり、学校の敷地へと入っていった。

「それにしても真っ暗だな」

「今日子、ハイビームやめたら? 窓に灯りがあるか、かえってわからないわ」

 ライトを落とすと、校舎の窓はどれも真っ暗だった。今も変わりがなければ職員室は二階のあそこだがとうかがったあたりも、灯りは全くない。

 職員用駐車場にも、車は一台もない。乗ってきた車を停め、三人はドアを開けて外へ出た。

「うわあ、めっちゃ久しぶり」

 助手席から降りたかおるが、うんと伸びをした。

「懐かしいわ」

「おれたち、近くに住んでいながら、小学校なんか全然来たことなかったな。卒業以来じゃないか?」

 白亜の校舎は、夜の闇の中で、しらじらとそびえていた。

 その校舎の右脇、方角でいえばちょうど真南の一角に、観察池と、例の校内菜園があるはずだった。遠巻きに見ると、菜園は現役で使われているらしく、何本か棒のようなものが突き出ていて、その少し下のあたりで、わらわらと緑が茂っていた。

「行ってみようぜ」

 スマートフォンのライトをつけ、三人は菜園へとアスファルト道を進んだ。進んだといっても、八〇メートルも歩けば、もう着くのである。

 菜園に植わっているのはひまわりの一群だということが、だいぶ手前の段階で、三人にはわかった。

「おお、現代のひまわり学年?」

 健二が言った。

「ひまわりよ。花も咲いてる。何本もあるわ」

「きっと子どもたちが育ててるのよ」

「あは、今もひまわりっ子がいるのね」

 菜園には、四つ五つ畝があり、その畝に、ほとんど間隔をおかず、ひまわりがぎっしり植わっていた。もちろん普通の一本仕立てであり、遠巻きに何本か見えた突き出たものとは、ひまわりを支える支柱なのだった。

「どなた?」

 不意に、声がした。

 ひまわりの葉の茂みから、ぬっと若い女性の顔がのぞいた。

「ひあ」

 一同は凍てついた。ろくに声も出なかった。

「あれ、みなさん。どうしたの」

 藤ノ木先生だった。

 昔、彼らの担任だった、藤ノ木美和子先生なのである。

「まあ、ずいぶん久しぶりね」

「あ、あたしたち、あの」

 酔いに任せて、かおるが口火を切った。

「懐かしくなって、それで来たんです。学校が懐かしくなって」

「そう」

 藤ノ木先生は、にこりと笑った。

「また会えて嬉しいわ」

「あの、先生」

 健二が背後を指さして、

「あの、観察池見に行ってもいいですか。観察池も懐かしいなあ。まだいますかね、昔みたいにタガメやサワガニが」

「もちろんいるわよ、ケンちゃん」

 藤ノ木先生は頷いた。

「やった。そしたら、じゃあちょっと見に行こうか。な、みんな」

 一行は、そそくさと観察池へ移動した。

 藤ノ木先生のいるひまわり畑からはほんの目と鼻の先であるが、ひそひそ話が届かないほどには距離がある。

「おい、もう帰ろう」

 健二の唇は震えていた。

「なんで藤ノ木先生が畑にいるんだよ。おれ初めて見たよ、ホンモノの幽霊」

「まるで生きてるみたいだったわ」

 げこげこげこ、と観察池の蛙が鳴く。水は夜空の月を照り返しさざ波をつくり、月明かりを吸った水草は透きとおった翡翠色をしていた。

「だけど藤ノ木先生は、俺たちが卒業してじきに亡くなったはずじゃないか。藤ノ木先生の家へお線香上げに、かおるも行っただろ」

「行ったわ」

「だろ」

「だろって言われても困るわ。じゃあ、あの藤ノ木先生は何だって言うの。あの姿、二〇年前の、あたしたちの担任だったころそのままよ。若くてきれいなミワちゃんって呼ばれていた、あのままの」

