才能水
「いやこれはどうも、直接お持ちいただいて。どうもありがとうございます」
パーテーションの向こうで、課長の声がする。
相手は、多少、名の知られた小説家だ。
といっても、有名な文学賞を受賞したのはもう二○年も前で、以降は代表作と呼べるものもない。一般的には、もう過去の人なのである。
「それでは、すぐにゲラ修正いたしまして、新ゲラはご自宅に郵送いたしますので」
著校ゲラを、編集部に直接持ってきたようだ。
老作家は、しばらく課長と雑談したあと、帰っていった。
課長が、ぼくのデスクにやって来た。
「これ、組版に戻しておいて」
「はい」
ぼくは、老作家が赤字を入れた、分厚いゲラを受け取った。
「あんまり良いもの書かなかったね」
「はあ」
「読んでみろよ。すっかり才能が枯れてるよ。枯渇よ、枯渇。つまらないくせに、いまだに癖が強くて、読みづらいったらない。名前だけで依頼しちゃいけないな、やっぱし」
「これ、組版はマーメイド企画でしたっけ」
「うん、マーメイドに投げちゃって。明日までに三校出せって。引き合わせはこっちで二人かけて」
「わかりました」
「こんなに赤入ると思わなかったな。やらんでいいのに、無駄に直してきたよ、ほんと」
毒づくと、課長はデスクに戻っていった。
――まずい。
腕時計を見て、ぼくは舌打ちした。ぼくの担当書籍の執筆者が、もうすぐ来社するのだ。
マーメイド企画に急いでゲラをファックスし、応接の準備にとりかかった。
「頂戴します」
ぼくは、新人作家の瀬戸たまきから、原稿を受け取った。
若いのに珍しく、原稿用紙に直筆で書いてきた。升目よりも、うんと小さな字が、びっしりと埋めこまれている。
「あの、これからどんどん直すので、今回はとりあえずということで……」
瀬戸たまきは、X社のジュニア文学賞で佳作に入ったことのある人で、ぼくより一回りは年が若い。まだ二〇代の前半だと聞いたことがある。短大を出たあと、アルバイトをしながら小説を書いているらしい。
「では、こちらでゲラに疑問点などを書きまして、またお戻しします」
「疑問点? わたしにわかるかな」
その言葉に気圧されたようだった。まだ慣れていないらしい。
「疑問点といっても、ここをこう修正してよいですかとか、ここはこの字の書き間違いではありませんかということですから。鉛筆をひっかけておきますから、先生には、一つ一つに対応をお願いします」
「先生じゃないです」
「先生ですよ」
二二歳の新人作家は、顔を赤らめた。
「それって、よくいう<著校>ですか?」
「ええ。著者校正」
「できるかな」
「できますよ」
それから、しばらく今後の日程などを相談して、打ち合わせは終わった。原稿料について話すと、想定外の高額だったらしく、目を丸くしていた。そのくらい貰わなきゃ生活できないだろうと思ったが、本当なのか衒いなのか、控え目な人だ。
瀬戸たまきは、よろしくお願いしますと深々と頭を下げ、帰っていった。
「――瀬戸先生?」
お茶を下げにきた女性社員が言った。
「そう。瀬戸たまき」
「若いね」
「若いよ。でもあの人、才能あるよ。以前から目を付けていたんだ。買わなきゃもったいないよ」
ぼくは、瀬戸たまきから受け取った原稿をヒラヒラさせ、
「才能に満ち溢れてる。こうやって振れば、水が滴り落ちそうだ。振れば才能の泉湧く……」
――そう、ふざけたときだった。
蛇口のしたたりのように、水が一、二滴、デスクの上に落ちた。
おやと思ったが、同僚は気が付かなったらしい。
「ふふ! いいから仕事戻んなよ」
と笑い、湯のみを手に、行ってしまった。
――いまのはなんだろう。
ぼくの汗か?
しかし、こんな冷房の効いた部屋で、汗をかくなど考えられない。
ぼくは、なんとなく、瀬戸たまきの座っていた椅子に目を向けた。
クッションの部分が、少し黒ずんでいる。
手を触れてみた。
湿っていた。
汗だろうか?
だが、汗をかいているようには見えなかった。
それに。
クッションに触れた手から、なんだか、甘いにおいがする。
ロウバイの花のような、甘い、まろやかなにおいだ。
香水や、化粧水だろうか?
