続・早朝野球
カズミ氏の散歩は、すっかり慣習になった。
土曜と日曜の朝に、往復五キロのコースを歩くのだ。これだけでも、少しは尿酸値の改善にはよいだろうが、ビールを控え、米を食べる量も減らしているし、職場のエレベーターをなるべく使わずに、息を切らしてでも、階段を使うようにしている。
おかげで、数値はどうかしらないが、以前よりは、動きやすい体にはなってきた。そうすると、気分も前向きになって――
今朝は、しばらく避けていた河川敷の早朝野球を、久しぶりに見物しようという気になったのである。
日曜の、朝である。
河川敷のグラウンドでは、いつものように、早朝の草試合がおこなわれていた。
金網ごしに、グラウンドを眺める。
ワンサイドゲームだ。
五回ウラで、一方のチームが、一〇点もリードしている。攻撃の時間が長いために、今日はあまりイニングが進行していないのだ。
これがテレビ中継なら、観るのをやめてしまうスコアである。
だが、せっかくきたのだし、一回くらいは観ていくか――
と。
そのとき。
グラウンドから、ひとりの若者が、小走りにやってきた。
なにかを伝えにくるようすである。
「ちょっとすみません」
「はい」
「もし、できたらで結構なんですけど――ちょっと試合に出ていただけませんか?」
「は」
カズミ氏は、どぎまぎしてしまった。
「試合に出る?」
「ええ。いつかも、こちらからご覧になってましたよね。野球、お好きなのかなと思いまして」
「はあ。野球は好きですが……」
「実は、今日はもともと参加人数が少なかったんですけど、試合中に、体調不良で何人か帰っちゃいましてね。まあ、二日酔いです。きのう金曜日だったから」
「なるほど」
「それで、六回の攻撃から、途中出場していただきたいんです」
どうする。
カズミ氏がまず考えたのは、体調のことである。
よく、むかし取ったきねづかで運動して、思わぬけがをする中年の話がある。
あれを思い出したのだ。
だが、ああいうのは、昔はアスリートだった人が同じ動作をしようと思うから無理がくるのであって、もともと運動なんか得意でない人が、いまできる限りの運動をやってけがをしてしまうとは、ちょっと考えづらいのではないだろうか。
あとは、服装だ。
ジャージ姿なのである。
もしかしたら、土汚れがつくかもしれないが……。
まあ、それは別に大きな問題ではない。帰り道は少し恥ずかしいかもしれないが、帰ったら洗えばいいだけなのだ。
「じゃあ、ええ。参加します」
「おお! ありがたい!」
カズミ氏と若者は、グラウンドへ向かった。
カズミ氏が加わったのは、負けているほうのチームだった。五回ウラの守備を終え、みんながベンチに引き上げてきたところで、若者は、彼らにカズミ氏を紹介した。実に溌剌としたあいさつをカズミ氏は受けて、いささか恐縮した。
「じゃ、すいません。先頭打者なんで」
「は」
いきなりだ。
「えっと、一応ヘルメットだけ被ってもらって。あと、野球は得意なほうですか? それとも、あんまり自信はおもちでない?」
小学校のときに、ちょっと地域のクラブにいたことがあるだけで、それ以来、まともにバットも握っていない。となると、もちろん返答は後者だった。
こんなもので、よく参加したものである。
カズミ氏は、自分自身に苦笑した。
「わかりました!」
若者はうなずくと、
「ノモルトン、あったかなァ」
グラウンド中に聞こえる声で、訊いたのだ。
「ノモルトン? あるよ!」
「ちょっと貸して!」
ノモルトン?
なんのことだ?
