常識


「ここです、ここ。うまいんですよ」

 杉本が案内したのは、郊外にある、こじんまりした蕎麦屋だ。

 わたしは、杉本と二人で、得意先を回っていた。

 ちょうど昼どきなのだ。

「時間も時間だし、混んでるかな」

 杉本が先に立ち、店の戸をガラガラ開けた。

 なるほど、混んではいたが、テーブル席がひとつ空いていた。

「よかった。さ、座りましょう」

 席に着いた。

 メニューを見る。

 いろいろあるが、初めての店なので、ざる蕎麦に決めた。

 杉本は大ざるである。

 すぐに運ばれてきた。

「いただくか」

「はい」

 蕎麦はうまかった。

 つゆも悪くない。

「いけるね」

 わたしはほほえんだ。

 案内した杉本も喜ぶだろう。

 ――だが。

 杉本は、テーブルの下を見て、押し黙っている。

「……どうした?」

「あの」

 口ごもった。

「なんだ。テーブルの下なんか見て」

「課長。あの、靴……」

 やっと言った。

「靴、脱がれないんですか?」

「は」

 気がつくと、店内にいる客がみな、わたしのほうを向いている。

 どれも、とがめるような、厳しい目つきなのだ。

「靴を脱ぐ?」

「ええ。靴、脱いだほうがいいですよ。蕎麦を食べるときは……」

 杉本が言うと、ほかの客たちも、黙ってうなずいた。

 そうだそうだと言わんばかりなのだ。

 靴を脱ぐ?

 蕎麦を食べるときに?

 ばかな。

 だが。

 見れば、店の客も、杉本も、みな靴を脱いで、靴下か素足なのである。

「常識じゃないか!」

 年配の男性が言った。

「は」

「蕎麦を食べるときには靴を脱ぐ。それが常識じゃないか!」

「なんです!」

 わたしは大声をあげた。

「そんな常識があるものか! それとも、この店のしきたりなんですか? は? なんの理由があって? そんな不合理なしきたりに、わたしは従わないぞ!」

「なにをいうんだ」

 別の男が加わった。

「靴を履いたまま蕎麦を食べてはいけない。小学生でも知っている、社会常識じゃないか。この店だけのしきたりだと? まさか。全国共通の常識だろ!」

「そんな常識はない!」

「あるさ。それを知らないのは、つまりは君が非常識だからだろう。それに、不合理なしきたりだって? しきたりなんて、だいたい不合理じゃないか。蕎麦を食うときに靴を脱ぐなんて、理屈で考えるまでもないことだ。みんな知っている、みんな履行している常識だ!」

「無茶言うな!」

 わたしは立ち上がり、カツカツと男のもとへ進んだ。

 カツカツと音がするのは――つまり、靴を履いているためである。

 あわてて杉本が止めに入った。

「いやいや、これは課長が悪いですよ。こればっかりは課長が悪いんですから、こらえてください」

「君までなんだ!」

 わたしは叫んだ。

「この店はおかしい! 君たちもおかしい! どこの国に、蕎麦を食べるときに靴を脱ぐなんて常識があるんだ! こんな店の蕎麦、もういらん!」

 わたしは、紙幣を二枚、テーブルの上に置くと、ひとり店を出た。

 そのまま、停めてあった社用車に乗り込んだが、怒りは一向に収まらない。

 すぐに杉本が出てきた。

 なんだ?

 杉本は……

 靴下のまま、出てきたのだ。

 そして。

 自分の靴を両手に持ち、それを両耳に押し当てるような恰好をしている。

 なにをしているのだ?

「これも常識です」

「は」

「自分の履いているものを脱いで、それを耳に押し当てる。それが、最上級の詫びの印です。課長もいますぐ車から降りて、お客さんたちに詫びてください。靴を脱いで。それが常識というものです。さ、早く。常識的な行動をとってください!」

 杉本は、耳に当てていた靴をぽいと放り投げ、わたしを引きずり降ろしにかかった。

「早く! さあ!」

「やめろ!」

「やめません! 詫びなければ。詫びなければいけない。それが常識なのだ」

「いてててて」

 わたしはとうとう、車外に引きずりだされた。

 その姿を――

 店の前で、さっきの客たちが、にやにや笑いながら見ている。

 ざまを見ろという顔なのだ。

 わたしは、地べたにはいつくばり――

 こんなのはおかしい、狂っていると叫びつづけた。

 ここは変だ! 

 みんな変だ! 

 みんな間違っているのだ!



 以上は、わたしがゆうべ見た夢である。

 いやな夢だ。

 気味の悪い夢であった。

 もうとっくに退職した、杉本なんていう昔の部下も出てくるし……

 気持ちを切り替えよう。

 今日は四月一日なのだ。

 入社式があるのだ。

 代表取締役社長であるわたしは、社長訓示をおこなう予定である。原稿も、もちろんできあがっている。

「常識を疑え」という訓示である。

 社員からは、どんどん意見を募る。企画もどんどん出せ、良いとなればすぐに採用し実行するから。社歴など気にせず、どんどんアイデアをぶつけろ。そのためには常識を疑え、常識だの固定観念だの捨ててしまえという主旨なのだ。

 だが、こんな夢を見たあとでは、いささかやりにくい。

 やりにくいが――

 たかが、夢である。

 そんなことより。

 今回の訓示は、かなり重大な意味をもつのだ。

 この訓示により、いまの会社の常識が、旧態として覆されることがあっても……

 それは必要なことである。

 必要な変化なのだ。

 むろんそうなのだ。

 よし。

 ベッドから起き上がると、ドアの前に、妻が立っていた。

「あなた……」

 妻は、脱いだスリッパを両耳に押し当てながら、言うのである。

「あたし、あなたにお詫びしなきゃいけないわ。もう一〇年からずっと隠していたんだけど、もう隠せない。ええ、白状するわ。じつは……」




 

 

 

 

 

 

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