告別


 ひとりで机に向かっていると、不意に呼び鈴が鳴った。

 少年は、とんとんと階段を降りていった。

 玄関の上がりがまちに、叔母が座っていた。

 少年の両親が、このごろ、彼に聞こえぬよう叔母の話をすることがあった。

 子どもごころに、叔母の身になにかあったとわかった。

 上がりがまちに座っている叔母は、白装束を着ていた。

 来るべきものが来た。

 少年は息をのんだ。

 三和土たたきの上に、人の背丈ほどの、大きな行李が置いてある。どうも叔母が背負ってきたものらしい。

 少年に背を向けていた叔母が、ゆっくりと、こちらへ振り向いた。

 青白い亡者の顔が振り向くかと思ったが、いつもどおりの、気立てのいい叔母の丸顔が少年を見やった。

 あとから両親に聞いたことだが、叔母の死因は、スキルス性の胃癌だった。

 最期の叔母は、ほとんど骨と皮でできていたらしい(後年、あれはミイラのようだったと、酒に酔った少年の父親が言っていた。安易に過ぎる形容だが、事実そう見えたのだろう)。

 けれども、そのとき少年が見た叔母は、よく肥えていた。まったく、これまでと何の変わりもない叔母なのであった。

「叔母さん」

 少年は言った。

 なにか喋らないと、そのまま永遠に叔母と向き合っている気がした。

「なあに」

「叔母さんは、死んじゃったの?」

 叔母は笑いながらかぶりを振り、

「まだ死んじゃないわよ。明後日よ。明後日、叔母さんは死んでしまうわ。だからいまのうちに、あちこちへ挨拶をして回っているのよ」

「そうなの。だけど、今はぼくしかいないよ」

「そうみたいね」

「また来たらどう?」

 だが、叔母は曖昧に笑うだけだった。

 それはできないのだな、と少年は理解した。

 少年は、いま気が付いたふりをして行李を指さし、

「その荷物はなあに。ずいぶん大きな荷物だね」

「ああ、これ」

 と叔母は行李に一瞥をくれ、

「それだけ、持っていくものが多いんだわ」

「どこへ」

「あっちの世界よ」

「どうして持っていくものが多いの」

「若くして死ぬぶん、引きずっていくものも多いらしいわ」

 叔母はそう言うと、くすくす笑い、

「でもね、叔母さんにも、中になにがあるのかわからないのよ。でも、ずっしり重たいわ。きっと、ずいぶんたくさんのものが入っているんだわね」

「開けてみたら?」

 少年は、媚びるような目を向けた。

「ねえ、開けてみたらどう?」

 その実、媚びは、おしづよい彼の認識欲の擬態でしかなかった。

 それを知ってか知らずか、叔母は笑ってかぶりを振り、

「開けられないのよ」

「どうして」

「だって、行李の中に、人が入っているかもしれない」

「…………」

 少年と叔母は、それからまた、無言で見つめ合った。

 するうちに。

 叔母の顔が、まるで独楽こまのように、しゅるしゅる、しゅるしゅると回りはじめた。

 やがて顔の輪郭はなくなった。ぼやぼやした、形容すれば、ほとんど陽炎に似た肌色の残像が、白装束を着ているだけになった。

 少年は、告別の挨拶をしようにも、いま叔母に話しかけてよいものか躊躇った。

 それはなにか生き物の変態を思わせたのだ。

 やがて、何も言わず、少年はとぼとぼ茶の間に入っていった。

 うっかりしていた。

 茶の間には、叔母が昔、この家に嫁いだ自分の妹に贈った、総桐の仙台箪笥がしつらえてある。

 その仙台箪笥の前板の引手がひとりでに動いて、ガチガチ、カチカチと、まるで歯を鳴らすような音を立てた。

 錆びた箪笥の錠前が、ふらふらと、星のように箪笥から離れだした。

 その星々が、しゅらしゅら、しゅらしゅらと、部屋の中をいくつも飛び回るまぼろしを、少年は青ざめた顔で眺めわたした。

 いつしか、箪笥そのものが、叔母の顔のように、独楽のように、しゅるしゅる、しゅるしゅると回りはじめた。

 いたたまれず茶の間を抜け出した少年が横目に見た玄関には、もう行李も、叔母の姿もなかった。

 




 了

 

 












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