タオルで拭き取るほどの湿りではないから、ぼくは椅子をちょっとずらし、外の陽がよく当たるようにした。こうすれば、じきに乾くだろうと思ったのだ。
瀬戸たまきの短編は、よく書けていた。
児童文学なのだが、発想は奇抜だし、変な文体の癖もないし、表現も巧みだし、感傷も抑制されていた。
「これ、なかなか良いですよ」
ぼくは、瀬戸たまきの原稿を課長に読んでもらった。
速読で有名な課長は、すぐに、なるほどと頷いて、
「うん、たしかに良いもの書いてるね。彼女、まだ二二とかだろ?」
「二二です」
「二二で、よくこれ作ったよ。なあ」
「そう思います」
「ほかでも書いてるのか?」
「いえ」
「X社はどうしてるの」
「授賞以来、それきりだと」
「ふうん」
課長は、くるくるとボールペンを回しながら、
「まあX社も、いま大変だからな。いくつか廃刊にしてるよな、たしか」
「ええ」
「囲っちゃえよ。いいよ。顔だって悪くないじゃん。いいじゃん。囲っちゃえよ」
それから思い出したように、
「それと、さっきの先生には、次はもう頼まないことに決めたよ。才能が枯れちゃってるんだもん。枯渇よ枯渇。あれじゃ、これまでどおりカルチャー教室で講釈垂れててもらうしか使い道ないわ」
「はあ」
「それこそ、瀬戸たまきに今度なんか連載してもらおうや。毎回、二○枚くらいでさ。挿画は、猫のきなこ先生でいいだろ。今年は手が空いてるっていうから。合ってるじゃん」
「そうですね。考えておきます」
ぼくは、自分のデスクに戻った。
あの老作家には気の毒だが、課長の言うことはもっともだ。
商品として売り物にならなければ、淘汰されるのは当然だ。今よりもまだ若いころ、青臭い文学青年だったころには、多少思うところもあったが……
もはや、企業人として、良かれ悪しかれ鉄を打たれた身となったいまは、課長の発言は、むしろ当然ものと思えた。まあ、過去の自分は、この課長も、いまの自分自身をも嫌悪するのだろうが……
とまれ、ぼくはもう一度、この激賞の新人の作品を読んでみることにした。この短編をふくらませて中長編が書けないものか、色々と考えてみたかったのだ。
一週間が過ぎた。
組版先から、瀬戸たまきの初校ゲラが上がってきた。
早速、瀬戸たまきに電話をかけ、著者校正のためにゲラを郵送すると伝えたところ、内容のことで相談したいことがあるから、今から伺いたいと希望した。
「それでも結構ですが」
「そのときに、直接受け取るのでもいいですか?」
「それはもちろん構いませんが、わざわざよろしいんですか」
「いいんです。わたしも、自分だけだと、まだどうにも不安なので、そのほうが助かります」
もう少し気を大きくもてばいいと思うが、
「では、それでお願いします。お気をつけてお越しください」
約束の時間に、瀬戸たまきは来社した。
エレベーターの前で彼女を出迎えた。
「やあ、先生どうも」
「すいませんいきなり。お忙しいのに」
「いいんです。さ、どうぞこちらへ」
先に歩き、フロアの応接スペースへ、瀬戸たまきを通そうとしたときだった。
――においだ。
また、あのにおいなのだ。
花の蜜のような、甘い、まろやかなにおい。
なにか、脳みそがほぐされるような、くらっとくるような感じがした。
「どうぞ」
それでも、瀬戸たまきを席につかせた。
ぼくは瀬戸たまきと向かい合った。明らかに、瀬戸たまきから、そのにおいは漂っている。
「なんでしょう、ご相談とは」
「ええ、ちょっと細かいことなんですけど……」
そう言って髪を撫であげると、一段と強い、においの波が寄せてくる。
香水だな。
この間の水滴も、やはり香水のしずくだろう。
若い子だから、こういった化粧品に慣れておらず、香水を振る加減ができないのかもしれない。
「わたしは、そこはそのままでもよいかと」
口は動いているが、においが気になって仕方ない。
「そうでしょうか」
「ええ、わたしはそう思いますが。あえて具体的に書かないほうが、想像の幅も広がると思いますし」
同僚の女性社員が、湯呑みを運んできた。
これだけにおいがきついのだから、同僚もなにか反応を示すのではないか。
そう思って、同僚の顔をそれとなく観察していたが、表情ひとつ変えない。
「ごゆっくりどうぞ」
頭を下げ、行ってしまった。
タフな人だ。
いや。
平静を装っただけかもしれない。
これが不快なにおいだったら、反射的に、顔をしかめもするだろう。
だが、におい自体は、あくまで甘い、いい薫りなのだ。ならば、薫り自体が強くても、知らん顔でやり過ごすことができるのではないか?