「まぼろしなんだ」

 健二が言った。

「そうだよ。俺たち酔っ払ってるからさ。まぼろしを見たんだよ」

「違うわ。あたしにも見えたもの、藤ノ木先生」

 今日子は、首筋が寒いのか、ブラウスの襟元を合わせてぶるぶる身を震わせた。

「みなさん!」

 思いがけず、ずいぶん近いところから藤ノ木先生の声が立った。三人は、しゃっくりのような短い悲鳴を上げた。

「な、なんです」

「来てご覧なさい。ひまわりの花がきれいだわ。ひまわりっ子の、きれいなひまわりが」

 それだけ言うと、藤ノ木先生は三人に背を向け、またひまわり畑へと歩いていった。今のうちに走って逃げようと三人とも考えたが、藤ノ木先生は幽霊なのだから自分たちを追おうと思えばわけもないのだということも、三人にはわかっていた。

「も、戻ろう。あの畑に」

「本気?」

 かおるがとがめるような目で健二を見た。

「だって、呼んでるのに逃げたりなんかしたら後が怖いぜ」

「今だって充分怖いわよ」

「でも、逃げられないわ、かおる。ここは健二の言うとおり、藤ノ木先生のところへ行きましょう。それしかないわよ」

 結局、健二が先頭を歩き、そこから不自然に距離を置いて、かおると今日子がついていった。

「あたしたち殺されるのかしら」

 かおるがぼそぼそ言った。

「まさか殺しゃしないわよね。だって殺す理由がないわよ。殺す理由が」

「ばか」

 今日子がかおるをたしなめた。

「変なこと言わないで、黙って歩いて」

「だって……」

「みなさんお揃いね」

 畑の前には、藤ノ木先生が待っていた。

「改めて、どうです。よく見てご覧なさい、どれも立派なひまわりでしょう。元気よく、まっすぐに伸びているわ」

「そうですね」

 健二は無理に笑顔をつくり、

「本当に立派なひまわりで」

「そうでしょう。このひまわりは、みなさん自身なのですよ。ちゃんとひまわり学年の三八名と同じ、三八本のひまわりがここに植わっているのです」

 そう言うと藤ノ木先生は、はっと畑の一隅を見た。

 一本のひまわりが、倒伏とまではいかないが、前のめりに傾げていた。整然と並ぶひまわりたちの中に、そのひまわりだけが傾げているのが不思議だ。

「壮一くん」

 藤ノ木先生は、そのひまわりに歩み寄った。

「壮一くんよ、このひまわりは」

 藤ノ木先生はそう言うと、菜園用の細長い支柱を、まるで手品のように懐から取り出した。

「どうするんです」

「どうするって、支柱で支えてあげるのよ。どうしたの壮一くん。また仕事がつらいの。え、壮一くん」

 藤ノ木先生が、支柱とひまわりとを棕櫚縄で結わえると、ひまわりはしゃん、とまっすぐになった。

 既に何本か支柱で固定されているひまわりも、このようにして藤ノ木先生が立て直してやったものなのだろうか。

「さあ、これでいいわ。がんばるのよ、壮一くん」

「…………」

「先生は、ここでずっとひまわりっ子を見守っていますからね。何かあったら必ず助けるから。わかりましたか?」

 一同は蒼白の顔を見合わし、

「は、はい」

 と、不揃いな返事をした。

 すると藤ノ木先生はこくりと頷き、ふらっと、ひまわり畑の奥のほうへ歩いていった。

「あ、先生!」

「先生!」

 三人は呼び止めたが、先生の姿はひまわりの茂みに没し、それきり見えなくなってしまった。

「……行っちまった」

「もうどこにもいないわ」

 健二とかおるは畑に踏み入った。

 藤ノ木先生が姿を消したとなればこわばりも解け、口々に何か言い合いだした。

 今日子だけはその場にとどまり、茫然とひまわり畑を見つめたまま、ひとりごちた。

「……本当に、こんなところにひまわり畑があるのかしら。このひまわり畑も、実は幽霊なんじゃないかしら」

 そのとき、さわさわと小さく風が流れ、三八個の大輪の花が、まるで生き物のようにうごめいた。





 了


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