遭難


 これは、いまから五年ほど前の話である。

 五月の大型連休の、ある一日、ぼくは、二千メートル級の山に登った。

 麓のあたりは、レンゲツツジやヤマブキの花が満開だった。パステル調の新緑も、目にやさしい。ぽかぽか陽気の中、ぼくは順調に歩を進めた。

 それほど人気のある山ではないので、誰とも会わぬまま、中腹にさしかかった。

 高度が上がるにつれ、春が遅くなる。

 中腹には、イワカガミやショウジョウバカマの花が咲いていた。まだ、ほんの初春というおもむきなのだ。

 ぼくは、こまめに休憩をとりながら、少しずつ高度を稼いでいった。

 次第に、残雪が目立ちはじめた。

 そのあたりは、まだ樹々の葉もなく、抜けるような五月の青空を除けば、冬景色といってよかった。

 それでいて、ひばりやうぐいすの鳴き声が山の低いところから聴こえてくるので、なんだか妙だった。

 残雪の上には、しっかりと足跡がついていた。

 先客の足跡だ。

 これをたどっていけばいい。

 ぼくは、泥に汚れた残雪の上を、しゃりしゃりと歩いていった。

 じきに、上り勾配になった。

 しばらく登ってみたが……

 だんだん、勾配は急になった。

 だめだ。

 ぼくは舌打ちした。

 アイゼンがない。

 軽アイゼンすら持っていないのだ。

 完全にミスである。

 まさか、こんなに雪が残っていると思わなかったし、ルートの途中に、こんな急勾配があると思わなかったのだ。

 登山なのだから、ことに、素人の山歩きなのだから、入念に下調べをしてくるべきだった。

 引き返すか?

 もちろん、それが正解だ。

 だが。

 もう八合目、九合目まで来ているのだ。

 おそらく、この急勾配を登れば、尾根に出る。あとは、尾根をしばらく進めば、ピークにたどりつくのだろう。

 もう少しだ。

 もったいない。

 せっかくここまで来たのだ。

 できれば山頂まで行きたい。

 いちど色気を出すと、もうだめである。

 ぼくは迷った末、とりあえず、その急勾配に、まずは一歩、二歩、足をかけてみようと思った。

 急勾配は、踏みならされて、かすかに段々になっている。

 そこをたどっていけばいいのだ。

 慎重に、足を一歩かけてみた。

 シャーベット状の雪だ。

 少なくとも、ツルリといくことはありえない。

 いけそうだ。

 もう一歩。

 よし。

 もう一歩。

 と、足を前に踏み出したときだった。

 雪の段が、ぼくの足の重みと、おそらくもともと融雪で緩んでいたせいで、グシャっと崩れてしまった。

 踏み外したことで、たちまちからだ全体のバランスが崩れ、ぼくは、腹から、勾配の上にたおれこんだ。ちょうど、万歳のような体勢である。

 あとは、腹ばいのまま、滑落するだけだった。

 ああ、やっちまった。

 落ちている最中も、意外とそう思えるものである。

 そして。

 さっきのルートから一○メートルほど下の地点で、滑落は止まった。

 たまたま、大きな木の幹が、ぼくのからだを受け止めたのだ。

 死ななかった。

 とりあえず、死ななかった。

 だが、面倒なことになったと思った。

 ここから、ルートに復帰しなければならない。

 だが、どうやって?

 ルートは、この斜面を、一○メートル上に行った先にある。

 だが、さっきの勾配を登れず滑落したぼくが、一○メートルもの斜面を上がっていくなど不可能だろう。

 幸い、ズボンの中には、ちゃんと携帯電話があった。

 助けを呼ぶか?

 それとも。

 もう少し、起死回生の策を探ってみるか?

 まだ日は高い。

 焦るな。

 あわてるな。

 ぼくは、自分に言い聞かせた。

 それに、やはり素人の山歩きで遭難して助けを呼ぶなど、恥ずかしくてできれば避けたかったのである。

 と。

 あたりが、急に白く、ぼんやりとかすんできた。

 なんだ?