「――できますか?」
「え」
気がつくと、瀬戸たまきが、ぼくの顔を見つめていた。
「……あ、ごめんなさい。なんでもありません」
「なんです」
瀬戸たまきはかぶりを振り、
「いいんです。とりあえず、自分でなんとか書いてみますから。それでご覧いただいて、またアドバイスをください」
「…………」
なにか、内容について訊かれたらしかった。うっかりしていた。
「それじゃ、これで」
瀬戸たまきは立ち上がった。
「もうよろしいんですか」
「はい。どうもありがとうございました」
瀬戸たまきは頷き、ゲラの入った封筒を脇に抱えた。
「それでは」
エレベーターの前で彼女を見送ったわたしは、フロアに戻ろうとした。
――そのとき。
廊下に、点々と、光るものを見つけた。
――水だ。
水の玉が、いまぼくらが歩いてきたところをなぞるように、点々と、床に浮かんでいるのだ。
ぼくは、あたりに人がいないことを確かめると、その場にかがみこんだ。
指で玉をすくい、鼻に近づけた。
甘いにおい。
あの、瀬戸たまきの――
「香水とは違う」
ぼくは呟いた。
香水が点々と水玉を作るだなんて考えられない。
反射的に、ぼくはさっきいた打ち合わせスペースへ戻った。
瀬戸たまきが座っていたイスのクッションは、水に浸けたように、ずぶすぶと濡れていた。
「なんだこれ」
あたりには、えずくほど、甘いにおいが立ちこめていた。
手のひらでクッションを押してみる。
ブシュウという音とともに、クッションが含んでいた汁が、どっと溢れだした。
「ひゃ」
汁は、浴槽から溢れた湯のように、たちまち床にこぼれ、広がった。
床はびしゃびしゃだ。
大変なことになった。
「どうしたの?」
背後から声がした。
振り返ると、さっき湯呑みを運んできた女性社員だった。
湯呑みを下げにきたらしい。
「モップあるかな」
「え」
「クッションが濡れてたんだ。押したら、汁が溢れちゃったんだ。甘いにおいがするだろ?」
「なにが?」
同僚は首を傾げた。
「濡れてるって、このクッションのこと?」
「そう」
「え? 濡れてなんかないじゃん」
同僚は、クッションに指を触れた。
そのときには、もうクッションは乾いていた。
カラカラなのだ。
床に汁なんかこぼれていないし、甘いにおいも、嘘のようになくなっていたのである。
「ねえ、大丈夫?」
同僚は、心配そうな顔でぼくを見た。
「疲れてるんじゃない?」
「いや」
ぼくは目をごしごしやりながら、
「そんなことない」
だが、実際にクッションも床も乾いているし、においも消えているのだ。
理屈でいえば、幻覚だったとしか思えない。
そうでなければ、なんなのだ?
「今日は定時で帰りなよ」
同僚は、諭すように、
「そのほうがいいよ。疲れてるんだよ。撒いちゃえばいいじゃん仕事」
ぼくは答えず、自分のデスクに戻った。
たしかに、今日は早く帰ったほうがいいかもしれない。
早いところ切り上げて、家でよく眠ろう。
そう心に決め、書類の山に向かったのであった。
夜の九時である。
結局、残業になってしまった。
早く帰ろうと思っている日ほど、とびこみで問い合わせの電話やらアポやらが入るものなのだ。
それでも、この時間に帰路をたどるのは久しぶりだった。
夕食は、まだとっていない。そんな時間はなかったのだ。
帰宅して、キッチンに立つ気力も体力もない。コンビニでなにか買って買えるかとも思ったが、品物を選んだり、持ち帰ったり、家で温めたり、容器を捨てたりすることのすべてが億劫だった。
外で食べて、さっさと帰ろう。
そう考えながら駅前通りを歩いていると、チェーンのドーナッツショップから、意外な人が出てきた。
――瀬戸たまきだ。
今日はもう、瀬戸たまきに会いたくなかった。
出くわさぬよう、きびすを返そうとしたが、瀬戸たまきもぼくに気が付いたらしい。声を掛けてきた。
「いま帰りですか?」
「ええ」
「遅いですね。いつもこんな時間なんですか?」
いつもはもっと遅いなどといえば、話がどんどん膨らんでしまう。
適当に相槌を打って、やり過ごした。
「わたし、結構外食するんです。でも、そこでちゃんと書いてます。さぼっていたわけじゃないですよ」
「わかってます」
「あと二、三日ください。なんとかなりそうです」
「いえ、それほど急がなくても大丈夫です。一〇日以内にお送りいただくというお話ですから」
「でも」
瀬戸たまきが反駁するのは、これが初めてだった。