若者は、答えた中年男性のところへ走っていき、なにかを受け取って、戻ってきた。
「じゃ、ノモルトンです」
そう言って渡してきたのは、卓球のラケットである。
いや。
卓球のラケットを、倍ほどの大きさに拡大したものなのだ。
「これは?」
「ノモルトンですけど……」
若者は、なにを聞くのかといったふうに、キョトンとしている。
「これは、卓球のラケットでは?」
「卓球のラケットはもっと小さいですよ」
「そりゃそうですが」
「初心者なら、バットでなくて、ノモルトンのほうがいいですよ」
「しかし、これじゃ羽子板だ」
「そうですかねぇ。でも、ノモルトンのほうが……」
「…………」
アンパイアが、早く打席に立てと急かしてきた。
カズミ氏は混乱していた。
だが。
純粋な競技ではなく、レクリエーションの草野球なのだから、ことによったら、補助用具を導入することもあるのかもしれない。
そう自分に言い聞かせて、カズミ氏はノモルトン片手に、打席へ向かった。
しかし、すぐに想像がつくが、通常の卓球ラケットの握りでは、ミートしたときに、突き指をする危険がある。いくら巨大になったといっても、板自体は薄いままなのだから、速球をまともに跳ね返すことなどできない。
カズミ氏は、五本の指を、すべて柄の部分に逃がして、ノモルトンを構えた。
ピッチャーが、第一球を投じた。
投げた瞬間にわかる、すっぽぬけだ。
ボール!
両ベンチがどよめいた。
「見きわめた!」
「すごい選球眼だ」
見当はずれなことを言っている。
第二球は、きわどいところにきた。うまく当てれば安打にできる。
カズミ氏は、ノモルトンを振った。
しかし振り遅れで、ファウルチップになってしまった。
痛い。
痛いのだ。
やはり、この握りはこの握りで、ミートしたときの衝撃が、ぜんぶ手首にかかってくるのである。これでは、突き指はしなくても、手首を痛めてしまう。
アンパイアが、カズミ氏のようすに気がついて、タイムをとった。
「どうしました?」
「ノモルトンでなく、普通のバットにします」
「え」
アンパイアは目を見張った。
「大丈夫ですか」
「なにがです」
「ノモルトンでなくて」
「……ええ」
「バットは、野球経験者でないと扱えませんよ」
馬鹿を言うな!
カズミ氏は憤った。
アンパイアがバットを要求すると、すぐに、あの若者が持ってきた。
カズミ氏は、手汗のついたノモルトンを、若者に手渡した。
若者は不安そうにカズミ氏を見たが、なにも言わなかった。
オーッと、一同が沸いた。
「ノモルトンをやめた!」
「すごい挑戦だ!」
「バットを使うなんて!」
「ノモルトンからバットに切り替えるなんて、聞いたことないぞ!」
メチャクチャだ。
ともあれ、試合再開である。
第三球。
ほら、きた。
きたぞ。
置きにきたようなストライクボール。真ん中ちょっと高め。これは絶好球だ。力いっぱい引っぱたけば、センター方向への、良い感じのフライになるのだ。
カズミ氏は、思い切りバットを振った。
バットは、タイミングよくボールをとらえた。
金属音が、静かな早朝の空に響きわたり――
伸びる。
伸びるぞ。
大飛球だ。
カズミ氏は一塁へ走っていき……
だが、懸命にバックしたセンターは、ボールの落下点にぎりぎりで追いついた。
大飛球だったが、センターフライに終わったのだ。
だが――。
ものすごい歓声が、両チームから飛び交ったのである。
「慣れないバットで、あんなところまで飛ばすとは!」
「ノモルトンでもぎこちなかったのに、バットに当てられるなんてな!」
「逸材かもしれないぞ!」
「大物新人だ!」
それぞれ、感嘆しているのである。
なんだ?
いよいよ、馬鹿にしているのだろうか?
カズミ氏は、しかし、ベンチに戻りながら――妙な達成感を味わっていたのも、事実なのであった。
その一時間後。
カズミ氏は、自宅でウンウンうめいていた。
「柄でもないことするからよ!」
妻は、口をとがらせた。
「いきなり野球の試合に出たら、それはけがをするわよ。情けない!」
あのあと、すぐに、腕全体が、猛烈に痛み出したのだ。とても試合どころではなくなったのである。
だが、いくら運動不足といっても、たった一度の打席で、こうも腕を痛めるなんて、ちょっと考えられない。
激痛だ。
大激痛なのだ。
これはいったいなんなのだ?
「あなたがけがをしなかったら、台所に棚を作ってほしかったのに。周りの奥さんとこ、ご主人がいろいろ作ってくれるんですって。作らないのはうちだけよ。でも、これじゃ、なにもできないじゃないの!」
カズミ氏は、痛みにうめきながら――
バットを使うことに、なぜあれだけ選手たちが驚いていたか、今ならわかる気がするのだった。
了
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