 それに、ひんやりと、寒くなってきた。

 これは――

 これは、吹雪だ。

 無数の白い雪片が、視界を斜めに横切る。

 吹雪なのだ。

 まさか。

 いくら山頂付近といっても、この程度の標高で、しかも五月晴れの日に吹雪など、考えられない。

 びゅうびゅう、びゅうびゅう。

 まるで、真冬のような吹雪なのである。

 視界もおぼつかない。

 これは、脱出ルートを探るどころではない。この木の幹にとどまっていることが最優先だ。風で、幹の支えから外れたら、さらに下へ滑落してしまうのだ。

 びゅうびゅう。

 びゅう。

 ぼくは、目をぎゅっとつむった。

 全身に力を入れた。

 意味がないかもしれないが、風でからだが持っていかれないように、全身にぐっと力をこめて、斜面にへばりついていた。

 びゅおおおお。

 びゅううう。

 ひゅううう……

 カッ!

 ぼくは目を開けた。

 なにかが、ぼくの目の前にいる気がしたのだ。

 とたん。

「うわああああ!」

 ぼくは絶叫した。

 吹雪の中……

 斜面にしゃがみこんで、ぼくを見つめている人がいた。

 ……看護師だ。

 看護服を着た、若い女性なのである。

 白い看護服に……キャップを被っている。

 ナースなのだ。

 看護師は、ひどく青白い顔をして、血の気のないくちびるをかすかに動かし……

 どうやら、ぼくをわらっているらしかった。

 こんな急斜面に、どうしてしゃがんでいられるのだ?

 ぼくは、その、おそらくこの世のものではない看護師が、死神かもしれないと思った。こいつ、ぼくがここで死ぬのを待っているのだ。凍死か……あるいは、吹雪で滑落するのを待っているのだ。

 そう思うと、看護師の、例の青白い唇が、なにごとかを呟いているようにも見える。

 もしかしたら、早く死ね、早く死んでしまえと言っているのかもしれない。

 だが、あるかなしの唇のうごきからは、なにを言っているのかわからない。

 ぼくは、それ以上看護師と目を合わせていると、いよいよやつの思う壺なのではないかと思い、また、ぎゅっと目をつむった。

 あとは、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と唱えるしかなかった。

 ぼくは、それから――

 いささか都合のいいことだが、気を失った。



 気がつくと、ぼくは、もとのルート上に横たわっていた。

 滑落した急斜面の、少し手前。

 登山者たちの足跡――おそらく、さっきのぼくの足跡もあるだろう――の残る雪の上に倒れこんでいたのだ。

 吹雪ももうおさまっていて――遠くで、ひばりの鳴き声がする。相変わらず、空は雲一つない青空なのだ。

 どうやって、ここまできたのだろう。

 ぼくには思い出せない。

 いまもってわからないのだ。

 もしかしたら、自力で斜面をよじ登ってルートに復帰したあと、つかれはてて、眠ってしまったのかもしれない。

 あるいは……あの、看護師。

 あいつが……ぼくを助けてくれたのか?

 そんなことを考えるのは、じつは、ぼくが看護師と結婚したからである。

 あの遭難から数年後、ある人の紹介で、とんとん拍子に結婚したのだ。

 ほほう、という声が聞こえてきそうである。

 あのときに見た看護師と奥さんとが、そっくりなんだろうって?

 いや。

 そうであれば話は面白いのだが、全く、別の顔なのだ。

 山で見た看護師は、ひどく顔が青白くて、まるで幽鬼のようだったし……

 妻とは、似ても似つかないのである。

 だが。

 よくわからないが、あのときに見た看護師は、別に変なものではなくて、ぼくを助けにきてくれたのかもしれないと、ぼくは考えている。

 なんせ、ふしぎと、ちゃんとルートに復帰して、下山できたのだから。

 本当に悪いものだったら、あそこでぼくを殺しているのではあるまいか?

 きっとそうだ。

 ぼくは助けられたのだ。

 ――などと、思っていたところへ。

 最近、妻が、ぼくと山登りをしたいと言いだした。

 ちょうど、山は紅葉シーズンだし……

 あなたも、結婚前は、ちょっと山歩きしていたんでしょう?

 連れてってよ、とせがむのである。

 妙なことだ。

 妻のやつ、山なんか、ろくに登ったことがないはずなのに。

 連れってってよ。

 登りたいわァ。

 執拗にせがむのだ。

 さあ、どうする。

 ぼくは悩んでいる。

 妻に隠れて、こっそりこれを書いているいまも……

 ぼくは悩んでいるのである。



 

 

 



 

 

   

 

 

 

  

 

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