「言葉が湧いているので、湧いているうちに、文字に起こしたいんです」
「…………」
湧いているという言葉から、ブシュウと音を立てて溢れた、あの甘い汁を思い出した。
「お待ちしてます。もし困ったことがあれば、いつでも連絡してください」
「あ、そうだ」
瀬戸たまきは、少し首を空に向け、
「困った話といえば」
「ええ」
「わたし、あまり人物の心うちを書きたくないんです。書きたくないというか、書きえないというか」
「どういうことです」
「人間って、あまり理屈にしたがって生きていないと思うんです。日常の多くの場面では、脊髄反射的というか、物事の表層だけを見て、あとは感覚的に生きているものだと思うんです」
瀬戸たまきは続けた。
「だから、心情って書きづらいんです。本当は、心情って、ぼやぼやして掴みどころのないものなのに、言葉で表現してしまうと、その言葉が染みとおってしまうんです。せっかくぼやぼやしていたものが、その言葉の形をもってしまう。それがいやなのです。いやというか、真実を伝えていない気がして」
カラオケ店の呼び込みの声がうるさい。新人作家が文学論を語るには、ふさわしくないBGMだ。
「先日ロビーで、別の作家の方にお会いしたんです」
「え」
話が変わったらしい。
「ロビーって、当社のロビーですか」
「ええ。原稿を届けに伺ったときに、男性の先生がいました。自分から、もしかして、君も小説家かと訊いてきました。そうですと答えると、自分は〇〇賞をとった人間だと言うんです」
例の、才能が枯渇した老作家だ。
打ち合わせが終わったあと、ロビーで油を売っていたのだろう。
もしかしたら、どこかの階に寄り道して、別の編集部署に売り込みを図っていたのかもしれない。
「その方、存じ上げなかったんですけど」
真面目にそう言ったが、ぼくはちょっと笑ってしまった。
「色々と、忠告されました。若いうちは才能がどんどん溢れてくるが、枯れるのもまた早いよと」
フン、とぼくは鼻を鳴らした。
「そして、こう続けました。若い才能は、どんどん、とめどなく溢れでる、枯れることのない源泉のようだが、それが永遠のものと思ってはいけないよ。泉は、ある日とつぜん枯れる。それは予兆のない病のように、ある日突然やって来て、いのちを奪うのだと」
ばかな。
なんの必要があって、そんなことを言うのだ?
少し苛立った口調で、
「それにどう答えたんですか」
「――秘訣はなんですか」
「え」
「才能を枯らさない秘訣はなんですかと訊ねました」
ぼくは、フッと吹き出した。一瞬こわばっていた体が、また弛んだ。
「どうして笑ったんです?」
瀬戸たまきは、ふしぎそうな顔をした。
「あなたを笑ったんじゃない」
瀬戸たまきは、ぼんやりとぼくの顔を見つめたあと、
「……わたし、それを聞いたら、急に怖くなったんです。自分の才能が……自分に才能があるのだとしたら、それがいつ枯れてしまうのかと」
「心配ないですよ」
根拠のないことが、するすると口にのぼる。
「才能は、磨くことだってできます。こうやって作品を書いて、揉まれていくことで、むしろまた、こんこんと才能が湧きでるということもあります」
「そうでしょうか」
「ぼくが見てきた優れた作家先生は、みなそうでした。ですから、別にそう心配しなくても、急に書けなくなるだなんてことは……」
言いかけて、ぼくはやめた。
信じられなかった。
不安げな顔を向ける瀬戸たまきの頭部が、どろどろと溶けはじめたのだ。
崩れた頭頂の肉は、血の赤ではなく、飴色の、とろみのある汁になった。汁は、たらりたらりと、瀬戸たまきの顔面を伝った。
「おい!」
頭から肩、二の腕と、次々に瀬戸たまきは融解していった。
下半身はしっかりしていた。
ニューバランスのスニーカーの足元に、とろとろの、水蜜桃の果汁のような汁だまりが広がった。
「だれか!」
だが、道行く人は、視線も合わせずに通り過ぎていく。
まるで視界にすら入っていないようだ。
ぼくは、慌ててその場にかがみこみ、汁だまりを指でたっぷりすくっては舐めた。
そのころにはもう、瀬戸たまきは、膝下しか残っていなかった。
ぼくは、いつしか汁だまりの飴を両手で作った椀に満たしては、夢中で口に運んでいた。
自分にはない、その芳醇な才能の飴を、何度も何度も思うさま啜っては、なお飽くことはなかった。
了
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