錆びた蜃気楼(抄)
二股の道
帰宅の途である。
道は、ここから二股に分かれている。
左に行っても右に行っても、我が家に行き着く。
左に行けば、じきに、進行方向の右手に、我が家の玄関が現れる。
右に行ったとしても、しばらく進むと左に切れる細道があって、それがちょうど、我が家の裏庭から、家の側面をなぞるかたちになる。最後には、やはり我が家の玄関前に出られるのだ。
だから、どちらの道を選んでもよいわけだが、会社への行き来には、オーソドックスに左の道を使っている。
ところが。
今日は、おかしなことになっていた。
二股のそれぞれの道――左の道と右の道のそれぞれに、大勢の人たちが陣取っているのだ。立ちはだかっている、といったほうが正確かもしれない。
こいつら、なんだ?
こんな夜に、いったいなにをしているのだ?
連中は、ぼくに気がつくと、急に騒ぎはじめた。
「現れたぞ!」
「帰ってきたわ!」
「とうとう帰ってきた!」
「ここで運命が決まるぞ!」
老若男女、異様なことを口走った。
近所の人たちではなかった。
サラリーマン風の男もいれば、主婦らしいのもいる。
ランドセルを背負った子ども、老人、学生服の少年、ベビーカーと、若い女……。
そのどれもが、まったく知らない顔なのである。
「左を選んでくれ!」
左の人たちがわめいた。
「左に来てくれ! たのむ!」
と思うと、今度は右の人たちが騒ぎたてる。
「右よ! お願い! こっちへ来て!」
「さあ、右だよ! 右の道に来るんだよ!」
「左だ、左だ!」
さっぱりわけがわからない。
わからないが、二股の道だから、どちらかを選ばなければ、家に帰ることができない。
考えるな。
考えるからだめなのだ。
ふだん左を行くのだから、今日も左へ行けばいいではないか。
そう自分に言い聞かせ、ぼくは足を左へ踏みだした。
「左だ!」
「やったぞ!」
「やったわァ」
左の人たちは狂喜した。
反対に、右の人たちからは、キャーという悲鳴や、男たちの深いため息がきこえてきた。子どもなど、ギャーと、火のついたように泣きだした。
そんな悲嘆を見せられると、気持ちに迷いが生じた。
ぼくは、左に踏みだしていた足を、ぷいとひっこめてしまったのだ。
「やめた!」
「助かった!」
「まだわからんぞ!」
「そうだそうだ、考え直せ!」
右の人たちが、また元気になった。
反対に、左の人たちからは、一斉にため息が漏れ、それから怒号が聴こえてきた。
それから。
また、招致合戦がはじまった。
「左へようこそ!」
「お願いだから、右を選んでよ!」
「左だ!」
「おじちゃん、左ィ!」
「右だって言ってるのに!」
大変な騒ぎなのだ。
ぼくは、ほとほと嫌気がさしてしまった。
そうかといって、はっきりどちらと断言するほどの決意もなかったから――
ぼくは、おもむろに、手に持っていた雨傘を、パッと頭上に放り上げた。
なんだ? というふうに、連中も頭上を見上げた。
雨傘は、クルクル、クルクルと回転しながら――
バサッ。
地面に落ちた。
落ちた雨傘の先は……
右を向いていた。
右の道を向いているのだ。
よし。
ぼくは決意を固め、右の道へ、一歩足を踏みだした。
とたんに、右の人たちは飛びあがり、ワーワー、キャーキャー、ヤッタァの大合唱がはじまった。
そして――
消えた。
まるで煙のように、忽然といなくなったのだ。
見れば、左の道にも、もうだれもいない。
辻には、ぼくひとりだけなのだ。
しかし、どちらの道からも、声だけは聴こえてくる。
怒号に、歓声に……。
泣き声に、笑い声に……。
背筋が寒くなってしまった。
ぼくは、足早に、右の道を進んでいった。
それからどうなったかって?
別に、なにも起こらない。
翌朝も、当たり前のように二股の道は存在していたし、左の道にも右の道にも、いつもどおり、近所の人たちが行き交っていたのである。
あれから今日まで、まったく、何の変事もない。
だが。
ぼくは、あの日以来、左の道を、できるだけ使わないようにしてきた。
左の道を使っていると……
いつか、あの左にいた人たちに復讐されるんじゃないかと、妙な不安に駆られるからである。
近所の人びとは、へいぜい、ぼくがわざわざ裏道を通って出社したり、帰宅したりするのを、怪訝な目で眺めているらしい。
だが、あの人たちに復讐されてからでは遅いので……
それも、どんな目に遭うかわかったものではないので……
他人にどんな噂をされようが、ぼくは平気なのである。
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